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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
七章 ロスペール戦役
316/321

12.死ぬ光②

 

 

 

 

 

 

 何百年経とうと消えない痛みがある。

 

 

 

 

 

 

 離れの館に火をかけられ、異臭と争乱の声に顔を上げた時、アリアは自領を取り巻く様々な者たちの命運が尽きたことを悟った。

 考えられる限りもっとも非合理的でもっとも近視眼的な選択を、人間は本当に選び得るものなのだと、理解していたつもりで分かってはいなかった。

 或いは、どこかでまだ人の善性を信頼していたのかもしれない。理知と文明との光は暴力を根絶するのだと無邪気に信じていた。もうおぼろげにしか思い出せない、かつて居た元の世界のように。

 しかし其処も、本当はすべての不条理が駆逐された世界ではなかった。白瀬柊には世界の隅々までを見る機会も時間も自由もなく、知らなかっただけだ。大多数の人間が正しきを信奉し遂行してなお、暴力は消えないのだと。

 

「お……奥様! 領民たちが領主館を囲んでいます!」

 

 領主代行となってから疎んじられ、離れの館に押し込められたアリアの身の回りを一人で整えていた女中が悲鳴と共に私室に駆け込んできた。

 その頃には既にアリアは事後に必要な書類を鞄に詰めており、恐慌する女中に目を丸くしたあと、彼女にそれを投げ渡した。女中は当然、受け取り損ねた。

 

「奥様……?」

「……もう付け火をされているのに悠長なことね。それを持って早くお逃げなさい。領の為に持ち出したと言って次の領主に渡せば、まあ、悪いようにはされないでしょう」

「まさか、留まられるつもりなのですか……?」

「あなたには関係ないわ。裏手の窓から出るのが安全よ」

 

 アリアは頭を振り、女中を手で払うが彼女は動こうとしない。

 焦げ臭さが強くなる。溜息を吐き、次いで笑った。

 

「今までありがとう。私はあまり良い主ではなかったわね。もう行きなさい。暴れるのに邪魔だし、あなたを守るほどの余裕はないの」

 

 脅かしつけると女中は涙ながらに鞄を拾い上げ、ようやく駆け去っていった。残されたアリアは簡単に私室を片付けてから、もう戻ることのないその部屋を後にする。

 薄く靄がかかった館の廊下を歩きながら、アリアは自嘲の笑みを絶やさない。

 教会と帝国に先手を打つと決めた途端、今まで何の不満もなく暮らしてきた領民が決起した。偶然では有り得ず、全員が全員、最も愚かしい手を打ったものだといっそ感心すらしてしまう。

 

 構図は見えている。

 察知した帝国が枢軸教会(アクシティ)を唆し、教会がマイアハイズの民を扇動した。それ以外に無い。

 

 そして全員がこの後にどうなるかを見ていない。大きく動いた以上、王国は枢軸教を見逃しはしない。教会に煽られて躍るマイアハイズの民衆も、叛乱を起こしたものと見做されるだろう。たとえ領主家を排除できたとしても、彼らに未来はない。この時代の為政者は市民に権利など認めていない。マイアハイズが――アリアが特別に人々に甘かったというだけで。

 

 帝国も大森林の製鉄拠点を失うだろう。アリア一人を排除したところで結果は変わらない。製鉄拠点は動かせないのだから、領主家に露見した時点で帝国が損をしない道筋はひとつだけだ。領主家に王国への服従を上回る利益を提示し、買収する。困難だがこれ以外にはなかった。

 他国であるマイアハイズで製鉄をするとは、それほど無謀で野心的な行いだったのだ。結果として帝国は最新の魔術を使っているという製鉄拠点を失うだけだ。アリアからすれば敵ながら愚かと評する他ない。

 

 

 或いは、別の算段があるのか。まさか――

 

 

「……裏手から出るのが安全と言ったのに」

 

 考え事をしながら歩んでいた廊下の奥、靄の向こうで甲冑姿の男が二人。

 男が手にした鉄剣で女中が貫かれ、壁に縫い留められていた。動く様子はなく、アリアは頭を振る。女中が死んでいるのは分かっていても、剣で刺されている限り蘇生させてもすぐに死ぬので、あまり意味が無い。

 甲冑姿の男たちはアリアに気付き、幸いなことに声を発するより先に威嚇するかのように鉄剣を持ち上げた。よってアリアはほぼ無意識に右手を持ち上げ、当然の如く現出している白杖で以て男の片割れを指した。命を奪う。

 

 鈍い音がした。

 男の、兜の中の頭が爆ぜたのだ。

 アリアが特に何かを思うことはない。もう片方の男は呆けていた。

 

「……あ?」

「帝国の騎士とお見受けするけれど、弁明や遺言はある? 名乗りや口上は結構よ。いちいち取り合っている時間がないの」

 

 語りかけても男は鈍かった。

 くずれ落ちた頭の無い男とアリアとを愕然と見比べて、口を開けたまま何事も口にすることはない。五秒ほどそうだったので、アリアは残った方の男も指した。今度は胴体が破裂して四散した。不揃いの肉塊が床に落ちて染みを広げる。

 やはりアリアが特に何かを思うこともない。知らぬ生命の状態が生から死へ遷移したというだけで、空間の均衡は変化していない。それらが生きていようと死んでいようと状態の違いでしかなく、大差が無いからだ。

 壁に磔になっている女中を戻す(・・)かと歩を進めようとしたとき、またも甲冑姿の男が廊下の奥から歩み出てきた。既に抜剣している三人目の騎士は、変わり果てた同僚達の姿を一瞥して鼻白んだ。

 

「女一人にか」

「そうよ」

 

 アリアが白杖を持ち上げるのと騎士が剣を振るったのは同時だった。前の二人とは異なり、この騎士に油断は無かったのだろう。衝撃音すら発生する速度でひと息にアリアのもとまで踏み込み、杖を持つ彼女の手を肘から斬り落とし体を蹴り飛ばした。

 吹き飛ぶような勢いで後退ったアリアは、喉奥から込み上がった血を吐いたが、特に感想もない。騎士――魔力使いの動きの速さに対して多少の学習を行った程度だった。

 鉄剣を振って血を払い、騎士の男は怪訝顔でアリアを見る。

 

「黒髪の貴族女。黒百合は中年のはずだが……まだ子供じゃないか」

「ふ……失礼な騎士だこと。貴重な騎士が三人。ふふ、帝国は大盤振る舞いね」

「……なに?」

 

 口元を拭い、笑って声をかけると、騎士は瞠目した。

 

「蹴り殺したはずだ。腕も落として……致命傷だろう、それは。なぜ立って喋っていられる」

「慣れの問題かしら。平均して月に三度は毒を盛られるし、五体がバラバラになるのと比べたら片手と内臓くらいどうってこともないでしょう」

 

 と、語るアリアの手は既に元に戻っている。床に落ちた手と杖は消えており、騎士は顔を引き攣らせたまま剣を構え直した。

 

「魔術師……いや、違う。なんだ、貴様は……」

「……それがよく思い出せないのだけれど、今日のところはあなたの死よ」

 

 アリアは自らの影からずるりと白杖を引き摺り出す。

 

「尋常ではないな、マイアハイズ。帝国騎士オーバイア・ラングレンである。一太刀馳走」

「来なさい」

 

 剣を担ぐような構えから一閃。騎士の再度の踏み込みで真っ向から打ち下ろされた剣を、アリアは左肩で受けた。

 なるほど、凄まじい。魔力の補助を受けた騎士の一撃は、アリアの胴を縦に両断しかかっていた。胴の半ば過ぎほどで止まったものの、常人であればそのまま四散していただろうと感心させられるものだった。

 

 見事。

 そして評価はそこに留まる。それ以上ではない。

 

 アリアは自身に剣を立てたままの、至近にある騎士の顔を見上げた。その顔が驚愕に染まるより一瞬早く、彼の胸に杖の先端を優しく当てた。

 甲冑の節々から鮮血が噴き出た。起きた変化はそれですべてであり、それで終わりだった。

 なぜ己が倒れるのかと、疑問を顔に張り付かせたままの騎士がくず折れる。答えは多くない。もし彼が一刀でアリアの首を落としていれば、もう何十秒かは生き延びたかもしれない。再度腕を狙うかでも結果は同じであり、究極的にはこの場から逃げ去ればアリアの足では追い付けなかっただろう。この騎士に勝ち筋などは無かった。

 剣を見るかぎりひとかどの人物だったろうに、と推量するアリアだったが、騎士の絶命から十秒ほどで興味を失った。腹に刺さったままの騎士の剣を引き抜き、多少の眩暈を覚えて廊下の壁にもたれかかる。

 

 違和感があった。

 自分に疲労感以上のはっきりとした体調異常があるのは異常(・・)だ。

 

「……酸素不足か、しら」

 

 靄がかかっていた廊下に、はっきりとした黒煙が漂い始めていた。アリアは手巾を口元に充てるが、あまり効果はない。揺れる視界もたちまち悪くなり、数メートル先も見えなくなった。女中の死体が磔になっている壁も分からなくなり、ひとまず後回しにしてふらつく足で窓を探す。

 一酸化炭素が致死の濃度であっても、アリアが動きを止めることはない。死に続けるだけであり、瞬時の蘇生と死を繰り返すだけで行動に問題は無い。

 

 

 

 ただ、死という体験をする度に分かることがある。

 深まる理解がある。

 

 余人が一生に一度しか経験しない死という体験の本質。肉体が死に、脳が生理活性を停止したとしても己の自意識が消えないという矛盾。霊的要素の実在と、死の先にある暗黒を知る。

 それはありとあらゆる文明で一様に芽生える信仰にて語られるような、救済と善意と満ちた涅槃などではない。死の先、死の後に安息は無い。安楽は無い。ただ何もない虚無が有るだけなのだと。

 それは生じることもなく、妨げられることもなく、汚れることもなく、汚れを離れることもなく、減ることもなく、増えることもない。無明もなく、また無明の尽くることもなし。

 古の僧は思想と死を以て悟りを得、仏に――人の域を超えた、何か別のものに成ったという。なるほど、理は有ったろうとアリアは知る。これは、一度死ななければ分からないものだ。

 

 現世の肉体は所詮、苦界にて九相の果てに朽ちる肉にすぎないのだと。

 人の本質は。魂は此処に無い。

 それは何もない虚無に浮かぶ泡のようなものだと。星のようなものだと。

 それは他の御使いには未だ見えていない。

 

 愚かしい。等しく愚かしい。人も、人以外も。

 まったく愚かで滑稽で、なんと価値の無いことだろう。肉の体に拘泥し、物質に囚われたこの苦界で自己の安息と安楽を求めるばかりである知性の、なんと滑稽で虚しいことだろう。なんと無価値であることだろう。

 

 分かっていて現世で幸福を求める自分も。

 

 

 

 ひたすら煙の中を彷徨い歩き、微かな光を外光と見止めて向かった。

 一歩ごとに気が遠くなり、戻ることを繰り返す。脱出したところで希望はないと分かっていても。

 アリアが膝をつきかけたとき、急に手を引かれた。突如として現れた細い人影が手を取ってアリアを抱えたのだ。黒煙を裂いて走るその少女を、アリアは知っていた。

 

「……マリア……?」

「口を閉じていて。舌を噛みます」

 

 彼女は一気に廊下を駆け抜け、勢いのまま突き当りの窓に体で突っ込んだ。壁と窓とを体当たりだけで破壊し、館の外へ転がり出る。

 外は火の海だった。

 先ほどまで居た離れの館は正面玄関側から完全に炎に包まれており、マリアと共に躍り出た領主館内庭も庭木や建屋が節々燃え上がっている。

 通常領主館に立ち入ることのない、民衆の姿もあった。あちこちで略奪と付け火を行うその姿は、暴徒そのものである。

 

 煤まみれで芝に座り込んだアリアは、同様の有様で立っているマリアの顔を見上げた。暴徒と化した領民たちを見る横顔に感情の色はない。

 ああ、この少女はこの顔で人を殺すのだろうと、アリアは静かに悟った。アリアにも否やはない。砂の城は崩れ、既にマイアハイズの民に義理はなかった。しかし、執着とは――愛とは厄介なのだと、アリアは思う。

 

「……手を出す必要はないわ」

「良いんですか?」

「ええ……いいのよ。あれらはああいう生き物だから。もういいの。蟻の前に砂糖を置いて、群がるなと言う方が無理でしょう……」

「そうですか……そうかもしれませんね」

 

 マリアの白い手が腰の長剣から離れる。

 小さく息を吐き、酸素不足から復調したアリアも立ち上がった。

 

「助けてもらってなんだけれど、あなた私のこと心配し過ぎじゃないの……?」

「それはまあ……わたしは皆のことが好きですから。嫌われてますけどね」

「……嫌っているわけではないのよ。ただ……あなたと私は、同じ人間ではないというだけのことで」

 

 珍しく本心からの言葉を吐いて、アリアは血塗れのドレスから煤を払う。

 マリアは目を伏せた。

 

「いつだってそれが一番難しい。今回もそうです。正解は分かりきっているのに、そのとおりに事が運べない。ままならない」

「……あなたは正論を吐き過ぎるのよ、マリア」

「ヒイラギさんは痛いところを突き過ぎですよ」

 

 言葉の真意こそ計り切れなかったものの、マリアにはマリアの懊悩があるのだろうとだけ理解して、アリアは杖で地面を突いた。

 

「結局あなたの言うとおりだった……でも、けじめはつけておきたいと思う。マリア、虫のいいお願いだと思うけれど、屋敷の人間をできるだけ助けてほしいの」

「……わたしはあなたを優先すべき局面だと思っています」

「殺されたって死なないから平気よ」

「体が無事でも無事とは限らないんですよ……ヒイラギさん」

 

 らしくもなく人間的なことを言う。アリアは笑った。

 体の傷が心にも傷を付けるというのなら、もう自分の心は原形を留めていないに違いなかった。

 

「お願い。運命共同体なんでしょ?」

 

 その言葉が何らかの目的のもとで使われた方便だと分かっていて、アリアはそう言った。金色の妖精は、苦渋に満ちた顔をした。

 そんな彼女を置いてアリア・マイアハイズは最後の役割を果たすために歩き出す。歩みの先が袋小路であることも承知の上で。おそらく、何度同じことを繰り返しても同じ道を歩くのだろうと、不思議な予感を持ちながら。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 内庭で暴徒と出くわすたび、「黒髪だ」「魔女が居たぞ」「不吉な黒髪」「悪魔」「殺せ」などと酷く似通った罵声ばかりを浴びせられた。

 都度、素手と杖で薙ぎ払って領主館まで辿り着いたアリアは、離れや内庭と打って変わって静まり返った館内の空気に、自身の推察への確信を深める。

 

「できれば当たって欲しくはなかったのだけど……領主館が焼き討ちに遭っているというのに、あなたたちは何をしているの」

 

 広く寒々しい玄関ホールに、アリアと相対する集団があった。領軍の兵が十名ほど。その先頭に義理の息子、ステファノ・マイアハイズの姿がある。酷く怯えた様子でアリアを見るその姿に、かつての義弟の面影は無い。

 

「ね、義姉さん……どうして」

「生きているかって? 騎士を何人かやれば死体を引き摺ってくるとでも思ったの? あなたは私がどういうもの(・・・・・・)か知っているのに?」

 

 また頭痛がする。

 アリアはこめかみを押さえながら頭を振った。

 

「枢軸教……帝国と結んだわね、ステファノ。最悪よ。帝国の独り勝ちになる」

「ち、違う! 僕は知らなかったんだ! てっ、帝国の騎士だって、そんなので義姉さんを殺せるだなんて思うわけないだろ! 不死身なんだから!」

「……?」

 

 ステファノが何を言いたいのか分からず、アリアは首を傾げる。

 

「義姉さんを連れて来いとだけ頼んだんだよ! 騎士相手なら義姉さんだって抵抗のしようがないだろ!? まさか……返り討ちにするなんてこと……」

 

 胴まで裂けた血染めのドレスを凝視し、顔面を蒼白にしたステファノは後ずさる。はたして想像力が欠如しているのか。それとも知恵が足りていないのか。いずれにしても哀れなステファノに向かってアリアは歩を進める。

 

「……どうなるつもりだったの? (アリア)を確保して」

「義姉さんを手に入れれば……あとは、どうとでもなるじゃないか。帝国も王国も目じゃない……」

「意味がよく分からないわ」

「不死の……癒しの聖女の力があれば、不死身の軍だって作れるだろ!?」

 

 アリアは、思わず足を止めた。

 

「領軍を無敵の軍勢に変えれば、マイアハイズは国だって興せるはずさ! どうして父上も義姉さんもそうしなかったんだ!?」

「……」

「そうさ……そうだ。マイアハイズは義姉さんを頂点に戴くべきだったんだ! 僕らが仰ぎ見るのは国王なんかじゃない! 義姉さんは凡百の人類種とは違う! 半死人の父上にも、枢軸教の生臭坊主どもにも相応しくないッ!」

 

 それは。

 アリアには、まったく理解できない言語だった。

 腰に下げていた細剣を抜き放ち、高らかにそう謳うステファノは、もはや一片の理解も及ばない生き物だった。

 

「ステファノ……ばかなことを。人の上に人でないものが立てるとでも」

「人の王と結べばいいだろう!? 僕と義姉さんなら……!」

「……聞くに堪えないわ」

 

 愚息を沈黙させるべく前進するアリアだったが、領兵たちが間に立ち塞がった。騎士ではない、魔力使いでない彼らに出来ることは何も無く、無視して押し退けようとしたアリアは、不意の衝撃を受けて自らの足を見た。

 血走った目の領兵が繰り出した槍が、大腿部を貫いていた。ガクンと足から力が抜け、床に膝をつく。

 武器が魔力を帯びている――アリアの思考が及んだ瞬間、領兵たちの槍が殺到した。全身を穿たれ、神経の切れた指が脱力して杖を取り落とし、床に縫い留められた格好で動けなくなった。

 刺されている限りは再生も叶わない。

 思えば、帝国の騎士も女中を殺す際に壁に留めていた。あれは、不死の自分への対策ではなかったか。それと知らせず、ステファノが言い含んでいたのか――

 

「どうして……どうして頑ななんだ、義姉さん! どうして普通の人間のように振る舞おうとする! どうして父上なんだ!? 何故ありきたりの家族なんかを得ようとするんだ!?」

 

 それが得難いものだからだ。本当に尊いものだからだ。答えようとして、アリアは大量の血を吐いた。

 痛みしかない。虫の標本のように留められた女の、裂けたドレスから覗く肌にステファノの眼が向いているのにも頭痛がする。同様の視線を向けてくる領兵たちにも。捻じ込まれている刃にも。

 哀れでしかない。

 その視線を反抗と受け取ったのか、ステファノは引き攣った笑みで言った。

 

「やっぱり……駄目か。どうしたら僕の気持ちが分かってもらえるのか……従順になってくれるのか。色々試したいところだけど、生憎のんびりしている時間はないから……」

 

 ステファノは数歩下がり、領兵に命じた。

 

 

「焼け。どうせ死なない」

 

 

 皮袋に詰まった異臭のする油――付け火に用いるような軽質油(ナフサ)がアリアに振りかけられた。

 抗議することも抵抗することもできず、視界が激しい紅蓮に包まれる中、アリア・マイアハイズが断末魔の声を上げるのを、白瀬柊(しらせひいらぎ)は傍らに立って聴いている。

 まだ甘い、菓子のような願いが詰まった肉体が絶望に叫び、燃えて死んでいくのを、魂だけになった少女は静かに見送っていた。

 

 

 略奪と放火は領主館のみに留まらなかった。

 マイアハイズの街のあちこちで火の手が上がり、法は失われ、奔走するマリアや善意ある人々を嘲笑うかのように、ひたすらに死が積み上がっていく。

 

 神のような力を持っていても、その身が人である限りに限度はある。千を越える魔術を自在に操ろうと、あらゆる生命を自在に操ろうとも、人の世すべてを余すことなく完璧に救済しきることなど到底できはしない。

 

 それは百五十年も前に知っていた。剣の英雄が人を救えなかったことも。全てを巻き込まんとする時の渦を、旧友たちが命を引き換えに押し留めたことも。

 

 

 

 人とは、救い難きものなのだ。

 これは、こういう生き物なのだ。

 

 漸く、解った。

 

 

 

 焼き殺されてしまったアリアを納得で埋葬し、白瀬柊は未だ燃え盛る肉体に視線を落とす。

 どうしたものかと少し悩み、己の神秘(アルカナム)を初めて――自覚的に解き放つことにした。本来は繋がり得ない、虚無に浮かぶ泡を物質界へ。途端に不可視の――決して超えてはならない法則(ルール)が軋み、大気を震わせて悲鳴を上げ始めた。

 

 しかし、もうどうでもいいのだ。

 白瀬柊は諦めている。

 

 神秘(アルカナム)とは、知性体の作り出す概念(イデア)の類型である。中でも、どの知性体も持ちうる概念。生命活動の停止を司るものが白瀬柊の本質、神秘(アルカナム)となった。

 それは彼女が死病であったからでも、薄幸であったからでもない。誰よりも死を想い、死と触れ合うしか他になかったが故のこと。その短い生涯のすべて。有り得る可能性の総てに於いて、彼女は死の概念を体現する者であったからだ。

 

 慣れ親しんだ友人であり、己に隷属するものであるそれを、

 白瀬柊は、この上なく完全に、具象化できる者であるが故に。

 怒り狂う聖性(セフィラ)

 (ティファレト)から力を吸い上げ、暴れるがままに。

 

 

 

 焼け崩れる少女の亡骸を割いて、それ(・・)は物質界に白い指先を立てる。不協和音のような響きを背に、怯え竦む人間たちと、異変を察知して転移で駆け付けた魔法の福音マギカ・エヴァンジェルの前で生まれいずる。

 

 

 それは、花束の咲いた骸の姿をしていた。

 

 

 首元に咲く色とりどりの、異形の花々を背負った巨大な骸骨。白い衣を羽織り、背に白く輝く光輪を浮かべたそれを、人間たちは正しく認識できなかった。

 それが彼方の暗黒から訪れた白い闇であると、正しく理解したのは魔法の福音マギカ・エヴァンジェルただひとりであった。

 

聖性(セフィラ)の暴走……! (ケイリム)の実体化まで……!」

 

 彼女にできることはもうない。

 偽りの福音。聖性を封じた、矮小な小径の使い手にすぎない哀れな少女にできることはない。降りた白い死の神の指先が、ほんの少し彼女に向いただけで、淡い青の、魔素の燐光になって吹き散ってしまった。

 逃げ帰った。それでいい。

 

 ステファノ・マイアハイズと領兵たちは発狂していた。

 死の神のかたちを認識した瞬間、彼らの脆弱な精神と肉体は汚染され、二度と人語を解することはなくなった。

 白い死の神の下、焼け焦げた死体、アリア・マイアハイズだった裸身の少女が立ち上がっても、狂ったように笑い続けるだけだった。

 

 彼女の髪と目は色を変えていた。不吉とされた黒から白へ。(ティファレト)から吸い上げた(オーア)が体に定着し、変質してしまっていた。老人のように見えるかもしれないと、少女は少しだけ思った。

 

 しかし、もうどうでもいいのだ。

 何者でもなくなった白瀬柊は、やはり諦めている。

 狂笑を続けるステファノが死の神の巨きな手によって捩じ切られ、床の染みになるのも脇目に、特に思うことなく通り過ぎる。

 

 

 ――――涅槃(ニルヴァーナ)

 

 

 やがて死の神は死の翼を広げる。

 翼は広大なマイアハイズの街全域を覆い、住まう総ての命を奪い取るだろう。

 そうしてようやく聖性は溜飲を下げるに違いない。

 

 白瀬柊は制御しない。関知もしない。そうする意味も、価値も、この星の人類に見い出すことができない。欲望と繁栄の行き着く先は死である。人類種が見せる過程(・・)が醜悪であることも、よく分かった。なら生きていようと死んでいようと同じことであり、生命の福音(ライフエヴァンジェル)は関知しない。

 

 死の神の翼によって崩れ去る、赤と白だけになった玄関ホールを後にした少女は、階段を素足で上っていく。

 一輪、アリア・マイアハイズに花を手向けようと思いついたのだった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 痩せ細った男が、静寂の中に沈んだ白いベッドの上に横たわっていた。窓の外から幾重にも重なった人々の苦悶の叫びのような音が聞こえるが、男が特にこれといった反応を示すことはない。濁った目で部屋の天井を見上げているだけだ。その様子からは、かつて彼が壮健であった頃の姿など想像もつかない。彼は王国内でも指折りの繁栄を誇った領の主であるはずだった。

 

「オルランド」

 

 物言わぬ骨組みだけのような姿の男を、馬乗りになった白い髪の少女が覗き込んだ。男は目を向けて驚きを露わにするが、声を上げるまでには至らなかった。変貌した少女が誰なのかに思い至った途端に、ぞんざいな顔つきになった。

 

 故に、少女は男の右目を杖で突いて殺した。

 

 次の瞬間、男は何事もなかったかのように復元している。これにはさすがに男も太い悲鳴を発した。途端、今度は喉を突かれて殺害される。

 再度の蘇生でようやく、少女が自分に反応を求めていないのだと理解した男は、震えながらの沈黙を保った。

 白髪の少女は頷いた。

 

「……ねえ、オルランド。オルランド。どうして(アリア)を殺そうとしたの?」

 

 男の顔は汗で光り、目は恐怖に引き攣ったように見開かれた。

 唇が動く。

 

「アリア……アリア様……私はなにも」

「オルランド」

 

 少女は細った男の頬を杖で軽く叩いた。

 それだけで首が折れてしまったので元に戻し、少女は再度問う。

 

「……どうして帝国を引き入れたりしたの。あなたの愛とやらを信じ切っていたわけではないけれど、さすがに(アリア)が可哀想だわ」

 

 ステファノ・マイアハイズは誇大妄想家の愚物だった。あれに独力で帝国に対する手引きなどできるはずがない。

 領主家に王国への服従を上回る利益を提示し、買収する。帝国がこの手に出たとして、交渉相手は実権の無いステファノでは有り得ない。実権を握るアリアか、或いは現領主である――オルランド・マイアハイズ。この男しかない。

 結果、帝国も枢軸教も、マイアハイズの民も。現領主の名の下に、アリアを排除しにかかることができたということだ。であるのなら、オルランドが適当にアリアに汚名を被せるだけで王国への時間稼ぎも叶う。短期的には誰も損をしない。焼き討ちに遭う人々とアリアを除けば。

 

「……でもね、動機だけが分からないの。国に背き、帝国に媚びを売ってまで(アリア)を排除しようとしたのは、なぜなのかしら」

 

 アリアは懸命に良き妻、良き領主代行であろうとした。

 なのになぜ裏切られなければならなかったかだけが、どうしても分からない。

 オルランドは言った。

 

「私を……死なせてくれなかったからだ」

 

 少女は微笑んだ。

 

「嘘ね」

 

 この少女は性質として嘘に過敏であった。目を見れば分かる、とまではいかなくとも、相対する男がおおよそ何を考えているかまでは理解できる。

 

「嘘じゃない……あなたが私を死なせてくれなかったから」

「違う違う。違うでしょう? 違うわ、オルランド。死にたいのならさっさと死ねばよかったでしょう。そんなの止めはしないわ。それも救済だものね。今もそうよ? ねえ、なぜ私が来るまで生きていたのかしら。自らの行いを恥じて首でも括っているかと思ったのに、まだ天井の染みを数えてる。なぜなの?」

 

 真綿で首を締めるかのような言葉の羅列に、男の目が泳ぐ。

 少女は笑った。

 笑って言った。

 

 

「あなた、生きたかったんでしょう?」

 

 

 男の息が止まる。

 少女は構わなかった。

 

「健康に生きたかったんでしょう。あなたは立派な領主だったものね。それがこんな病気になって、死にゆくばかりになったから怖かったのよね。ただただ、死にたくはなかったのよね」

「あ……あなたに何が分かるんだ……不死のあなたが」

「私? 違うわ。本当に誰だってそうなのよ、オルランド。本当に誰も死にたがってなんかいないの。選ぶ人だって本当は死にたいんじゃなくて死ぬしかない(・・・・・・)の。他にどうしようもないから仕方なく選ばれるか、仕方なく受け入れられるものなのよ。死とはそういうものだし、そういうものであるべきだわ」

 

 かつて少女もそうだったことを、男は知らない。

 知らない男は歯噛みをした。

 

「ふ、不死の力はあるんだろう……! なのに私には使わず……わざと半死半生にして、領主代行などと……マイアハイズの実権を……!」

 

 少女は一瞬、呆けたような顔をした。

 すぐに納得する。

 

「そんな風に思っていたのね。あなたの病は治せないと伝えたはずだけれど」

「信用できるわけがない……! 不死身の人間が目の前に居るのに……」

「そう見えるだけで、私は人間ではないの。でも……ああ、なんだ。あなた、不死身になりたかったの? 私を殺すか食べるか何かすればなれるとでも思ったのかしら。なるほどね」

 

 少女は笑った。嘲笑であった。

 

「とても浅ましい、とても人間味のある答えだったわ。ありがとう、オルランド。とてもすっきりした。あなたは正しいわ。正しく人間だった。(アリア)があなたが生かし続けたのは、ただあなたを愛していたからなのに。本当にそれだけだったのに」

 

 男の顔が色を変える。

 それが後悔の色でないことは、見れば分かった。それは少し笑っているようにも見えるし、なのに目は悲しそうにも見えるのだ。嘘と憐憫には慣れ親しんでいる少女だったが、いつか見たその色は、よく覚えている。

 オルランド・マイアハイズは恐怖しているだけだった。また打ち殺されるかもしれないという恐怖。このまま捨て置かれるかもしれないという恐怖。

 死への恐怖。それ以外に色は無い。

 生き続けるのが命の役割であり、当然備えるべき機能である。故に、少女はそれを肯定する。それは正しく、肯定されるべきものだ。

 

「だから、別れる前に命をあげましょう。そうそう尽きることのない命を」

「お、おお……おお。やはりあるんだ……不死の力は……!」

 

 男の顔色が不信と喜色の混じったものになった。

 枯れ枝のような手が伸びてくるが、少女はその手を取らずにベッドを降りた。もう力は行使している。聖性(セフィラ)(ティファレト)をほんの少し彼に分け与えたのだ。無限と等しい聖性は目減りなどしないので、惜しげもなく多めに分けた。

 人の生に換算すれば何千、何万回もの命だ。常に死に続けていると言って良い状態の彼でも、このまま(・・・・)あと百年生きられるかもしれない。

 病を払うことはできなかったが。

 

「は……ははは……やったぞ、これで私は……アメリア……!」

 

 何らかの実感があったらしく、喜びを露わにする男に水を差すのも躊躇われる。少女は振り返らず、幾度となく足を運んだ寝室を後にする。聞こえないだろうと理解しつつ別れも告げた。

 

「さようなら、オルランド」

 

 終ぞ返事が返ることはなく、少女は後ろ手に扉を閉じる。

 思いのほか早くオルランドが死に切ったらしいと少女が感じとったのは、この別れからおよそ二か月後のことだった。首でも括ったのだろうと片付けて、確かめることはしなかった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 抜けるような青空の下、廃教会の花壇。

 ハーデンベルギアに似たオイディス・カンパーなる花が咲いているのを見付け、季節が巡って春が来たらしいことをアリエッタは悟った。

 オイディス大森林の傍、かつてマイアハイズと呼ばれていた街は過半が焼け、生きている住民の姿はひとつも無い。死の神の形をとった神秘(アルカナム)は全住民に等しく死を与えたからだ。よって、自然に還りつつある遺骸が散乱する廃墟の街を、唯一残ったアリエッタだけが生きて動いている。

 

 あれには、なにひとつ命じていない。

 ただ、神秘は許さなかったのだろうとだけ理解している。本当は滅びていた可能性が高い、オイディス村。あの村から始まった、神秘によって齎された繁栄の果てを。あるべき姿へと、帳尻を合わせるかのようにすべて奪い去っていった。

 

 いつか、遠い昔。オイディス村の射手衆である若者たちが消えた夜。

 大森林で見つけた彼らは、全滅していた。デナン――マイアハイズの祖である青年も死んでいたのだ。彼らを人知れず蘇生した。正しいことだと、その時は信じていたからだ。今は分からない。ただ、神秘には許されなかったのだろうとだけ理解している。

 

 滅びたこの街が蘇る可能性は、ほぼない。

 領主家が全滅したマイアハイズに別の貴族が充てられたとしても、遺骸から発生し得る疫病を嫌うか、でなくとも深過ぎて扱いの難しい大森林の傍になど定住はしないだろう。そして、それは民も同様である。住む者の無いマイアハイズの街はゆっくりと朽ち、大森林に還りゆくに違いない。

 

 砂の城はもうない。

 

 それで良いのだとアリエッタは思っている。

 人類種に肩入れする理由は焼けて死んだ。過ちは正され、この地には均衡が訪れた。多過ぎる人間の消えたこの静寂が、完全なる自然調和の世界であると今の彼女は実感している。

 ふわふわとした木綿のワンピース一枚でうろついていても誰に咎められることもなく、白い髪が不気味だと嘲られることもない。

 

「……ふ」

 

 結局、神秘(アルカナム)聖性(セフィラ)云々を抜きにしても、自分は根本的に人類が嫌いなのだ。そんな人嫌いの魔女は、森でひっそりと生きていく。そういう未来しか自分にはなかったのだと納得もしていた。

 

 

 だから、複数の人間が歩いてくる足音が聞こえたときも、ただただ煩わしいとだけアリエッタは思った。

 そのふたつの人影が見知った者たちのものであっても。その片方が、己の幸福を祈ってくれた少年のものであっても。その片方が、純粋に己を案じて彼を呼びに行った友人のものであっても。

 ただ、旅装のアキトを見た瞬間、マリアとの約束を投げ出してまでやってきた彼を、なんと言って追い返せばいいのか分からなかった。

 

 

「――――柊!」

 

 

 遺骸が散乱する廃墟の街で、深刻そうな顔で駆けて来る彼の目に、果たして自分はどう映っているだろうか。

 まさか、救われるべきものだと見ているのだろうか。まだ。

 もう、彼とは感覚が異なり過ぎていて想像もつかなかった。人々は死に絶え、街は滅びたが私は健やかにやっているのだと、心からの笑顔で説くべきだろうか。

 理解はされないだろう。彼は人々の守護者であり、そうであるからこそ剣の英雄たり得た。

 なら、共に歩めるはずもない。生と死の調和を望む魔女たるこの身は、それらを等価とするが故に人々の価値を認めない。

 互いに理解は在り得ない。

 

 であるのなら。

 

 ただ生きようとした白瀬柊は大森林で死に、ありふれた幸福を求めたアリア・マイアハイズは焼けて死んだ。

 残った少女は、少年に対する煩わしさを倦怠に変える。もう関わってくれるなと、しかめた顔で陰惨に笑いながら、彼女は言った。

 

 

 

 

「……アリエッタと呼びなさい」

 

 

 

 












7章序幕は当部分までとなります。

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口癖の『アリエッタと呼びなさい』は、幸せを求めた白瀬柊もアリアももう死んだという悲痛な覚悟の言葉だったのですね……辛い…… 死を通して現世の肉体が総体の端末でしかないことを理解するのであれば、生命の…
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