09.エラディケーション・エピローグ③
辺鄙な地だ、という失礼な第一印象がある。
大陸北西部に位置する小国、パロサント王国。その首都であるサントレイアなる街にアリアは三か月をかけてやってきた。
パロサントは大陸西側の諸国でも有数の食料生産量を誇る農業先進国だ。麦や豆などの穀類をはじめ、畜産物の輸出すら世界に先駆けて実現している。土壌が豊かな国なのだろうと机上で想像していたとおり、馬車から降りて見たサントレイア周辺の景色はアリアの度肝を抜くものだった。
視界を埋め尽くさんばかりの麦畑だった。
遥かな昔、ひとつの村の中で農耕に試行錯誤した微かな記憶が呼び起され、目の間の光景と偉業に心を動かされた。いったい如何ほどの苦労の末に生まれた景色なのか。人々への畏敬の念を禁じ得なかった。
マイアハイズ領で同じ規模の農地を整備するのは難しい。耕作に向いた土地が足りない。大森林を拓けばあるいは、といった程度の可能性しかなく、気候や国土に恵まれているパロサントへの羨望は抑えきれない。
馬車の客室で口をぽかんと開けていると、サントレイアの街門にさしかかった馬車が停まり、パロサントの兵らしき男と御者の会話が聞こえた。
「ようこそ、サントレイアへ。貴族様の馬車とお見受けしますが」
「ええ。東方からお越しになった、さる高貴なお客様を王城にお連れするところですよ」
「ああ、ご遊学ですね。お話は伺っています。他国からお客様を迎えるのは我々にとっても大変名誉なことですよ。どうぞお通りください」
大陸西方の国々は国家間の交流が盛んであり、他国からの視察や留学といった人員派遣に対しても寛容だ。特にここパロサントは百年以上も前から特に食料生産や加工技術の開発に力を入れており、周辺国からの技術者の受け入れも多い。パロサントは小国でありながら農業先進国であると同時に技術先進国でもある。
そういった歴史の裏にある事情をアリアは知っている。
百年前までにパロサント王国が発明、考案したとされているいくつかの農業技術――主に基礎的な食料生産技術と改良された食用植物の多くは、枢軸教の定義するところのこの世界、現界に起源を持つものではない。
かつては九英雄と呼ばれ、現在は神格化されつつある九人の御使い。彼らがやってきたとれる別の世界、異界に由来している。
サントレイアには、
異界とこの世界を繋ぐ門があるのだ。
百五十年前、往還門と名付けられたこの門を利用し、現界に存在しない技術や物品の持ち込みが御使い達の手によって行われた。そして、その恩恵を最も受けたパロサント王国は急速な技術発達を遂げる。当時の大陸で最も進んだ文明を手にしたのだ。
やがて周辺国との軋轢を嫌ったパロサントは技術を故意に流出させ、大陸中に革新的な食料生産技術を齎し、飢饉と飢餓を一掃した。この政治的配慮が技術の独占を良しとしない今日の西方諸国全体の気質に繋がっている。
共存共栄。突出した優位性を失ったパロサント王国であったが、その代わりとしてこの理念と国際的影響力を不動のものとしたのである。
と、それほどの出来事を引き起こした門の存在は、当然のことながら秘密とされている。歴史書の側面を持つ聖典にも門の在処について具体的な地名は載っておらず、現在のパロサント王国も対外的に門の実在を認めていない。
きっと後世では完全に失伝するのだろう。と、聖典の翻訳に携わるアリアはぼんやり考える。
他人事である。
御使いのひとりでありながら、アリアは門に関わっていないからだ。
友人から聞いただけで実物を見たこともなく、サントレイアどころかパロサント王国に足を踏み入れたのも初めてだった。
***
サントレイア城は王城としてはこじんまりとした佇まいで、石と煉瓦で築かれた城館といった風情の建物だった。
申し訳程度の尖塔が二本建っているのが辛うじて城らしさを主張しているくらいで、城壁は低く、西方で流行りの石灰石による白化粧もない。建材の煉瓦色が目立ち、どこか素朴で牧歌的な印象が拭えない外観をしている。
富国の部類であるパロサントの王城がこれなのか、と馬車を降りたアリアは肩透かしを食らったような気分を味わっていた。
途中、馬車から見た城下町のほうがよほど富んでいる。それでも街壁内は田畑が大半であるあたり農業国らしいといえばらしいが――
「サントレイア城へようこそお越しくださいました」
シンプルなドレスを着た少女が綺麗な屈膝礼をして迎える。
他に人影はない。
怪訝な顔をするアリアに、少女は礼をしたまま言った。
「フィオル・エル・パロサントがご挨拶申し上げます。恐れ多くも御身にご拝謁の栄誉を賜り、深く感謝申し上げます。アリア・マイアハイズ様」
パロサントの王族。
少なからぬ衝撃と共に左右を見回すが、サントレイア城の牧歌的な外装が目に入るばかりで侍従の姿はどこにも見当たらない。
王族の少女ひとりだけ。他国からの賓客を迎える態勢としては異常だ。口上も一貴族に対するものではない。
「おそれながら殿下……これはどういう状況なのでしょうか」
「御身のご意向に配慮いたしました。ご身分を伏せておられますでしょう?」
「……」
素性が割れている。
枢軸教が手を回したのか、パロサントの間諜が優秀なのか。何にせよアリアは頭を抱えた。フィオルの言う「身分」がマイアハイズ伯の養女を指していないことは明白だった。
「とはいえ相応の敬意を払わねば、我らパロサントは父祖の霊に顔向けできません。よって口が堅く、事情を知ってよい者を選抜いたしました」
「……その結果がこれだと?」
「兄王と私の騎士を除けば」
「はあ……なんてこと」
フィオルは王妹であるらしい。
王妹に頭を下げさせる貴族令嬢など異常以外の何物でもない。
「どうか頭をお上げください、プリンセス。パロサントの真心は受け取りました。ですが、わたくしのことは一介の遊学生とでも扱っていただいた方が助かります。目的あっての遊学ではありますが、出先でも令嬢として振る舞うのはとても息苦しいので」
本心を並べると、フィオルは目をぱちぱちと瞬かせた。
「息苦しい、ですか」
「率直に言えば面倒なのです。あなたがたと違って貴い生まれではありませんから、これでも無理をしています。つまり……あー……肩が凝るの。勘弁して頂戴」
「まあ」
フィオルは上品に笑う。身なりはパロサントらしい素朴なものであっても、やはり本人は王族の気品を感じさせた。
「やっぱり御使いの方々は皆さま気さくでいらっしゃるのね。では、お友達として遇させてくださいますか、生命の福音」
「……ご随意に。あと、値踏みするのもやめていただけると嬉しいわ」
アリアは溜息しか出ない。
この王妹は印象どおりの無邪気な姫ではない。周囲は無人に見えるが手練れの騎士が潜んでいる気配がある。悪意も敵意も感じないものの、こちらが害意を抱けばその限りではないのだろうと察せられた。
「私がパロサントを害する理由はない。警戒する理由も分かるけれど」
「ご理解いただけますか」
「帝国の二の舞を恐れているのでしょう?」
フィオルが微かに身を固くするのを見取り、アリアは苦笑する。
西方諸国の中心、大陸で成立した初の国家である「帝国」を舞台に勃発した、御使い同士の内輪もめと動乱。関わったすべての国々に爪痕を残し、御使い達も全員死亡するという最悪の結果を招いた災禍だ。百年経とうとも人々の記憶から消えていない。友を失ったアリアにも苦々しい思いが残っている。
しかし、
「怖がらせてしまって申し訳ないのだけれど、私はマイアハイズの外に関わるつもりがないの。用が済んだらまっすぐ帰るし、そもそも人間の騎士を何人積まれても抑止力にはならないから無意味よ」
杞憂であり無駄である。
そう切って捨てると、フィオルは手近な石柱の陰に向けて言った。
「……ということだから、ここはもういいよ。アルビレオ」
途端に騎士の気配が消える。
騎士というより忍の者かなにかでは、という割合どうでもいい感想を口の中に留めつつ、アリアは脱力した。
「どうも、殿下」
「本当にふたりきりになりましたし、どうぞフィオルとお呼びください。とはいえ御身に誰も付けないわけにはまいりませんので、私がご案内しますね」
「……あなたが?」
「いけませんか?」
「いえ、まあ……いいのだけれど」
王妹を引き連れる他国の貴族とはいったい。客観的には友人に見える――だろうか。いささか無理がある気がする。かといって別の者に変えろとまでは要求する気にはなれず、曖昧に首を振るしかない。
「私なんて市井を歩いていても問題が起きないくらいですよ。親しみやすい王族が当家のモットーなので」
フィオルの飾り気のない服装からしても違和感はないのだろう。が、王族がこれでパロサントは大丈夫なのだろうか。
ずれた伊達眼鏡の位置を直すアリアの心配をよそに、フィオルは指を立ててウインクなどをした。
「では、我が国へのご用件をお伺いしてもよろしいですか、アリア様」
「……古い知り合いを探しに来たのよ。剣のはまだパロサントに厄介になっているのかしら」
「あら」
フィオルは驚いたような顔をした。
「まだもなにも、かのお方が憩う家は我が王国、このサントレイアをおいて他にはありません。あの方は未来永劫パロサントと共に歩まれますわ」
なに当たり前のことを聞いているのだろう、と言わんばかりである。一切の疑念を抱いていない様子のフィオルにアリアはやや気圧される。
にしても、
「未来永劫はちょっとオーバーじゃない?」
「いいえ? お約束くださいましたもの」
「……そ、そう」
王妹の目は据わっていた。
言い知れない闇を感じ、深くは追及しないことにした。
「では、あの方のお住まいまでご案内しますね。どうぞこちらへ」
フィオルが当然のように徒歩で移動を始めたので王城の中を案内されるのかと構えたアリアだったが、彼女は正面の居館には入らず城の裏手に回り込むようなルートをとった。別棟らしき建物が並ぶ区画も抜け、城壁に近い位置にある門衛棟が見えてくる。
あれか、とあたりを付けるアリアだったが、フィオルは門衛棟の前も通り過ぎてしまった。
さらに十分ほど歩いて辿り着いたのは、城壁に備えられた壁塔だった。居館からも居住区画からも遠く、周囲には城壁と雑木林。井戸くらいしかない。城のはずれもはずれ、通常であれば人の住んでいるような場所ではなかった。
再び闇を感じる。
「ええっと……監禁しているわけじゃないのよね……?」
「まさか。あの方は何度申し上げても勝手にこちらに居着いてしまうのです。城内に相応しいお部屋をご用意しているというのに、一度も使ってくださらないの。身の回りのお世話だって誰も寄せ付けてくれませんし、ご自身の扱いも一兵卒でよいなどと仰って」
「え……彼、パロサントの兵士なの?」
「住み込みの倉庫番ということになっています。ですので、ここは倉庫なのだそうです。本当のことを知る者は王族くらいなものなのです」
ぷんぷんと怒るフィオル。
周囲の苦労がしのばれる。アリアは苦笑した。
「奥さんも大変ね」
「……? 奥様、ですか?」
当然居るだろう存在を挙げるが、フィオルは怪訝な顔をした。
ここに居ると想定していた二人が、まさか百年以上経っても一緒になっていないとは思わず、アリアも困惑する。
「同居人が居るでしょう」
「いえ? 少なくとも私が知るかぎり、ずっとおひとりでいらっしゃいます。お客様も……そうですね、ヴァルカンドの学者様以外はほとんど来られません」
「ヴァルカンド?」
「ヴァルカンド帝立学士院。帝国の研究機関です。天文学の研究をされている方だそうで、年に数回いらっしゃって二週間くらい滞在されます」
「……」
おそらく想像していた人物ではない。押し黙り、考え込んだアリアは壁塔の木製扉に手を掛ける。中から施錠されていたものの、フィオルが当然のように鍵を持っていた。
塔の内部は思っていたより広く、暗く、空気が冷えていた。石積みのがらんとした暗い空間の奥、突き当りの壁の手前になにかがある。
それは錆の浮いた鉄扉だった。
少なくとも肉眼ではそう見えた。異様にも、壁に取り付けられておらず床の上に立っている。肌が粟立ち、勝手に口から言葉が漏れた。
「……往還門」
実物を見たこともないはずが、根拠もなく確信していた。
ここは倉庫ではない。
「かつて我らパロサントに多くの叡智と恩恵を齎した神の国への扉。使われなくなった今では、このように密かに管理されているのです」
「なぜ使われなくなったの?」
「……過ちがあった、とだけ王家には伝わっています。何人もあの扉に触れてはならないと。このサントレイア城がこの地に築かれたのも、元々はあの扉を守るためだと聞いています」
「それにしては城の隅にあるけれど」
「居館の奥、最も厳重な区画にも似せた扉が置いてあるのです。まるでそちらが本物であるかのような、金銀の豪奢な装飾付きで」
「なるほど、うまいわね」
何も知らなければそちらが本物と思い込む。まさか城はずれの城壁の中に本物があるとは思わないだろう。理に適っている。発想から推測するに他にも偽物があるのかもしれない。感心するアリアだったが、フィオルは苦く笑う。
「いちおう、この塔自体も鋳金を用いた頑丈な造りになっているそうですけど……門の存在が忘れられつつある今では大袈裟な警戒なのかもしれませんね」
「禁忌を守り通すなら少し大袈裟なくらいでいいんじゃない。秘密を抱えさせられてるあなたたちは気の毒だと思うけれど」
「いいえ、厭わしく思ったことなんてありません。むしろ……この程度のことでしか報いれないのを心苦しく思います」
「……ずいぶん律儀なのね。あなたは当時を知らないでしょうに」
王族としての意識だろうか、こんな年若い娘が先祖の受けた恩を大事にしている。関心と疑問が混じった感想だったが、王妹は答えなかった。先を歩く彼女の表情は見えない。
壁塔は複数の階層建てになっているようで、フィオルは上階への階段を昇る。二階より上が居室になっているようで、生活感のある廊下と木扉がアリアの前に現れた。
「あの方のお住まいは奥の扉になります。私は居館のほうに居ますので、何かあればお声掛けください。城の者には話を通していますから」
「一緒に来ないの?」
「実はこの塔にはあまり近寄らないように言いつけられているのです。顔を合わせたら、きっと怒られてしまいますから」
フィオルは寂しそうな微笑を浮かべ、一人で来た道を引き返していった。
想定外だった。
心の準備が出来ていない。
残されたアリアは扉の前で逡巡し、立ち止まる。この期に及んで二の足を踏むくらいには、どう切り出せばいいか分からなかったからだ。
彼とは最後に別れて以降、長い間――本当に長い間、顔も合わせていない。只人の感覚で言えば人生数回分もの間。矢の如く過ぎてゆく日々に追われ、互いの近況も知らず、いつしか思い出すことさえ滅多に無くなっていた。
そもそも彼はまだ自分のことを覚えているのだろうか。鮮烈な日々を共にした間柄ではあったが、やはり、それでさえもとっくに風化していておかしくないほど遠い過去になっている。忘れているのが自然で、自分がたまたま覚えているだけなのではという不安が拭えない。
もし、他人を見るような目を向けられたら。そう思うと、あとほんの一歩が踏み出せない。
調子がおかしい。はたして、自分はこんなに臆病な人間だったろうか。
違うはず。
「……」
百五十年は長い。
フェデリカとの旅を終え、最初に降り立った地オイディスに戻って根を下ろして以来、アリアはずっと一人で生きてきた。
友は去り、親しんだ人々もすぐに老いては死んでいく。気付けば勝手に神聖視などをされ、担ぎ上げられて、関わりたくもない騒動に巻き込まれることも数えきれないほどあった。
その都度いちいち落ち込むようでは生きてなどいけない。その都度いちいち他人を頼るようでは生きてなどいけない。不滅であるのだから、超然と構えなければならない。何が起きてもなんてことはないのだと、不敵に笑って見せなければならなかった。何を失ってもなんてことはないのだと、不敵に笑って見せなければならなかった。
強くなったのだ。跡形もなく。
福音を得て、己はまったく別のものになったのだ。
でも。
矢の如く過ぎてゆく日々に、見上げる時計塔の針が進みゆくのを、暮れてゆく陽の中で見詰めながら、思うこともある。
こんなはずだったろうか。こうなりたかっただろうか。遥かな昔、誰かの手を取って杖を得た自分は、いったい何を願ったのだったか。
もう分からない。
もう思い出すことができない。
巫女と呼ばれ、そよ風と呼ばれ、義姉と呼ばれ、御使いと呼ばれて生きてきた自分には、何も思い出せなくなってしまった。まったく別のものになってしまった自分には、何も思い出せなくなってしまった。
こんなはずだったろうか。こうなりたかっただろうか。
もう分からない。
これはいったい、誰なのだったか。
急に。
建付けの悪い木扉を、無理矢理に勢いよく開けたときにする音が聞こえた。それは何か、悪魔だとか妖魔だとか、そういった類のものがあげる断末魔に似ているのだと、反射的に顔を上げた少女は初めて知った。
扉の向こう、ノブを思い切り引いたと思しき人物は相当に不機嫌そうな顔をしていた。その一方で、吊ったような緩んだような口元に、怒っているような喜んでいるような、複雑な感情も見て取れた。
彼は片手で読みかけと思しき小さな本を保持していて、おそらく読書中であったのだろうと窺わせる。居室の壁際では窓が開け放たれており、麦畑から入り込む風でカーテンが揺れていた。
カーテン。家具が備わっている。
囚人でも番兵でもないだろうに、本当に塔で暮らしているのか。不便ではないのか。寒くはないのか。ほんの一瞬で、斜に構えた失礼な感想ばかりが浮かび上がる。しかし少女がそれを口にするよりも、彼が口を開くのが早かった。
「人の部屋の前でいったい何をぐずぐずとやってるんだ、お前は……」
「……? え?」
「さっさと入って来いって……気になって読み進められんだろうが」
小さな本は、著しい抽象化と簡略化が為された絵画と台詞吹き出しの組み合わせを並べた――漫画だった。擦り切れそうなほど読み込まれた、単行本。この世界にはない概念。
ずっと昔の、元の世界の情報を思いのほかするりと思い出して、少女はよく分からなくなってしまった。まるで昨日今日別れたばかりのような態度の彼のことも、自分がここに何をしに来たのかも、急によく分からなくなってしまった。
驚いたまま押し黙った少女の顔を、彼は怪訝そうに覗き込み「なんだ、どうした?」と、やはり平然として語りかけている。
答えなければならない。身体を操縦しなければならない。そうと分かっていても何も言えず、辛うじて右手を持ち上げたところで、少女は故障した。
分からない。
名前が。
名前を。
「柊?」
ああ、
そうだった。
白瀬柊は瞬きをして、角膜を洗浄するための液体を眼球から落とした。悲しいことはなにひとつなかった筈なので、特別な意味のあるものではない。ただの水分だった。
その、ただの水分に狼狽した高梨明人の手から本が落ちて、柊はよく分からなくなってしまったまま、彼の胸に額を当てた。
確かな感触がある。確かな感触があり、忘れ去ったわけでも忘れ去られたわけでもなかった。そうした安堵がまた勝手に目から落ちて、いつしか止まらなくなってしまった。
高梨明人がどんな顔をしているかは見えなかった。少なくとも彼は、しばらくの間、まるで子供をあやすかのような手つきで柊の頭を撫でていた。
静かに、撫で続けていた。




