13.出立①
気楽な門番稼業に精を出していたのも今は昔、俺こと高梨明人の過ごす毎日はあちこちを奔走して剣を振り回すという戦いの日々へと変貌して久しい。
それは、遥かな昔、まったくの偶然によって剣の福音なる異能と立場を与えられた俺にとってはある種の宿命だったのかもしれないが、俺に適性があるという意味には決してならない。
もともと俺という人間の人格は日が二十四時間であれば半分の十二時間は寝ていたいし、起きている時間の更に半分はとりとめのない独り言を脳内で回し続けながら、ぼーっと生きていたいくらいなのだ。残りの六時間で世界を救えと言われても困るし物理的に不可能なので、やはり適性は皆無と言えただろう。個人の能力としても平々凡々であった。
なので、千年ほど前にどう間違ったかそれに近い所業を実践しえたのは、俺がどうというより異能のおかげであり、でなければ他の面子の功績が大きいだろう。その後の人生は堕落と隠棲の星霜を過ごしてきたのが明らかな証左であるし、自認するところと相違もない。もし高梨明人に何らかの資質があったのだとすれば、それは料理だけだったろうと密かに自信も持っている。
つまるところ、俺という人間は本来、大業に関わるような大人物では有り得ない。千年前のそれは災害のようなものであり、最近のあれやこれやは、言うなれば事故のようなものである。俺自身に見合った必然性などは一切備わっていない。一切だ。
だというのに、気付けば俺は身の丈に合わない重責をまたも負うことになっている。具体的には、俺の出身世界である異界の命運を背負わされている。なにがどうなっているのか全容は不明ながら、現代に蘇った竜種が異界に転移するのを阻止しなければならない。時期は不明。分かっているのは場所が東にあるロスペールという都市であるということだけ。阻止できなければ異界が滅びる可能性が高いと思われる。以上。このような次第だが、冷静に考えれば無理無茶も良いところである。経緯も時期も不明なのだから、まず今から行動して間に合うかも不明である。しかも素直に行けば移動に数か月かかる。よって、ただ一刻も早く城塞都市ロスペールに向かう他ないのだ。
要するに、時間が無い。
毎度のことながら。
無いのだが、俺は世界間の移動を可能とする門、往還門がある片田舎の街セントレアにまだ居た。理由はいくつかあるのだが、その最大の理由である動く死体、いわゆるゾンビの親戚みたいなものであるところの少女アルビレオは、俺の隣でがぶがぶと麦酒などを飲んでいる。
ゾンビのようなもの、とはいっても一見して皮膚が変色していたり腐っていたりしているわけではない。高位の死霊である帰参者は見た目が普通の人間と変わらない。高度な魔術で防腐処理、代替代謝を行っているため、肉体差異は生理反応が無いくらいであり、見目で分かる点は呼吸とまばたきをしていないくらいだろうか。
ただ、アルビレオの外見に関しては派手なことになっている。肩あたりで大雑把に切られた栗色の髪の下、存外可愛らしい顔の左半分が包帯巻きのような状態になっている。というより、左半身の大部分が清潔な包帯で巻かれており、パン屋のエプロンドレスという出で立ちと合わさって奇妙なコントラストを描いていた。
かつて、セントレア南平原で俺と剣を交えたこの剣士の骸は、その激戦の中で身体の半分を損傷していた。おそらく喪失した部分を応急修理した結果がこの包帯巻きの姿なのだろう、と察せられはするものの、そんな格好の少女が酒場で酒を呷っているという状況とビジュアルに対して俺の脳は理解を嫌がる。
違和感が凄まじい。
というか、
「なあ、アンデッドって酒に酔うのか?」
興味を抑えきれなかったので問うと、アルビレオはプリティフェイスに邪悪としか形容のしようがない嘲笑を刻んで言った。
「ハァ? 知ってどうするんだよ、んなことさぁ」
「普通に気になるだろ。口から入れたもんを消化とか吸収とかできるのか」
「できないのに飲むわけないじゃないか。馬鹿かよ」
意外と素直に答えるんだなあ、という感想は置いておき、実に興味深い回答だった。死霊術の産物は、突き詰めれば肉体を使った疑似生命であるという。ある程度は生体機能を魔術で補っているのだろうと推測はしていた俺だが、まさか飲食が可能であるとは思わなかった。揮発する水分を補給するために飲んでいるのかもしれないが、死んだ肉体でそれを実現するのにどれだけ複雑な魔術が使われているのか、何にせよ想像を絶している。
「飲んだもの全部吸収するのか?」
「あ?」
「排泄はするのかって話なんだが」
ブフッ、と噴き出す音がしてテーブルの向かいを見ると、黒いタートルネックという実に現代日本のセンスが光る服装であるところの皇女ミラベルが、ジョッキに口を付けたまま顔を伏せていた。震えているが、表情は見えない。
しまった、失言だった。食事中なのだった。同席している残りのふたりの女性陣も筆舌に尽くし難い顔で俺を凝視していた。
「い、いや、純粋な知的好奇心であって他意はないんだ」
「だとしてもそんなこと聞くなよ……!? 無神経すぎるだろ……!」
アルビレオ本人にも青い顔で引かれてしまった。肩身が狭い。この探求心を分かち合える人間がここにはいないらしい。
ここ、田舎町セントレア唯一の酒場「飲んだくれ牧場」の、いつも通りに空席の目立つホールの片隅に陣取った俺たちは、よく分からない顔ぶれで東方への旅路前に腹ごしらえなどをしていた。
テーブルに並んでいるのは、本当に奇妙な顔ぶれだ。田舎町の門番であるところの俺と、ゾンビのアルビレオ。聖職者という珍奇な肩書きを持つ皇女ミラベル。それに現代日本からやってきた見た目は子供、中身は女教師、来瀬川姫路教諭に加えて、俺の幼馴染であるらしい小比賀瑠衣の肉体を乗っ取ってしまったという東方ドーリア王国の王族、ルカ・ドーリアだ。
奇縁が過ぎる。
千年と少しほどの長大な人生を生きている俺でも、ここまでの混沌はちょっと見た記憶がない。最近で言えばパン屋などをやっている変態騎士集団、九天の騎士が近いが、彼らはサーカスのような見た目に反して中身は案外まともな騎士達であるので、この場のカオスと並べるのは妥当でないだろう。
兎も角、この混沌とした顔ぶれが世界的危機に立ち向かう全戦力であるのは確かなので、泣き言や文句を言っている場合ではない。
そして、どうやらその戦力は、この態度の悪いゾンビ少女、アルビレオも含んでいるらしいのだった。
「はあ……なんで僕がこんなアホを手伝わなきゃいけないんだ……」
「別に頼んでないぞ」
「頼まれてるんだよ! 僕が! 極光に! あんたが嫌がっても手伝わなきゃ解体されるんだよ僕はッ!」
唾が届くほどの近距離でがなり立てるアルビレオ。
俺は眉を寄せる。
「誰だ、極光って」
「極光……ドネット・コールマン。九天ではアウロラと名乗っていました」
「……なに? いや待ってくれ、ドネットは……」
ミラベルの補足説明に俺は記憶を探り、ドネット・コールマンという女医の顔を思い浮かべる。次いで、アウロラという騎士も想起するが、俺の知るかぎり両者はまったくの別人であった。容姿も違うし、俺はアウロラとドネットを同時に目撃したこともある――さほど自信はなかったものの、あったはずだ。
「彼女は考古学者や錬金術師、医師……色々な肩書を持っていますが、もっとも知られている立場で言えば、当代最古参の九天騎士ですね」
「……マジで?」
「マジです」
ちょっとした衝撃を受けた俺は、唖然としてミラベルの整った美貌を見るしかない。
いや、ドネット・コールマンという女性が只者ではないのは最初から察していたし、九天の騎士が誰も彼もまともではないと承知してはいたものの、真実は俺の想像を軽く超えていくらしい。
「アウロラとしての彼女は、他の九天騎士……バルトーの異能、双犬で作り出した肉体を遠隔操作して演じているんですよ。日常生活程度なら同時に動いていたと思いますが、戦闘などの際には片方しか動けていなかったと思います」
「あー……? 言われてもあまりピンと来ないんだが……アルビレオとやったときそうだった気がするな……」
基本、ドネットは協力的で頼れる味方であり、まったく警戒していなかったので詮索などしようと思ったことすらない。アウロラはさほど目立つ騎士ではなかったせいか印象に残っていない。
つまり彼女はドネットとして動く傍ら、九天騎士アウロラとしても動いていた――ということなのだろうが、なぜそんな手間を普段から掛けているのだろうか。分身による二重生活がどれだけ大変なものかは想像をするしかないのだが、容易なことだとは思えない。
「謎の多い人ではあります。九天の頭目であったジャン・ルースも完全には把握していないでしょう。実のところ、彼女がどこの出身なのか、いったい何歳なのか……本当に人であるかどうかすら誰も知りません。ルースが若い頃から容姿が変わっていないそうで」
「な、なんだそりゃ……? 皇国はよくそんな得体の知れない人間を重用できたもんだな」
「ふん、皇帝陛下に比べれば大抵の怪物が小動物みたいなものだからねぇ。この国の中枢に何が居ても不思議じゃあないよ」
と、皇帝の飼いゾンビだったところのアルビレオが吐き捨てた。その意見には俺も概ね同意するところではある。外典福音アシル・アドベリや剣聖マルト・ヴィリ・カリエール。アルビレオも含めて、知って居る限りでもこのウッドランド皇国の中枢は魑魅魍魎で溢れている。
しかし、俺と同様に千年をやり過ごしている超越者である彼に言わせれば、大体の者が「些事」だろう。それにしたってドネットは異彩を放っているが――
「まあ……つまり、南平原で俺が無力化したアルビレオを、実はドネットが治して使ってたってことか? よくもまあ、こんな危険なゾンビ娘を……」
「ハ……あんたらに比べれば可愛いものさ、僕らなんて。どいつもこいつも可愛い顔して全員……」
アルビレオは来瀬川教諭やルカを一瞥し、気後れした顔で言葉を続けた。
「……震えるよねぇ、剣の福音。ミラベル様だけならともかく、どこからこんな恐ろしいものを引き連れてきたんだか」
「見て分かるのか?」
「そりゃあ解るさ。僕ら外典福音は皆一度は死んでいるから、若干あんたら寄りでしょ。福音なんか見たら一発で解る」
と、言われても俺には理屈が分からない。
「……死ぬと俺たちに寄る? どういうことだ?」
「おい嘘でしょ。まさか何も知らないのか? 剣の福音なのに?」
「その剣の福音は肉体労働担当なんだ」
「勘弁してくれよ」
純然たる事実を告げると、アルビレオはいよいよ呆れ顔になった。彼女は助けを求めるかのようにミラベルの方を見るが、ミラベルも当惑顔である。
「福音については私もそれほど詳しくなくて……アルビレオが居る場で何をどれだけ口にしていいかも分かりませんし」
「いいんじゃない?」
と、穏やかな声で割って入ったのは、静かに葡萄酒を楽しんでいる来瀬川教諭だった。
「アルビレオさんに二心はないみたいだよ。ウッドランドの皇帝……バフィラスさんだっけ? その人に対する忠誠とかも全くないみたいだし……この人の本当の目的は本来、誰とも衝突するものではないから」
「へえ……そうなんですか?」
「本人に聞いてあげて」
アルビレオに関してはほぼ何も知らないので、来瀬川教諭の言うことを疑う理由も特にはない。彼女がそう読んだなら、そうなのだろう。ぐるりと首を回して「そうなのか?」とアルビレオに問うが、彼女の視線は来瀬川教諭に注がれていた。
「……なんだよ、あんた。なにが見えてる」
「なんだろうね? でも、私の口から言うことじゃないから」
来瀬川教諭は敵意に満たない棘のある視線を微笑で受け流す。やはりアルビレオを脅威と見做していないらしい。
俺なんかは外典福音アルビレオの凄まじい強さをよく知っているので、どうしても構えてしまうものだ。実際、単純な戦闘能力に限って言えば、今まで戦ってきた数多の敵の中でもアルビレオは最強の部類に入る。
外典福音の特性――タフな不死の肉体、属性魔術への強力な耐性、無数の霊体の腕による複数同時攻撃。これらだけでも厄介だというのに、アルビレオの場合、初見で剣技に対応するほどの非凡な剣腕が加わる。
環境や条件を限定せず実力に順位を付ける、という行為ほど無意味なものはないが、剣の福音が強化された今の俺でも、一対一の条件下でアルビレオと再戦すれば良くて五分五分といったところだろう。他の外典福音、アシルや木蓮が劣るとは思わないが、真正面から戦うとしたらアルビレオが最も手強い。
普通に考えれば警戒するなという方が無理だが――
「まあ、いまさら敵もなにもないわな。こんなところで酒をかっ食らってる時点で、マジでドネットのところ以外に行くあてもないんだろうし」
「うるさいな……極光には借りもあるし、あんたらにも少しは悪いと思ってるよ。本当に気の毒さ、剣の福音。あんたがこんなに落ちぶれてると知ってたら、僕だって手加減をしたのにねぇ……?」
伝説の何某がこのざまなのだから反論の余地などないが、アルビレオの態度に何故だかルカが舌打ちをしてそっぽを向いた。
俺はといえば苦笑するしかない。
「そりゃありがたいな。落ちぶれ者同士、今は仲良くやろうぜ」
「……」
アルビレオは心底嫌そうな顔をしたが、麦酒のジョッキをテーブルに置くと、気だるげに首を回しながら語り始めた。
「……僕らは死ぬことで盲を啓いている。それは、あんたら福音が得た超越的な視野を疑似的に再現することと等しい。まあ、つまり。誰でも死ねばあんたらに少しだけ近くなるってことさ。死ねば見えるからね」
「何がだ」
「真理さ。生きている人間には解らない、世界の外が」
世界樹の外を指しているのか、とだけ察して俺は腕を組んだ。世界樹とは――物質界の総ての時間と空間を含んだ、世界の概念そのものだ。そして、過去俺が接触した高次存在、器の語るところによれば、通常、知性体は世界樹やその外側のことを認識することがないのだという。
俺の知る範囲で言えば、世界樹の外側には人々の――人類と限定されない気もするが――各知性体の総ての記憶や、なにか、想いの集積のようなものが存在している。時間と空間を超えた、本質であるなにかだ。
過去、往還門の現出に関わったらしい高梨明人は、そのなにかを魂と捉えた。俺もそう表現するのが妥当だろうと感じている。
それらが真理、世界の形であるのだろう。これを大なり小なり認識してしまった知性体がいわゆる「高次接続者」ということなのかもしれない。
「でも、普通は死んだ人間がこの世に戻ってくることなんてない。あったとしても、それは死の間際に見た幻だったと思われるのがせいぜいか。でなければ……どうだろうねぇ。自分の見た真理を熱心に布教するかもしれないねぇ」
「臨死体験が宗教観の根本に成ったのかも、と。いい考察だね」
「……茶化すなよ、子供の福音。皇帝陛下はそんな真理を理解していて、人為的に自分らと同等の視野と能力を持つ者を創ろうとした。それが外典福音。不完全な、反転した器。遊離した殻。僕らさ」
「殻……?」
俺には後半部分の意味が殆ど分からなかったが、いつのまにか来瀬川教諭が険しい顔をしていた。しかし彼女が思考を言葉にすることはなく、考え込んでいたミラベルが代わりに言葉を発した。
「……世界の外を知るだけで、なにか変わるのですか」
「大違いだよ、皇女様。あんたらはもう知っているから自覚に乏しいだけ。本当はわかってるんだろ。あんたらが息をするように使っているその力は、外側から世界を指で捏ねて、形を歪めているようなものだってことをさ。僕らにはそれが見える。知っているから解るんだ。それだけと言えば、それだけさ。あんたらのように、世界を歪める力までは持ってない」
時間と空間に限定されない、魂。記憶と力。物質界におけるその力の行使が、福音という語の意味だ。
程度の違いなのだろうか。現界と異界という世界樹間の移動と、死という経験では、前者の方がより世界から離れているという違いか――それだけなのかは分からなかったが、ぼんやりとそんな風に推測する。何にせよ単純な話ではないだろう。
少なくとも、知ることで――深く理解することで、変化が確実にあるのだろう。器のひとり、メティスの語ったとおりに。
「分かったような分からないような、だな」
「うん。でも、あんまり知ろうとしない方が良いのかもしれないよ。正気を保ちたいのなら。もう、この場の全員は手遅れな気もするけど」
言葉とは裏腹に、来瀬川教諭は後悔の類を一切感じさせない穏やかな口調でそう言うと、木のゴブレットを傾けた。言わんとするところは幾らか分かるつもりなので、俺にコメントはない。真実が何であれ、往還者がろくでもないものであるのはよく分かっているつもりだったし、事実ろくでもない。
顔色が悪いのはルカだけだった。
「ぼ……ぼくは何も知らないぞ、真理とか福音とか……」
「ハッ。おいおい、どこの誰だか知らないけど、ひとりだけマトモな人間のつもりなのかい。あんたも福音だよ」
言われ、ルカとミラベルがぎょっとした顔をするが、俺と来瀬川教諭に驚きはない。どの段階でルカがそうなったのかはっきりとは分からないが、往還門を使うとはそういうことだ。
問題は、その判定がルカの肉体――小比賀瑠衣の体に依存しているのか、それとも精神であるルカの方にあるのかだが、そこまで考えると、なにか引っ掛かるものがあった。もしかすると、瑠衣とルカは入れ替わったのではなく――
ある答えに届きつつあったその思考は、ルカの震える問いで中断された。
「じゃ、じゃあ……ぼくも不老なのか?」
「そうなんじゃないの? 知らないよ。剣の福音の方が詳しいでしょ」
アルビレオは投げやりに言うが、俺も推測レベルの話しかできない。
「その身体はそうだろうな。移動の時に造りが変わってるらしいから。逆に言えば、おまえの元の体は特に影響ないと思う」
「そ……そっか。なるほど」
若干ほっとした様子のルカは椅子に深く座り直して思惟に沈んだ。
この場の全員が「マトモな人間」ではないのだと再確認されただけなので何もほっとする要素はないのだが、ここに至るまでの経緯で選択の余地があったのは来瀬川教諭くらいなものだ。おそらくアルビレオも含めて。よって、たらればの話で延々と思い悩む時間も不要である。
「……真理の話はもういいでしょ。本当はあんたらの方が詳しい筈なんだから。それより、これからどうするかの話をしない?」
「そうだな。アルビレオはドネットの命令でセントレアに残ってたんだよな。俺を手伝えって?」
「正確には、あんたがもし戻ったら手を貸してやれ、だ。ドネットはあんたが生きてるかどうか半信半疑だったからねぇ。僕は視準器……小娘のマルトごときにあんたが斬られるとは思ってなかったけど」
「え、いや、普通に斬られたが……跡見るか?」
「……。結構だよ」
あと視準器ってなんだ、と質問しようかと思った矢先、飲んだくれ牧場の従業員、そばかすが印象的な少女が、頼んでもいないのにいつもの蜂蜜酒レモネード割りを俺の前に置いてくれたので、タイミングを逸してしまった。若干面食らいながら礼を言うと、はにかんで去っていった。顔を見せるのは久しぶりなので挨拶くらいしておくべきだったか、と思ったものの、考えてみればまともに会話をしたこともない。こんなものだろう。
海老の揚げ物を摘まみながら、俺はアルビレオに言った。
「とりあえずロスペールに行く。手伝ってくれるってんなら同行してくれ」
「小さい皇女様を追うつもりか?」
「それもあるが、事情がある。おいおい話しても良いが、こっちの世界の人間にはそんなに関わりのない話だ」
「へぇ、ならいいや。それで、東方連合とも一戦やらかすつもりなのかい」
背景にさほど興味がないらしく、アルビレオは先を促す。俺は頭を振った。
「いや。決めるのは状況を把握してからだが、人間と争う気はないよ。ただ、場合によっては竜種を叩く」
アルビレオは絶句し、ややあってから唇の端を吊り上げた。
「正気かよ。アズルで死にかけの竜相手に苦戦したんだろ?」
「だから手伝え。おまえが居ればいくらか楽になるだろ、アルビレオ」
「アハッ……イカれてるよ、さすが。たった五人でやるって? 最前線のど真ん中に突っ込んでいって? ヒヒッ、九英雄の時代じゃないんだからさ」
少女の骸は肩を揺らして笑う。
九英雄。随分と古い時代の、もうとっくの昔に失われた呼び名だった。俺が思ったより、アルビレオは年季の入ったゾンビなのかもしれない。
自分が数に入っていることに複雑な思いがあるらしいルカ以外は、異論も特には出ないように見えた。それはおそらく、アルビレオも例外ではない。
「分が悪いとかは関係無いだろ、俺たちには」
「いやぁ……癪だねぇ。否定はしないけどさ。でも勝算の無い賭けには乗らないよ。二度も死にたくはないからね」
「俺だってそうだよ」
この共感は俺とアルビレオにしかないだろう。剣士という生き物はそういうものだ。誰よりも前で剣を振るうことを良しとして、少なからず己に課した者であるが故に。己が戦わなければならないと定めたとき、敵と対峙する前から諦めることはしない――どうやら、いつの間にか俺は自分が剣士であるのだと認められるようになっていたらしい。
なんとも不思議な感覚だった。
それが、剣の福音の正体を知ったことと無関係ではないのだろうと思い至ったとき、来瀬川教諭と目が合った。彼女は何も言わず、小さく頷いてゴブレットを傾けるだけだったが、心なしか背中を押されているような気がして、頼もしいような気恥ずかしいような思いを誤魔化すために、俺は頭を掻いてから、黙ってグラスを傾けた。




