30.皇女殿下②
詰め所裏の菜園。
どこか朴訥そうな印象の若い騎士が、乱雑に置かれた黒板の前に立っている。
手にはチョーク。黒板もチョークもセントレアの学校からウィルフレッドがわざわざ転移魔法で運んだものだ。町長の許可は得てある。
詰め所の前に並んだ九天の騎士達と俺、そしてカタリナと皇女殿下は、騎士の男が黒板に記した現況の図を眺めていた。
「現在、セントレア南平原と東街道付近に展開している水星天騎士団の戦力ですが、まず南平原に騎士が百十五名、従士が十七名、その他諸々が五名。騎馬もありますが多くはありません。東街道には騎士が二十名です。人数的に水星天騎士団の全戦力が投入されていると見て間違いありません」
どうも名前が出てこない騎士の男は、カツカツと黒板にチョークを走らせると、セントレアの街を俯瞰した図の下に、大きな凸マーク――部隊記号を記入する。展開している水星天騎士団を表しているのだろう。
記号は東の街道外れにも書き加えられた。
「ほお……大仰だな。奴等は城でも落としに来たと見える」
毒刀使いの男が肩をすくめてほくそ笑む。
九天の何人かがつられて笑うが、チョークを持つ若い騎士の顔は険しいままだ。
「対するこちらの戦力は、正式に協力関係を結んだカタリナ店長と門番のタカナシ君。それに我々、負傷中の筆頭と捕まったハリエットを除く九天の騎士、七名。計九名になります。セントレアの自警組織は一般市民ですので、あてにはできません」
「戦力差……何倍なの、これ」
地味な印象のショートカットの女騎士がぼやく。この騎士も名前は思い出せない。
正確に言えば、カタリナは体質的に戦力に数えられないのだが、それがあろうとなかろうと、彼我の戦力差が絶望的であるには違いない。
「戦力差も酷いですが、そもそも人質を取られているので我々は戦えません。捕まっているハリエットは南平原の野営地にいると考えられますが、警戒が厳しく容易には近寄れません」
「ミラベルから私とウィルフレッド宛に書状が届いている。我々が手向かうようなら、ハリエットを即刻処刑するそうだ。他の者に関しては、そもそも生きていたと知られておらんようだが、知られれば同様の措置をとられるだろう」
杖をついて静かに佇んでいたジャン・ルースが言うと、それを聞いたウィルフレッドが抜き身の大剣の切っ先を地面に突き刺しながら声を張り上げた。
「なんて卑劣な! ジャンさん! 今すぐハリエットを救出に行きましょう!」
義憤に燃える青年の呼び掛けに、隣に立つ筋肉質の巨漢も頷く。
しかし、ジャンは静かに首を横に振った。
「俺はこのざまだ。土遁術は使えん。あの数を相手に潜入する術が他にあるとすれば、毒蛇の隠匿術とお前の転移魔法くらいなものだが、どちらも一人用。辿り着くことはできても、囲まれて三人とも殺されるだけだ」
「しかし……!」
「ウィル、ちょっとは頭を使いなさい」
食い下がるウィルフレッドを手で制し、長槍を携えた黒髪の少女――サリッサが一歩前に出た。
すたすたと黒板に歩み寄ると、赤いチョークで図に矢印を書き足していく。
「連中の主力が野営地に居る限り、ハリエットを無事に救出できる可能性は殆どないわ。もしやるなら、主力が野営地から離れた瞬間を狙うしかない。たぶん、ちびっ子の引渡し時間になったらセントレアの南門まで出ててくるでしょうから、その隙に全員で野営地を叩くのがいいと思う」
「悪くない案だが……ちょっと待ってくれないか」
「なによ。何か文句でもあるわけ?」
思わず口を出してしまった俺に、サリッサの鋭い視線が突き刺さる。
虜囚術式を解除した一件から何となく態度に棘があるとは思っていたが、やはり何か怒っているようだ。原因に心当たりはないので置いておく。
俺は教会で遭遇した奇怪な攻撃を思い起こしながら尋ねた。
「アルビレオって名前に心当たりのある奴はいるか? どうもミラベルが連れてるようなんだが、姿を確認できなかった。どんな騎士か知りたい」
その質問で、明確に場の空気が変わった。
騎士達は一様に表情を固くし、カタリナですら目を見開いて驚愕を露わにしている。
ただ一人、静かに瞑目していた線の細い騎士の男――クリストファが、誇張でなく初めて、口を開いた。
「アルビレオは騎士ではない。ウッドランド国教会が作り出した兵器を指す名だ」
「兵器?」
「本来は戦争の趨勢を決めるような局面にのみ投入される存在だ。詳細は秘されているが、その力は一個で小国を落とすと聞く。私達全員でかかったとしても、恐らくは戦いにすらならない」
誇張でなければ途方もない話だ。
あの原理不明の攻撃自体は対応できなくもない。だが、たったそれだけで国を落とすとは考え難い。まだ底が見えていないと考えるのが妥当だ。
ミラベルが九天の騎士をあっさりと切り捨てたのも、このアルビレオという手駒の存在が大きいに違いない。
「アルビレオには未知の部分が多い。交戦はできる限り避けるべきだ。ここは危険を冒して人質の救出を試みるよりも、一度マリアージュ殿下を連れてセントレアから撤退し、反撃の機会を窺うべきだ」
「何だと!? 奴等はこの街を制圧する気でいるんだぞ! 街を見捨てることになってしまうではないか!」
「制圧といっても、まさか焼くわけでもあるまい。些事に過ぎん」
「なんだと、貴様! どこまで薄情なのだ!」
毒刀使いと筋肉達磨が掴み合いの喧嘩を始める傍ら、ようやく状況を飲み込んだらしい皇女殿下が、顎に当てていた指を離した。
それを見るや、隣で控えていたカタリナが声を張った。
「傾注せよ! 殿下がお話になられる!」
やはり彼女は、侍女というよりは騎士だ。
凛としたその態度には、普段の彼女が纏っている明るい雰囲気は微塵もない。
ある種の威圧感さえ伴った号令に、取っ組み合いを始めそうになっていた男二人は直立不動の姿勢になった。
よく躾けられてるなあ、などというどうでもいい感想を抱きながら、俺もマリーの方を向く。
「貴殿らが高名な騎士である、ということは先ほど承知した。しかし、人質をとられてしまっていては手はあるまい。ルース卿、貴殿にはこの状況を打開する策があるか」
「人質を見捨てる以外で、という意味でありますかな」
「無論」
合理主義の男であるジャンなら平気でやりかねないが、彼もマリーがそんな方針を取らないだろう事は理解している。
ただ、彼女の自由っぷりはそんな生易しいものでは済まない。
「ありませんな。セントレアからの脱出が妥当かと思われます」
ジャンは間を置かず、即答した。
マリーも即座に頷く。
「であれば、貴殿らはそのようにせよ」
「……と、言いますと」
虚を突かれたような顔をするジャンに、マリーは腰に下げた長剣の柄を指で叩く。
「わたしは残る。わたしだけが逃げて、街の民の平穏を乱すわけにはいかん。そして、わたしの剣はここに下げているものだけだ。貴殿らを任命した覚えはない。ゆえに、貴殿らがわたしの負け戦に付き合う必要もない」
そう。街を見捨てるという選択も当然、彼女には有り得ない。
ジャンは困ったような視線をカタリナへ向けるが、カタリナも苦い顔で目を伏せるのみだ。こうなったらマリーは頑なだ。カタリナが何を言っても聞かないだろう。
「貴殿らも生きておれば再起を図れよう。人質の件は姉上に助命を願ってみるつもりだ。確約はできんが、ないよりはよい。今はそれで納得する、というわけにはいかぬか」
その場の騎士達の誰もが絶句する中、珍しく言葉に窮したジャン・ルースは、しばらくの黙考の後、苦渋の混じる声音で端的な返答をした。
「……承知しました。マリアージュ殿下のご武運をお祈りします」
「うむ。貴殿らも息災でな」
それを聞いたマリーは満足げに頷くと、白い外套を翻して立ち去っていく。
残された騎士達は、呆然と彼女を見送るしかない。
俺も騎士達を振り返ることなく、足早にマリーの後を追った。
既に日はかなり傾いている。沈むまで、そう時間はかからない。
白い外套に身を包んだ皇女殿下の背中を追っていた俺は、彼女が南門の前で立ち止まったのと合わせて、足を止めた。
この田舎町のボロい門は、こんな日も変わらずボロいままだ。
「この門、蝶番が錆びついていて引っかかるのがとてもよくないと思うのだ。燭台も底が抜けておる。新調した方がよい。だいたい、積石も崩れかけているではないか。もう作り直した方が早いかもしれんくらいだ」
「はは、仰るとおりで」
急にぷんすかと怒り始めたマリーの後ろに立ち、俺は笑う。
全く彼女の言うとおりだ。というより、彼女が来る以前から俺も思っていたことだ。
だが、この街には形骸化した門なんぞに改築資金を出す余裕はない。壊れるまでそのままだろうし、壊れても直される事は恐らくない。
何事も、そうやって少しずつ終わっていくものなのかも知れないと、俺は思う。
「わたしは、ちゃんと門番になれたのだろうか」
だが、静かにそう尋ねるこの少女は、まだ終わるには早過ぎるというものだ。
本人がどういうつもりであれ、ぼんやりと暮れ行く空を見上げるマリーの姿を見ていると、強くそう感じる。
だから俺は、本心とは真逆の言葉を口にした。
「実は俺、殿下の数万倍は門番をやってますけど、その俺から言わせてもらうなら、まあ、殿下の門番レベルはまだまだこれからってとこですよ」
「なんだと……貴殿は手厳しいな。しかし、数万倍は言い過ぎではないか。野菜売りのご夫人が言っていたぞ。タカナシ殿は去年の収穫祭から門番になったのだろう。たかだか三倍か四倍程度だ」
「あれ、そうでしたっけ。ま、大した差じゃありませんよ。長い目で見れば」
またいい加減なことを、と苦笑する皇女殿下に、俺は再び笑いかける。
「ところで、殿下。こんな辺境の収穫祭になぜ人が集まるか……知っていますか?」
「ん? そう言われてみればおかしな話だな。この街には食べ物しかないというのに」
マリーは首を傾げる。無理もない。
ただの辺境の街であるセントレアには、本当に何もないのである。
「しかし、この街、この時期だけは面白いものが見れるんですよ。外から来る連中の目当ては、大体それでしてね」
「ほう?」
「早速、殿下にもお見せしましょう。特別ですよ」
俺は興味深げに見守るマリーの前で、両の掌を掲げる。
それから手早く指で宙に陣を描き、魔素を込めた掌を地面に押し当てた。
長い月日をかけて外壁に貯蔵した莫大な魔力を一気に消費し、セントレアの外周に遺されている古い魔法陣を起動させる。
陽炎のような揺らめきが外壁から立ち上るや、真っ直ぐに空へ伸びていく。
無色の魔素だ。やがてそれは徐々に、雲のない空から降り注ぐ、白い大粒の雪に姿を変えていく。
「……ゆ、雪!? 今の魔法で、天候を操ったのか……!?」
マリーは、セントレア中にさらさらと舞い始める雪を驚きと共に見つめる。
さしもの皇族も、こんな魔法は見たことがないだろう。
この大魔法は、かつて俺が仲間に頼み込んで作ってもらった一点物だ。無理もない。
類似した魔法はどこにも存在しない。
だが、この有名な「セントレアの秋雪」は、この魔法の副産物に過ぎない。
この魔法の名は、忘却という。




