ex.不徳の寄る辺
――俺と、一緒に来てください。
――はい。
彼の言葉に対し、論理的思考と裏腹にそう頷いてしまったのは、気持ちが弱っていたという面があったのも否めない。来瀬川姫路は冷静にそう考える。
氷室一月の独断専行は思っていたより辛かった。彼は似たような選択肢を検討した姫路を差し置いて、一人で強引に事を運んでしまったのだ。見守る側の人間として似た立場だと思っていた彼に裏切られたような気がしたし、そんな思いを勝手に抱いている自分に嫌気が差したのもある。つまるところ、自分はけっこう傷付いていたのだと姫路は思う。
それに時間の猶予も無かった。イエスかノーか。中間はない。悠長に悩んだり、聞き返したりできる局面ではなかったし、そんなことを考える余裕もなかった。
でなければあんな言葉に、そんな、即座に頷こうはずがない。
だって、あれでは、まるでプロ――
「っわあああああ!! はいじゃないがああああ!!」
姫路はひとり、上気した顔を抱えてリビングテーブルに突っ伏し煩悶した。
声量だけで窓の硝子がびりびりと震えた。
その心からの悲鳴を聞く者は、いない。
クローゼットに触れ、想像の百倍は呆気なかった世界間の移動を済ませた後、バタバタと走り回り始めた明人たちを古ぼけた建物で見送って数時間。とっぷり日が暮れた頃には状況の整理ができていた。
セントレア南門番詰め所。自分が居る建物がそうと言われても、実感はない。なかなか信じ難いものがある。明人から門番として勤めていると聞いてはいたが、まさか家を持っているとは聞いていなかった。姫路が想像していた「詰め所」は石積みの砦のようなイメージで、簡易ベッドが並ぶような兵士たちの屯所だった。
まさかソールズベリー辺りにありそうな趣きの古民家が出て来るとは、聞くと見るとは大違いだった。現代日本とは著しくかけ離れた文化圏の住居ながらも、暖かい暖炉や造りは粗雑で古風ながらも必要十分な家具を備えた門番詰め所に不便はない。現界に抱いていた漠然とした印象よりは優しい環境だ。
ゆえに、ひとまずの休息の場を得た姫路の混乱も収まって――いない。
「おああああぁ……っ!」
頭を掻きむしり、悶絶している。
ない。ありえない。
高梨明人は誘うべきではなかったし、来瀬川姫路は受けるべきではなかった。
その結論だけは確かなのだ。
往還者。
その存在について、姫路には姫路なりの解釈が済んでいる。
往還者とは、並行世界間を移動する情報である。既存の多世界解釈を下敷きにしたその理解は、往還門を通過する前の時点で彼女の自己認識を根底から作り変えてしまっていた。
無数の並行世界が存在し、かつ外部に連続する情報の集積が存在するのなら、すべての並行世界は等価だと評価できる。それは余人からすれば飛躍した捉え方だったが、少なくとも来瀬川姫路は往還者の存在を端緒として世界の構造をそう見る。
彼女の大まかな解釈は本とその読み手の関係に近い。ひとつの並行世界を書物として捉え、自分達は描かれた登場人物であり、往還者は読み手であると。本に貴賤等の差はない。なら、すべてが等しく在るべきものだ。
その簡略化された比喩的な理解は完全ではなく、欠け落ちている要素が多数ある。それでも来瀬川姫路が一次元上の視点を獲得したのは確かであり、それは確実に彼女の意識を変容させていた。
ひとつの並行世界は、
唯一無二の絶対価値を持つもの――ではないのだと。
自覚なく獲得したその意識は、もはや人間の視座に収まるものではなかった。しかし、であればこそ異界の一時間軸における撤退を判断できた。最終的にひとつの時間軸での解決が為されればよい。なぜなら、すべての時間軸は等価だから。もはや彼女の目にはそう映っていたのだ。自己認識でさえも。
だから、この自分はここまででいい。
高梨明人の誘いまでの姫路はそう考えていた。滅びゆく枝、あの時間軸に残るべきだと考えていたのだ。
姫路には現界で自分の身を守る術がない。足を引っ張るのが目に見えている。明人の弱点になり得るような自分が往還者になる、という選択肢はなかった。生まれ持つ肉体の放棄とイコールである不老不死にも、ヒルベルト空間ベクトルに干渉していると思しき彼らの固有能力、福音にも興味はなかった。明人も往還者を増やさない方針をとっている。だから、この時間軸の自己が保存される理由は皆無だと判断した。
それはやはり、健全な精神と思考では到達しない結論である。僅かにでも真理を目にし、洞察でそれに指をかけてしまった来瀬川姫路は、皮肉にも、自身の資質によって既に正気を失っていたのだ。
そして彼女は生来の気質として論理的な判断を好む少女だった。それに感情豊かなペルソナをかぶせ、大人になって共感能力を後付けしたものが来瀬川姫路という人間だ。だが、本質は変わらない。一度論理的に決定した結論を覆すことはあまりない。
なのに、頷いてしまった。
あっさりと、ころっと、やられてしまったのだ。
明人の懇願する顔に。その言葉に。いとも簡単に理屈を吹き飛ばされてしまった。頷かなければならないと思ってしまった。
何かロマンチックなやりとりがあったわけではない。そんな感情や雰囲気が許される状況ではなかったし、考えもしなかった。
しかし、今になって思い返すと、あれは駄目だった。堪らなかった。
往還者になることの苦痛と意味を、高梨明人は誰よりも理解しているはずだった。生まれ持つ肉体の放棄。半永久的な生。それを相手に求める意味が、分かっていないわけではないはずなのだ。彼は。
だから正しくは、こうなのだ。
俺と一緒に来て(一度死んで、それから永遠に一緒に居て)ください。
「わあおおおおおおおっ!!」
姫路はぶるんぶるんと頭を振り回す。そんなのはもう、求婚なんかより遥かに重い意味を持つ言葉だ。姫路には鳴くくらいしかリアクションできない。そして奇態を見る者もいない。
目をかけている可愛い教え子。
来瀬川姫路にとって高梨明人はそういうものだったし、そう見ようとしていた。きっと弟が居ればこんな感じなのだろうと思う努力をしていた。
だって半回りも歳の離れた少年にそういう感情を持ってしまったら倫理的にまずい。しかも教師と生徒だ。インモラルが過ぎている。いけない。そんな認識が高梨家で散々踏み躙ってきた倫理の最後の一線だったのだ。
だいたい、そんなのは明人からしても迷惑だろうと思っていた。
なまじ彼が千年云々の重過ぎる来歴を持っているから霞んでしまっているだけで、姫路は若くない。皇女ミラベルや小比賀瑠衣のような美少女ではないのだ。彼女たちに比べれば年増だ。十代で婚姻関係を結ぶという中近世的価値観でいえば行き遅れにすら当てはまる。
過去はどうだったにしても、現在は中近世に近しいという現界の価値観に染まっているだろう明人の恋愛対象に自分が入っているとは思えない。思えなかった。彼だってそんな素振りを見せていただろうか――
「…………うん、特になかったね?」
我に返り、姫路は真顔で呟いた。
そう。冗談に対してたまに年相応の照れ顔を見せてくれるくらいで、明人が自分をどうこう思っているという兆候はなかったはずなのだ。
姫路から見て、明人が異性として意識しているのはミラベル。或いは白瀬柊だ。面識のない白瀬柊に関しては言動からの推測になるが、ミラベルに関しては疑いようがない。姫路でさえ分かるほどの「そういう雰囲気」を作り出すことが高梨家ではままあった。
姫路自身、自分が彼にそういう感情を抱かせるような要素はないと思っている。理由がひとつもない。容姿は言わずもがな、逆に疎まれてもおかしくないくらい色々なことに口を出してしまっている。あまり口うるさくならないように気を付けてはいたものの、異性としての好感度は低いだろうと思っている。
そう。冷静さを取り戻して考えてみると、やはりあの誘いが恋愛感情によるものだったとするのは論理的に辻褄が合っていない。違うと彼女は考える。
だとすると、いったいどういう感情からなのだろう。姫路は真顔のまま首を傾げた。
恋人や伴侶とする以外で、永遠に一緒に居たい異性とは――?
――?
「え、そんなことある?」
想像力を総動員した結果として、姫路はやはり真顔で疑問符を口から吐いた。
明人は多少勢い任せな面もあるが、道理を弁えない人間ではない。一時の浅薄な感情でああいうことは言わない。姫路はそう信じている。
わからない。
何か大きな前提を見落としているとしか思えなかった。有り得ないことを除いていって、残ったものが真実だ。でも何もなくなってしまった。おかしい。これでは推理できない。謎解きは得意だった筈なのに、真実は濃い霧の中だ。
かくなるうえは、
インタビューを、する。するしかない。
姫路はやはり真顔で決断をした。
ここは大人の余裕を見せる場面。わからなければ本人に意図を聞けばいいのだ。認識を合わせておけば今後気まずい思いをすることもない。
こういった類の勘違いはひどい結果に繋がりやすい。姫路に男女間交際の経験はなかったが、古典的な恋愛物語や友人たちの披露するエピソードには同様の悲劇が幾分かあった。話の上でならまだしも、実体験は悲惨の一言に尽きる。勘違いを放置するのはよくない。
聞き方にも注意が必要だろうか。
変なバイアスがかからないよう、遠回しな聞き方はしないようにしなければならない。前置きや態度から圧力がかかってもいけない。普段通りの態度で、
ねえねえ、高梨くん。一緒に来てくださいってどういう意味だったの? 私が居ない明日が想像できないってどういう意味? 先生ちょっと分からないから教えてくれないかな?
「ひぃ……」
姫路は顔面を隠してぶるぶると頭を振った。そんなのもう、なんでそんなことを聞かなきゃならないのか分からないくらいはっきりしている。もはや聞かれる方が可哀想だ。
普段通りの態度で? できるわけがなかった。世間話のような流れで何気なく問い質していいレベルの確認ではない。然るべき場所、然るべき雰囲気が必要な話題に思える。少なくとも、姫路にはそう思えてしまった。
「っていうか想像するだけで心臓が口から出そうだよ……」
仮に聞けたとして明人は何と答えるだろう。
恐ろしい。
そもそもあの誘いが予想外だったのだ。明人には考えていることをあまり人に伝えない面があり、そのせいで余計に言動が読みにくい。言葉の意味ははっきりしている筈なのに予測が難しいのはそのせいだ。
姫路は彼への理解と経験から明人のエミュレーションを試みる。彼の人格を忠実に再現するのだ。くたびれた朴念仁の少年。しっかりしているようでしっかりしていない、少し子供っぽいところも残っている可愛い生徒。頭の中でイマジナリー明人が組み上がっていく。
彼は薄ら笑いで言った。
ああ、いえ。別に他意はないですよ。来瀬川先生が居てくれると色々頼もしいのでご協力頂ければと思っただけで……すみません、何か紛らわしい言い方でしたね。もちろん変な意味はまったくないですよ。はは、安心してください。
「うわ……い、言いそう。高梨くんめっちゃ言いそう……」
会心の出来にひとり頷き、姫路は引き攣った笑みを浮かべる。
何故か、鳩尾の辺りがきゅっとした。恥ずかしい勘違いをしたという辛さより、まず奇妙な痛みがある。腹立たしさも少し。小言くらいは言うかもしれない。いや、さすがに笑って流してはあげられない。
姫路はそこまで考え、そう考えた自分を不思議に思った。明人が自分を何とも思っていなくとも腹を立てる理由などない。むしろ当たり前のことであるはずで、論理的に考えれば当然の帰結だ。
なのに、これではまるで自分の方が――
「あ……そっか。そうなんだ」
その気持ちに気付いても動揺はなかった。
目をかけている可愛い教え子。
来瀬川姫路にとって高梨明人は確かにそういうものだったし、そう見ようとしていた。きっと弟が居ればこんな感じなのだろうと思う努力をしていた。そこに嘘はなかった。
しかし、過去形なのだ。
もう教師と生徒ではない。
ここは現界で、往還門を使用した来瀬川姫路は以前の来瀬川姫路と物質的連続性を失った。門をくぐったその瞬間、来瀬川姫路は死に、彼女の物語は終わったのだ。ここに居るのは来瀬川姫路の姿をした別のなにかであり、よって異界の倫理に縛られる必要も筋合いも、もうない。
ただ、
「……いいのかな」
姫路は少し埃の積もったリビングテーブルに指を這わせ、その先にある贈り物らしき紙箱を見た。
門番詰め所で同僚をしていたという少女が明人に宛てたものだろうか。開けて中を見てはいない。ただ、彼を想う人物が他に居るらしいという事実だけを察するに留めている。
察するまでもなく明らかなミラベル、もしかすると小比賀瑠衣もそうかもしれない。はたして、彼女達を差し置く権利など自分にあるのだろうか。
なによりアンフェアだ。
姫路には見えている。自分以外に誰も居ないはずの門番詰め所のリビング。テーブルに伏して木目を指でなぞる姫路の視界の端に、誰かが立っている。
それは焦点を合わせると消えてしまう、幻のような人影だ。言葉を発さず、ただじっと姫路を見ている。あまり干渉する気がないのだろうとだけ見当をつけ、姫路もあまり気にしないようにしている。
智解の福音。
彼女は言葉ではない手段によってその名を伝えてきた。読心の概念攻撃、覚の存在と共に。その意味するものは自明であった。
姫路は福音として読心の術を得たのだ。
重ねて、アンフェアだ。
その力を使えば人間関係は自在といっても過言ではないと姫路は思っている。恋愛弱者の姫路でも男を誑かすくらいはわけないと思っているし、他人がひた隠しにしている本心を暴けば競争に勝つのも難しくはない。相手の心情を知っているのと知らないのとでは心の余裕も変わってくる。
そんな力を持っている大人の自分が、あの応援したくなるような少女たちと恋の競争をする? そんな大人げのない真似はない。
姫路は智解の福音の性質は開示するつもりであるし、悟られないように使用するということもしないと決めている。むしろ安心感を持ってもらうために、分かり易く使うつもりだった。それでも疑念は持たれるかもしれなかったが、そのときは自分が嫌われればいいだけだと覚悟している。
でもやはり、競ってしまうのは駄目なのだ。
あの繊細な皇女を傷付けてしまうかもしれない。明人だって下心ありきで心を読まれるなんて良い気はしないに違いない。
するかしないか、ではなく恐れがあるだけで駄目なのだ。
自分に真っ当な恋愛をする資格はない。
「あはは、いいわけないよねー……」
ぼやいて、姫路は力なく笑った。
指についた埃を吹いて飛ばすと、暖炉の明かりを受けながら飛んでいった。暖炉の前でとぐろを巻いていた白黒の仔猫が目を丸くしてこちらを向く。動体視力の優れている動物である猫は速く動くものに反応する習性がある。本で読んだ知識だったか、どこかで猫に触れたのだったか。
姫路は立てた人差し指を影から左右に素早く動かして猫をテーブルに召喚すると、そのまま膝に乗せた。
「よーしよし。きみは飼い猫ちゃんかなー?」
猫は当然答えず、姫路の指に額をこすりつけるばかりだ。首輪をしているので野良ではないと推量はつくものの確信はない。人慣れしているのか、触ってもおとなしい。ガルガンチュア。辛うじてそう読める文字が首輪に刻まれている。たいそうな名前の猫の背中をさすり、姫路は微笑んだ。
インタビューは断念することに決めた。
いちど気付いてしまったら、もどかしさに似た恋しさはどうしてもある。
でも、それはまだ胸の内に仕舞っておくべきものだ。
彼らとはきっと長い、とても長い付き合いになる。不慮の別れが訪れなければそうなるはずで、なら長い目で見れば焦ることはなにもない。とても長い目で見れば。
ただ、自分だけは彼の手をずっと離さなければいい。何があっても。
いつか、遠い果てにあるだろう最後の時まで。或いは、求められるその日まで。彼の言葉に頷いた来瀬川姫路も、きっとそれなら納得してくれるに違いない。
もどかしさに似たこの恋しさが、胸の堰に、まだ留まってくれているうちは。
まだ。




