ex.大盾の骸
まだ生きた肺があった頃だ。
消耗で重い体に鞭打って、騎士の少女は皇都トラスダンの上層に位置する塔を駆け下っていた。
秘蔵されていた火葬なる強力な破壊魔法を奪取し、その直後に遭遇した強力な不死者、アシル・アドベリの手から逃れるためだ。
皇国魔導院の研究施設であるというこの塔を、彼女と彼女の主である皇子アーネスト、そして月天騎士団が襲撃してまで破壊魔法を奪取したのには理由がある。
代々の皇族が繰り返してきた皇位継承権の争奪戦。いわゆる継承戦を止めるべく、皇女ミラベルに彼女の主張を裏付ける物証である破壊魔法を渡すためだ。
現皇帝の正体は異界から来た異界人であり、代々の皇帝は転生を繰り返した彼であったと皇女は主張している。現界に存在しない理論によって構築された火葬はその証左であり、この魔法の過剰と言える破壊力はそれを秘匿する皇帝の臣民への裏切りを示すとも言われていた。
このミラベルの狙いは、アーネストの標榜するそれとも繋がっている。
皇国が長きに渡る戦争を続けてまで大陸統一を目指すのは、結局のところ元首たる皇帝が定めた国是であるからに他ならない。あくまで現皇帝バフィラス・アルバ・ウッドランドが歴代皇帝と方針を同じくし続けているからであり、皇国臣民すべてが統一を望んでいるわけではない。
なぜなら、大陸過半を占める巨大なウッドランド皇国は既に栄華を極めているからだ。現時点で財政、技術、人口などあらゆる方面で充足している皇国は、これ以上の領土拡大を必要としていないのだ。占領地の統治や開発、治安維持といった莫大な費用をかけたところで、得られるのは技術的に劣っている農地や教育水準の低い現地民程度であり、恩恵に乏しいのである。この「戦果と負担」の逆転が皇国の一部の人間に厭戦の気運をもたらしているのだった。
そして、長きの戦争で人的被害も戦費もかさんでいる。その消費される人材と費用は本来国内の諸問題に向けられるべきものであり、よって東方三国との戦争は早期に決着させる――というのが第二皇子アーネストの掲げた目下の指針である。
彼はその指針の元、不自然なまでに粘り強い抵抗を見せる東方三国を攻め切るつもりでいた。
ドーリアが竜種を従えるまでは。
あの悪夢のようなロスペール陥落の夜がなければ、おそらく今もそうだっただろうと少女は思い返す。九死に一生を得て、ロスペールを脱出したアーネストは方針を修正した。
大陸統一に固執する現皇帝の排除である。
これにより継承戦の停止、現皇帝の打倒を目指す皇女ミラベルと早期の戦争終結を目指すアーネストの利害が一致した。
その結果、彼に従うこの少女もこうして魔導院の塔を襲撃し、破壊魔法の確保という目標は達しながらも情けなく撤退している。その事実は腹立たしくもあったが、少なくとも疑問は無かった。
軍人である第二皇子アーネストは、日々辛苦を強いられる前線の兵や騎士達のために奔走しているのだと、この少女は信じていたからだ。
回廊には無言の足音だけが鳴り響いていた。
先を走るアーネストの顔は見えず、並走する姉はどこか焦燥の念を滲ませる表情をしていた。
理由は明白だ。塔の最上階で遭遇した不死者アシルと対峙しているだろう、かつての同期、サリッサを案じているのだ。
姉は性根が優しい人間だった。軍属には向いていないと、この少女は何度も忠告をしていた。剣の腕が自分より僅かに劣る程度、余人と比して優秀であるとはいえ、非情にはなり切れない面がある。殿に置いていった同期を必要以上に心配してしまう程度には。
しかし、この少女アニエス・パリエース・ラングレンは違う。古い武門の家柄であるラングレン子爵家の傍流、パリエース・ラングレンに生まれた末子であるこの少女は、家伝の武具である「灯火の盾」と共に相伝の戦技「盾の紋章」を与えられた最後の騎士だった。
両親は負傷で既に騎士を引退している。本流の子爵家との親交は途絶え、行政府からの年金で細々と暮らす彼らに誉れある騎士侯の姿を見い出すことはできなかった。アニエスは反発した。
落ちぶれた家の名を再び取り戻す。この姉妹の初志はそこにあった。過程として入った騎士学校で皇子と出会い、姉が彼に心酔してもアニエスの根は変わっていない。
騎士として勝ち続けることだけが人生の目標だ。騎士として名を上げることこそが彼女の悲願であり、それが尊敬するアーネストの下でのことであれば文句はない、というだけだ。尊敬以上の感情は不要で、そういうのは向いている姉がやればよく、自分には武力があればいい。
両親についぞ見い出せなかった騎士の姿とは武力だ。
剣を以て敵を挫き、力無き民を守る。アニエスが焦がれる理想の騎士。
人々の盾。その根幹には武力がある。
力がなければ始まらない。まず強くなければ駄目なのだ。価値観の中心をそこに置かなければ先へは行けない。恋慕や優しさなどは余分なのだ。
だからアニエスはサリッサを信頼している。
彼女は自分より遥かに強い。天賦に胡坐をかかず、努力を積んで武の頂点に至らんとする孤児上がり。破軍。同世代最強の長柄使い。彼女を倒すには騎士団が必要だ。アシルという、あんな訳の分からない不死者になどやられるはずがない。腹立たしくはあったが、案じる必要は皆無だった。
では、なぜ逃げる足がこんなに重いのか。アニエスは自問する。敵に背を向ける腹立たしさよりも、胸になにか、微かに引っ掛かるものがあった。
あの田舎門番。殿を買って出た、得体の知れないあの門番の男だ。少年だか青年だかよく分からない、あの東洋人の薄く曖昧な顔が脳裏をちらついている。
魔力に乏しく、覇気も無ければ生気も無い。まるで使い古された手巾のような男。ランセリアで出会った時点で彼は酷く消耗していた。それが見抜けないアニエスではない。
ムカつく。
どうしようもなく、腹が立った。あんな男に立ち合いで手を抜かれたことも、あんな男に助けられたことも。あんな男が自分よりも早く決断し、不死者の前に残ったことも。
あんな男が、おそらく、あの場の誰よりも強かったのだということも。
だから引っ掛かるのだろうと納得する。するより他になかった。
回廊を抜けると、月天騎士団の騎士たちが広間に集っていた。
飛行艦スキンファクシが接舷されている空中外郭はもう目の前だった。
そのまま撤退すべきか否か、検討の余地もなく明らかだった。少なくともアーネストの安全は確保されるべきであるはずで、誰もが同じ考えだった筈だった。残った門番や、サリッサも含めて。
「さて……これは、判断が難しいな。彼らを待つべきかどうか……」
しかし、第二皇子はそう呟いて薄く笑うだけだった。
彼にも余裕はない。柔らかい表情の中にも焦りのような――恐怖のような色がアニエスにも見て取れた。残したふたりを待つか否か。そこに大きな葛藤があるのは間違いないのだと、アニエスはそう思った。
ただの騎士を見捨てるとしても、この皇子がここまでの逡巡を見せることはまずない。惜しみはするだろうが、それだけだ。でなければ軍属などやっていられない。
つまり、門番とサリッサは代え難い人材ということなのだろう。ふう、とひと息を吐いてから、アニエスは姉の軍服の袖を引いた。
「アニエス?」
「ねーちゃん。殿下に飛行艦への避難を進言しろ。ここにはあたしが残るから、ねーちゃんは殿下と艦を守れよ」
「え……でも危険なんじゃ……?」
「危険なとこに殿下を残しとく方がまずいだろーが。スキンファクシをいつでも出せるようにしておけば、ちっとはマシにあいつらを待てるだろ。ここに全員残るよりはな」
「そう、だけど」
姉は歯切れ悪く、考え込んだ様子のアーネストの方を見るばかりだった。
悩んでくれるなよ。アニエスは苦笑する。
「けども何もねーよ。皆とも合流したし、あたしはねーちゃんより強いんだぜ。スケルトンが何体来ようと物の数じゃねーよ。つーか、月天騎士団全員に勝てるやつなんか居るもんか。そうだろ」
わざと大声で言うと、近くの騎士達が笑い、同意する声がいくつも重なった。
無論それは楽観であり、そもそも月天騎士団の殆どはロスペール防衛の際に戦死している。二十人に満たなくなったこの九大騎士団にかつての力は無い。
上層の警備をしている近衛や、付近の城館に駐留している恒星天騎士団などが出てくると分は悪い。魔導院の魔術師もアシルだけではないに違いない。
騎士達もアニエスも、分かっていて残る。かつてほどの力はなくとも、彼女達には九大騎士団であるという誇りと自負があった。危険はあっても自分達なら切り抜けられると信じている。そうして稼いだ一分一秒が、より大きなものの礎になると信じていたからだ。
故に、
「ああ、成る程。そういうことか」
こちらを向いたアーネストが小声でそう呟いたのも、アニエスは何の疑問を持たずに受け入れた。
彼は普段と変わらない、冷静で柔和な皇子の顔で姉に言った。
「エニエス。先に行ってスキンファクシに出航準備をさせてくれないか。それからできる限りタカナシ君達を待とう」
「あ……はいっ!」
その命令は義に厚い人間の言葉に聞こえた。
姉も疑問を持たず、敬礼して空中外郭へ駆け出して行った。
残った騎士達が広間に陣取るべく配置についていく中で、アニエスは自分よりも一回りも二回りも長身のアーネストと向き合った。
彼は言った。
「私は果報者だ。君たちはこんな状況でも私などに尽してくれようというのだから。君のような忠臣には報いなければならないね。褒賞は何がいいかな?」
「あ、あはは……あたしが臣だなんて……そんな畏れ多いこと……」
「遠慮をすることはないよ。何でも構わないから言ってみなさい。私にできる範囲ならどのようなものでも認めよう」
「え、え……? えっと……」
アニエスがまず頭に思い浮かべたのは家名のことだった。
しかしそれは己の手で成し遂げるべきことであり、皇子という権威を借りて成したところで何かが違うと思い直した。
薄く笑みを浮かべるアーネストは飛行艦に向かおうともせず返答を待ち続けている。危険だ。急かされるように様々な望みを考え、まとまらないままアニエスは願いを口にした。
「あの、できればでいいんですけど……ね、ねーちゃんを……あ、いや……その、よろしくお願いできれば、なんて」
「……」
第二皇子は僅かに驚いたような顔をした。
それは一瞬のことで、彼はすぐに常の笑みを取り戻した。
「あ……はは。エニエスは私の大事な右腕だからね。彼女を欠いてこの先の難局を乗り切れるとは思っていない。むしろ、こちらからお願いをしたいくらいだ」
「あっ、そういうことじゃないんですけど……って、こんなときに何言ってんだあたしは……すみません」
粗野で不躾な自分が恨めしい。アニエスは頭を掻きむしる。
さすがに失敗だった、と皇子の整った顔を見上げて様子を窺う。
彼は笑ったままだった。
「うん、意味は分かっているんだよ。アニエス。しかし私は立場的に妃を娶ることができないし、人間の女性と子を持つこともできない。だから君の希望するような形で彼女を受け入れることはできない」
「は……?」
穏やかに語られたその言葉の意味が、アニエスにはよく分からなかった。
「対外上の皇太子であるマクシミリアンでさえ子は居ないだろう? あれの場合それらしく見せるために妃が用意されていたのだけれど、とうが立っても子はできなかった。それはそれで哀れな話だと思わないか」
「で、殿下、なんの話を……してるんですか?」
「褒賞だよ。私は君の希望に誠実に答えているつもりだ」
整った、或いは、整い過ぎている容貌の第二皇子は語調も表情も変えない。
幼子に接するかのように身を屈め、戦慄するアニエスの耳元に顔を寄せた。
「より分かり易く言えば、皇族とされる我々は君たちと種が異なるのさ。利用目的に沿わないから人間との交配は考慮されていないし、ただの人間にそういう感情を抱きにくくなっている。ほら、君だって犬や猫を愛らしく思ったりしても恋をしたりはしないだろう? それと同じさ」
「犬……猫……?」
「だからね、アニエス。そんな人でなしに君の大切なお姉さんをくれてやる必要はない。私も望んでいない。君たちの気持ちは分かっていたけれど、応える気はなかった。身分違いだどうだという以前に互いのためにならない」
深い暗がりに引きずり込まれるような思いだった。外見上は人間にしか見えない彼が、敬意を抱いていたこの皇子が自らを人ではないと明かしたことも少なからず衝撃だったが、それよりも当人と姉の気持ちを考えると目の前が暗くなった。
第二皇子と無名の騎士侯。実を結ばせることは難しいと分かっていたし、姉も分かっているはずだった。しかし望みが絶たれるにしてもこんな形、こんな理由であってはならない。あってはならなかった。
「なん、だよ……それ……なんでそんなこと平気な顔で言えるんですか……!」
「どうしようもないことだからね。君たちへの申し訳なさはあっても、私は己の身を嘆いてはいないんだよ。でも、もしかして君は私のことも憐れんでくれているのかな」
「不敬だとは分かってます、けど……あまりにも……」
「理不尽に思えるかい?」
「……はい」
頷くアニエスに、アーネストは彼女の耳元で笑った。
「君は優しいな。君のような優しさが少しでも陛下にあれば、我々ももう少し違った在り方ができたのかもしれないが」
「ぜんぶ……皇帝陛下の仕業、なんですか」
「勿論だとも。皇国に彼の思惑から外れた者など居ないよ。戦に然り、我々に然り。彼さえ居なければ、というのは仮にも父王に抱いてよい思いではないのだろうけどね」
アニエスは大盾の柄を握り締める。許せるはずがない。皇帝を除かなければならないとアーネストや皇女が決意したのも当然だと思えた。
逆に、ここまでの悪逆非道が許されている方が解せなかった。下位貴族や庶民は皇帝の顔を見ることもない。まさに天上の存在であるが、実感がない分、アニエスには余計に分からない。ただ皇帝であるというだけで、同じ人間であるはずだ。なぜそんな暴虐がまかり通るのか。
許されるはずがない。皇帝は除かなければならない。
「……もうすぐ陛下が直々にここへ来られるそうだよ」
囁くような皇子の声に、アニエスは眉を寄せる。この国の頂点に立つ皇帝本人がいち研究機関でしかない魔導院の塔に来る、というのは不自然な動きに思えた。
火葬なる破壊魔法はそれほどの代物だったのか。アニエスには分からなかったが、やるべきことは定まっているように思えた。
「いいかい、アニエス。私はタカナシ君とサリッサに大きな借りがある。彼らをここで死なせるわけにはいかない。予定が狂ってしまうんだ。だから彼らが戻るまで陛下の足止めをしてほしい。やり方は君に任せよう。手段は問わない」
手段を問わず。耳元のアーネストは言外に弑逆を認めていた。
邪悪な皇帝を討ち、戦争を終わらせ、家名を上げる。
それもまた、ひとつの道であるはずだ。むしろ手っ取り早く全てを解決する、誰にとっても一番いい方法が目の前にある。
「やってくれるね?」
アニエスは恐れを踏み越えて首肯した。
「……はい。やります。今日、ここで」
「そうか。ありがとう。君のような忠実な臣が居てくれて本当によかった」
アーネストはふわりと笑い、アニエスに軽い抱擁をした。
人ではないという彼相手では紛らわしくもなく、親愛以外にない所作なのだと理解していても胸が熱くなる。皇帝を討てば、彼の呪縛が解けて姉と結ばれる可能性もあるのでは――ほんの一瞬、少女はそんな夢を見た。
「軍令を以て汝らに不退転を命じる――服従術式」
耳元から力持つ言葉を放たれるまでは、確かに夢を見ていた。
膝からくずれ落ちたアニエスは見開いた目で皇子の顔を見ようとしたが、彼は既に立ち、広間に背を向けていた。
服従術式。皇国軍で軍規統制に用いられる古い高位魔術だった。由来と動作原理が失われた「解析不可能な魔術」でもあり、組織の上位者からの命令を強制的に遵守させる効果を持っている。背けば苦痛を伴う意識誘導が行われる。
人道を捨てた外法だが、軍用として広く普及している魔術だ。珍しくはない。軍に属する人間なら入隊時に必ず契約する。
しかし、その魔術は。その内容は。
「こ、後退……禁止……? なっ、なんで……?」
脱走の防止や違反者への懲罰に用いられる術式なのだ。
それは庶民から徴兵されたような最下級の雑兵が逃げないようコントロールするための術式なのだ。決して、配下の騎士に向けられるような術ではない。騎士は主命に従うものだからだ。それが主従の信頼の大前提だからだ。
しかし、
飛行艦の方へと歩いていくアーネストは、広間に残された騎士達を一切振り返らなかった。姿が見えなくなるまで。
状況を正しく理解しているのは術式を聞いたアニエスひとりだった。月天の騎士達は広間の出入り口を向いて敵を、あるいは合流してくる味方を待ち構えている。何も知らないまま。
撤退を禁じられていると知らないまま。
アニエスは悟った。
「……あ」
捨て石だ。
自分達が捨て石なのだと分かってしまった。一分一秒を稼ぐためだけの駒。自分達はここで消費されても惜しくない、アーネストにとっては雑兵と大差ない存在だったのだと分かってしまった。
そうする必要がある者が来るのだ。ここに。もうすぐ。
「あぁ……ああああぁ……!」
かたちにならない声を漏らしながら、アニエスは頭に爪を立てて掻き毟った。
なんだったのか。
いったい、なんだったのか。
先程の皇子とのやり取りは。自分の決意は。いったいなんだったのか。
忠誠も信頼も、敬愛も。まったく無意味で余分なものだった。そんなものはまったく顧みられることなく、戦って死ねと命じられ、命じられるままに戦うだけなのだ。大望と大義と民の為に。焦がれた理想の騎士。磨り潰される、人々の盾。
軍とは最初からそういうもので、第二皇子は軍人だった。アニエス自身もそうだった。ただそれだけなのだと分かってしまった。
やがて、一人の老人が広間に現れた。
白髯と威厳とを備えたその老人は場違いな礼服を纏っていて、僅かに怪訝そうな様子を見せた後、広間の騎士達を睥睨した。
そこから、戦いと呼べるようなことは何も起きなかった。
***
次に目が覚めたときは、もう、息をすることも要らなくなっていた。
老人、皇帝バフィラスは回収したアニエスの死体を「巻き戻して」再利用し、色々なものを捏ねて今のアニエスを作ったのだと語った。
死んだ月天騎士団と霊的に混ぜられたアニエスの精神は当初こそ不安定だったが、三日もすれば慣れてしまった。頭の中で蠕動する数多の怨嗟と共に嘆いてのたうち回ったところで、時間は戻らない。
いちど経験した死がアニエスを永遠に変えてしまった。生きるために戦うことが前提にある世界。己のために死を撒く人という生き物。死を知らないが故に死を撒く、浅ましい生物。すべて無価値だ。
死は、永遠の孤独だった。
まったきの闇に身を浸し、終わりのない虚の中で意識が希釈されゆくだけの、無だった。あれに比すれば生きている人間は生きているだけで幸福といえる。その、在るだけで輝かしく尊いはずの命を他者から奪う。奪わなければならない生き物とは。なんと罪深くなんと無知で蒙昧なことだろう。
老人が生者を近くに置かない理由が、いまのアニエスには理解できる。
「あんたも死んだことがあるんだろ、陛下」
燭台の灯に揺れる老人が黙々と葡萄の皮を剥くのを、ただぼんやりと見つめているのも飽いたのでそう訊ねてみた。
礼服の老人は明るく言った。
「遠い昔に背を刺されたのよ。それより幾度となく死を見てきたものだ」
「裏切りか?」
「でもなければ余は遅れなどとらぬ。よくよく分かっておろうが、アニエス」
丁寧に皮を剥いた粒を口に運び、老人は指を手巾で拭う。
この城館の食堂を使う者は他に居ない。彼の住まう城館に生きた人間は居なかった。稀に顔を見せる女教皇、剣聖マルト以外には皆無だ。肉を捏ねた自動人形か、霊体。それらかアニエスと似たような経緯で作られた特別な不死者、外典福音以外の者を皇帝は身近に置いていなかった。
広く豪奢な食卓に、彼は独りだった。
「命あるものはおしなべて利己的なものだ。でなければ生きられぬからな。故あれば子でも親を殺す。死なすということを軽んじる。子でさえそうなのだ。まして仲間や友などというあやふやなものであれば、なおのことであろうな」
「はっ……あんたは子にも裏切られたと。ひでえ話だな」
「君臨する王とは所詮、斯様に碌でもないものよ。まあ王に限らずであろうが」
アニエスは両親のくたびれた顔を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
老人は葡萄の粒をもぐ。
「繰り返す生の中、穏やかに生きようとした人生もあった。が、一度点いた火というものはなかなかに消えぬものだ。許せぬものは許せぬし、譲れぬものは譲れぬ。一時の安寧を得て老いさらばえてもなお、余は未だ足るを知らぬ」
「何の話だよ」
「報いはあるべきだ、ということだ。常にな。誰の恨みも晴らされるべきだ。おまえが二番を許せぬというのなら、許されるべきではないのだ」
「どの口が……元はと言えばあんたが始めたことじゃねえか」
「醜く争う人の性をか? 莫迦を申すな。人を造ったのは余ではない。申し立てがあるなら神にでも縋るがよかろうが」
老人は愉快そうに破顔した。見下した笑いではなかった。
「おまえが余を元凶たる魔王として討つというのなら、それもまたよい。いつでも掛かって来るがいい。死と裏切りを知る童女よ。余はおまえたちを裏切らぬ」
「チッ、そうかい」
結局、器が違うのだ。
アニエスは大樹のような老人から視線を逸らした。
彼が自分を外典福音としたのも当然利用するために違いなかったが、この魔王のやり方は不思議と不快ではない。
剣聖マルトに然り、彼らは外道の極致だが己の所業に背を向けないのだ。外道であっても下劣ではない。悪を悪として正面から見据えている。この偉大なる悪の王が巡らせる深謀がどこへ向かっているのか、アニエスには分からない。
「……ロスペール、ね」
ただ少なくとも、この大盾の少女の骸も未だ足るを知らない。
復讐の時は近くとも、満ち足りる日は遠い。
今はただ、死んだ肺に空気を送る。




