03.オイディスの巫女③
病によって学生身分を途中で失った白瀬柊は、義務教育未満の英語力しか持っていなかった。よって、マリアと名乗る少女がペラペラと並べた自己紹介も、ヒイラギは三割程度しか理解できなかった。
が、それらが英語であることくらいは聞き取れていたし、わざとらしいタイミングで突如として現れた金髪碧眼の美少女がまっとうな人類ではないことくらい察せられる程度には非常識に巻き込まれ過ぎている。
そもそも「マリア」である。
元の世界の一地域。欧州系の女性名に由来しているのは明らかで、どう考えても外殻大地の人間の名前ではない。
つまりヒイラギの同業者であるか、もしくは世界間の差異などを無視できるような――例えばあの、形状の曖昧な神らしき何者かに類する者であるかのどちらかしかない。
そして、いずれにあっても怪しい。
安易に信用するべき人物ではないと理性が警鐘を鳴らしている。
だというのに、ヒイラギの住まう邸宅に招かれたマリアという少女は、外殻大地の言葉でのんびりと語った。
「早々にヒイラギさんに会えてよかったです。この大陸は人類種の勢力圏が限られていますから、人探しというのもなかなか難しくて」
「……その口ぶりだと別の大陸から来たように聞こえるけれど」
「そのとおりです。この世界には東西に主要な大陸があります。交流が絶えて久しいのでそれぞれを指す語は無いんですけど、私たちはシンプルに東大陸と西大陸と呼んでいます。この地は西大陸。私たちは東大陸から来ました」
「……」
大森林とオイディス周辺以外の地理情報に触れるのは初めてだった。
本人が怪しくとも無視できる情報ではない。驚きを顔に出さないよう注意しながら情報を記憶に刻み、ヒイラギは訊ねた。
「わざわざ……海を越えてこの村に?」
「ええ。いま私たちは仲間を集める旅の最中で……ああ、えっと。仲間というのは私たちと同じように別の世界からこちらに連れて来られた人たちのことなんですけど、私たちの目的のためには皆で力を合わせる必要がありまして。それで、世界中を回っているところなんです」
「……ふぅん」
表裏なく聞こえる率直な説明に、曖昧な相槌を打つ。人間というよりはエルフかなにかだと言われた方が頷けるマリアの顔を観察してみても、嘘を言っているようには見えない。
しかし、嘘でなくともすべては話していない。説明が抽象的なのは口下手だからではなく、そう装っているのではないか。疑念は尽きない。
少し切り込んでみることにした。最終的な落としどころは話しながら検討するとして、ヒイラギはとりあえずの口火を切る。
「いくつか聞きたいのだけれど……まず、あなたの言う目的って何?」
「現状この世界を支配する種族、バルキィスの打倒です」
バルキィス。
一言目から未知の言葉が返り、ヒイラギは自分のこめかみに指で触れた。マリアがどういう立ち位置の人間なのか分からないうちから会話の主導権を取られるわけにはいかず、己の無知を喧伝するのも良い手ではない。彼女の素性がなんとなく想像できているにしても、だ。
「……従僕ではなく?」
「よくご存じですね。でも、従僕はバルキィスのしもべというか……使い魔のような生き物なので、どれだけ殺しても数を減らすことはできないんです。すぐに補充されてしまいますから」
ご存じなどない。
ヒイラギ自身は従僕の実物を一目見たことすら無い。マリアの口ぶりから想像を補完するのがやっとだった。しかし、生き物を補充とは。バルキィスという語が指す者は従僕を繁殖させる、もしくは野生のものを捕らえて飼い慣らしている、ということだろうか。
だとすると、村の長が語った「偉大なる種族」と「バルキィス」が同義になるのだろうと見当がついた。当然、未来で語られた「竜種」ともイコールであるのだろうと。
「……なるほどね」
「はい?」
「納得しただけよ……従僕が牧羊犬のようなものだとしたら、その飼い主である竜種を叩こうって方針が正解なのでしょうね」
ヒイラギはさも知っていた風に喋りつつ、少し驚いてみせたようなマリアの顔色を深く観察した。
何に驚いているのかは分からないまでも、意外に思っているのは本当のように見えた。外殻大地の情報に通じているのはマリアの方で間違いないものの、ヒイラギの受け答えが彼女の想定と違っている、といったところか。
大きな違和感のある態度ではない。
竜種を倒す。つまり、外殻大地の人類に対する脅威を取り除く。その長期目的が同じだと主張している相手と協力しない理由にはならない。
どの程度手を結ぶにせよ、使えるものを使わずに後悔する。これほど愚かなことはないだろう。
それもやはり、この世界の厳しい環境で学んだことのひとつだった。
「……それで、竜種を打倒するというけれど……具体的にどう倒すのか聞かせてくれる? もしそれが現実的な話なら、私としても協力はやぶさかではないのだけれど」
あくまでも友好的に。
客観的には少々不機嫌であったり、威圧的に見える態度でヒイラギは訊ねる。
対するマリアは微笑を浮かべて断言した。
「根絶やしにします」
ヒイラギは耳を疑った。
「見つけ次第、目に付く端から戦って駆逐します。万が一にも再起が叶わないよう、徹底的に、迅速に鏖殺する。そうすべきです」
聞き間違いではなかった。
まるで妖精のような美少女が、生物種を一種、皆殺しにすると言い切る。
異常な有り様と言わざるを得なかった。
だが、やりかねない。この娘はやるのだろうとヒイラギを納得させるような、何か、異様な迫力が目の前の少女にはあった。
「……方法を聞いたつもりなのだけれど」
「方法の話ですよ。力を合わせて片端から殺す。奇妙に聞こえるでしょうけどそれ以外に方法も方針もないですし、検討する意味もありません」
それは、倒すとは言わない。
皆殺しにすると言うのだ。
この娘は頭がおかしい。
彼女がどれだけ前に外殻大地へ訪れたかは知れなかったが、余程の目に遭ったに違いない。でなければ、これほど極端な感覚を持つことはできないだろう。ヒイラギはそう思った。
「無茶苦茶を言うわね……私たちと同じ境遇の何人かが集まっただけで実現可能な話だとは思えないのだけれど」
「いえ、全員が集まれば事足ります。ご存知のように私たちには相応の能力が備わっていますから。あなたにも、私にも」
「……」
やはり神秘を知っている。
ヒイラギは僅かな動揺を顔に出さないよう努める。同じ立場だというマリアが、自分と同じ「特権」を有している可能性は当然あるものだと考えてはいた。しかし、実際にそうなのだとすると色々な認識を改めなければならなかった。
少なくともヒイラギの持つ「死の操作」は、ただそれだけで絶大な影響力を有する異能である。
生死に直結する形態だけではない。オイディス村で実践しているように応用の幅も広い。検討だけをした食肉の増産も一例だったが、種を即座に芽吹かせたり、傷病を消すこともヒイラギには造作もない。
まさに奇跡だ。
少なくとも、齎す結果だけを見れば。
この力は劇薬に過ぎる。
だというのに、これと同等の特権を持った人間が複数人居る。
その真の意味をヒイラギは理解している。
もし本当にそうなら、竜種を絶滅させるというマリアの主張もきっと絵空事ではなくなる。むしろ本当にその程度で済むかどうかに言い知れない不安があるほどだった。
テキストに書かれている竜種との戦いですらヒイラギに想像できる範囲を超えているのだ。小さな村で、苦労はあっても荒事のない二年を過ごしたヒイラギにはこの先の知見がない。
「一緒に来てください、ヒイラギさん。私たちは運命共同体です。バルキィスの跳梁を許したままでは、いずれ異邦人である私たちの生存にも差し障るでしょう。その前に、皆で協力してバルキィスを駆逐します。どうかあなたの力を貸してください」
「……」
微かな違和感に気付き、ヒイラギは語るマリアの整い過ぎる顔を見た。
嘘がある。
少なくとも今の言葉にはどこか嘘がある。性質として嘘に過敏なヒイラギには、並べられた言葉に混じる欺瞞に反応することができる。即座の言語化までは難しくとも。
しかしマリアの面差しに悪意や害意は見つけられず、理屈も一聞して矛盾を見つけられるものではなかった。
そして仲間とまではいかなくとも協力者が必要だと考えてもいた。そして自分と協力関係が成立し得るのは、マリアのような自分と同じ立場の人間だけだ。
「検討の余地はある……かもね」
「それは何よりです」
「……前向きに、とは言っていないけれど」
「いえいえ。きっと受けてくれますよ、ヒイラギさんは」
マリアは微笑のままで言った。
これも単なる楽観ではないとヒイラギは読む。彼女のそれは場当たり的な喋り方ではなかった。おそらくマリアの中で、この会話の着地点は既に決まっている。
「この近隣には七つの集落が存在します。ひとまずはこの一帯を統括しているバルキィスを排除し、集落をすべて解放します」
「七つの集落……? まずそこから初耳なのだけれど、すべての集落が影響下にあると?」
「ええ、大なり小なり。今のこの世界はどこも似たような状況です。バルキィスの管理下にあって孤立してしまっている。長く、互いの存在にすら気付けないほどにです。嘆かわしいことだと思いませんか」
「……思うけれど、だからあなたに協力しなければならない、とはならないでしょう。その問題を世界の尺度にまで拡大して考える理由が私にはないから。少なくとも、今は」
「今は?」
「……」
じきにそうなる。
竜種との戦いを通し、ヒイラギは「仲間たちと共に世界を救うことになる」。未来を知っている高梨明人がテキストでそう言い切っていた。人数はヒイラギを含めて九人。そこにこのマリアという少女が入っているのかまでは、ヒイラギには分からない。否も応もそれ次第だ。
理想を言えば、最初に協力関係を築きたいのは高梨明人である。いつか彼と巡り会うことが確実なのだとして、彼が信頼できるという面でも、未来の保証という面でも、まずは彼と合流するのが最上の展開だと考えていた。
マリアと手を組むことが正解か否かもそれにかかる。彼女と組むことで高梨明人と合流できるならいい。しかしもし両者がまったく無関係ならば、良くて時間の無駄か、悪ければ致命的な選択ミスになりかねない――
「いえ……フラットに考える必要がある、か」
高梨明人がヒイラギに行った助言、干渉は「本来は起き得なかったこと」だったとヒイラギは考察している。望ましくない未来が待ち受けていたことで彼が決断せざるをえなかった「過去の改変」だったのだと。
改変前のヒイラギは何も知らないまま外殻大地に召喚され、何も知らないまま事態に巻き込まれていったはずだった。その結果として高梨明人と出会い、竜種と戦うことになるのだ。
ならば、未来を何も知らないという仮定の上で自身が選びそうな選択肢が改変前の自身の足跡とイコールになる。その足跡こそが高梨明人に繋がっているはずだ――
ええい、ややこしい。
ヒイラギは眉間を揉み、溜息交じりに結論を述べた。
「……集落の解放はいいとしても、それ以外の件については保留よ。あなたのことは知らないし、あなたが本当のことを言っている保証もない。手を結ぶにしては尚早すぎる」
「それはまあ……そうですね?」
「だいいち、お互いがどれだけ役に立つかも分からない以上、お互いにリスキーだと思うのだけれど」
「あー……えっと、能力の優劣は関係無いですよ。私たちは共通の問題に直面しています。まず助け合うのは当たり前のことではないでしょうか」
「……冗談でしょ。そんな気高い精神が現代人にあるとでも?」
「ないんですか?」
「……」
純粋な疑問の眼差しに、ヒイラギは思わず嘆息した。
これは、
お人好し、では片付けられない。
なにか大きな前提が異なっている反応だった。
「……さあ。よく考えてみたら、私は普通の現代人をしていなかったから……得意げに語れることでもなかったわね。でも……仮にあったとしても、ただ同郷だってだけで無関係の世界をどうこうするのに協力するほどではない……はず」
「えぇ? あの、見合うも何もそもそも……巡り巡って自分のためにもなる……というか……」
マリアは曖昧に苦笑し、何事かを言いかけた。
先んじたのはヒイラギだった。
「静観していたら身の破滅が待っている、のでしょう? そうね。それも分かっていて静観するのよ。その役割は損だから」
「……?」
「そういうものだわ。あなたには変に聞こえるでしょうけれど」
元の世界の人間から「勇者」は生まれない。
なぜなら、自身の利益を至上原理としているからだ。
入院生活の慰みとして物語にばかり触れてきたヒイラギはそう考えている。物語における最大の嘘。命のやり取りや、それと同等の重みを持つ行動に一般的な文明人は対応できないし、しない。よほど自身が窮さなければ有り得ない。たとえ勇気ある選択と行動が自身に可能であり、どれだけ輝かしく論理的にも道徳的にも正しい行いだとしても、危険で損な役回りであるというだけで実践はされ得ない。
損だからだ。
ましてや「だれか」がやるなら、なおのこと不干渉でいいと考える。各人が当事者である意識などないだろう。それが集団や社会を手に入れた文明人の基本的な行動原理だ。
だから文明人から「勇者」は生まれない。仮に生まれ得るとしても、それは誰か与えられるか強いられる役割なのであって、自ら選ぶ道ではない。
白瀬柊は知っている。
あの狭く閉じた終末期病棟の中でさえ、人はそうあった。
或いは。
そうでなければ、近代文明人としては道を踏み外しているのではないか。
あの高梨明人のように。
「勇者」を実践している、このマリアと名乗る少女も。
彼女は苦笑した。
「……まあ、断られるよりはいいですね。ひとまずは共同戦線ということでよろしくお願いします」
「オイディスの周りだけよ。それ以上は確約できない」
「十分です」
差し出された手をのんびり握り返しながら、ヒイラギはマリアの顔をあらためて眺めた。造形に目が慣れ、直視が叶ったところでじっくり観察してみれば、喜色がいくらか見て取れる。全面協力の同意はとれなかったものの、言葉通りの妥協点として一旦の協力を喜んでいるように見えた。
しかし、そこにも嘘があるはずだとヒイラギは訝る。でなければ「戦う」という手段を選択して笑みを浮かべるなどと、同郷の人間がそんな剣呑な有り様であるはずがない。
この娘の本心はどこにあるのか―
「ねえ、元の世界での身の上を聞いてもいい?」
「……あぁ、気になりますか?」
「私の常識からすると、あなたの言動は突飛すぎるから。たんなる……純粋な興味もあるけれど」
「なるほど、日本は基底……ああいえ、世界的に見ても治安が良い国とされていますものね。私の言葉は過激に聞こえるかもしれませんね」
「とても、ね。同じ時代に生きていた人とは思えない」
「……生きていた、ですか。その口ぶりだと私や自分が何なのかをうっすら察しているように聞こえます」
この場で顔を突き合わせているのは、
神の都合で異常事態に巻き込まれた哀れな被害者たち、ではない。
「まぁ……そこは重要じゃないでしょう。はぐらかしてる?」
「ええ、はい。納得が必要ですか?」
「運命共同体、なのでしょう。あなたがそう言ったのだから」
「……そうでしたね」
困ったように微笑むマリアは、数秒の間ヒイラギの目を見つめた。
測るような視線をヒイラギは黙って受け流す。探っているのはお互い様で、彼女が単なる嘘つきの博愛主義者でないのはむしろ良い傾向であると言えた。
この過酷な世界で曲がりなりにも組む以上は、夢想と口先だけの、ただの少女では困る。裏が無ければ困るのだ。
無言の念押しが効いたのか、マリアは嘘くさい微笑みのままで言った。
「私は……平和な国の出ではありませんので、あなたに聞かせられるような話はできそうにないかもです。こんなものをぶら下げても、別に違和感がないくらいには殺生に馴染んでいます。聞きたいですか、それでも」
こんなもの。
マリアは手近な椅子に立てかけてある彼女の得物に手を置いていた。
大ぶりの青い西洋剣。ヒイラギの目には馴染みのないそれは、真新しさとは程遠い、実用品として歳月を経た風格を備えている。
剣。用途はひとつしかない。元の世界で出会った少年の顔を思い浮かべながら、ヒイラギは首を縦に振った。
「ええ。聞かなければならない、とは思ってる。踏み込み過ぎているとも思うけれど、必要だから」
「……そうですか」
頷き、マリアは。
ヒイラギの目の前に座る少女は作り笑いを消した。
その変貌は、ヒイラギの直感していたものよりも落差が大きかった。
腹の黒さを晒したのなら、まだ良かったとヒイラギは思う。もし性格や頭が悪いというだけなら、いくらでもあしらう手だてがあった。
しかし、マリアの。
彼女の纏った空気は、ヒイラギの知る年相応の少女達のそれとは、明らかに断絶していた。
「戦争をしていました」
目鼻も、口元も、すべての意味を失ったかのように無機質だった。
それはヒイラギの目にはガラス細工のように映った。
「もしも血の繋がりを無条件に家族と呼ぶのなら、家族とも殺し合いをするような内戦でした。私には多くの兄姉が居ましたが、戦後は結局ひとりも残らなかった。死にましたし、殺しました。そういう戦争をしていました」
「……」
戦争。ヒイラギには縁遠い言葉で、元の世界でも液晶の中でしか目にしない単語だった。こんな話は予想の範疇にない。
辛うじて問う。
「それは……正当防衛とかではなく?」
「……さあ。何を以て正当とするかは疑問です。仮に司法が機能していたとしても肯定されるべきだったと私は思いません。もし罪の無い者が居るとすれば、あの戦いで死んだ者たちだけだったのでしょう」
つまり、己が殺人者であると吐露しているのだ。
誰に言い訳するわけでもなく。
「……」
恐ろしさはない。
不死者となったヒイラギにとって死は軽くなった。かつて恐れたその隣人は、今となっては敵ではなくただの下僕だった。
死はとっくに恐怖の対象ではなくなった。もう恐ろしさはない。
しかし、それはヒイラギだけの、ある種の超越者のみが持つ価値観であると、今の彼女はまだ覚えている。
「……ごめんなさい」
かけるべき言葉は他になかった。
しかし、ガラス細工が表情を変えることもなかった。マリアは言った。
「いいえ。私はただ、理由があればできる人間だと自己紹介をしただけのつもりです。なにも気に病んではいません。正直に言えば、気に病むほどの実感も残っていないのです」
「どういうこと?」
「記憶が記録になるくらいの時間が過ぎてしまった、ということなのでしょう。人でなしになって、最後に血縁上の父を斬り捨ててからも、私は多くを殺して多くの死を見てきました。だから、彼らは多くのうちのひとつでしかなくなった。怒りも苦しみも多くに希釈されてしまった。要するに、慣れてしまったんです」
「……」
「きっとその意味でだけ、私たちは似ていますね」
そうかもしれない。ヒイラギはマリアの言葉を内心で引き取る。
親族殺しについて気の毒だとは思っても、一大事だとは思えなかった。
むしろ些末であるとさえ思うのだ。
元の世界で幾度も死に瀕し、挙句別世界に流離している現状からすれば、おおよその出来事は些末となるだろう。今はそれどころではないのだ。なるべくしてそれどころではなくなった。
「そして、私たちには理由があるはずです」
オイディス村には恩義がある。情に厚いとは言えないヒイラギも、この村落を見捨てて自分だけが生き残ればよいとは思わない。
なるほど、死の運命を失ったらしい自分が世界を救うのだとすれば、きっと理由はそれくらいだろうと納得もする。
しかし。
「……マリア。あなたの理由は何?」
僅かな共感の先、ヒイラギは彼女が竜種を駆除しようとするのはあやふやな使命感や義憤からではないと予感した。
そこには強い動機があるはずなのだ。
「やっぱり、殺人者だから怪物と戦える……なんて言い分は、結構な飛躍に思えるというか……タガをひとつふたつ外したところで、簡単に踏ん切りがつく次元の話じゃないでしょう」
「つきませんか?」
「……普通はね。まあ、普通って言葉がよく分からなくなってきたのだけれど」
「慎重ですね……いえ、慎重すぎるような……?」
マリアは僅かに瞼を降ろし、その冷めた瞳の奥に、ヒイラギには読み取れない複雑な感情を覗かせた。
「ええ……どうやら、このパターンは記録にないようです。どう見るべきか判断が難しいところですね」
「パターン?」
「寄る辺なくこの世界に来たあなたは、本当なら現時点で唯一の同胞である私の誘いを歓迎したいはずです。オイディスに辿り着き、生活基盤を構築するに至るまでの過程で、あなたはとても疲弊しているはずだから」
「それは……していないはずないでしょう」
「程度の問題です。ヒイラギさんには何か……不思議な余裕がありますね。でなければここまで話を引っ張らないでしょうし……不死に驕っている様子もない……まるで他に頼るアテがあるかのような……」
「……」
高梨明人。
ヒイラギは無言のままだったが、否応なしにあの少年の顔を思い浮かべる。マリアの言うとおり、彼女は唯一の頼りではない。
「……なるほど、ありそうですね。本当に」
「残念かしら?」
「さあ、どうでしょう。むしろ逆かもしれません。これはこれで新しい可能性が拓けるということもあるかもしれない。久しく覚えのないことです」
どうやらマリアの中で決まっていた着地点からこの会話は外れてしまったらしい。よほど計算高い生き方をしてきたのか。或いは、そうせざるを得なかったのか。いずれにせよヒイラギは苦笑する。
未来を知っている、などと。
こんな突拍子のない事実が見透かされるはずもない。
「ひとまず吉兆だと期待することにします。この村の周りでだけ、という合意にもひとまず不満はありませんし。今日のところはそろそろお暇しますね」
席を立つマリアの顔は、すでに作り笑いに戻っていた。
「……泊まる場所はあるの? 泊まっていってもいいのだけれど」
「いえ、私たちは野宿に慣れているのでお構いなく。他に連れもいますから」
「ああ、そう?」
仲間だろうか。話の流れからして別の同胞――元の世界の人間だろう。深入りするかどうかはまだ決めかねている。問うことはせずに曖昧に頷くと、マリアは「ではまた」と会釈をして去っていった。
ヒイラギはマリアの背中を見送りながら、彼女の並べた言葉の裏に隠された真意を探ろうとした。
頭の中には疑問が渦巻いている。彼女の言にはいくつか引っかかるものがあった。が、まだ腹の探り合いをする段階にも至っていない。
「はあ……これはまた、いきなりクセの強いのと知り合っちゃったものね……あれがいまのところ唯一の味方とは……」
「唯一の、ではありまセン」
静かな声が耳に届く。不意を突かれ、ヒイラギはぎょっとして振り返った。
先ほどまでマリアと共に囲んでいた卓の傍に、奇妙ななりをした少女が立っている。
彫りの深い顔だちに浮かぶのは、どこかぼんやりとした表情。ゆるくウェーブのかかったアッシュブラウンの長い髪に、はっきりとした青の瞳が目についた。まず間違いなく見覚えのある人種ではなかったが、マリアともまた違う。
少女の服装は襟の付いた白いブラウスに濃紺のネクタイとベストといった様相で、もしここが元の世界であったなら違和感はなかったかもしれなかった。
しかし、ここは中世にも満たない文明しか持たない世界、外殻大地である。植物由来の繊維から作られた衣服がせいぜいで、白い衣類。ましてやきっちりとした襟付きのブラウスなどというものは、まず手に入らない。この事実ひとつで少女の素性は明らかだったが、ヒイラギは怪訝顔で問うた。
「いったい……いつからそこに?」
「初めからいまシタ」
「……初めから……?」
ヒイラギはマリアとの遭遇まで遡って思い返すが、この少女の存在は記憶のどこにも見付からない。
「ワタシ、なぜか、平素から皆サマになかなか気づいてはもらえないのデス。影が薄いのだと思いマス」
「は、はあ……」
「もしアナタとマリアのやり取りに口を挟めば違ってイタのかもしれませんガ、ワタシはあまり彼女のすることをジャマしたくないので。ひとまず傾聴に徹させていただきまシタ」
訛りがある口調と、奇妙な言葉の切り方で聞き取りにくい。自称「影の薄い」少女はどこかのんびりとした動きでお辞儀をした。
「フェデリカ・トルナブオーニと申しマス。マリアやアナタと境遇を同じくしていマス。どうぞよろしくお願いシマス」
「……え、ええ……そ、そうなのね」
耳慣れない響きの人名に戸惑いながらも、ヒイラギは浅い会釈をする。
「シラセヒイラギよ。まあ……呼びにくいと思うから好きに呼んで頂戴」
「ヌ……? それはアダ名を許されている?」
「あだ名というか、発音しずらいでしょう。外殻大地の言葉を使っておいてなんだけれど、あなたは特に訛りがキツいみたいだし」
「ああー、外殻大地の言葉はあまり共通言語としての発達をしていないノデ、きっとそのせいですヨ。ワタシには、アナタの言葉も大概な発音に聞こえますからネ」
「……なるほど」
各地の交流が皆無に近いのであれば言語の分断も起き得るだろう。ヒイラギはそう思い直してみたものの、マリアの口調に違和感は無かったので謎は残る。
フェデリカはその部分の細かい説明はせず、頷いて微笑を浮かべた。
「ウン。では、アリエッタと呼ばせてください」
「……?」
「そよ風。故郷、美国の言葉デス。日本の新しい友。アナタの気風はそよ風のように好ましい」
元の世界の言葉だ。気恥ずかしくなるような内容をさて置き、ヒイラギはやや遠くなり始めた記憶を探り、文字に偏重した知識から推量をした。
「ええと……イタリアのご出身かしら。合っている?」
「ハイ」
「そう。なんだか奇妙な感覚ね……こんな形で海外の人たちと知り合うなんて」
「物珍しい様子ですネ。日本はまだ鎖国を?」
「……そんなわけがないでしょう。個人的な事情よ。そも物珍しさで言えば今のこの状況の方がよほどなのだし、出身などは些細なことだと思うのだけれど」
「それは違いありまセン」
フェデリカはクスリと笑ってヒイラギの手を取り、握手をした。その態度にはマリアと違って裏表や剣呑な気配がない。無邪気な仲間意識、一抹の安堵。そういったポジティブな感情しか窺えなかった。
よかった。まともだ。
ヒイラギも安堵した。ようやく接触した同輩たちがマリアのような得体の知れない手合いばかりであったなら、手を組むなどと気乗りしないところだった。
「ああ……そういえばフェデリカさん、あなたとマリアさんの他に同行している人はいる?」
「ええ。四人ほどいマス。いまは所用で外していますガ、今夜にでも合流するデショウ」
「別行動なのね。用事の内容を聞いても?」
「荒事デス。可憐なアナタの耳に入れるべきことではナイ」
可憐。
自他共に認める陰鬱な少女であるところのヒイラギは思わず顔をしかめるが、フェデリカは朗らかな表情を浮かべるのみだった。嫌味ではなく本心からの言葉であるらしい。困惑する他ない。
日本人の範疇でも冴えない薄味に分類されるだろう自分の容貌も、欧州の人間からすれば奥ゆかしくポジティブに見えるのかもしれない、などと考えてヒイラギは苦笑する。
それにしても、そよ風とは。
意味はともかく、本名を名乗るよりは発音の通りが良いかもしれない。じきに来るという信用の不確かな同胞たちにひとまずのあだ名を名乗るのも悪くない。マリアとフェデリカには本名を知られてしまっているにせよ、だ。
なにせ、他の四人がどの程度なのか、まだ何も分からないのだから。




