48.法の福音④
此処とは異なる世界、外殻大地に呼ばれた氷室一月が異境に跋扈する竜種を目の当たりにしたとき、驚かなかったといえば嘘になるだろうと彼は回顧する。しかし、それが単純な未知への恐怖や感動の類で終始しなかったことも、間違いのない事実であった。
なぜなら、その生命体は明らかに人為的な悪意をもって設計されていたからだ。巨大すぎる体躯に対し栄養価の面で足りるはずもない人類種や亜人種を糧とし、にもかかわらず貴重なはずの糧を殺戮する。外敵らしい外敵が居ないというのに、口腔からまったく合理性のない過剰威力の光線を放射する能力と、鉱物由来の装甲に比するほどの外皮強度を備える。なにより、刺々しく威嚇的な外見の造形。
冗句としか思えない。あの生物には必然がない。
氷室一月は科学の徒だった。
人類が神の被造物でないと確信している。生命の起源は何種類かのアミノ酸であると確信しているし、そこから人類にまで達するルートに確率の試練が無数無量にあったとしても神の手は入っていないと確信している。たとえ空白があろうとそこに奇跡はない。それは人がまだ知らないだけで、この世に科学理論で説明不可能な事象は無いと断言する。完全で健常な世界とはそういうものだと氷室一月は信じているのだ。
だから許せない。幻想とは相容れない。
まるで幼子がクレヨンで書き殴った怪獣のようなあの生物も、真摯に願うだけで願いを叶える魔法という概念も。無駄なく完璧に、完成されているはずの法則を乱している。美しく完全であるはずの世界を醜く貶めている。
まず、怒りである。
氷室一月という異邦人を衝き動かしたのは、生存のための戦略でもなければ彼を招いた神の思惑でもない。土着民族への同情や使命感も皆無ではなかったが、それらは主たる動力ではなかった。まずは不完全への激甚たる怒りである。
それは学生に書かせた論文の不出来へのそれを、何千倍にも増幅したかのような激怒であった。ひとつの式、ひとつの考証。一文字一単語の誤りであれば苦笑もしよう。しかし、なぜ、その世界は丸ごとひとつが間違っているのか。
否。不可。論外なのだ。もはや狂気の沙汰である。許せない。正さねばならない。その衝動が恐怖を上回ることこそが氷室一月の人間的欠陥であり、彼を竜戦争の英雄に押し上げる最大の要因でもあった。
神秘の否定。幻想との訣別。
氷室一月が法の福音を得るのは必然であり、長きの戦いを経て自家中毒的にそれを手放すのもまた、当然の帰結であった。奇跡を否定する奇跡などというものは矛盾している。不完全なのだ。氷室一月は不完全な世界を許さない。己の力であっても、同様に。
竜を殺し尽してなお、正されない世界も、同様に。
氷室一月が求めていた完全なる世界はどこにもなく、外殻大地の土着民族は氷室一月の知る世界と同じ道を――種族内における戦争の歴史を歩み始めた。むしろ引き金はより軽かった。魔法があったからだ。願うだけで叶える、あの忌まわしき理法があったからだ。
願うだけでそれを叶えるなら、人は塵のように死ぬしかない。人間には悪意があるのだ。悪意によって人が殺せるなら、人は悪意によって塵のように死ぬしかない。
引き金は軽く、作用は強力に。石器を手にした原人だって闘争にはもう少し苦労をしただろう。苦労があるから厭うのだ。苦労がなければ厭わない。だから魔法で人は塵のように死ぬ。
得意げに悪意を捏ねて、炎だの氷だの、敵を苦しめる為だけのおぞましい術を練っていく。やはり人は塵のように死ぬ。これも当然の帰結である。
糞だ。
糞くらえだ、こんな幻想は。
悲憤慷慨の境地に立った氷室一月が、外殻大地という世界に対して匙を投げるのも必然だった。彼は諦めを知らない向こう見ずな若者たちとは違っていた。
救えないものはあるのだ。かつて救われなかったものを氷室一月は体験として知っている。どれだけの努力を重ねても、どれだけ心を砕いても、救えないものはあるのだ。厳然としてあるのだ。
どれだけ無法と不合理を糾弾し、無力を嘆いて涙を流し、無心に僅かな可能性を追及したところで、どうにもならないものはどうにもならないのだと知っていた。彼はそこだけが、諦めを知らない向こう見ずな若者たちとは違っていた。怒りは既に遠く去り、彼は向き合うための力を失っていた。
背を向けて去るしかなかった。
逃げ出すしかなかった。
望みなど、もうなかった。
此処ではない何処かにも、完全なる世界はなかった。
***
「えっとつまり……どうして逃げないのか、ですか? それはまた唐突というか……変なことを聞きますね」
人の気配がない夜更けの森、野営の最中。
氷室一月と対面するマント姿の少女は、柔らかい微笑みのまま首を傾げた。
その様は、よくよく考えてみれば不自然な表情である。表情と言葉と精神状態が一致しない、つまりは幾分かの演技が含まれる言動だと氷室一月は読んでいる。
神秘の権化であるその少女は、十代の半ば過ぎといった年頃に見える美しい容姿をしていた。若く幼いながら、見目は魔性といってもいい。容貌と纏う空気にどこか異質な気配を有しつつも、空気を読まない物言いと愛嬌のある振る舞いで人との距離を詰めていく。
きっと計算高く、賢い娘なのだろうと氷室一月は評価している。
少なくとも、これは元の世界の若者たちとはまったく別の生き物だった。
「僕には……どうにも不思議だからね。未来云々の話はともかくとしても、君ならこの先がどうなっていくかなんて想像がつくだろうし、諦めた方がいいことだってあることも知ってるはずだから」
「ははあ、そうですねえ。諦めが肝心とも言いますからねえ。固執するより諦めたほうがいいこともあるというのも、たしかにひとつの真理でしょうねえ」
毒にも薬にもならない言葉を並べながら、少女は焚火の傍らで小鍋をかき混ぜている。中身は小麦粉とバター。ブールマニエだ。スープ類に粘度を足すための生地であり、味気ないものになりがちな野営スープの満足感を数段階向上させるのである。
食への造詣が深い。こういった小技も人心掌握のためかと勘繰ったこともあったが、この少女は一人の旅程でも同じようなものを用意して食している。単に食べるのが好きなのだろう、と氷室一月は結論付けていた。
「はは、煙に巻いてほしくはないな。これでも真剣に悩んでるんだ」
「あらら……珍しいですね。イヅキさんが悩むのは一夜の愛を語る相手を選ぶときだけかと思っていました」
「それこそ悩むようなことでもないよ。僕は美食家じゃないから」
「……自分で茶化してどうするんですか。まったくもって女の敵ですよね」
「偽らざる本心だよ?」
「なお悪い……と思わないあたりが酷いです。少し控えたほうがいいですよ。どれだけ夜を遊び歩いたところで、欠けた器に綺麗に合う欠片なんてそうそうあるものじゃないですから」
言ってくれる。
本心を見抜かれていることを氷室一月は不思議には思わなかった。この少女はたまにそういうことを言う。知っているからだ。真理か、未来か、神か。それらに準ずる何かに彼女も触れている。
「君は優しいね。無いとは言い切らないんだから。思わず口説きたくなってしまいそうだ」
「あはは。またまたご冗談を。イヅキさんが私のこと凄く嫌ってるのはよく分かってますから」
「えぇ……」
わざと弱々しく目を流してみても彼女の顔色は変わらない。
貴族のお嬢様なら一撃で落とす手も、この少女には通用しなかった。
「それに、優しさではなく本当のことです。絶対なんてものはないでしょう。だいたいのものは相対です。大小も長短も、好悪も。境界を決めるのは個々人であって他者ではありません。神とか運命とかでもない。要は気の持ちようです」
木べらで練った塊を大鍋に落とし、少女はスープをかき混ぜる。
氷室一月は笑った。
「気の持ちようで変わる、と。それも未来の話なのかい」
「どうでしょう? でも欠片が見つかるかどうかは、やっぱりイヅキさん次第だと私は思いますよ。あー……えっと、なんの話でしたっけ?」
「どうして逃げないのか、だよ」
「あ、そうでしたね。ごめんなさい」
微笑みを絶やさないまま、少女は言う。
「どうしても欲しいものがあるんです、私」
「欲しいもの?」
「明日です」
即答する彼女の言葉は、氷室一月には比喩に聞こえた。
「それは……朝露の光るレンゲの花だったり、雪どけのぬかるんだあぜ道であったり。起き出してきた鍛冶師のおじいさんがたてる槌の音や、道脇に積まれた干し草の匂い。遠くに見える家々の煙突から登る煙。クヌギの林に顔を出す動物たち。稜線に被る白い冠。私を呼ぶ、誰かの声……そういうものです」
ひとつひとつを愛おしそうに並べながら、少女は語る。
比喩でもなければ、それらは単なる牧歌的な街の――あまりにもありふれている光景に思える。少なくとも、氷室一月にはその価値を理解できない。
しかし、彼は乾いた喉に唾を送る。
気付けば呑まれていた。顔を微笑みで固定した、年端もいかない少女の姿をした何かが語るものに。その言葉の背景にあるだろう、何か、大きな意味に。
「そういうものに包まれた朝で、あの子の目を覚ましてあげたい。この長い夜を越えて、どこか……いつかで」
強い違和感がある。
気付いていても、氷室一月には問うことができない。
焚火の揺れる炎に浮かぶ、少女の微笑が許さない。
「それは……君が逃げたら手に入らないものなのかい」
辛うじて声に出来たのはそれだけだった。無意味な問いかけだけだった。
返答らしい返答はなく、少女はスープを木のボウルによそう。言外の答えに氷室一月は顔を伏せる。分かりきった問い。無意味な問いかけ。
彼と少女は北方の小国で紛争の兆候を調査する旅の途中だった。
他の仲間はそれぞれ別の国へ向かっている。火種と火薬とを抱えた国々へ。竜戦争を勝利に導いた英雄として、少しでも国々を諫めるために。
それでも、火が付く日は近い。やがて大きな戦乱の時代が来る。その予感を誰もが抱えていて、しかし、決定的な打開策を打てないでいた。
彼ら自身も離脱者を出している。短かった平穏の時は終わり、全員が分岐点に立っている。
まるで気にした風もなく、少女は言った。
「あなたは違いますよ、イヅキさん。あなたは私じゃありませんから。欲しいものがなんにもないなら、今日は逃げたっていいじゃないですか」
はっとして顔を上げた青年は、変わらぬ微笑みを見た。
「きっとそれは、いつか、本当に逃げたくないと思うとき逃げずに戦うため必要なことなんですよ」
スープのボウルと共に差し出されたそれは、その言葉は、いま思えばやはり優しさだったのだろうと氷室一月は回顧する。結局、あの少女が氷室一月に求めたことは来歴の不確かな槍の譲渡と、元の世界での資産の換金。それだけだった。どちらも彼に残留や戦いを強制するものではなかった。
もし彼女にそのつもりがあれば、できないことなどなかったはずだ。氷室一月はそう思っている。
***
一人、防波堤に立つ氷室一月は、僅かな間の回顧から意識を持ち上げる。
その海岸で来瀬川姫路と皇女ミラベルを押さえた後、彼は一歩も動いてはいなかった。彼女達を新田椎子に預け、高梨明人の自宅に運ばせた。その後は彼らに事情を説明し、行動を共にするよう言いつけてある。それが最も生存率の高い選択肢だと言い含めておいたので、この期に及んで椎子が指示に背くことはない。
彼女達には悪いことをした。
念の為に持ったままだった来瀬川姫路のスマートフォンは、既に魔素の影響で使い物にならない様子だった。高梨明人がどのような行動に出るのかは不確定な部分も多かったが、あの二人を引き合いに出せば彼は必ず動く。確認の必要はない。
彼は往くだろう。
「ここは僕に任せて先に行け、ってね……頑張れよ、明人君」
事が上手く運べば後で返却しなければならない。氷室一月は端末の電源を切って懐に収め、激しい魔力風の中、空に広がる天蓋、そしてそこから這い出ようとする巨竜の姿を見上げた。糞くらえの幻想たちを。
彼にはやはり、自己犠牲の精神などはない。勝算の低い戦いはしない。無駄な行為もしない。最小限の労力で最高の成果を出したい。その思考が結果的に自身の素の戦闘能力を高めることに繋がっただけで、能力を有しているからといって、こういった局面で前に立つ性質は彼は持ち合わせていない。
そしてそれ以前に、氷室一月に王級たるクウェンガデンを討ち果たす力はない。竜戦争当時、竜種の位階における実質上の第一位、王級の討伐は往還者三名以上の手を要した。例外は剣の福音、高梨明人の有していた祈りの剣のみである。
しかし、氷室一月には伏せた札がある。
無貌の神はいかなる理由によってか、各往還者に報酬を与えた。その事実を記憶しているのは氷室一月ただ一人だったが、それ故に彼は、報酬を自覚的に行使できる唯一の人間である。
報酬として彼が望むものは少なかった。
まず考えたのは死者の蘇生。それも、元の世界で遠い昔に失われた命――生命の福音ですら届かない範囲にある奇跡だった。それさえ叶うならと白い世界で考え抜き、計算し、無貌の神と永い時をシミュレーションに費やし、その果てに断念した。不可能だったからではなく、世界が払う代償が大き過ぎたからだ。己の利のみと引き換えにするには、あまりにも。
その他の望みはシミュレーションするまでもなかった。仮に実行可能であっても負の影響が顕著であったためだ。無貌の神が課した条件と制限は重く、報酬の甘い囁きはその実、極めて現実的な律に沿っていたのだ。
結局、後先を考える人間として氷室一月が手にしたのは、
未来への小さな保険であった。
将来、竜種に準ずる脅威が出現する可能性は無視できない。
竜種を討ち滅ぼしてなお、氷室一月は未来の想定をしていた。
それは少女の予言より早く、氷室一月が彼一人で導き出した疑念と懸念。
往還者との戦いである。
そして、その脅威に対抗できるのは自らの法の福音をおいて他にはない――
「――星の秤」
意思を込めた呟きが風に乗る。そのとき、真っ直ぐ伸ばした氷室一月の手には白い天秤があった。一対の皿を備えた、原始的な釣り下げ天秤。それはかつて彼が自ら破却した遺物そのものであり、まさしく法の福音の力の一片とも言うべき神器である。
法の福音による法の福音の無効化と破棄は、無貌の神との取引の際には既に決定していた。無貌の神に彼らの福音を取り除くことはできなかったが、法の福音は自己に対してのみ破棄が可能であると示唆した。
そうして、氷室一月は不本意な一計を案じた。もし遠い未来、往還者が脅威になるのなら、破棄されたはずの法の福音の存在は強力な切り札に成り得る。法の福音は往還者達の天敵とも言える力だったが、しかし、これ見よがしにその力を放棄して見せれば、逃げ出した男のことなど誰も警戒はしない。
もし何もなければ破棄したまま忘却すれば済む。しかし本当にもう一度、法の福音が必要になる局面が訪れたなら。報酬として得たふたつめの遺物を用いて再び福音を行使する。
臆病で狭量な大人として、氷室一月は未来に向けてそう備えていた。
そして彼は弁えている。
この伏せ札だけで終末的な現状が覆せるわけもない。これはあくまで対往還者戦を見据えた騙し討ち戦略であり、大量の翼竜や竜種といった別種の脅威に対しての使用は想定していない。
加えて、法の福音も弱体化している。取り戻したのは遺物を介して行使できる範囲、ほんの一片に過ぎない。いつまで保つかも定かでない。
理由も明らかだ。奇跡を否定する奇跡などというものは矛盾しているのだ。不完全なのだ。氷室一月は不完全な世界を許せない。許すことができない。遠いいつか、彼女の命を奪った不完全を認めることができない。そうして一度破却した代償がないはずもない。
それでも、彼は星の秤を起動する。
視野に収める幻想を天秤の片側に。有り得べからざる奇跡の否定を開始する。
構造計算上、可動するはずのない竜種の体躯の否定。
時空間を捻じ曲げ連結する魔術の否定。
それらの事象を支える、魔素なる元素の否定。
そして、もう片側の皿に対価を乗せる必要があった。
釣り合う対価は――ない。
反動を受けた彼は喀血し、コンクリートに膝をつく。否定の為に本来乗せるべき対価が、今の彼には用意できない。福音を破却し、総体との接続を断った氷室一月には並行世界からの熱量、光を汲み上げる術がない。大径は奸智と打算を許さなかったのだ。
知ったことじゃない。
己の狭量も、愚かしさも、氷室一月は十分理解している。そんなものは誰だって分かっている。賢しらにやり過ごすだけで万事が上手くいくなら、誰も苦労はしない。誰の目にも涙など浮かびはしない。
いつか、本当に逃げたくないと思うとき。
そのいつかが今日だというだけだ。
血反吐を吐き捨て、彼は固めた拳を皿に叩き付ける。その強引な行動は致命的な反動と共に、対価のない、不完全な形での現象攻撃を発動させる。それは奇しくも、高梨明人が遺物を手放してなお、切断の現象攻撃を取り戻した過程と近似していた。
万法帰一。
本来の射程を大きく逸脱しているのもあり、不完全な法の福音の現象攻撃は効果が減衰していた。天文学的な魔力量を相殺しきれず、彼は更に血を吹く。反動は臓腑にまで達していた。
しかし、空の彼方、天蓋から這い出んとする巨竜の前肢が動きを止め、天蓋の彼方にある異郷の地表が微かに霞んだ。空間そのものが震えるかのような振動が大気を伝播し、魔力風が凪いでいく。
赤く染まる視野にそれらを収め、氷室一月は端整な顔に不敵の笑みを刻む。
彼に夜を退ける力はない。
その立場に居ない。
しかし、夜の帳を今しばらく退けることくらいは、できる。できるのだ。だから地に膝をつき、息を切らしながらも血濡れの中指を立て、言うのだ。
「糞くらえだ、幻想」




