49.ノー・ウェイ①※
手の中で鳩が鳴いている。
長年に渡る田舎暮らしで家畜の類は見慣れている俺だったが、さすがに飼い鳩に馴染みはない。鳩は家畜というより使役動物の類である。小さな荷物や文書などを運ばせるのが一般的な用途なのだが、生憎と街の外に用事のない身である俺は鳩を飛ばしたことなどない。少なくとも記憶にある限りは。鶏なら一時期詰め所の庭で飼っていたのだが。
よって、鳩が手の中でぽっぽこぽっぽこと鳴いていても何を食わせればいいのか分からないし、そもそも何か食わせてもいいのかも分からない。恐らくは鶏と同じくミミズか何かを食べるのだろうと考え、それならそこらで勝手に食うだろうと納得し、結局、俺は何もせず窓から鳩を放した。
細かい羽音をたてながら、鳩は空へと遠ざかっていく。いったい何処へ帰るのか向かうのか。冬期の寂しい麦畑を越えて、みるみるうちに見えなくなった。遠い山の稜線をも越えて、きっと別の街まで行くのだろう。
手元に残った紙を広げ、書かれていた文章に目を落とす。現界では伝書鳩も古風でも何でもない。魔術の絡まない通信方法としては優秀な部類に入る。結界の類に探知されないのがメリット。デメリットは文書が盗まれる危険性があるということで、通信内容や緊急性のバランスをとるのが難しい面があるらしい。という俺の知識は百年近く前の話なので、どこまでが現代に通用する知識なのかは不明なのだが。
「……なるほどな。助かったよ、ジャン」
ひと通り目を通した後、俺は手紙を着火の生活魔法で焼き捨てた。仕掛けのある紙だったらしく一瞬で燃え尽き、僅かな煤すら残らなかった。
煤が落ちたところで誰も気にすまいが、と投げやりに考えるのはいささか寂寥を覚えているせいだろう。なにせ勝手知ったる門番詰め所に誰も居ないなどということは、本当に久しぶりだったからだ。
俺たちは現界に戻ってきた。
さほど長い期間離れていたわけでもないはずだったが、そもそも往還門での移動はタイムラグがない。よって俺は前回の移動時、つまり剣聖マルトとの戦いに敗れた後、ミラベルの手によって異界に移動した時点に戻ったはずだった。
しかし、懐かしき田舎街セントレアは予期していたような争乱の最中にはない。飛行艦スキンファクシの姿も空になく、街の各所で戦闘を繰り広げていた騎士たちの姿もない。
細雪の降る商店街は閑散としていて、セントレア唯一のパン屋は閉店の札がかかったままだ。鍛冶屋ももぬけの殻で、医院も開いてはいたが女医の姿がなく、引退したはずの老婦人が一人で患者を診ている。教会の野営地はなくなっていた。
よく知っている筈の街が、まったく別の街に変わってしまっているかのような様子だった。思わず別の可能性分枝や時代に飛ばされたのではないかと考え、町長の元に転がり込むまで半ば恐慌状態だった。
なにせ往還門は事実上使用不可能なのだ。少しでも異界に戻ればあちら側の事態が悪化する。少なくとも事態収拾の目途をつけるまでは――城塞都市ロスペールで天蓋を開こうとする竜種の目論見を阻止するまでは、往還門を使用するわけにはいかないのである。
そして俺たちは、慌てふためく町長から俺とミラベルが行方不明になって以降の経緯を説明され、多大な衝撃を受けることになった。
あの降誕節の戦いからひと月が経っていた。
世界樹間の移動で時間がずれたのは二度目だった。一度目は過去。今回は未来。例によって原因は分からない。どちらも異界から現界の移動だが、ずれた時間が異なっている。その差が一体何から来るものなのか、何を引き金にしているのか、俺は仮説すら立てることができていない。
そして俺が最も驚いたのは、相棒マリアージュ・マリア・スルーブレイス皇女殿下が往還者二名を含む九天の騎士と、木星天騎士団の一部を吸収して肥大化した水星天騎士団、それから第三皇子本人とその手勢といったセントレアに駐留していた勢力を独力で糾合し、飛行艦で東方遠征に出てしまったことだ。
話を聞いたミラベルは卒倒しかけていたし、東方連合の人間であるルカなどは恐怖で顔が引き攣っていた。頭数だけ考慮するなら小国の軍に匹敵する戦力なので無理もない。質まで考えて客観的に判断するなら、指揮者次第で主力の撃滅まで出来るだろう。遠征目的はあくまで人命救助であるらしく、上位の騎士も大勢同行しているので滅多なことはないはずだったが、東方の戦線がどういった状況にあるのか俺には想像もつかなかった。
そうして、俺はもぬけの殻になっていた門番詰め所で一夜を明かした。
やはり自分など居なくても進んでいく世界や時間に物思いを馳せていた――わけではない。既に腹も道も定まっている。ロスペール行きは確定していて、休息と荷造りが必要になっただけである。
翌朝の計ったようなタイミングで伝書鳩がやってきたのは偶然としか言えない。もしかすると魔術的な仕掛けがあるのかもしれなかったが、追及する暇はない。暇を持て余す門番生活を送っていたのが遠い昔のように思え、埃を被りつつある丸木のリビングテーブルもどこか懐かしく映るほどだった。
テーブルには上等な紙箱がある。宛名だけが書かれた簡素なカードが添えられていて、そういえば降誕節だったと思い出して開けてみれば、中身はシックな色合いのマフラーと手袋だった。差出人の名前はない。
思わず笑ってしまった。
「誰だろうな」
心当たりが多過ぎて分からない、というのは幸せなことなのだろう。しかし、誰にも何も贈れず降誕節を過ごしてしまった身としてはいささか苦しい。それに誰からの贈り物であっても、俺が生きているとは思っていないだろう。お供え物のようなものだと考えると受け取るのも気が引ける。俺は死んではいないのだ。
少し迷ったものの、俺はその真新しいマフラーを首に巻いた。生地が良いのか非常に暖かい。着替えがないという理由で異界の現代人そのままといった俺の出で立ちにも、無地のマフラーは違和感なく馴染んでいる。
世界の境はもはや曖昧だ。
それは詰め所を出た途端にも実感させられた。
厚着したルカ・ドーリア、外見上は完全に日本人の小比賀瑠衣が神妙な顔で立っていたからだ。背には槍だの斧だのの長柄装備と長弓が括られた背嚢、両手には長剣を携えている。鼻息荒く、彼女もとい彼は言った。
「遅いよ、タカナシくん。準備に何時間かかってるのさ」
「そんなかかってないだろ……というか、それは何人前の装備なんだ。なんだってそんなに持っていく必要がある」
「備えあれば憂いなしって言うだろ。きみ、ここからロスペールまでどれだけかかると思ってるのさ」
「備え過ぎだ。いったい何と戦う気なんだ。長旅したことないのか」
「行軍の経験ならあるさ。馬鹿にしないでくれ」
「おまえは知らんが俺たちは軍属じゃないし、戦争しに行くわけじゃないんだよ。ルカに危ない橋を渡らせる気もない。手で持てる分だけにしておきなさい」
むっとした顔で睨んでくるルカだったが、数秒悩んだ結果、手に持っていた長剣二本を俺に投げて寄越した。困惑する他ない。
「俺は一本しか使わないぞ」
「予備だよ、予備! 剣壊したら一巻の終わりって、そんな情けない剣の英雄があるものか!?」
「あるんだよなあ」
「分かってるなら対策しろよ! 馬鹿なのかきみは!」
「落ちてたら拾ったりもできるだろう。できるだけ長持ちさせる努力もしてる」
「落ちてないだろ剣は! ああもう、よくそれで長生きできたよね……! だいたい鎖帷子のひとつも持ってないていうのは何の冗談なんだ……!」
プンプンとよく怒るルカ。異界で痛い目を見たばかりなのでまったく正しいのだが、武芸者として見る俺は身軽さと技巧が身上なので死重になる武器や防具は遠慮したい、というジレンマもある。
受け取った剣は一束いくらの量産品といった造りだったが、たまたま逗留している行商隊から買い付けた品なので文句はない。辺境の田舎街で武器が手に入るだけでも重畳である。
鍛冶師のチェスター老やコレットが居ればまだ良かったのだが、二人も遠征に同行しているらしいので頼れない。
あとはもう出先の街で調達するくらいだろうか。
「はあ。じゃ……ぼくは行商人に槍とか返してくるから……」
怒って疲れたのか、ルカはげんなりした様子で牧歌的な農道を引き返そうとした。いや荷物が重いのもあると思うので俺のせいだけではないだろう。
やや考えてから、言った。
「ありがとな、ルカ。たしかに俺は予備の剣を持ったほうがいい」
「……」
貰った双剣を剣帯に差しながら軽く笑って見せるとルカは少し驚いたような顔をした。それから不意に、苦虫を噛み潰したような表情になる。
「あの、さ」
「ん?」
「白瀬さんは……アリエッタはどうなったと思う?」
「それは……難しい質問だな」
俺たちが異界で送り出した白瀬柊がどうなったのか。
自然に考えれば、彼女は千年前の現界に行き着いたはずだ。しかし、世界樹の構造を知ったいま確かなことは何も言えない。彼女が辿り着いた可能性分枝が俺たちと同じである保証がない、とするのが正確な表現だろうか。
もしかするとあの柊は俺の知らない枝で違った歴史を歩んでいくのかもしれないし、そうでないのかもしれない。蓋を開けてみるまでは――ロスペールに居るだろう彼女と再会するまでは何も分からない。
ただ確かなのは、今俺たちがいる可能性分枝は元々居た世界と何ら変わってはいないということだけだ。ルカはそれを悪い材料として見ているのだろう。
確定していない未来はきっと変えられる。氷室もそう言っていたが、逆に言えば、確定している未来はどうあっても変えられないということだ。悪く考えてしまうのは無理もないし、心構えとしては常に悪い状況を想定するべきだろう。
しかし、それで前を向けなくなるのでは頷けない。
「でも、それを確かめに行くんだろ。構え過ぎても仕方がない。あ、ルカにとっちゃ帰るだけだから尚更だな。もっと気楽にしてていいんじゃないか」
「気楽にって……簡単に言ってくれるよなあ」
「帰れるのが嬉しくないのか?」
「……そんなことはない、けどさ」
ドーリアに戻るのは本人の希望でもある。嬉しくない筈がない、というのは瑠衣の顔に赤みが差している様子でも分かるのだが、どうやら喜色が十割というわけでもないらしい。
異界での出来事を尾を引いているのだろう。天蓋の件を非道と断じたルカだが、竜種の行いはおそらくドーリアとは関係のないものだ。ましてやルカに責任はないだろう。異界のことにまで心を傷める筋合いは彼にはない。気にしているようであればそう言おうと思ったのだが、
「……いいよ。また後でね」
しかしルカは何も言わず、踵を返して商店街の方へ歩いていった。少し気にかかったものの、無理に聞き出すのも違うだろう。黙って見送ることにして、俺は逆方向に歩き出す。
積み石の街壁の中にぽつんとあるセントレア南門は、番兵の姿がないこと以外は相変わらずだった。
不在中は街の数少ない若い衆が門番業務をやってくれているらしいのだが、日中の暇な時間帯はほぼ無人であるらしい。それで大きく困らないのがこの街の恐ろしいところだと俺は思う。
これをきっかけに門番の制度自体が廃止されるということもあるのかもしれない。すると俺はいったいどうやって飯を食っていけばいいのだろうか。ちょっと困ったことになる気がする。
「ま、それもこっちに残るなら、か」
いつか往還門は閉じるのだという。
俺が閉じるのだと氷室は推測していたようだが、誰がそうするにせよ俺は身の振り方を決めきれない気がする。
現界か、異界か。どちらにも選ぶ理由がある。エイルの言っていた俺が「選ぶ者」だという言葉はそういう意味ではないのだろうが、悩ましい話ではあるのだ。
できれば遥か遠い未来であってほしい。
まだ今の俺に選ぶ勇気はない。
「あはは、どっちも捨てがたいよね!」
街門の影からひょこっと顔だけを出した影が、底抜けに明るく言った。
まさか独り言だけで俺の思考を読んだわけもない。似たことが彼女には元々できるとしても、さすがに顔を見ずにというのは難しいだろう。
「はあ……あんま人の頭の中覗かない方がいいですよ」
「ええっ? なんで?」
「分かるでしょう……素知らぬ顔でおよそ人には言えないようなことを考えている、という場合はあります。知りたくもないでしょう、そんなもん」
俺とて精神と肉体は健全な青少年なのだ。暗黙のご配慮を賜りたいところなのだが、その女性は首を傾げて無邪気に問う。
「え、タカナシくんって、およそ人には言えないようなことを考えてるの?」
「一般論ですよッ! 俺が特別なわけじゃないですって!」
「えー? えー? たとえばなにー?」
掘り下げられても困る。
たとえばそう。かつての俺は決め台詞を用意していたことがある。あれはいつだったか、柊に「五右衛門」というあだ名を付けられそうになった時のこと――
「って、やめてください。マジで思い出しそうになりました」
「……」
気付けば彼女はスンとした顔をしていた。
どうやら期待と違っていたらしい。
そうは言っても期待通りに思春期青少年らしい下世話な想像をしていたらどうやって収拾をつけるつもりだったのだろうか。この人は。
「エヘェ」
案の定、恥ずかしそうに顔を赤らめて小さくなってしまった。
「おおい、思春期って単語だけでそのザマじゃないですかッ!」
「下世話って単語もあるよッ!?」
「じつは性的な意味合いなんかないんですよ、下世話って単語には! あなた教師でしょうが!」
「えっ、それはちょっと巧妙な罠じゃないかな!? っていうか手慣れ過ぎだよ! 考えを読むモンスターとかと戦ったことがあるの!?」
「まあ似たようなのと何回かは……モンスターではないですが」
現界に彼女の言うモンスターに相当する概念は無い。獣版の魔力使いともいうべき魔獣や、人類よりもっと魔素寄りの生態を持つ魔族の類が近いのだろうが、一種族として認められているのでモンスターという表現は妥当ではない。そして、そういった強大な存在が扱う魔術でさえ、おそらく彼女ほどの読心は不可能だろう。
理解の大径に連なる新しい往還者。
智解の福音。
大きな革鞄と共に門の影から歩み出てきたその人は、外見上は何も変わっていなかった。中学生といっても通用しそうな小さな体に大きな瞳。異界の現代人らしい雰囲気も、明るい振る舞いも、なにも変わらない。
だが違う。彼女が既に自分と同種のものだと今の俺には解る。この異質な存在感は器に近い。
当時の俺が気付かなかっただけで、もしかするとカタリナやサリッサも同じだったのかもしれない。鍵を使った状態のミラベルほどではないのだが――
「きみさぁ……ちょっとこっちの世界に女の子の友達多すぎない?」
「……お、男の友達もいますよ」
「ほーん。思い出しもしてないじゃない。やっぱりタカナシくんは気が多いんだね。ま、まあ? 思春期の男の子はそういうものだよね」
彼女は勝手に頭の中を読んで口を尖らせる。
いや、いるよ。友達。います。俺はぼっちではないはずだ。などという内心の釈明も、具体的な顔が町長やチェスター老くらいしか浮かんでこないので俺は悲しい。
肩を落とすばかりの俺であるが、俺の先生は論点のすり替えを許さない。
「本命は誰なのかなあ。やっぱりミラベルさんなのかな。んん? でも、きみが考える回数が多いのは……」
「うわあ、だから人の頭ん中読むのやめてくださいって!」
「あははっ! きみだけだから! 特別だよ、特別! やったね!?」
「ぜんっぜん嬉しくないですよ!」
抗議の声は届かない。
ああ。ただでさえ勝てる気がしなかったというのに、俺はもう永遠にこの人に頭が上がらないのではないだろうか。色々な意味で、そんな風に思う。
この人がここに居る時点で。本当に、色々な意味で。
俺の抗議からおどけて逃げる彼女は、
しかし、くるりとこちらを向いた。
「ねえ。私はどっちでもいいよ、タカナシくん」
冷えた朝の空気の中、来瀬川教諭が振り返る。
「どっちでも、きみと一緒に行くから」




