ex.プライマリー・ケース
無限に広がる藍色の星空。幻想的な光景の中、形容し難い黒がある。
水に落とした墨のような、たなびいた人型の影だ。ひどく曖昧なその影を見て、白瀬柊は直前までの記憶を辿る。
なにか乗り物のようなものに乗っていたはずだったが、詳細に思い出すことができない。体の感覚も微かで、今自分が立っている場所が尋常の場所ではないのだということだけを柊は理解する。
躊躇いながら歩を進めてみても、人影までの距離は縮まらない。
前に進んでいるかどうかすらも分からず、柊は眉根を寄せるばかりだった。
そういえば、何か、誰かに託されたのだったか。
漠然と思い出して目的のものを探す。手に持っていた見慣れないバッグに、アルミホイルに包まれたいくつかの機器があった。
板状のそれらが何だったのか、思い出すのは難しかった。思考力が奪われているというわけでもなかったが、検索対象となる情報の母数が多すぎて単純に時間がかかる。そんな奇妙な感覚があった。
タブレット端末とスマートフォン。
苦労して思い出し、電源ボタンを押す。どうしてそうすべきだと思ったのかは、やはりすぐには思い出せない。なにか大事な言伝があったような気だけがした。
しかし、どれだけ待っても電源は入らない。
首を捻っていると人影が言った。
「この領域でそれらの記録媒体は動作しない。この領域では、おまえとの対話を実現する範囲で物質界の法則を限定的に再現している。が、記録媒体の動作までは保証しない」
いかにも不思議存在といった形状をしている人影が喋ったことに柊はいささか驚いたものの、話が通じるなら恐ろしさは感じない。はっきりとは思い出せなかったが、つい先ほどもっと恐ろしい姿をした人間に襲われかけた。比べれば幽霊のようなこの影は、ビジュアルも然程ではない。
すぐに気を取り直して言った。
「保証をしなさい」
「要求を拒否する。おまえへの措置は一時的なものであり、移動後の可能性分枝における法則では記録媒体の動作が保証される。よって、現時点での環境変更は不必要だと判断する」
「なにがなんだか……ようするに後にしろってこと?」
「必要分が正しく伝達されたと理解する」
回りくどく肯定した後、影はたなびくばかりで何も語らなかった。
戸惑うほかない。柊はタブレット端末にアルミホイルを巻きなおしながら、雑に訊ねる。
「で……あなたは何なの? ここは何? あなたの目的は?」
「わたしの実体を表す概念はおまえたちの知識になく、わたしはこれ以降、おまえに干渉しない。ゆえに、この領域とわたしへの理解は必要ない。完全には困難だが、現在の接触に関する記憶もおおよそ削除する」
「あなた、随分と無茶苦茶なこと言っているのだけれど……だったら、なんのつもりでこの場を用意したの?」
「おまえの性能を発揮する条件を整える必要があったが、わたしは物質界に存在、介入することができない。譲渡と一定の説明を行う場の必要を認めた。でなければ効率が悪いと指摘を受けたからだ」
誰の指摘だったかは明らかにせず、影は形を変えた。
手らしき部分が前に伸びる。
すると柊の目の前に白い物体が浮き上がった。
それは花を象ったオブジェに見えた。微細な紋様が彫られた長い柄の先端に、蓮のような大輪の花が花弁を広げている。生花ではない。純白の石らしき材質で、星空の光を受けて硬質の反射光を溢していた。
「杖……?」
「そう見えるのならそうだろう。取るがいい。おまえのものだ」
息を呑むような美しさに惹かれ、柊は手を伸ばす。
しかし、触れる寸前で薄気味の悪さと誘惑が拮抗した。
「……寓話では、こういう取引は往々にして対価を求められるものよね」
「その認識は正確ではない。わたしはこれを譲渡と表現したが、返還とも表現できる。取引ではない」
「どういうこと?」
「その――は、おまえの――から発生したおまえの一部であり、あるべき循環を経て、いま、わたしの手からおまえに戻されるものである。わたしが対価も要求することもない。よって、これは取引ではなく譲渡、返還という理解が正しい」
所々に欠けた音がある。
怪訝に思いながらも「返すだけ」と説明しているのだと柊は解釈した。
「……こんなものに見覚えはないけれど」
「この領域のおまえは枝の記憶を取得する段階にない。いずれ理解する」
「はあ……後で分かるってことね。はいはい……」
「結構。おまえは比較的優れた個体と評価できる」
まったく褒められた気がしないし、いちいち話が分かり難い。
不思議存在の機械的な言葉は適当に受け流し、柊は白い杖を手に取った。石のようでも金属のようでもあるその杖を手にした途端、奇妙な抵抗感があった。磁力のような粘りのある弱い力で宙に保持されていたようで、手元に引き寄せると抵抗は消えた。
「確認なのだけれど……害は……無いのよね?」
「無い。既に述べた通り、わたしはおまえが性能を発揮する条件を整える必要があった。おまえを害する恐れのある干渉は意図に反する」
「まあ、まったく信用はできないのだけれど……」
「それはおまえの問題であって、わたしの解決すべき課題ではない。わたしとの信頼関係はおまえの性能と直結しない。よって、必要なのは信頼関係の構築ではなく前提知識の伝達である。以降の説明で得られる知識は記憶から削除しない」
一方的に会話を運び、影は空中に柔らかい光を浮かべた。
「これからおまえを別の――に投入する。便宜上、当該地域の言語を採用し目的地を外殻大地と呼称する。意図は開示しない」
「しなさいよ……」
「おまえの行動にバイアスがかかることは歓迎できない。開示することでおまえの性能が向上する余地はあるが、リスクを上回る有効性も認められない。既におまえの性能は要求水準を満たしている。性能向上の必要性もないと判断する」
「……いまひとつ分からないけれど、目的を説明する気がないのは分かったわ」
「おまえが特別に何かを為す必要はない。おまえの個体性能は他の追随を許さないほど強力だ。当該地域の知性体から神的存在として崇拝される運命はおろか、――を焼き尽くし、すべてを無に帰す可能性すらある」
柊は首を傾げる。話が突飛すぎて追従できない。
死にかけの小娘を捕まえて、この幽霊は何を言っているのか。
「私は……そんな大層な人間ではないのだけれど」
「これからそうなる。おまえの渇望によりて、おまえはなるべくしてそうなる。美と永遠の小径。死と再生を司る神秘の接続者。生者も死者も、おまえの敵たるに能わない」
「神秘……?」
聞き覚えのある音に柊は眉を寄せる。
アルカナ。タロットカードを連想するが、その想起の先は空白だった。タロットカードの絵柄など記憶にない。
「ええと……その、私の個体性能……は、具体的にどういうものなの?」
なにか、嫌な予感がする。
たなびく人型の影は揺れながら答えた。
「死の操作だ」
「は……?」
返ってきたのは、ぞっとするような言葉だった。
幻想的に過ぎる光景と不思議な存在から授けられる力、という場面だけを切り取って曖昧に想像した美しい物語とは違う。
例えば、邪悪を退け魔を払うような神聖なもの。それほどでなくとも、どんなにささやかであったとしても、もし使いようによって人を幸福にできるような祝福であったなら、それは手放しに喜ばしい話であったように柊は思う。
なのに、この表しようはまるで逆の――不吉な――
「白瀬柊。おまえの落胆は不合理だ」
沈む思考を遮るかのように、影は言う。
「力と作用に良しきも悪しきも無い。清らかであるかを決めるのは用途であって、力そのものに性向など無い。――から近いか遠いかだけだ。聖なるなどと、帰属する信仰によっておまえたちが勝手に分類をしている胡乱な観念に過ぎない。考慮に値しない」
「それは……励ましているつもりなの?」
「おまえの性能を発揮する条件を整える必要があると言った。事実を並べるだけで効果があるなら補足程度はする」
微妙に言い訳がましい。
話し方はともかく、奇妙なところで人間味があると柊は感じた。
「おまえの渇望。死の否定。裏を返せば生の肯定と等しい。生命として備えるに正しい論理だ。もはやおまえが死ぬことはない。その運命を失った。あとはおまえが正しく表と裏を操ってみせればいい」
「簡単に言って……」
「それができなければ得られていない。おまえたちの性能とはそういうものだ。得たから扱うのではない。扱えるから得られたのだ」
肯定してくれているにしても、物事の考え方が違い過ぎる。
言葉が通じているようで通じていない。そんなもどかしさがあった。
「……平たく言って頂戴。どう扱えばいい」
「わたしが示さずとも問題はないが、表を伏せて裏を使えばいい。あたかも裏がおまえの本質であるかの如く振る舞えば、余人の恐怖を集めることもない。協調も円滑に進めるだろう」
「騙すってこと?」
「同じことだ。死を司ることと生を司ることは等しい。おまえはいつもそうしている。そうできるうちは」
「そんな記憶はないけれど……そうね」
柊は黙考する。
死の操作などと。具体的な想像はできなかったが、そんな力をそのまま扱えば疎まれるか、恐れられるのが目に見えている。身の破滅以外に末路が想像できない。その意味で、この亡霊は示す扱い方は理に適っている。
ああ、そうだった。
ようやく生前の自分を思い出して、柊は苦笑する。
死の否定。死にたくない。その望みはどこまでも利己的で、尊くもなければ清らかなものでもなかった。だから死を操るなどという、不吉で悍ましい力が芽生えるのだと、そういうことなのだと納得をした。
なら、どうでもいいことだ。
どうでもいいことだ。死の否定が成るのなら、あの苦しみを退けられるのなら。その上で己の本質を偽ることなど、まるで大したことではなかった。
あたかも白であるかのように振る舞えばいい。あたかも光であるかのように振る舞えばいい。
あたかも生命を司る者であるかのように振る舞えばいい。
あたかも癒しの聖女であるが如く在れば、誰にとっても悪い話ではない。自分に嘘ばかりをついていた、あの長い病床の日々に比べれば。
「それは……とてもいい考え方だわ」
蓮の杖を握り締め、柊は笑みを深める。
「結構。やはり、おまえは比較的優れた個体と評価できる」
「……どのあたりが?」
「境界の番人への副次的な効果も含め、最低限のコストで結果を出すからだ」
「まるでもう結果が出ているような物言いだけれど……境界の番人って?」
「それはこれより赴く場所で、長い時間の中で、じきに分かることだ。わたしがいま語るべきことはもうない。おまえの旅を始めるがいい、白瀬柊。次に会う報酬の時に、また続きを語ろう」
藍色の星空が閉じる。
柊は、揺らめく亡霊と幻想の風景が遠ざかるのを見た。
手にした杖と、バッグひとつだけを頼りに長い旅が始まる。その未知の冒険は決して求めて得たものではなかったが、始まる間際、またひとつ生前のことを思い出した。未来を変えるのだと言っていた少年のこと。
おそらく、これからその少年に再び出会うのだということを。
ならこれは、先行きの見えない不安に満ちた旅路ではない。きっと希望に満ちた、新しい門出なのだということを。
6章exは当部分までとなります。
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