50.ノー・ウェイ②※
「……はぁ」
溜息が止まらない。
ミラベルは誰も居ない礼拝堂で木箱の蓋を閉じる。
積まれた木の大箱には教会に駐屯していた水星天騎士団の装備品が収められていた筈だったが、今は幾ばくかの衣類や戦闘で壊れた武具類しか残っていない。教会への寄付代わりに残された物資であるそれらも端切れや金属として売れるので価値がないわけではなかったが、いま必要なのは金銭ではない。
せめて使える騎士剣の一本でも残っていればアキトの助けになるはずだったが、さすがに引き払う拠点にそんなものを残すわけがなかった。専門の鍛冶師が手がけた騎士剣は高価で貴重だ。
鉄くずを魔法で鋳溶かしてそれらしい剣を作るのも不可能ではなかったが、ミラベルは武具の専門家ではない。鍛冶師が手がけた騎士剣ほどの強度は見込めないし、時間もかかる。
執務室に隠していた金貨や貴石類は残っていたので路銀の心配はない。それよりも騎士剣が必要で、欲を言えば自分の着る祭服か修道服が欲しかった。異界の装いが嫌いなわけではなかったが、移動の際に人目を引いてしまう。
「こんなはずじゃなかったんだけどなぁ……」
まさか妹マリアージュに水星天騎士団を率いて東方に赴くほどの気概があるとは思っていなかった。財産の相続先をマリアージュに宛てていたのは確かだったが、それは万が一の際に妹が路頭に迷うような事態を憂いたからであって、自分たちの跡を継いで欲しかったわけではない。
なのに、いくらなんでも妹たちの行動は早過ぎた。マリアージュを見誤っていたのかもしれない。あの子はセントレアで門番をしていれば満足だろうとどこかで高を括ってしまっていたのだ。ミラベルはやはり溜息をつく。
うまくいかないことばかりだった。
法の福音の一計で現界に戻ることができたのは、きっと彼に感謝すべきなのだろう。思えばあのとき、目の前の危機に対して誰も冷静ではなかった。たった一人で異界に残った、法の福音も含めて。
あのまま留まれば全滅もあり得た状況だったと、情報を整合した今はミラベルにも分かる。それが半ば結果論だったとしても、撤退を指示した姫路と強行した氷室は正しかった。
平和な世界の教師と、引退した元往還者が正しかったのだ。
そして竜種を撃破したのはアキトであるし、眠る自分を現界に運んだのは瑠衣の体を借りているルカという少年だったという。
一方、自分は何もできなかった。
「……」
危機はもう、皇国内どころかひとつの世界にすら留まる話ではなくなってしまった。継承戦や東方連合との戦争という尺度ですら手に余っていたというのに、街の修道女ごときに何ができるというのだろうか。
遺物が手元にあってさえ、自分は大して役に立てていない。それに心奥の鍵は多用できる類の力ではない。その後救済が現れずミラベルの肌感覚としての理解だったが、あの力は明らかに世界樹に負荷をかけていた。下手に扱えば取り返しのつかない事態を招きかねない。むしろ、あの場での自分は竜種よりも大きな脅威だったのだとミラベルは理解している。
往還者の恐ろしさは身に染みて分かっているつもりだった。
しかし、智解の福音。来瀬川姫路が獲得した福音を本人の口から大まかに説明されたとき、ミラベルは目の前が真っ暗になるような思いがした。
人心を読み取る。それほど痛ましく残酷な力はない。
人間は腹の内に色々なものを溜め込んでいるものだ。それは綺麗なものだけでは決してない。皇都の貴族社会で揉まれたミラベルにはよく分かる。人間が上辺を繕うのは、そうしなければ社会が成り立たないからだ。
能動的にしか働かないよう制御できるならいい。でなければ、姫路はもう人の中では生きられないだろう。彼女が福音の力に溺れることのない人格を有しているとしても、危険は常にある。人の醜さに触れて人を疎んじてしまうようにもなるかもしれない。大き過ぎるその力が知られれば狙われることもあるかもしれない。姫路ならよく理解しているはずだった。
なのに彼女は笑っている。楽観しているでもなく受け入れている。やがて来るだろう超越者の苦悩も、これから戦場に行くという苦難も。すべて覚悟した上で彼女は門をくぐったのだ。アキトの手を取って。
なら痛ましく思うのではなく、心強く思うべきなのだろう。
姫路はひとり異界に辿り着いたミラベルを受け入れ、アキトを救命した大恩ある人物である。一緒に居てくれるなら実際とても心強い。彼女の力もあらゆる危難に対して大きな助けになる。本人もそう望んでいる。
なのに、やるせない感情が沸いてくるのもミラベルには否定しきれない。
比べてしまう自分がいる。もしかすると、自分はもう誰にとっても必要ない存在なのではと考えてしまう。誰も居ない、がらんとした礼拝堂でそんなことを考えてしまうのだ。
いいえ、弱気はいけない。ミラベルは頭を振る。
やるべきことははっきりしている。なら粛々とやるだけだ。異界を襲う竜種の脅威。兄アーネストの蛮行。きっと、どちらもロスペールで決着がつく。ならアキトをロスペールに送り届けるのが自分の使命なのだ。
奮起して最後の木箱の蓋に指を掛ける。軽く釘が打たれているのか蓋は硬く閉じられていた。魔力も使って強引に指を滑り込ませると、蓋が弾け飛んでミラベルは箱ごとひっくり返った。
「わあっ」
けたたましい音がした。尻餅をついたミラベルは床に転がる壊れた脚甲などを見て嘆息する。なんでもないことで転げるだけならまだしも、箱の中身も他と変わらない鉄くずばかりだった。
一人で来たのだけは幸いだった。出立の待ち合わせ場所であるセントレア南門は遠く、誰かに失態を見られる心配はないだろう。
ミラベルは昔から外面を維持するのに苦労していた。たまにつまらない失敗をする呪いにかけられているのだ。自身だけがそんな目に合うのは統計学的に有り得ないため、おそらくは政敵にかけられた呪いだと彼女は考えている。ただ、その呪いが客観的に証明されたことはない。
片付けよう。
惨めったらしい思考を打ち切り、皇女は立ち上がる。
その時、礼拝堂の出入り口から微かな笑い声が届いた。
くつくつとした、押し殺すような細い笑い声。
ミラベルは驚く他ない。いくら間が抜けていても、剣聖マルトに仕込まれた自分がこの距離まで人間の接近に気付かないなどということはまずない。
振り返ったミラベルは、逆光の中に小柄な人影を見る。誰何するより早く、人影が声を発した。
「いやぁ、ごめんねぇ。君らがどういう状況なのか分かんなかったからさぁ……いったん遠くから様子見てたんだけど、その感じじゃ偽物ってわけでもないんだねぇ……今までいったいどこにいたんだろうねぇ」
「……あなた!?」
覚えのある声だった。
ミラベルは手首に鎖で巻き付けた心奥の鍵を抜き放ち、長杖に変えて先端を影に向ける。
人影は首を傾げた。
「あれ? 亜遺物……じゃないのか。あーあ、やっちゃったねぇ、ミラベル様。あんたが真人間をやめるなんて思わなかったよ。あんなに生きたがってたのにさぁ」
喋る人影の造形は人体としてのバランスが奇妙だった。よく見れば片腕を吊っていて、なにか、ボリュームのある服の上から体中に包帯を巻いている。それは負傷への対処とするには奇妙な処置だ。
目を凝らした皇女は、その服がフリル過多なエプロンドレス。ルース・ベーカリーの制服であることに気付く。しかし分からない。彼女がそこに居て、それを着ている意味が、ミラベルにはよく分からなかった。
彼女は、かつて剣の福音と九天の騎士の全員を相手取り、圧倒し、追い詰めさえしてみせた最強最悪の帰参者。
剣の外典福音。
「アルビレオ……ッ!」
ある意味、ミラベルの罪の形そのものである少女の姿をした兵器は、包帯巻きになった半分の顔で邪悪な笑みを浮かべた。
「死んだとでも思ってた? 残ぁ念だったねぇ……ひひっ」
<7章に続く>
6章は当部分までとなります。
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7章ロスペール編は戦闘だらけになります。
お読みいただきありがとうございました。




