06.エラディケーション・プロローグ
夜のオイディスは静寂に包まれていた。
静けさの中には不穏な空気が漂っている。村人たちは幾人かが広場に集まっていたが、彼らの顔に常のような親しみやすい笑顔はない。一様に緊張と不安が浮かんでいる。広場の中央で焚かれている篝火が揺れ、頼りない橙の明かりに照らされた彼らは、長い影を生み出している。
夜空は重苦しい雲に覆われ、星や月はその姿を隠している。風は冷たく、木々の枝が不吉に揺れ、枝のたてるざわめきの音だけが広場全体に響き渡る。誰もが重い口を開かず、囁き声ひとつ漏らさなかったからだ。
広場の端に立つ村長の表情も暗い。彼は深いため息をつきながら村人たちに向かって何事かを話し始めた。声に普段の力強さはなく、緊張と不安が滲み出ている。村人たちも彼の言葉に耳を傾けながら、抑えきれない不安を滲ませる視線を周囲へと走らせていた。
子供たちは親のそばにしがみつき、目を大きく見開いている。彼らの目には恐怖と不安が入り混じり、いつもの無邪気な笑顔は消えている。年配の村人たちは沈黙を守りながら、ただただ村長の話を聞いている様子だったが、その顔には深い憂いが浮かんでいた。
嫌な空気だ。
ヒイラギは足を止め、広場の様子を観察していた。
報を持って家にやって来ただろうメリンは、しかし泣き出すばかりで話にならず、ひとまず家に置いてきていた。ただ事でないだろうことは、彼女の様子からも、広場の有り様からも分かる。
いない。
若者――より具体的には、若い男の村民が広場に見当たらない。
悪い予感が強まっていく。
歩みを進めて広場に踏み入れたヒイラギに気付き、村民たちがざわめいた。
「巫女様……!」
「こんな時間に集まって……いったい何があったの」
「息子たちが……息子たちが森から戻らんのです……!」
「……え?」
森。大森林のことだろう。それはいい。
単純に、訳が分からなかった。
「いったいなぜ。狩猟と採集は禁じたはずでしょう」
察したヒイラギは村長に視線を送るが、彼は頭を振った。
その素振りだけで分かってしまう。きっと若者たちは禁を破ったのだ。
「デナン……なんてことを……!」
不満げな木こりの青年の顔を思い出し、ヒイラギは唇を噛む。
時期が悪かった――悪過ぎた。
保存肉が尽きたこの時期に、狩猟を禁じられた若者たちが大人しく従うはずもなかった。「精霊様の供物」のためか、肉を家族に食べさせるためか。いずれにしても彼らは最悪の選択をしてしまった。活発化した翼竜が跋扈する大森林に足を踏み入れたのだ。常日頃と同じく、大きな危険はないと思い込んだまま。
もっと強く言い含めるべきだった。
村長や巫女である自分が言えば必ず従うと思ってしまった。まだ確信が持てないからと、翼竜の存在を伏せてしまったのも詰めが甘かった。脅すくらいのことはすべきだった。後悔しきれない。
「村長、巫女様……! 森に入る許しをくれ……!」
「こんな夜更けまで戻らねえのは変だ! 息子たちを探しに行かせてくれ!」
一部の村民たちが救助を叫ぶが、返す言葉は見付からなかった。ヒイラギは口元を押さえて考え込む。こんな場面に立ち会ったことはなく、判断がつかない。
ただ、村民による救助は自殺行為だ。これだけは分かっている。戦い慣れているマリア達でさえ夜の狩りを避けたのだ。何の力もない村民が今の大森林に入るとどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。
「森に入ったのは射手衆ね? いつ出発したか分かる?」
「あ、朝でございます。おそらく奥地の狩猟場まで行ったのかと……」
「……よりによって奥地に……」
しかし、狩猟場までの距離を考慮したとしても、日没までに戻らないとは考えにくい。デナン達は無事ではないだろう。取れる手は少ない。
声を張らなければならない場面だ。根暗な性分がどうのと言ってはいられない。ヒイラギは意を決して口を開く。
「村長、皆を家に戻しなさい。森には私が行きます」
「巫女様が!? 危険でございます!」
「いいえ。私ひとりなら大概のことはどうとでもできるわ。むしろ人を伴っても邪魔にしかなりません。ひとりで全員を連れ帰るのは難しいかもしれませんが、少なくとも彼らを見つけることだけはできるでしょう。いまはそれで納得してもらいます」
毅然と言い切る精霊の巫女に、村民たちは静まり返った。
ヒイラギには二年で築き上げた実績がある。幾たびかの失敗と、数倍する成功と恩恵をオイディスに齎した本物の巫女だった。
だから彼女の意向に否やが無い、わけではない。二年を経ても白く細いままのこの少女に、肉体的な頑健さが求むべくもないことは誰の目にも明らかだ。特別なのは精霊の巫であるという点だけであり、それ故に少女は稀人として扱われている。危険に放り込んでよい存在では決して無い。
オイディスの民は理解しているのだ。この巫女の存在は、まず間違いなく、若者たちの命より重いのだと。
そして、ヒイラギもそれらを自覚している。だからこそ強く言い切る必要があった。村民に有無を言わせないために。
結果として訪れた沈黙は意図どおりだった。
村の長たる老人も期待どおりの言葉を放った。どうとでもできるという巫女の言葉を、正しく理解している唯一の人間であるがゆえに。
「……皆、家に戻るんだ。いまは巫女様にお任せしよう」
諦念の滲む声だった。
そう言わざるを得ない形に運んだ当人であるヒイラギも、僅かに心が痛んだ。まっとうな人格を有するのであれば。可能なら村の問題を小娘ひとりに任せたりはしたくないはずで、その思いを無碍にすることに申し訳なさはある。
それでも、いま優先されるべきは人としての良識ではなく、一刻も早い事態の収拾だった。
黙礼をして広場を後にするヒイラギに、村民からの声掛けはない。
有難かった。
もし何か言われたとして、適切に応対できる自信がなかった。ただでさえ、テキストデータを失ったことで精神的な余裕がなかったのだ。様々な意味で、のんびりと構えてはいられない。
支度らしい支度もせず、身一つと蓮の杖だけを携えて森へと歩みを進める。その途上、見知った顔ぶれの一団があぜ道を塞いでいた。
「その役割は損、ではないのですか」
一団の中心に立つ少女、マリアは好意とも呆れともとれる顔で言った。
意趣返しか。ヒイラギは苦笑する。
「そうね……得をするように見えるのなら、もう少し世の中を知った方がいいでしょうね。尊敬だの立場だのは便利な道具ではあるけれど、体を張ってまでしがみつくほどの価値はないもの」
「ではなぜ行くと?」
「……そのほうがヒロイックでしょう?」
首をかしげて陰気に笑って見せると、マリアの後ろに控えていたカレルとフェデリカが肩をすくめた。
「やれやれ、アリエッタ嬢は素直じゃないらしい」
「わっはっは。そこが我が友の可愛らしいところデス。けっこう表情に出るので分かりやすいですけどネ」
顔面偏差値の高い集団である。ふざけ半分の芝居がかった仕草さえ絵になった。謎の存在に選ばれてこの世界にやってきた顔ぶれであるはずだったが、もしかすると選定基準に容姿が含まれていたのでは――などと、馬鹿げた考えがヒイラギの脳裏に過ぎる。自分が含まれている時点でそれはないか、とすぐに思い直し、小さく溜息を吐いた。
「……で、まさか私を止めに来たわけではないわよね。言っておくけれど、あなたたちがどれだけ強くても無理よ。諦めなさい」
大口ではない。
魔力や魔法。得体の知れない神秘。マリア一行はたしかに戦うことに慣れている。長けている。
しかし、それらの要素を踏まえた上でも、ヒイラギは彼女らを無視して自分の意を通すことはできるだろうと分析する。単なる事実として。
生物であるかぎり、生きとし生けるものの天敵であるヒイラギの脅威にはなりえない。
しかしマリアは微笑み、頭を振った。
「ええ、まさかです。どうも予定外の状況ですが、私たちもお手伝いしますよ」
予想外の反応だった。
ヒイラギは目をぱちぱちと瞬かせる。
「え……いいの? これはオイディスの問題だし……夜の行動は危険なのではなかったかしら」
「そりゃーアブナイですけど、人助けを躊躇うほどではないデショウ。アナタも自信があるようですガ、無償の奉仕歴ならワタシたちも負けてはいないのデス」
「そもそも、あの森はひとりで探索するには広過ぎるだろう。非合理的だ。アリエッタ嬢だけ行かせられるわけがない」
フェデリカもカレルも乗り気であるらしく、能力的にも申し分ない彼女たちが言うのであれば拒否する理由もない。言葉は交わさずともハオとレーシャも頷くばかりで、五人の総意なのだろうと読み取れる。
「……」
しかし、どうにも背中がむず痒い。
思い返せば、危険を顧みず協力を申し出てきた人間の心当たりがない。オイディスの民はヒイラギの庇護対象であり、遠ざかったあの日の少年はヒイラギの庇護者だった。協力者とは言い難い。
まだ友人には満たない。仲間と表現するにも距離がある。どこか、未来とやらに誘導されているようで歯痒くもあった。
素直に人を頼るというのは、こんなにも難しいものだったのか。
「……好きにして頂戴。手伝ってくれるなら歓迎するわ」
ヒイラギがやっとのことで絞り出すや否や、フェデリカの腕が首に巻き付いた。そのまま肩を抱かれて引き寄せられる。距離の縮め方が拙速すぎる。唐突な人肌の温度に目を白黒させるヒイラギに、顔と顔が触れそうな位置に居るフェデリカは笑顔で言った。
「わはは! まっかせてくだサイ! 森での狩りも慣れましたしネ!」
「お狩りじゃなくて人探しだぞ、トルナブオーニ。話を聞いていなかったのか」
「馬鹿め! 似たようなものデス!」
「この脳筋が……まったく違うだろう。見通しが悪いうえ対象範囲も広そうだ。捜索をするにも手分けした方がいい。勿論、戦力の偏りが出ないようにだが……」
整然と大まかな方針を打ち出したカレルはマリアに視線を送る。
僅かに考えるような仕草をしてから、彼女は言った。
「三手に分かれる程度が妥当でしょうね。ですが、翼竜が人を襲うまでに活性化しているのであれば、村を完全に空けてしまうのも心配です。私かフェデリカが後詰めを兼ねてオイディスに残るのが良さそうです」
完全に単独行動としないのは、攻撃的な能力を持たない様子のハオやレーシャへの配慮だろうか。それでも、ヒイラギを含めて六人。三手に分かれるとするとやや頼りない印象がある。
「うーん、微妙にもう少し手が欲しいところデスネ……というか、ドコかで油を売ってる誰かさんが居ればイイだけなんですケド」
「まったくだ。ヤツめ、こんな時こそ居ないでどうする……!」
ヤツ。
腕が立つという残りの一名のことだろう。
悪しざまに言われている、というよりは信頼を前提にした苦言のように聞こえる。なんともなしに興味が首をもたげ、思わず声にしてしまった。
「……どういう人なの?」
問いかけに反応したフェデリカとカレルが視線を交わす。そして、微妙な面持ちでなかなか評を口にしない。言葉を選んでいるのか形容が難しいのか、いずれにしても、きっと癖のある人物なのだろう――
「来る」
不意に、耳慣れない声が耳に届いた。囁き声のような声量。思惟を切って振り返って見れば、レーシャが大森林を指差していた。
月明りのない夜、闇に溶け込むように黒々としている森の木々の影。木々の葉が揺れ囁く音に紛れるように、ほんの微かな別の音が混じっている。
冷たく張り詰めた空気を小さく震わせるその音は、断続的に鳴りながらも徐々に強まっていた。
それは樹が次々に薙ぎ倒される音だ。地を抉るように踏み鳴らす音だ。
速まった拍動のように響き、迫り来る音だ。
「この音……翼竜?」
「……いえ、この魔力は……まさか……!」
マリアが、彼女にしては固い声で言い淀む。
ヒイラギには魔力を感じとる術がない。しかし、音と共に近付いてくる何者かから放散されている不可視の圧力は、肌で感じ取っていた。
もしそれが気配なのだとしたら、その主は、あの翼竜でさえまったく比較にならないほど強大な存在であると確信させられるものだった。
「――――叡智圏」
不思議な囁き声と共に、レーシャの瞳に淡い光が点る。
いつの間にか生じた白い意匠の片眼鏡越しに森を見据え、彼女はやはり囁くような声で告げた。
「竜種。陪神級、個体名――――オルサンディク」
途端。
笑みを消したフェデリカの手に白のグローブが生じ、
マリアとカレルが同時に鞘から剣を引き抜く鋭い音が響いた。
明らかに空気が変わっていた。
マリア達は一様に険しい表情に変じている。
しかし何故。戸惑うヒイラギの疑問に答える声はない。
「二十秒後に接敵します! ハオ、レーシャとヒイラギさんを守って! フェデリカが前衛! カレルはフェデリカのサポートを!」
「クソがッ! いきなり陪神級だと!? どうなっているんだこの森は!」
「あは、今日死ぬかもデスネー……!」
「……」
遅れながらヒイラギも状況を咀嚼する。
竜種。つまり翼竜の上位種族が、今まさに現れようとしている。
そして、それがどれだけ深刻な事態なのかは、マリア達の様子からも分かる。翼竜相手にあれだけ猛威を振るっていたフェデリカさえ死を覚悟するほどなのだと。
しかし、ヒイラギはかえって冷静さを取り戻していた。
彼女にとって死は恐怖の対象ではなく、
自らに付き従う従僕にすぎないからだ。
故にヒイラギ自身は勿論、
森に足を踏み入れたオイディスの若者たちも、マリア達も。
最悪、一人残らず皆死んでしまったとしても、本当は問題がない。何もない。
蘇らせればいいだけなのだから。
いくらでも取り返しの利くものでしかない。
だから焦る必要はどこにもない。
トーンを上げていく轟音に緊張を高める一行を横目に、のんびりと蓮の白杖を持ち上げ、森に満ちる闇に向ける。
何度かの実験を除いて、神秘で生物の命を奪ったことはなかった。
竜種とやらに自分の神秘が通じるかどうかを検証しておく機会だと思えば、必ずしも悪い巡り会わせとは言い切れない。被害が出るのだとして、それらの痛みや苦しみが一瞬であれば良いとは思うものの、許容範囲というものだ――
いや、そうだろうか。
命とは、それほど軽いものだっただろうか。
「……私、何を考えてた……?」
呆然としたヒイラギの呟きは、大きな音にかき消された。
夜の静寂を切り裂くように竜の鳴き声が響き渡る。その低く重い叫びは、あたかも大地そのものが震えているかのようでは、確かにあったのかもしれない。
しかし、ヒイラギが遂に目にした竜種の、その脅威と威容を窺わせる点はそれだけだったのだ。
巨大な竜の体は木々の切れ間から現れるや、前のめりに突っ伏すようにして地面に倒れ込んだ。凄まじい地響きが過ぎった後、何事も無かったかのように夜の静寂が戻ってくる。
「……」
まだ誰も何もしていない。
ヒイラギが神秘を使うまでもなく、
マリア達が戦うまでもなく、巨竜は事切れていた。
最初から竜は何者かに追われていたのだと、
やはり遅まきに気付き、ヒイラギは顔を上げる。
そして見た。死した竜の頭から白剣の刃を引き抜き、血振るいをしてから鞘に収め、気だるげに首を回す少年の後ろ姿を。
戦いの直後だろうというのに高揚や興奮の様子は見受けられない。彼は薄汚れた旅装の袖を鬱陶しそうに捲り、頭を掻いた。それらはひどく緩慢な動作で、ぼさぼさの黒髪が揺れるのみだ。頭が痒いというより癖なのだと察せられる。
彼のそんな何気ない仕草から、その背格好から、ヒイラギは視線を逸らすことができない。
「アキト! おまえ、いままでどこをほっつき歩いてたんだ!」
カレルの怒声に心臓が跳ねた。
半ばまでの推測が、夜闇の向こうで振り返った少年の容貌によって確信に変わる。整ってはいるものの、どこかぼんやりとした面差し。精悍さとは無縁ながら、細く引き締まった体躯。ヒイラギは彼を知っている。
少しも申し訳なさを感じさせない、青筋の立った笑みを浮かべて長剣を担ぐその少年は、怒声に負けない声量で返した。
「うるっせえぞ、カレル! 見りゃ分かんだろうが! 大物狙いだ!」
「この無鉄砲野郎! スタンドプレーはやめろって何度言わせるんだ!?」
「ガリ勉が! こういうのは頭を狙うのが一番手っ取り早えんだよ!」
「はあ!? 将を射んと欲すればまず馬を射よって教訓を知らねえのか!?」
「ハッ! 知らねえなぁ!」
「なっ……おまえの国の言葉だろうが!?」
あまりにもくだらないやり取りだ。場の緊張感は見事に散ってしまった。
たしかに顔も声も記憶の中の彼と同じ。しかし、まるで子供のようにカレルと言い合う様は、ヒイラギの知る彼の大人びた印象と重ならない。ヒイラギの存在に気付いてもいない。
分かっていたことだったので落胆や失望はない。何を差し引いても、まずは安堵が勝つ。こちらから話しかけるべきか否か、ヒイラギが迷っているうちに意外な声が間に挟まった。
「否定。それはハオの国に由来する慣用句。カレルが間違っている。アキトは悪くない」
レーシャだ。無表情のまま淡々と喋っている。
彼女に対人コミュニケーション能力が備わっていたことにヒイラギは驚いた。必要なとき以外は喋らないのではなかったのか。
思わず、当事者たちに聞こえない程度の小声で口を挟んでしまう。
「……というか、日本でも普通に使う言い回しだから知っていてもおかしくないし、しらばっくれてるだけだと思うのだけれど」
もしくはシンプルに教養が足りていないかだが、単なる悪口になってしまうのでそこまでは口にしない。彼とは「初対面」なのだ。
「うーん、レーシャはアキト贔屓だから……」
「そういう問題なのかしら……」
マリアは困り顔だった。それならカレルに肩入れしてやればいいのに、と思わないでもないヒイラギだったが、当のマリアはギャイギャイと騒ぐ三人を見守るばかりで介入する様子はない。ハオは我関せずといった風で事切れた竜を調べているし、フェデリカは、
「王を倒せばチェスは終わる、とも言いますネ。まー戦術なんてケースバイケースなので、どっちにしても言葉遊びですケド」
という、まったくもってごもっともな結論を述べながら白いグローブを脱いでいる。まとめる気はないらしい。
全員、歳の割に聡いのは確かだが歳相応の面も色濃い。何らか例外でありそうなマリアも思ったほどの主体性を見せないので、ヒイラギは深いため息を吐く羽目になった。いつまでも時間を食ってはいられない。
「……あの、そろそろいいかしら」
「ん?」
強めに声をかけると、ようやく彼はヒイラギに気付いたらしい。向きを変え、声を張らなくとも支障がない距離まで歩み寄ってきた。
「ここいらでスカウト予定だった新顔でいいんだよな。気付かなくて悪い」
「……いいえ。はじめましてね、タカナシさん。アリエッタよ」
「アリエッタ?」
彼は眉をひそめ、「日系イタリア人なのか?」とでも言いたげな面持ちでヒイラギの顔を眺めた。日本人以外の何物でもない容姿のせいだろう。
「……本名はシラセヒイラギ。日本人」
「ああ、やっぱ同郷だよな。なんだってそんな名前を名乗ってるんだ」
「発音の関係よ。外国の人には言いにくいでしょ、ヒイラギって」
日本語で補足をすると、彼はきょとんとした顔になった。
それからすぐに破顔する。
「なるほど、ヒューラギとかフィラギになりそうだ」
「……そうね」
「ま、同じ日本人ってのもなんかの縁だな。俺はタカナシアキトだ。こんなことになってお互い大変だが、よろしくな、アリエッタ」
彼は――――アキトはさらりと挨拶してから、ヒイラギから視線を外して離れていった。
実にあっさりした態度だ。人から殊更に興味を持たれるような人間ではない自覚はあるものの、なんとなく寂しいような悲しいような気持ちがある。
ばかばかしい。
二年で出会えただけでも出来過ぎているくらいなのに、まさか運命じみた出会いがあるとでも思っていたのか。ヒイラギは雑念を払うかのように頭を振り、剣の少年の背を見送る。
真っ直ぐにマリアの方へ歩いていく彼を目で追い、ヒイラギは気付いた。
「……?」
マリアが瞬きを忘れたかのように目を見開いたまま、こちらを見ていた。
なにか決定的な事実に気付き、口元に浮かんだ困惑の色の隠すこともできず、ヒイラギをただ見つめていたかのような様子だった。ヒイラギの視線にも気付かないほどに。
心当たりはない。アキトとは当たり障りのない挨拶を交わしただけで、彼女が反応を見せるようなやり取りはなかったはずだった。
かといって、簡単な言葉を交わしただけでこちらに何かしらの感情を抱くほど彼女がアキトに執着しているという可能性はないように思える。そもそも、あの美しくも非人間的な側面を隠し持つ妖精のような少女が、誰であれ、ただの人間に恋をするという場面がうまく想像できそうにない。
だから、そう。
そんな光景はおそらく、長く、瞼の裏に焼き付くのだろうと予感した。
「マリア」
名前を呼ばれた少女がはっと我に返り、顔を彼に向けた。
ほんのりと上がる唇の端と、瞳に広がる優しい光。静かな湖面に映る月の光のように穏やかで、澄んだ湖のように透明で純粋な微笑。
それより美しく眩しいものを、白瀬柊は知らない。それより運命と呼ぶにふさわしいものを、白瀬柊は知らない。
視線を重ねるふたりと、彼らの間にある絆をなんと呼ぶのかを、白瀬柊は知らなかった。
もしも知らないままでいられたなら。
気付かないでいられるほど愚鈍であったなら。
ばかばかしい勘違いをしたまま、友情と愛情を履き違えたまま、いまや形を失ってしまったテキストデータだけをよすがに、この先の長い時間の果てを、ありもしない未来を期待したのかもしれない。
「……ああ……そういうこと、ね」
しかし、そうはならなかった。
白瀬柊は多くの物語を知り、多くの物語を想像できる程度の思慮を持っていた。最初から自分が挟まる余地などないのだと理解できてしまった。
蓮の杖を握り締め、ヒイラギはふたりから視線を引き剥がして踵を返す。きっとこの先に必要ない、二年の間持ち続けていた微かな恋慕は、この夜に置いていくことにした。
まだ始まりもしていないのに、諦めがついてしまった。
だって、あんなにも綺麗なのだ。
触れるべきではないし、そうでなければ嘘なのだと。
そうして、ヒイラギは歩き出す。
元の世界から持ち込んだデバイスを失い、出会うべき者達と出会ったいま、オイディスの巫女として最後の仕事になるだろう、若者たちの捜索へと。
その先に待つだろう、千年の旅路へと。




