47.往還門
甘かった。
地上の街の被害は俺の想像を超えていた。現界の大気すら比較にならないほどの魔素が充満した芥峰の街に、意識ある生命の気配は残っていなかった。いたるところで道行く人々が倒れ、事故も起きていた。自動車が突っ込んだ住宅の脇を走り抜ける際、思わず足を止めてしまいそうになった。
こんな魔素濃度の中では魔力感知など役に立たない。感覚もとっくに狂ってしまっていた。住宅に突き刺さった車の運転席を直接確認し、運転手らしい男性が昏倒しているだけだと確かめてから、俺は彼を放置して歩みを再開した。
どうすることもできない。
郊外である芥峰まで被害が及んでいる。つまりそれは、首都圏全域を魔素が覆いつつあるということだ。戦慄するほかない。
今起きている事態は、もはや天変地異の域に達している。すべて対処するのは物理的に不可能で、俺には時間もなかった。
「こんな……こんな非道があっていいはずない……!」
走りながら引いたルカの手に力がこもる。その悲憤が異界での生活によって齎されたものだったなら、俺たちはやはり立場を異にしているだけで分かり合えるのだろう。しかし互いの理解を深める時間も、やはり今はない。
ルカも俺が手を繋いで、接触面を介して魔力障壁を張っていなければ数秒で気絶するだろう。倒れ伏す異界の人々のように。
「いったい何が起きてるんだよ! クウェンガデンに……竜種にこんな力はないはずだろ!?」
ルカの疑問はもっともだ。彼がどこまで竜種の能力を把握しているのかは不明ながら、首都圏一帯、一千平方キロを超える面積を高密度の魔素で制圧するなどという芸当は、王級の上位竜種にも不可能だ。竜種の膨大な魔力をもってですら魔力量の計算が合わない。
「今押し寄せてるのは……おそらく、現界の魔素だ」
「……え!?」
「向こうと比べれば異界は魔素の空白地帯だ。クウェンガデンが通ろうとしてるあの穴を通じて、現界側の魔素が圧力差で噴き出してるんだろう」
「そんな……あ、圧力差……? そんなのどうしようもないじゃないか……」
「ああ。それ自体はどうにもならない」
世界の魔素含有量の差をどうこうする、というのはおよそ人間に可能な次元の話ではないだろう。無貌の神ですらおそらく不可能だ。
魔素が世界樹間を移動する性質を持つという話は、この天蓋を指しているのだろうか。だとすると、そもそも世界樹間に圧力差がないと成り立たない手段である気がするが、なら竜種の言う大いなる理とは――
「いや、今は考える暇もない、か!」
薄緑がかった靄のように見える魔素の塊を手で叩き払い、俺は走った。
同様の靄や可視化された魔力風などが渦巻く、もはや魔界か幽世といった様相の街を突っ切る。
引っ張り回されるルカが悲鳴のような問いを打った。
「どうするつもりなのさ!」
「考えはある!」
留まって戦う選択肢はもうない。
クウェンガデンが天蓋を通過した後、仮にあの巨竜を討つことができたとしても、どれだけの時間がかかるか分かったものではない。その間に天蓋から噴き出す魔素で、少なくとも首都圏は壊滅する。最初から天蓋はそういう規模の厄災で、クウェンガデンを倒せるかどうかは最大の問題ではなかった。
「往還門を使って現界側から穴を閉じる! 間に合うか分からないが、もうそんな手段しか残ってない! ロスペールに行くぞ、ルカ!」
自分にも言い聞かせるように宣言すると、ルカははっきりと言った。
「……ああ! こんなこと、ぼくだって絶対に許さない!」
それがどういう立場で、どういった見方による発言だったのか。先を走る俺にはルカの顔は見えなかったが、握った手にいっそうの力がこもったのは確かだった。それだけでも彼を連れて行く理由は十分だが、瑠衣がもし不完全な招きを受けた結果としてルカと入れ替わったのなら、絡んだその糸を正す方法は分からずとも、まずは状況の完全な把握が必要だ。二人を対面させなければならない。
植樹林を横手に見ながら道路を走り抜けると、俺たちの住むマンションが見えた。エントランス前の道路に乗り捨てられた乗用車を見止め、俺は更に足を速める。
その車が氷室一月のものである確信はない。こんな状況では彼らが芥峰まで辿り着けなかったという可能性も十二分にあった。混迷を極める現状、その方が良かったのかどうかは判断が付かない。
いずれにせよ、ルカを抱えて四階の共用廊下まで跳び上がったとき、腕を組み、四○二号室のドアに寄り掛かっている女性と視線が合った。
何かを待っていたらしいその女性は、虚を突かれた様子で欄干に立つ俺を見ていた。見覚えのある顔だった。
「新田さん?」
「本当に……あなたも人間じゃないのね。高梨明人君」
新田椎子。氷室の助手のような仕事をやっていた女学生だが、実際のところは米国の諜報員だったと聞いている。
俺に抱えられたルカが無言で拳銃を向けるのと、新田女史がポケットサイズの銃を抜いたのはほぼ同時だった。
詳しい経緯は知らなかったが、この二人は一度やり合っている。互いに発砲が無かったのは単に状況のせいだろう。こんな状況でなければルカも新田女史も撃っていたに違いない。二人とも、そう実感させられる動きだった。
「やめてくれ、二人とも。新田さんの銃撃は魔力障壁で防げるし、ルカは身を守ろうとしているだけで新田さんを攻撃する理由がない。時間の無駄だ」
加えて、新田女史は魔術的な防御を施されているように見えた。でなければ今の芥峰で意識を保っていられるはずがない。銃撃に耐えうる保護かまでは分からなかったものの、検証する意味はない。
新田女史は銃を下げず、薄く笑った。
「こっちにもあなたたちの相手をする理由がないわ。私は言いつけどおりに荷物を運んだだけ。まあ、あなたが現れなければ別の仕事もあったのだけど……先生の言ったとおりになったのだから、もう用なしね」
銃口をこちらにポイントしたまま、新田女史はゆっくり後退していく。そのまま退散する気なのだろうが、声を掛けずにはいられない。
「この状況でどこに行く気なんですか。安全な場所なんてありませんよ」
「あなたに心配される筋合いもないわ。もう会うこともないでしょう」
「ふざけないでくださいよ」
資料室での彼女は天秤で観測を担当してくれていた。
それが短い間の、たとえ仮初の姿であったのだとしても、身を案じる程度の理由にはなる。こちらはいたって大真面目だ。
しかし、新田女史はふっと頬を緩めるだけだった。どこか覚えがあるその表情に、俺は、自分の認識が誤っていることを悟る。
ああ、くそ。
やられた。
「氷室は……どこですか」
「……」
確認の言葉にも答えず、新田女史は目を伏せる。その姿はやがて廊下の曲がり角に消えた。追うべきかとも一瞬考えたものの、俺は静かに欄干から降りる。
新田女史の顔は意思を固めてしまっている人間のそれだった。だからもう、きっと彼女を追っても無駄なのだ。幸運を祈るしかない。
「え、なに? どういうこと?」
「……さあな」
不思議そうに俺を見上げるルカを降ろし、俺は四○二号室の――自分の家のドアを開ける。
玄関からも見て取れる。室内にも魔素が充満しつつあった。
靴を履いたまま真っ直ぐ寝室へ。そこにはやはり、ベッドに寝かされているミラベルと来瀬川教諭の姿だけがあった。氷室一月の姿はどこにもなかった。
俺はスマートフォンを取り出し、起動した画面に表示されたアンテナが全滅しているのを確認して、息を吐く。どうやら文句を言うこともできないらしい。
「ちょっと、なに突っ立ってんのさ! 往還門を使うんでしょ!」
どん、と俺を弾き飛ばし、ルカは瑠衣の声で喚きながらベッドへ駆け寄った。眠っているらしいミラベルの肩を担ごうとする。
「おい、夜明けの! 吸血姫はぼくが運ぶから、きみは来瀬川先生を……」
「……いや、悪いが待ってくれ」
「なに!? 時間ないんでしょ!?」
「すまない。少しだけでいい。少しの間だけ、廊下に居てくれ」
納得できない、といった顔のルカだったが「頼む」と頭を下げると、何かを察したようにベッドと俺を交互に見た。
それから溜息を吐いて、廊下に戻っていった。ドアは開いたままだったが、閉めようとは思わなかった。
俺はベッドの傍に膝をついて、横向きに寝かされている来瀬川教諭の顔を見る。そうではないかと思ったとおり、彼女の目は開いていた。彼女に新田女史と同様の保護魔術が施されていたのを、俺の目は見逃さなかった。
至近で視線が交わっても、来瀬川教諭は何も言わなかった。押し黙ったまま、静かに涙を流していた。おそらく、ずっと。
だから俺は、内心の動揺を取り繕うように言葉を絞り出す。
「だいたい……何があったのかは分かります。俺も上手く乗せられました。でも……今から外に出て、あいつを殴って連れてくる時間は多分、ない」
「……」
「魔素が押し寄せてきてて……手が付けられそうにない竜種もこちら側に来ようとしてる。防ぐには、現界側から穴を閉じないといけない。だから……俺は行きます」
平時の明朗快活な印象に隠されているだけで、来瀬川教諭は驚くほど整った容貌をしている。笑顔が消えるとより顕著になる。触れることが許されるのかどうか躊躇うほどで、それでも、俺は彼女の眦に伝う雫を指で拭った。
来瀬川教諭は何も言わず、静かに首肯するだけだ。
彼女は聡明な女性で、きっと俺が思っているより色々なことを理解しているに違いない。往還門のことも、世界樹のことも。
俺がどうするべきなのか、自分がどうするべきなのか、彼女の中では定まっているのだろう。新田女史がそうだったように。
俺にも、正しい答えが分かっている。
ここまでだ。
彼女は連れていけない。連れていくべきではない。この可能性分枝に留まるべき人だ。得体の知れない無貌の神ですら手を焼く、まるで訳の分からない高次接続者とやらになどなってしまう人ではない。普通の人だ。住む世界が違う。そう納得していたはずだ。置いていくべきなのだ。
だが、俺はもう。
この人を置いて、往還門をくぐることは、できない。
俺は非才で、頭も悪く、選ばれし者なんかではない。たまたまこうなった。無貌の神が俺を選んだのも、本当にたまたまだった。こんなに滑稽なことはない。
それでも。それでも。それでも。無限に積み上がった自分が、剣の福音が、俺を動かしてきた。動かすことができた。要はそれだけだった。俺はそれだけだったのだ。
認めてしまうしかない。メティスの言う通りだ。
耐えられるわけがなかった。戦いにも、千年にも。耐えられるわけがないのに動いている。まるで不死者のように。俺はそういうものだった。そして、これからもそういうものであり続ける。そうでなければ叶わない願いが、ある。なら俺はそれでいい。
でももし、許されるなら。
「先生」
酷く乾いた声が喉から出た。
来瀬川教諭の瞳が動く。何も言わず、彼女はただ答えを待っている。
それは別れの言葉だろう。再会を約束する言葉だろう。論理的に、倫理的に、常識的に正しい、しかし何の裏打ちもない答えだろう。
そして時間はない。常に。
飾り立てる言葉も、正当な理由も、俺にはない。
正しい答えではない。それはただの、独り善がりな告白だった。
「一緒に……来てくれませんか」
「え……」
そもそもが丸い目をさらに丸くして、来瀬川教諭は身を硬くする。
俺の中にも恐れは生まれたが、もう遅い。口火を切ってしまった。一度そうなってしまっては、もう止められなかった。
「俺は……俺にはもう、先生の居ない明日が想像できない。先生の居ない明日を、立っていられる自信がない。だから……」
「高梨くん……?」
異界で記憶を拾ってよく分かった。俺が本当に欲しかったものは、此処ではない何処かでも、不条理を否定する力でもない。目と背を向けて忘れ去った、遠い過去の家族と幸福だった。それが俺の渇望の正体だった。
だから、剣の福音が俺を満たすことはない。
どれだけ誰かを救っても、誰かが俺を救ってくれるわけではなかった。大勢の誰かにとって俺の手が必要でも、俺にとって誰かの手が必要なわけではなかった。
来瀬川姫路は、俺が本当に欲しかったものの姿をしている。
幸福のかたちをしている。
おそらく、誰よりも。
家族のように、友人のように。迷い、悩み、誤ってばかりの俺を導いてくれる、温かな灯火。だから眩しく、強く惹かれる。手に入らないと分かっていても。
それさえあれば、俺は何にだって耐えられるのだと思えるほどに。
「俺と、一緒に来てください」
死の強要に等しく、ある意味では上回るその言葉を、来瀬川教諭がどう捉えたのかは分からなかった。俺に彼女の心を読む術はなく、彼女も茫然と俺の言葉を聞いただけで返答をしなかった。
彼女にとって誘いが迷惑だろうことも、不本意であろうことも、俺はよく分かっている。なぜなら、来瀬川教諭は俺を必要としていない。
彼女が亡くなった親友を俺に重ねていることも、だから世話を焼いているのだということも、俺はもう知っている。そしてその善意は、彼女が人を辞める理由にはならない。それではきっと命が軽すぎる。
だからきっと、来瀬川姫路の物語に俺は要らない。
矛盾した願いを振り切って、俺は先に進むしかないのだと分かっている。
結局これは本当に手前勝手な行動でしかなく、年頃の男子高校生がちょっと気になる年上の女性に告白まがいの言動をして困らせるような、そんな、青臭く仕方のない儀式にも似ていたのかもしれない。
なんにせよ現在と永遠はイコールではない。
時間はない。常に。
来瀬川教諭の大きな瞳に、沢山の色が過ぎるのを俺は見る。本当に綺麗なその輝きに、もう未知の光はなかった。理解があった。一瞬、状況を忘れて見入ってしまうほどに。俺は満足だった。
やがて、来瀬川教諭の唇が言葉を紡ぐ。
この可能性分枝が閉じる前の、ほんの僅かな一時に。押し寄せる魔素がすべてを覆ってしまう前に、俺はその言葉を聞いて、胸に刻むだろう。己の愚かしさを忘れないための教訓か、それとも別の何かになるかは分からずとも。
そうして、俺たちは異界を離れる。
変え難きを変えるため、滅びの未来とやらを変えるために。
最後の往還が始まる。




