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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
七章 ロスペール戦役
314/321

10.エラディケーション・エピローグ④

 サントレイア城の住み込み倉庫番、高梨明人の朝は早い。

 

 夜明け前には塔の掃除と洗濯を済ませ、その日の飲料水のために井戸水を汲み、大鍋で沸かす。それが終わると雑木林の中にある菜園で野菜や香草を収穫し、城の厨房へ向かって焼きたてのパンを受け取り、塔内で仕込んだ塩漬け肉や卵と合わせて簡単なサンドイッチを作る。これを三等分して一日の糧とするため、この時点で彼は一日分の家事を終えている。

 サントレイア城の女中たちが起き出す頃には、高梨明人は既に塔の自室で朝食をとっている。沸かした湯で淹れたコーヒーを飲みながらサントレイア新聞を広げ、悠々とした時間を過ごすのである。

 余裕はたっぷりある。忘れ去られた「倉庫」の番をしている彼には基本的に仕事はなく、日中の過ごし方もまちまちだ。城下や城内の困りごとを引き受けたり、それに準ずるような用事をこなしたりする。とはいえそれらでさえ無い日の方が多く、この日も彼は暇を持て余しているのだった―――

 

 

「……いや、おかしいでしょう」

 

 

 分け与えられたバゲットサンドをもそもそと食べながら、ベッドに腰かけた白瀬柊はぼやくように言った。曙光の差し込む部屋で、湯気立ったコーヒーをちびちびと啜る高梨明人は不思議そうに首をかしげるのみだ。

 

「なにがだ」

「あなた一応、九英雄よね」

「なんだそりゃ」

「……一般的にそう呼ばれてるのはさすがに知ってるでしょう」

「知ってはいるが認めたことはない。伝説の何某だの何だの、ひとまとめに変な呼び名をつけられても困る」

 

 歴史の表舞台を去った英雄がこんなことになっているなどと、いったい誰が思うだろう。百歩譲って城兵をやっているのは良しとしても、これほど仕事をしない城兵など他に居ない。ほぼ穀潰しである。

 

「もっとなにかこう……有意義な生き方はできなかったの……?」

「……伯爵令嬢に言われたくはないが」

「私は良いのよ。ちゃんと教会で働いててお給金も貰っているし」

「それを言うなら俺だって給料は貰ってるぞ。なんとか食っていける程度に」

「……無欲すぎるでしょう」

「衣食住が保証されてるってのに、この上なにを望めばいいんだ。暮らしていけるだけで十分だ」

 

 ははは、と笑う明人に無理をしている気配も不自然さもない。しかし、疲れているような、くたびれているような、表し難い違和感がある。

 少なくとも竜戦争前後の明人とは雰囲気が違う。かつての彼には歳相応の未熟さを差し引いても、不思議な勢いがあった。貪欲さと言い換えてもいいかもしれない。たった九人で竜種を駆逐し外殻大地を解放せんとしたこと、続く戦乱の時代を調停しようともがいたこと。いずれの動きも彼が中核であり、先頭を走っていた。

 

 その原動力が何であったのかを柊は知らない。彼はただただ竜種という不条理を斬り伏せ、人同士の殺し合いを許さずとして剣を振るい続けた。ただただそれが当然なのだと示すが如く、ひたすらに何年も。何十年も。

 尋常では成し得ない業だ。どこか衝動的でもあった。ひょっとすると百年経とうと二百年経とうと、彼は変わらず戦い続けているのではないかと思わされるものがあった。普通ではあり得ないことでも、或いはと思わせる異常性が高梨明人にはあったのだ。

 

 その彼がこうなっている。

 もしかすると。異常としか言えないその衝動を抜きにした彼は、ただ変わり者であるというだけの平凡な少年だったのかもしれない。目の前の明人に感じる違和感は、そういうことなのかもしれない。

 

 柊はバゲットサンドからトマトを選り分けて包み紙に除きつつ、意外に思ってはいても特に落胆はしていない自分に驚いた。

 行動理由のかなりの割合を惰性と義理が占めていた柊とは違い、高梨明人は過去も未来も不義を許さぬ英雄であり続けるのだと思っていた。しかし、勝手な思い込みに過ぎなかったそれを、或いは柊自身も信じていなかったのかもしれない。

 

「……もう戦わないの?」

 

 確かめるような柊の問いに、明人は苦笑する。

 

「俺が何と戦うんだ」

「帝国が領土拡大に乗り出してるのは知ってるでしょう?」

「待て待て。カレルがトップをやっていた頃ならまだしも、今の帝国は人類種の国家だろう。この世界の人達の営みに手を出す気はないよ。フェデリカ達のおかげだな……先を越されたとも言えるか。本当は俺の仕事だったのにな」

 

 自嘲気味な呟きをコーヒーで切り、明人は言い切った。

 

「人間同士の対立も紛争も、別に帝国に限った話じゃない。不自然な話でもない。なら、伝説の何某の出る幕じゃないだろう。この先もずっとだ」

「……ふうん。隠居暮らしってわけね」

「だな」

 

 思えば、明人は帯剣していない。それどころか部屋の何処にも剣は見当たらず、すぐに持ち出せる範囲に置いてすらいなかった。

 

「あなた、あのふざけた名前の遺物(アーティファクト)はどうしたの?」

「ん? とっくの昔に手放したぞ」

「手放した……? そんな簡単に……」

「いや全く簡単じゃなかったが……まあ、人類種の手が届くような場所じゃないから大丈夫だ。あれも二度と日の光を拝むことはないだろ」

 

 柊は絶句するほかない。おおよその経緯を察してしまったからだ。

 竜戦争後、十年ほど経ってから北の小国に人喰い竜の噂が立ったことがあった。東方の旅先で耳にした噂だったが、翌年には別の噂に切り替わっていたので当時は様子を見ることにしていたものだ。

 

 確かめるまでもなく、竜種の生き残りはひとりだけだ。種を裏切って人間側に立った唯一の竜。デッセネウラ。九英雄の十人目。

 

 北の人喰い竜は九英雄のひとりによって討ち果たされ、英雄と竜は小国ごと地の底に消えたのだと吟遊詩人が謳っていた。両者をよく知る柊は有り得ない話だと一笑に付したのを辛うじて覚えている。

 しかし、もしかすると。それは本当に剣の福音の最後の戦いだったのかもしれない。

 

「俺もサントレイアでのんびりやっていくさ。ここの水は結構合うからな」

「……そう」

 

 明人はそれ以上を語ろうとせず、柊も事の仔細を聞こうとは思わなかった。真実がどうであれ百年以上前の話であり、以降、剣の福音と竜の存在が人々の口に上ることはなかったのだから、きっとそれが全てだったのだと理解するに留める。

 人の古傷を抉る趣味を白瀬柊は持たない。

 

「ま、俺のことはどうでもいいんだ。それより柊。今になってわざわざパロサントくんだりまでやって来たのは、何か理由があるんだろ」

「まあ、あるけど……何? 理由がないと来たら駄目なわけ?」

「俺は一向に構わんが、実際来なかっただろ、おまえ」

 

 それはマリアが居ると思っていたからだ――とは言えず、柊は黙って革の旅行鞄から荷物を取り出す。

 百五十年前に故障したタブレット端末とスマートフォンだ。明人の前のテーブルに置くと、彼は眉を寄せてそれらを凝視した。

 

「電子機器……? いったい、いつ持ち込んだんだ?」

「初めて外殻大地で目覚めたときよ。この中に入ってた書籍の知識でオイディスの村の面倒を見ていたの」

「嘘だろ」

 

 明人はスマートフォンを色々な角度から観察し、信じられないといった面持ちで言った。

 

「……俺は最初の時たまたま端末を携帯してなかったから、はっきり分かったのはずっと後……往還門が出来てからなんだが、基本的に電子機器は現界(こっち)には持ち込めないはずなんだよ」

「どういうこと?」

「移動時に何故か壊れるんだ。電源が入らなくなる。コンピューターの付いてない古い機械なんかは大丈夫な場合もあったが、こういうデバイスの類は全滅だった。時計や電卓でさえ壊れたからな」

「古い機械?」

「デカいバイクだよ。氷室がどっかから持ってきた」

 

 氷室一月。竜戦争後、早い時期に外殻大地から去った九英雄の一人。懐かしい名前をまたひとつ思い出し、柊は笑った。

 

「どちらかというとアウトドア派っぽい印象の人だったけど、裏切らないわね」

「そうか? 妙に理屈っぽかったしパソコンの方が似合う奴だったと思うが……いや、氷室の生態より柊が持ち込んだもんの方が気になる。なんで壊れてなかったんだ」

「単純に最初の移動だけは大丈夫だったんじゃない?」

「いや。カレルやハオは最初っからスマホ持ってたんだが、同じように壊れてたらしいんだ。まあ、奴らはさっさと捨てちまったらしくて実物は残ってないんだが……触っていいか」

「どうぞ」

 

 許可すると、明人はタブレット端末の電源ボタンを押した。

 当然ながら反応はない。

 

「そりゃそうか。最低でも百五十年は経ってるもんな……」

「というか、ちょうどあなた達と出会った頃に壊れたのよ。それまでは使えていたのだけれど」

「……どういうことなんだろうな。この端末が特別頑丈な造りをしてるとか……は無さそうか。普通の市販品だよな。画面ヒビ入ってるし」

 

 ディスプレイのヒビの理由は、柊にももう思い出せない。落として割ったのだったか。記憶が判然としない。

 タブレット端末を睨みながらしばらく腕組みで唸っていた明人だったが、不意に我に返って柊を向いた。

 

「……で、柊。今になってこれを持ってきた理由はなんなんだ」

「修理できないかと思って」

「無理だ」

 

 明人は即答した。

 

「もちろん俺は専門家じゃないから単なる感覚の話なんだが……ガラスや金属で作られてる外装はともかく、中身はおそらく風化してる。新しいデバイスを手に入れる方が簡単なくらいだと思うぞ」

「……なんとか中のデータだけでも欲しいのだけれど」

「あー……あのな、そのデータの入ってる記憶装置が駄目になってるんじゃって話なんだ。残念だが諦めた方がいい」

 

 簡単に諦められる話ではない。未練がましく明人の目をじっと見ていると、彼は観念したかのように首を振った。

 

「……わかったわかった。異界(クリフォト)で修理できないか持って行ってみるよ。ダメもとっつーか、あんまり期待しない方がいいと思うが……」

「移動の時に壊れるんなら余計に壊れちゃわない?」

「まあ元々壊れてるし、あっちに持ってく他にどうしようもない。さすがにこっちの世界でこのレベルの精密機器を修理するのは不可能だ」

「……」

 

 電子機器の構造に疎い柊にも、それは直感的に理解できる。この世界では電気の利用はおろかゼンマイ式の懐中時計さえ未だに実現していない。

 明人の言うとおりであれば、元の世界の技術でも期待は持てないほどなのだ。納得せざるを得なかった。

 

「しかし、おまえが俺を頼るなんてよほど大事なデータだったんだな」

「そう……だと思う」

 

 柊は曖昧に肯定するしかない。

 言い切る自信がなかった。長い年月のせいで、なくなってしまった。

 

 重要なことはおぼろげに覚えている。そのデータは避けるべき未来を警告したものであり、未来の高梨明人から与えられたものであること。その大まかな内容。

 未来の自分が伴侶を得て、その結果として酷な目に遭うのだと。具体的にどうなるのかが不明瞭であったものの、それだけは避けるようにと言われたような気がしていた。

 

 確信はない。慌てて皮紙に書き残したものを、長い年月の中で何度も写し変えるうちに分からなくなってしまった。都度完璧に写しているつもりでも、最初の書き残しが記憶頼りな以上、元のテキストと整合しているかは疑わしい。

 タブレット端末が修理できれば裏付けが得られる。柊が修理を考えたのはそういった意味合いからだった。

 そして、仮に修理ができたとしても、いま柊が体感している現在とテキストの示唆した未来が同じ歴史をなぞっているという確信までを得られるわけではない。未来の明人のテキストや警告は判断材料でしかなくなっている。

 

 にも拘わらず、今になってテキストを求めたのは、オルランドの求婚があったからだ。

 しかし彼が警告の示した伴侶であるかどうかは疑わしい。オルランドは真面目すぎるほど真面目な好青年であり、非の打ちどころもそこにしかない。仮に彼と結婚したとしても、体裁を整える手間さえ除けば、起き得る問題を想定する方が難しいほどだった。

 彼に対する情もある。

 家族としてマイアハイズで過ごした五年。それ以前から気に掛けていた時期も含めて、オルランドに対する親愛は間違いなくある。義弟として育てたステファノに対しても。

 家族というものがまったく思い出せなくなった柊も、もし自分に家族と呼べる存在が居るのだとすれば、あの二人は勿論、家人らを含めたマイアハイズの人々だろうと言い切ってしまえる。

 別れがたい彼らと本当の家族になる。期限付きの養女(アリア)ではなく。その淡い夢想のような日々に惹かれないと言えば、嘘になる。いつか、そんな家族に憧れていたような、微かな記憶の残滓がある。

 

 だから迷ってしまう。答えが出せない。

 柊はその答えを探しに来たのだった。

 

「……あのね、明人。ちょっと相談なのだけれど」

「うん? なんだ、あらたまって」

「あなた、結婚していたことはある?」

 

 問いに、明人は口をあんぐりと開けた。

 伝わっているのかいないのか、判断がつかなかったので補足を試みる。

 

「内縁関係も含めるわ」

「……いや、含められても一切影響なくそんな事実は無いが……?」

「そう……意外だわ」

「いやむしろ、どこをどう見たら可能性があるように見えるんだ……!」

 

 明人は空笑いするが、柊から見れば彼には可能性が大いにある。

 彼女の知る限り、高梨明人という少年は異性から好意を持たれやすい傾向がある。もし彼の隣にマリアが居なければ、百五十年前の時点で誰かしら特定の恋人が居てもおかしくはなかっただろうと柊は見ている。

 そして今、マリアはいない。少なくとも、見える範囲には。

 

「フィオルとは良い仲なんじゃない?」

「誤解だ。あの子はそういうのじゃない」

 

 揶揄うつもりもなく本当に「そう」ではないかと思っての発言だったが、明人は真顔で否定した。

 パロサントの王族だから、というトーンでもないように見えたものの、やはり彼が内心を口にすることはない。コーヒーのカップを傾け、彼は半笑いで問う。

 

「それで、俺の結婚経験がいったい何に関わってくるって……?」

「……参考になるかと思って」

「誰のだよ」

「私の」

 

 柊が短く答えるや、明人は目を瞠った。まるで思いもよらなかったと言わんばかりに柊を凝視し、次にカップを置き、たっぷり数秒ほど考え込むような様子を見せた。それから、

 

「相手は誰なんだ?」

 

 とだけ言葉を発した。

 目に見えて動揺している。動揺の理由が失礼なものであるかそうでないものかが気になったものの、見当はつくので溜息を混ぜて答えた。

 

「オルランド・マイアハイズ伯爵。実はいま求婚されてるのよ」

「マジかよ。普通の人間か」

「それ以外に何が相手だと思ったの……?」

「……長命の亜人種か、魔族とかか……?」

「そんなわけないでしょうが……しかもなんで自分で言っておきながら疑問形なのよ」

「いや……なんか、いまいち想像がつかなくてさ。しかし……そうか、あの柊がなあ……時間の流れって凄いんだなあ……」

 

 意味不明な感慨を口にしながらコーヒーを啜る明人。

 時折うなりながら、彼は懸念らしきものを口にした。

 

「そいつ……ってのは失礼だな。マイアハイズ伯は全部分かってるのか? 俺たちは普通の人間とは違ってるわけで……おまえは特に複雑というか、その、あれだ。貴族に嫁ぐのは難しい面があるというか……」

 

 曖昧な物言いに首をかしげる柊だったが、自身の不老だけではなく女性機能に関する言及だと気付いて息を呑んだ。

 なぜ明人が知っているのか、すぐには思い出すことができなかったが――そういえば昔、事故があったのだと思い当たって眉間を押さえる。

 

「ぜ……全部伝えてるわよ。それでもというか……白い結婚でいいのだそうよ」

「白い……?」

「……知らないならいいわ。とにかく問題はないの」

「そ、そうなのか。まあ、なんというか……愛されてるんだな……?」

 

 気まずいのは明人も同様であるらしく、視線が泳いでいた。それはそれで長大な年月を生きている不老者としては初心すぎるのでは、という思いもなくはなかったものの、やはりお互い様であるので柊は触れずにおいた。

 しばらく互いに沈黙が続き、明人がコーヒーを飲み干した頃、彼は漸く言った。

 

「正直、俺に言えることなんて殆ど無いぞ。結婚だなんだと話のレベルが高過ぎる。俺なんぞまともな恋愛経験すら無いってのに……」

「……嘘でしょ?」

「ずっと片思いだったんだ。言わせるなよ恥ずかしい……」

 

 俄かには信じられないようなことを言う明人だが、追及する隙は無かった。

 

「で、相談ってことは受けるか迷ってるのか? よりによって俺なんぞに相談ってのもどうかと思うが、ある意味では正解なのか。他に居ないって意味で」

「まあ……そうね」

 

 マリアがここに居ない以上、存命かつ行方の分かっている御使いは明人だけである。仮に存命と思われるマリアやレーシャの行方が分かっていても相談先は変わらなかったのだが、彼は知る由もない。

 

「マイアハイズ伯が全部承知の上で求婚してるなら、あとはもう柊がどうしたいかだけだと思うが……あらためて聞くまでもないわな」

「どういうこと?」

「迷ってるって時点で、不老だの何だのの俺たち特有の諸問題に目を瞑ってでも受けたい気持ちがある……即答できない程度にはマイアハイズ伯に気持ちがあるってことだろ?」

「それは……そうなのだけれど」

「いやいや、柊。おまえが少し明るくなった気がしてたんだが、無関係じゃないんだろうな。相当なことだぞ、それは」

 

 実感のこもった口調で明人は言う。

 

「好きになった相手が先に死ぬって分かった上で一緒に生きていく……なんて、少なくとも俺には無理だ。想像するだけで辛い。人間相手に恋愛なんてできる気がしないぞ、俺は」

「……そうね。言われてみれば、そうかもしれない」

 

 オルランドに対する感情は親愛以外ではないので明人の指すものとはまた違っているのは確かだったが、気持ちの多寡や種類の話ではないだろうと柊にも理解できる。柊も彼と同様に多くを看取ってきたからだ。

 ただ、両者の意識には一点の明確な違いがあった。

 その差異に柊も明人も気付くことはない。彼女にとっては当たり前のことであり過ぎたために。彼にとっては、想像力の限界であったがゆえに。

 

「裏を返せばそれでも構わないくらいの気持ちだってことだろ。だったらもう、この上ない相手だと言っても良いんじゃないか。色んな問題は後で考えればいい。俺も多少は力になれるだろうしな」

 

 それは、おおよそ予想していたとおりの結論だった。

 実際、柊も同じような気持ちではある。

 例のテキストと、警告がなければ。

 

 

 或いは、ここにマリアが居たなら。それが答えでもよかった。

 

 

「……この上ない相手なの?」

 

 それでも、こう尋ねるのが柊には限界だった。

 抱えた事情を話すだけの勇気は無い。未来の話をしてしまうのは何か、言い知れないリスクがあるように思えた。未来の明人が行った改変を、更に曲げてしまった時に何が起きるのか。どのような影響があるのか柊には予想もつかない。

 そもそもデバイスは壊れてしまっていて、明人を納得させられそうな証拠も無い。話自体もあやふやな記憶でしかなくなってしまっていて、根拠も無い。なにも無い。なにも無い柊は、こう尋ねるしかなかったのだ。

 

「あなたも……本当にそう思う?」

 

 受動的なようでいて、迂遠に期待をしてしまっている問いかけ。厚かましく、卑怯な言葉だと分かっている。どれだけ明人が鈍感でも、柊が何が求めているかは伝わってしまったはずだった。

 彼は少し驚いたような顔をした後、頭を掻きながら思案するような素振りを見せた。フラットな表情からは何も読み取れず、柊は静かに答えを待った。

 やがて彼は言った。

 

「……誰か一人くらい幸せになっても良いと俺は思うんだよ」

 

 それは直接的な回答ではなかった。

 しかし、明確なひとつの答えではあった。

 

「元の世界に帰ったやつも居れば、好き勝手に戦って死んでいったやつらも居る。相変わらず能面みたいな顔をたまに見せるやつも居る。人の気も知らないで地下で寝続けてるやつも。もう百年以上も前から帰ってこないやつも。そんなやつを待ち続けてる……俺も。誰も彼も思いつめた顔をして、思いつめたまま去っていく。もしかすると最後までそうなのかもしれない」

 

 明人は空のカップに視線を落としていた。

 それは諦めているような目にも見えた。何かを探しているような目にも見えた。かつて仲間たちの先頭に立っていた少年は、もう独りだった。

 

「俺はここから……往還門から離れられない。あれは人類種が触れていいものじゃなかった。誰かが見張っていないと駄目なものだ。俺は、いつかそういう約束をして、守っていきたいと思ってる。この先もずっと。殺し過ぎた俺にはちょうどいい。そんなものに誰かが付き合うべきだとは思わないし、誰かを付き合わせるつもりもないんだよ」

 

 独白に似た言葉の先に彼の返答がある。

 言葉もなく、柊は既に終わってしまっていた少年を見詰めるしかない。

 

「それでもな、柊。誰か一人くらいは景気の良い顔をしていて欲しいんだよ、こんな俺でも。俺たちのやったことの全てが、俺たちの最後だけで決まるわけじゃないと分かってはいても、誰か一人くらいは幸せになって欲しい。それがおまえだったら良いと、今は思ってる」

「……明人」

 

 柊は理解した。

 彼が想像以上に自分を気にかけてくれていたことを。

 そしてもう、彼は彼自身に何も望んでいないのだということを。人が当然備えている幸福への想像すらも、もはや抱いてはいないのだと。救世を望んだ代償に、彼は命以外の全てを失っていたのだと。

 

 もし、何も知らない小娘のように。今この瞬間にでも彼の手を取り、自分の幸福のためにあなたが必要なのだとねだれたら、なにかが変わるだろうか。彼が見失った幸福を取り戻せるのだろうか。自罰的と片付けるには行き過ぎた、この哀れな少年を救うほどの何かを自分は与えられるだろうか。それらは、まったく分かりきった空虚な自問だ。

 

 無理なのだ。

 命だけは自在にできても、白瀬柊には他になにも無い。彼の深すぎる傷を埋める言葉も、彼が自ら課した罰から解き放つ言葉も。なにも持っていない。持っている、おそらく唯一の少女は柊ではない。

 彼女はここに居ない。

 

 そう納得をして、諦めることができた。遥かな昔、彼らと初めて出会った時と同じように。本音に蓋をして友情というラベルを貼り、その蓋を固く閉じて漏れ出ぬようにと願うことができた。

 

 

 だからもう、これで終わりなのだ。

 

 

「まあ、どうせ時間だけはいくらでもあるんだ。結婚生活が上手くいかなくても、いくらでも愚痴に付き合ってやるからさ」

「……またサントレイアまで来いって? わざわざ愚痴りに?」

「あー、まあちょっと遠い……いや、かなり遠いか。でもまあこの街、なにもない代わりに飯は美味いから。往還門もあるし気分転換にはなるぞ」

「ええ……? あなたまさか、気軽に元の世界に戻ったりしてるんじゃないでしょうね……禁忌扱いされてるのに」

「こっちにはコーヒーが流通してないんだから仕方ないじゃないか……」

 

 アキトは言いながら思い出したのか、空のカップを手に席を立った。用も話も終わっている。アリアも立ち上がり、選り分けたトマトだけが残った包み紙を畳んでアキトの座っていたテーブルに置いた。

 

 ふと、窓から見える麦畑の景色に目が留まった。側塔二階からの眺望はなかなかのもので、吹き込む穏やかな風も心地よかった。

 慣れ親しんだマイアハイズには及ぶべくもなかったが、やはり悪い景色ではない。アリアは深呼吸をしてから、戸棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出したアキトを振り返った。

 

「ねえ」

「なんだ」

「あと……もう何十年かしたら、私もこの街に住んでいい?」

 

 アキトは少し驚いたような顔をした後、頭を掻きながら言った。

 

「俺の許可なんか要らないだろう。随分と気の長い話だな」

「……そう? あっという間だと思うけれど」

「まあ、気が変わらなきゃ好きにすればいいさ」

「そっちこそ、忘れないで」

「まさか。人を待つのは得意なんだよ、俺は」

 

 五十年か、六十年か。

 それはマイアハイズの人々を見届けた後の、まだずっと先の未来の話。せめて、まだ不確かなその日々に希望を見るくらいは許されていいはずだと。そんなささやかな願いは、苦笑する少年にも否定されなかった。

 

 だから。

 夢見ることだけは許されたのだ。どこにもなかった、その未来も。

 

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― 新着の感想 ―
なんてこった……グッドコミュニケーションどころか高梨くんもメンタル重病状態だった……そしてほぼ思いが通じ合ってもお互いに相手を幸せに出来る自信がなくて関係が成立しないという なんなのこの人たち……逆…
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