46.選択⑤
「――そんな馬鹿な話があるかッ!!」
気付けば、俺は叫んでいた。
到底、受け入れられない。
福音によって齎された断片的な記憶も、氷室の言葉も。
往還門を開いたのは、俺だったと。そしてそれが、往還者達に与えられた報酬なのだと示唆するような記憶が、僅かに蘇ったのは事実だった。
いや、記憶が蘇った、とはまた違うのだろう。あれは俺の記憶ではない。内容の信憑性はともかく、彼と俺では背景からして著しく異なっている。
マリアが居ないのだ。
少なくとも、記憶の中の彼は想起すらしていない。
千年前のことをよく覚えていないとしても、俺が彼女のことをまったく念頭に入れないなどということは有り得ない。柊との関係も身に覚えがない。もし彼女とそんな関係だったのなら、という仮定すら論ずるに値しない。彼女たちがどうというよりも、俺自身がそれほど器用に立ち回れる人間ではないからだ。
おそらく、この記憶自体が異なる可能性分枝、
別の枝の記憶なのだ。
だが、それにしたってどう考えても辻褄が合わない。
世界樹の存続が無貌の神の目的なら、明らかにその障害にしかならない往還門を認めるはずがない。往還門は未知の部分が多いとはいえ、分かっている機能だけでも害の方が多いのだ。時間移動も、世界樹間の移動も、メリットよりリスクが大きく上回っている。
俺の中では、往還者に世界樹間の移動を許すことと、往還者の排除や無力化が全く結びつかない。多少の慰めにはなるかもしれないが、どう考えてもそれだけで世界樹の危機とやらを回避できるとは思えない。
大体、往還者が世界樹の存続に関わるような脅威なのだとしたら、別の世界樹に渡る手段を与えるなど言語道断のはずだ。二つの世界樹を両方危機に陥れるだけで、むしろ事態が悪化している。
まるで訳が分からない。
無貌の神は、いったい何を考えていたのか――
『その様子は……なにか思い出したと見ていいのかな』
潰さんばかりに握り締めていたスマートフォンから声が届き、俺は我に返る。驚きと恐怖で凍り付いたルカと、険しい表情の永山管理官の視線がこちらに集まっていた。今、彼らに対して言えることは何も無い。
「……思い出したって表現が正しいのか分からない。記憶が見えた、としか言いようがない。認めたくはないが……」
『やはりそうか。重力波か未知の波動を介して外部記憶と通信しているのだろうね。きっかけさえあれば引き出せるのか、帯域の問題なのか。君が祈りの剣を取り戻したことも関係あるのかな。興味は尽きないところだ』
「お前は何を知ってるんだ、氷室」
『大したことは知らない。ただ、僕は法の福音のおかげで色々免れたということなんだろう。君たちと違ってね。そのすべてを話す時間はないが……何を伝えるべきかな』
法の福音――奇跡の無効化。
仮に千年前、何らかの魔術や福音の影響を俺たちが受けたのだとしても、氷室一月には対抗手段があったということだ。或いは、無貌の神による干渉すらも退けたのかもしれない。
記憶に作用する叡智の福音や、精神に作用する慈愛の福音のような例を考慮すると、俺の主観はあまりあてにならない。似た権能が秘されて用いられたとしても気付けないだろう。むしろ、自分すら信用すべきではないのだ。その意味では、氷室一月の言葉は最も公平で最も信用できる。
『そうだね。別に、僕も君が往還門を開いた瞬間を目撃したわけじゃない。けど、君が暴竜の王を殺したタイミングであの鉄扉が現れたこと、こちら側の出口が君の家であること。これらはいかにも奇妙だし、君に都合が良すぎる。まるで君が使うことを前提としているかのようじゃないか』
「だからって……俺が開いたとは限らない」
『確かに状況証拠に過ぎない。これだけであれば疑念で留まるかもしれない。でもね、僕は聞いてしまったんだよ』
氷室が苦く笑う気配がした。
『帰還のための門は既にある。その扉は境界の番人が開き、境界の番人が閉ざす、とね。だから僕は僕の、ささやかな報酬を別に貰うことができた』
ちょうど、そんなことを宣いそうな存在に心当たりがある。
「無貌に会ったのか」
『ああ。彼の口ぶりからして全員が個別に報酬を貰ったんじゃないかな。誰が何を受け取ったのかは分からなかったし、その時は境界の番人とやらが誰のことか分からなかった。今は明らかだ』
「そんな話、一言も聞いてないぞ」
『覚えているのは僕だけのようだったからね。話してもややこしいことになりそうだったし、厄介事は御免だった』
確かに、ただでさえ離散寸前だった往還者達に自分だけ報酬を受け取ったとは――少なくとも、その自覚があるのが彼だけならば――言えないだろう。氷室一月が利益を独り占めするような人間ではなかったとしても、疑いの目は向けられていたのではないかと思うし火種にもなっただろう。
『僕はね。ただ元の世界に帰りたかった。いい加減、逃げ出したかったんだよ。剣も魔法も糞くらえだった。呪文だけで人を塵のように殺せる世界なんて僕には耐えられなかった。君たちに付き合いきらなかったのは、結局それだけなのさ』
「……」
責めるつもりはなかった。世界に向き合わず田舎街に引き籠っていた俺も、大差ないからだ。責める資格などない。
『マリアが未来のことを僕に語ったのは、法の福音である僕には彼女の小細工が利かないからだろう。それに、こうやって元の世界に逃げ帰るのも見えていたんじゃないかな。そうして、来たるべき時に、君に情報を与えて送り返す保険にしたんだろう。こんな風に彼女の話を聞いたら、高梨君も現界に戻らずにはいられないだろうからね』
「……どうかな」
確信めいた氷室の言葉にも、俺はただ戸惑っている。冷めているわけでもないが、彼が言うほどマリアに対する衝動はない。
心境の変化がどの時点で訪れたのかは不明瞭だが、生きてさえいてくれれば会えなくても構わないと今の俺は思っている。
少なくとも、冷静に物を考えることはできている。
「マリアが未来を知っていて、仮に千年先に俺の手が必要だったのだとしてだが、どうして彼女は俺に何も言わなかったんだ」
『不都合があったんだろうね。もし千年一緒にと言われたら付き添ったかい』
「待つよりは自信があった」
『……悪女の類だね、あの子は。置いていくより行動を共にした方が確実だったと僕も思うが……ああ、いや。まさか……そういうことなのか……?』
氷室は何かに思い当たった様子だったが、口にはしなかった。彼が何に気付いたのか俺には分からない。俺にあるのは整理した情報から導き出される曖昧な推測だけだ。
往還門が発生する前の俺の記憶にマリアは居なかった。
その差異は別の枝だから、ではないはずだ。なぜなら無貌の神はすべての可能性分枝、すべての枝において等しく往還者を招いたからだ。人数の差異があるとは思えない。
なら、そもそも彼女は無貌の神が招いた往還者ではないのだと推測できる。本来の往還者は八人であり、彼女は違うのだ。では彼女は何なのか。
そして、往還者を創り出す手段はもうひとつある。
往還門だ。
俺たちのように無貌の招きによって世界樹を離れ、総体と接続した千年前の往還者。カタリナやサリッサ、ミラベルのように往還門によって世界樹間を移動し、結果として総体と接続した現代の往還者。彼女は前者を装った後者だったのだ。だとすると、往還門が発生する前の記憶に彼女がいないのは当然だ。
マリアは、おそらく――
『鍵は君だ。君なら未来を変えられるかもしれない。君とマリアの関係を考えても、必然的にそういう結論になる。往還門を使うんだ、高梨君』
「……くそっ」
俺は、そんな筋書きに乗ってやるつもりはない。
往還門に頼らず、慎重に動くべきだ。異界に被害も出さず目先の脅威を退け――これ以上、往還者を増やさない方法を模索する。それも不可能ではないはずだ。
だが、完全でもない。
異界に被害を出さず、などと言えた状況でないのは明らかだった。
軋む音がする。
おおとりの機体が、ではない。世界そのものが軋んでいる。そう気付いた直後、余りにも膨大な魔素の奔流を知覚し、総毛立った。
異界の大気に魔素は殆ど無い。地上の有機物、一部の無機物に僅か含まれる程度であるはずだった。
しかし、まるで堰を切ったかのように大量の魔素が大気を流れているのを俺は感じた。それは低きに落ちる水。まさに怒涛の如く、空から落ちてきている。天蓋から噴き出している。
その影響は、もはや人にとって毒に等しい。
魔素にあてられた誰かの、嘔吐する音が聞こえた。短い叫びも。
しかし俺は、スマートフォンを耳に当てたまま、視線を動かすことができない。機体の窓の向こう、茜に変じつつある空の孔から、目を引き剥がせない。
何かが、這い出ようとしていた。
魔素の吹き荒ぶ空に指と爪とをかけ、首を伸ばし、決して超えてはならない境界を超えようとしていた。
それは、幻想としての竜とは違う。
誇り高く、自然の化身として描かれる偉大な種族などでは決して、ない。
貌も、角も、腕も、爪も、その身を覆う白銀の鱗一枚でさえも、鋭利で禍々しく悪意に満ちた形をしている。有り様だけで生き物の心を引き裂き、魂を啜る造形をしている。
秩序から混沌を望むもの。
魔素と共に世界樹を渡り、汚染する悪しき夢。竜種。
顕われるだけでこれか――!
『銀色……! しかも王級とは……ッ!』
陪神が噛んでいた時点で高位の竜種だと予想はしていた。しかし、銀の鱗を持つ高位の竜に関して言えば俺でさえ覚えている。
北方山麓の主。石化の息吹を吐き、石礫の嵐を身に纏う、五竜王の一柱。
「クウェン……ガデン……!」
巨竜の名を口にしたのは俺でも氷室でもなかった。青ざめたルカが窓に齧りつくように乗り出していた。
ルカが知っている。ドーリアの王族が。だとすると、あれは。
「……ロスペールの竜種、なのか」
天蓋の穴はもはや漆黒ではなかった。噴き出す魔素の光と巨竜の向こうに異なる世界、鏡合わせのようになった現界の地表が見えている。城郭と都市らしきものが微かに映っている。
点と点が繋がる。
おそらく、あれはロスペール城塞都市なのだ。
『っ……いけない! それ以上あの穴を観測するな! 早く往還門に……』
「ば、馬鹿言うなッ! あんなものが来たら誇張抜きで世界が終わるぞ! 見捨てて行けるかよ!」
『だから最初からそう言ってるだろ! この救いたがりの分からずやめ! またそうやってひとりで世界中の不条理を背負い込むつもりか!?』
「……!」
驚く、というより俺は困惑した。
記憶している限り、氷室一月がこんな風に激昂したことはない。飄々としていて掴みどころのない、己の本心など面には出さない青年だった。その違和感を探るより早く、氷室は言った。
『君がやらないなら僕がやろうか!? 幸い僕なら千年前に戻れるからな! ああ、未来を変えるくらい楽勝だろうさ!』
そんなわけがない。
氷室は福音を手放している。そしてそれ以前に、一つの目的のために千年越しの計画を実行するなどと、尋常の精神力では不可能だ。そんなもの、ひとりの人間に実行可能な計画だとは思えない。
そんなことは彼なら理解している筈で、実際、そのとおりだった。
『……当然、僕だけじゃ無理だろうな。そうだ、来瀬川さんとお姫様にも来てもらおうか。どうも彼女たちは特別のようだし、理解してくれそうだ』
「な……おまえッ!」
絶句した俺は、気付く。
なぜ氷室が来瀬川教諭の電話番号で接触してきたのかを。
ああ。最初から、こういうつもりだったのだ――
『選べよ、剣の福音。君がやるか、僕にやらせるか。時間はないぜ――』
彼の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、おおとりの機体が大きく揺れた。咄嗟に振り返れば、操縦席の落合操縦士が前のめりに突っ伏し、無理矢理身を乗り出した永山管理官が必死の形相で操縦桿を握っていた。
背筋に悪寒が走る。
魔素にあてられたのは落合操縦士だったのだ。
「永山管理官!」
俺は電話を切り、懐に収めて彼に駆け寄る。
高級官僚に航空機の操縦などできるはずがない。ましてや、彼は片腕を負傷しているのだ。
しかし、彼は傾いだ眼鏡の向こうで目を細めて笑った。
「は、は……手伝いは無用ですよ、高梨君。私でもこのまま飛び続けるくらいはなんとかなるでしょう」
「何言ってるんですか……んなわけないでしょうが」
「いえ……それより、落合君に何が起きたのか分かりますか」
「魔力酔い……だと思います。耐性がない人間にこの濃度の魔素は毒です」
操縦席のキャノピー越しに見える空に、可視化されるほどの濃度で魔素が荒れ狂っていた。眼下の街にも海上から光の濁流が押し寄せ、津波のように伝播していく様が見えた。
異界人には耐性などあって無いようなものだ。おそらく、屋外に居た人間は魔力酔いで全滅だろう。
「それは……死ぬような症状ですか?」
「短時間の暴露なら……個人差もありますが、気絶する程度で済むと聞いたことがあります。長時間晒されると気が触れるらしいですが……」
俺自身は経験のない症状なので断言はできない。
それでも、永山管理官は僅かに安堵した様子で言った。
「……分かりました。では、君は瑠衣と自宅に向かってください。私は落合君を無事に降ろした後、職務に戻ります。後のことは任せてください」
「えっ!?」
「時間がないのでしょう? 准教授とは短い付き合いですが、理由もなくああいう真似をする人ではないでしょう。かといって、放っておけるわけもない」
永山管理官は被ったヘッドセットの耳当てを左手のギプスで軽く叩いた。
会話を盗聴していた、らしい。何がどこまで筒抜けだったのか、もう分からなくなってしまった。思えば、この人も公安の人間なのだった――
「高梨君。君が何故、何を躊躇っているのか私には分かりません。ですが、もしその理由が他人を背負い込んでのことなら、もうやめなさい。身勝手でも独りよがりでも、たとえ分の悪い賭けであっても、そうしたいと思う最善を目指しなさい」
「……」
「私から見れば、君は、出会った時から揺るぎないその答えを持っていたように思いますよ。どうか忘れないように。瑠衣と来瀬川さんを頼みます」
穏やかにそう言うと、それきり、永山管理官は前だけを向いてしまった。
リスクが、あるのだ。
往還門には。
俺たちがこの世界樹から移動した後、この枝が存続しない保証はどこにもない。俺たちが戻らなければ、当然、この世界は竜種に蹂躙されるのだろう。俺の与り知らない、何処か別の可能性として。
それは罪だ。邪悪なのだ。見捨てるのと同義だ。そう叫ぶ声がする。俺には聞こえる。そして幾度となく往還門を使った俺は、おそらく、幾度となく行方不明の少年として誰かを悲しませたのだ。無限の図書館で見た、あの日記のように。
ああ、でも。
だけどこの俺は、彼女と指きりをした。
必ず生きて戻ると約束をしたのだ。
そのときに得た答えと笑顔が、まだ俺の中で生きている。
だったら、俺はこの枝に戻らなければならないし、戻れるはずだ。
そうでなければならないのだ。
小難しいことは俺には分からない。そう信じてこの道を行くしかない。そこに何もかもを丸く収めるための、僅かな望みがあるなら。多大なリスクなど、知ったことではないのだ。ここで行かなければ俺ではないのだ。
そして、滅亡の未来とやらも、世界樹の危機とやらも、なんとかする。
してみせる。
おおとりの進路は、とっくに芥峰に向いていたらしい。
未だ恐慌の中にあるルカの手を取り、機体の後部ドアから空中に躍り出してから、俺は眼下の見覚えのある街並みを見て、その事実にようやく気が付いた。
なんとか作り出した魔素の足場を蹴り、地上に降りながら振り返るおおとりは既に小さくなっていて、永山管理官の顔は見えなかった。
俺はただ小さく頭を下げ、魔素の足場を蹴って地上へ向かった。いまや魔力の風が吹き荒れ混沌が渦巻く、生まれ育った街へ。




