45.編まれる門
エンドロールの先も、どうやら人生は続いていく。
幾千の夜を超え、幾万の敵を乗り越え、十二年にも渡る長い冒険の日々を終えた高梨明人は無地の世界で佇んでいた。
どこまでも白一色の、何も無い平面ばかりが広がる場所。
竜戦争最終局面。強大なる暴竜の王を遂に滅ぼしたこの少年は、直後にこの何もない場所に移動させられていた。
共に戦った仲間たちの姿はなかった。恋人である白瀬柊もそこには居なかった。だから状況が何も分からないままでも、明人はただ立っていることにした。
彼には分からなかったからだ。
他者が居ない。つまりそれは、正すべき不条理がないということだ。
求められる姿がないということだ。
普通の少年であることも、兄であることも、幼馴染であることも、友人であることも、仲間であることも、英雄であることも、恋人であることも。そのすべてが必要ないということで、そうでしかなかった。それらを差し引いた後、明人には何も残らなかった。
幾千の夜を超え、幾万の敵を乗り越え、長い冒険の日々をやり遂げた感慨も、特には無かった。何故なら、それは当たり前であるべきことだったからだ。
飢えは満たされなければならないし、苦しみは除かれなければならない。死は遠ざけられなければならないし、悪は滅びなくてはならない。
ひとつの世界に平和が齎されるのもまた、そうでなくてはならない。その方がいいからそうして、そうなった。それだけのことだった。
勿論それは喜ばしいことで、もし其処に他の誰かが居たなら明人も共に喜んだだろう。喜びを表現し伝えることは正しい。
しかし、今は誰も居ない。
なら喜ぶ理由がない。
彼は、其処でなら高梨明人を演じることなく、積み上がった大勢の一片で居ることができる。其処は世界樹の外だったからだ。
「高梨明人」
声のような不明瞭な音がして、明人は緩慢に振り返る。
白色の世界にぽつんと、黒い染みのような人影があった。
明人は発話した。
「驚いたな。あんた意思の疎通ができたのか、無貌」
それは仲間内で不定形とも、無貌とも呼ばれる存在だった。
明人を含め、全ての福音が招きの時に目にした何者か。しかし、見る者によってその姿を変えるのか、姿形の話が一致しない曖昧な存在。神のような何か。
高梨明人はそれを呪いも恨みもした。多くの枝でそうだったように、外殻大地という過酷な世界に仲間たちを追いやったと思しい者だからだ。
「あんたは結局なにがしたかったんだ」
「なに、とは?」
期待せずに放った言葉が返り、明人は首を回す。
まともな会話が見込めるとは思えなかったものの、仲間たちが苦しんだ理由は明らかにしておかなくてはならない。
「……狙いだよ、あんたの。俺達になにをさせたかったんだ。このタイミングで現れるってことは、竜種を倒させたかったってとこか」
「なぜだと思う」
「質問に質問を返すなよ。外殻大地を平和にするため、とかか? どうせ裏はあるんだろうが」
「おまえの言う平和とはなんだ」
明人は失笑する。
「ざけんな。禅問答かっての」
悪態をついてその場に座り込んでみせたが、無貌に動きは見られない。
答えを待っているのだと解釈し、明人は幻想を吐いた。
「争いがない世界、とかかね」
半ば答えを理解しつつあったこの少年は、興味本位でそう言った。もし無貌が神なのだとしたら、神がその幻想をどう捉えるのか明人は知りたかったのだ。
答えは見えかけていた答えのまま、無貌の影から放たれた。
「宇宙すべての変化は長い時を経て、やがて停止する。それはおまえの言う平和に最も近い均衡状態と言えるだろう」
明人は吹き出して笑った。
「はは……あんたにとっちゃ熱的死が平和か。どういう感性してるんだ」
「おまえは均衡を望んでいるのか」
「よしてくれ。そんな宇宙的視野は持ってないよ。なら、ひとつの星に限った均衡状態を実現するとする。これならどうなるんだ」
「熱量を持つ星という概念は均衡として定義できない」
「うわ、あ」
絶望的に融通が利かない。明人は白い虚空を見上げ、溜息を吐いた。
これが神なら世界に悲劇が満ちるのも道理だろうと明人は思う。それを察したのか、無貌の影は音を発した。
「争いがないという条件に合致する星なら、夜空を見れば幾らでもあるだろう」
「生き物もいないだろ、それ」
「でなければ条件が成立しない。生態系と競争は不可分だ」
薄々分かっていたことだ。
おまえの幻想は実現しない。
そう、神のお墨付きを貰っただけのことだった。明人は笑った。
「……ああ、そうなんだろうけどな」
自分の行く末もおぼろげに理解して、明人は頭を切り替える。
「齟齬も解消されたところで聞きたいんだが、結局あんたの目的はなんだ」
「世界樹の存続と運営」
言葉の音と伝わる意味が微かにずれている感覚があったものの、明人は聞いたままを理解した。世界樹とは、という問いを投げるより早く、無貌と明人の間に光の樹が生えた。
「おまえの認識する世界に時空の概念を足したものが世界樹だ。これは細部を省略して具象化したものだが、此処に大小や座標の概念は無い。そのものと捉えても支障ない」
その光の樹は明人の目には二メートルほどに見え、名前負けしているように思えた。世界が樹の形というのも直感的には理解できない。彼の知る出身世界のいくつかの神話では、世界樹とは天を支えるか地から生えているものだった。
「分かるような分からないような、だな」
「正確な理解は必要ない。おまえに可能でもない」
「そうかい」
明人は身振りで先を促す。無貌も応じた。
「かつて、世界樹の運営に障る外的要因があった」
「外的要因? 竜種か?」
「それは完全な理解ではない。要因そのものは素と表現できる」
予想と異なる返答に明人は眉をひそめる。
「魔法の素か。なんだってそんなものが世界樹とかって大きなスケールの概念に影響できる」
「素は、世界樹間を移動する性質を持つ唯一の存在だ」
「……そういうことか」
再び言葉と意味がずれている気配を感じながらも、明人は頷く。世界樹間を移動可能なものがひとつしかないのであれば、外的要因などという表現が妥当なものも自ずとそれに絞られる。
「竜種は素と共に世界樹を渡る生態系とでも理解すればいい。あれは世界樹を自身の生態系に組み込むことによって循環する。おまえたちとは異なる理によって存続する知性体だ」
「どこから来た」
「起源となる世界樹より。既に失われている」
明人は閉口する。
世界に時空の概念を足したものが世界樹である、とまでは理解できても、それが丸ごと失われるという事象をうまく想像することができなかった。
「大量の素、そしてそれに付随する竜種の浸食が世界樹の消失を招いた。これに対処するのが短期的な目的だった、と。おまえの問いにはこう答えよう」
「異世界に人を放り込む理由にはならないだろ。あんたの手で対処すりゃよかったんじゃないか、神様よ」
「おまえは樹に付いた害虫をひとつひとつ指で除くのか」
「まさか。非効率だろ」
「そして効果もさほど無い」
簡潔な問答の末、明人は再び溜息を吐いた。
「だから似たような外的要因を……異世界の人間をぶつけようって考えに至ったわけか? そんな乱暴な話があるかよ」
「おまえたちが自ら望んだことでもある」
無貌の影が陽炎のように揺らめく。
「おまえたちの渇望。此処でない何処か。それは、拾い上げるのに目立つ瞬きではあった。おまえたちはどれでも大差がない。個体差が少ないのであれば目立つ者でよく、自ら望む者ならもはや適当と判断した」
「心当たりがないわけじゃないが……酷い手並みだ。趣旨の説明くらいしてくれよ。いきなり放り出されて成果が出るか? それこそ非効率だ」
「成果を出したからこそ、おまえは此処に立っている」
「そいつは結果論だ」
「此処では原因と結果が同時に訪れる。順序に意味は無い」
「……またわけの分からないことを」
「加えて、おまえたちは《知る》という行為を軽視している。存在とは、知れば知るほど力を増す。それは増長と暴走に繋がる。制限は妥当だった」
逆を言えば、多くを知られると脅かされる可能性がある、ということだ。
無貌でさえも。明人は苦笑した。
「墓穴を掘ってるぞ、無貌」
「おまえにそのつもりがないのも分かっている」
でなければ墓穴などと口になどしない。黙って牙を研ぐだけだ。
見透かされていることに驚きもせず、明人は肩をすくめる。
「ま、あんたをどうにかしたところで誰かの明日が良くなるってわけでもなさそうだし、幸い俺の仲間にも殺したいほどあんたを憎んでる奴はいない」
「復讐は無価値か」
「人によるんじゃねえかな。俺はもういいよ」
明人の手には白い長剣がある。抜きざまに掛かれば無貌の影にも届くだろう刃が。しかし、彼は逆手に持ったままの剣から意識を外す。
無貌の目論見は達した。世界樹とやらは守られ、旅は終わったのだ。彼はそう考えることにした。
「……で、なんで俺はこんなところに呼び出されたんだ」
「おまえが最も適しているからだ」
何に、と問いかけようとした時、明人の目の前で世界樹が燃え上がった。眉をひそめる彼に、無貌の神は告げる。
「おまえたちはあらゆる可能性分枝における外的要因の無力化に成功した。それは同時に、おまえたちという外的要因が世界樹に残留することを意味する。結果、世界樹は甚大な損傷を受けた」
「は……はあ?」
「おまえたちが世界樹を殺す可能性が生まれたということだ」
明人は僅かに呆然とした後、自嘲の笑みを浮かべる。
「は……ずいぶんな劇薬だったらしい。本末転倒だな」
「おまえたちの渇望を過小評価していた」
「くそ、ドジっ子め……!」
吐き捨て、明人は頭を掻く。無貌の虚言だとは思わなかった。
ありうるのだ。彼の知るすべての福音は、どれひとつとっても物理法則を覆している。その力が限定的な範囲で留まっている限りは良くても、もし仮にその力が成長などをする性質のものであったとしたら、いつか世界を壊すということもあるかもしれない。明人はそう考える。
ただでさえ、戦い続けた十二年。明人は自身や仲間の肉体に加齢による変化が訪れていないことを自覚していた。これが不老不死なのだとしたら「いつか」は「確実」になるのではないか――
「なら福音を……力を取り除くべきだろうな。不老も。もう要らないだろ」
「不可能だ」
「な、なんでだよ。あんたが与えた力だろうが」
「それは完全な理解ではない。おまえが福音と呼称し認識しているその性能は、わたしではなくおまえたちに由来する。総体に接続したおまえたち自身の性能だ。よって、総体と同じ次元にあるわたしに取り除くことはできない」
「言ってることは分からんが……とにかく出来ない、と。無責任な話だ」
きな臭さを帯びる話に、明人は困惑する。
用無しになった自分達を処分する、とでも言い出しかねない流れだったが、だとしたら内情と経緯を明人に打ち明ける理由が無貌にはない。
しかしその理由すらも、あっさりと本人の口から明かされた。
「故に、わたしにはおまえたちの直接排除も不可能だ。それができるなら、そもそもおまえたちを使ったりはしない」
道理である。
なら無貌の神がとれる方策はふたつしかないと明人は推測する。
新たな外的要因を招き入れるという明らかな下策か、或いは――
「……俺を使う気か」
「そうだ。外的要因を排除する、という点においておまえは最も適している」
「従うと思うのか」
「承服させるのも不可能ではないが、その必要はない。効果も薄い」
「なら、どうやって俺を使う気だ」
僅かに白剣を持ち上げ、明人は影に問う。自身が仲間たちを排除する、などということは天地が返ってもあり得ない。如何なる条件を提示されても受け入れることはない。決裂は見えている。
未知の神と戦う。それは勝算を計る以前の挑戦だったが、現実味を帯びるなら算段はつけなければならない。緊張を高めていく明人だったが、無貌の神は変わらない調子で切り出した。
「おまえに、おまえたちを排除または無力化する方法を問いたい」
明人は困惑した。
思わず剣を下げてしまう程度には。
「え……ああ? ちょっと、話が分からないんだが……」
「あらゆる可能性分枝で投入された半永久的に存在する高次接続者の排除、または無力化を実現する発想をおまえに要求している」
「……」
揺らめく影はそれ以上の説明をしなかった。
明人は、頭を抱えた。
「色々と聞きたいところだがな……まず、なんでそうなる」
「なんでそう、とは?」
「その……あー……半永久的に存在する高次接続者とやらであるところの俺本人にそのアイデアを募集する意図はなんだ?」
「おまえは優れた個体ではないが、先に述べたとおり、外的要因を排除するという点においておまえは最も優れた実績を示し適格だと評価できる。加えて、おまえたちの中でもおまえは最も無害だ」
「無害」
「おまえの渇望は既に尽きている。あらゆる可能性分枝において、有害な竜種を駆逐したおまえは、ただ穏やかに生きていく。只人のように」
脳裏に過ぎるのは白瀬柊の姿だった。
あの口の悪い、可愛げのない相棒。霞のようなあの儚い少女が明人の虚を埋めた。幻想を――争いがない世界を求める心を変えた。未来など見えなくとも、二人で山奥にでも隠棲するだろう自分達が想像できる。彼女のもとへ帰ったら、いずれそうしようとさえ思った。
脱力感を誤魔化すように白剣の刀身を肩に担ぎつつ、明人は無貌に問う。
「いや、普通そんなもんじゃないのか? 他の連中だって同じだろう」
「その情報の開示は有害な結果を招く」
「はあ。知らぬが花ってか」
世界樹の運営に障るのだろう、とだけ理解して明人は頭を掻く。
これも想像に難くない話だった。隠棲するだろう自分が最も無害なのだとすれば、仲間たちはそうでない――少なくとも、無貌の神が有害だと判断するような道を辿るのだと。
明人は思案する。気配はあるのだ。
時の福音を持つ少年をはじめ、誰もどこか箍が外れかけている。世界の行く末を左右するほどの悪意を持っているとは思えないまでも、争乱の火種になりそうな不和を抱えている。
増長と暴走。ないとは言い切れない。
「力は取り除けない。寿命も戻せない。じゃあ元の世界に帰すってのは?」
「存在を由来する世界樹に戻す、と解釈して回答するが不可能だ。理由は既に開示している」
「……直接排除ができないのと同様、ってことか。まあ、そりゃそうか。それでいいなら他の樹に追放しちまえばいいって話になるもんな」
「根本的解決にもならないと判断する。由来する世界樹に危機的状況を引き起こす結果になると予想できる」
「あー……他の世界樹もあんたの守備範囲なんだな。しかし、帰りたい奴だって居ると思うんだよなあ」
少なくとも一人、帰還の望みを強く持っている仲間を明人は知っている。似た想いだけなら大なり小なり皆持っているだろうと彼は考えていた。元の世界にあるのはしがらみだけではない筈だと、明人自身も実感している。
「おまえたちの希望を叶えるのが目的ではない」
「ああ。でも履き違えてはいないぜ。埋めなきゃ駄目だ。渇望ってやつを」
無貌の影が揺らめく。
明人は溜息を吐いた。
「というか、だ。他に方法がないだろ。排除できないんだったら上手く付き合っていくしかない。馬鹿なことを考えないように、程々に俺たちのご機嫌を取っていってくれ。不足がなければ大きく荒れることもないだろ」
「おまえたちを懐柔する、ということか」
「正当な報酬を与えろって話でもある。俺たちはあんたの勝手に巻き込まれたんだからな。相応の見返りがあって然るべきだ」
無貌が人間の感情を理解していない、ということはないと明人は見ている。でなければ明人の内心を言い当てたり、人の強い望みを「拾い上げるのに目立つ瞬き」などとは言うことはできない筈だと。
単純に、この神のような何かは細かい話が苦手なのだと結論付けた。微生物に寄り添って物を考える人間が居ないのと同じように、神のような何かは人に寄り添っていないのだ、と。なら、まずは主張しなくてはならない。
僅かな沈黙の後、無貌の声が響いた。
「条件付きで、おまえの提案した方針を採用する」
明人は驚き、すぐに頬を緩めた。
燃える世界樹越しに笑う。
「は、言ってみるもんだ。ま、条件次第か」
「ひとつ。報酬はあらゆる可能性分枝において適応される」
「それは……問題があるのか? そもそも可能性分枝って何なんだ」
「世界樹の枝を指す。おまえが主観で観測していた世界と隣り合った、別の時間軸と認識すればいい」
明人は息を呑む。
世界に時空の概念。枝。そういうことか――
「……簡単に言ってくれるよな。さらっとお出しされるような話じゃないぞ……つまりあれか、それは並行世界のことか」
「概念としては似ている」
言い切らない。訝しく思いながらも、明人は黙考する。
ifの世界。自分の世界とどれだけの差があるのかは想像もつかない。しかし、枝として表現されるのであれば同じ幹から分岐しているはずで、だとすると大きくかけ離れているということは考え難い。問題は見当たらない。
「しかし、なんでそんなことになるんだ」
「すべての可能性分枝は無限とほぼ等しい。わたしにはそれらすべてを個別に対応する能力と資源が不足している。一律でしか介入できない」
「……? 神も全能じゃないってことか」
「わたしはおまえの定義する神という概念とは様々な意味で異なる。また、外的要因の対処のため、あらゆる可能性分枝においておまえたちを用いたことも無関係ではない。報酬が行き渡らなければ趣旨に反すると判断する」
「それはまあ、たしかに」
自分達が全ての並行世界で同じ憂き目に遭った、ということなら報酬も平等であるべきだ。でなければ逆に問題があるような気すらする。明人は頷く。
「いいんじゃないか、別に」
揺らめく影は合意を確認したかのように傾き、言葉を続ける。
「ふたつ。曖昧な願望を叶え続けるといった報酬は受け付けない」
「分かりにくいな。例を挙げてくれ」
「恒久的な自己の幸福などがそれにあたる」
「理由を聞いても?」
「定義も実現も困難だ。多幸感を誘発する物質を肉体に常時分泌する、という手段が考えられるが、おまえたちは歓迎しないだろう」
「当たり前だ……極端すぎる。もっとこう、ちょっと幸運になるとかでよくないか。社会的な優位性を獲得しやすくするとか」
「不足していると判断する。確率に対する僅かな調整程度では恒久的な幸福は保証されない」
運ではどうにもならない事態に対応できない、ということなのだろう。納得感はあるものの、明人には釈然としない思いもある。忖度という言葉を知らないのだろうか――する気がないだけか。
「杓子定規だな……いや、間違っちゃいないんだが……」
「この方針には報酬の精度が要求されると理解している。不満を覚えるおそれがある報酬は逆効果になりかねず、可能性分枝を網羅する以上、報酬は完全でなければならない。可能性は可能性分枝を生み、世界樹に反映されるからだ」
「難儀な言い方だな。非の打ち所がなければ駄目だってとこか」
「正しく伝達されたと理解する」
曖昧な願望では逆効果になる可能性を排除できない、という理屈は明人にも理解できた。具体的な物品が妥当のように感じられる。それも、価値変動の可能性が薄い物品が適しているではとまで考え、彼は先を促した。
「まあ、まっとうな条件だ。まだあるか?」
「ある。実現不可能な報酬は受け付けない」
「例を頼む」
「何でも切れる剣」
間髪入れずに返った言葉に、明人は目を丸くする。
それは彼の担いだ白剣に付けられた名だった。
「おまえの持つそれは、おまえが無意識下にそう定義したからそのように振る舞う道具にすぎない。その剣を正確に表わすなら、おおよそ何でも切れる剣、になる。わたしに物質世界で成り立たない概念を扱うことはできない」
「……そりゃまた融通の利かないことで」
条件自体は当たり前の話であるように明人は思う。
むしろ、無貌が白剣を特別視していないという事実の方が重い。白剣を与えた本人なのだからある意味それも当然――到底、太刀打ちできる相手ではない。なんとか丸く収める以外ないのだ。明人はもう何度目か分からない溜息を吐く。
「他には?」
「ない。条件はこれがすべてだ」
複雑そうに見えて単純な三つの条件を頭の中で整理し、明人は立ち上がる。
「大雑把に要約すると、だ。あんたに実現可能で具体的、かつ精度の高い報酬なら可ってことだな。条件なんてないようなもんじゃないか」
「いや、多くの制限があると認識すべきだ」
「そうか?」
「まず、おまえが提示した由来する世界樹への帰還は実現しない。成り立たないからではなく、最初に述べた理由によってわたしには実現不可能だからだ」
「総体とやら同じ次元にあるから、か。本当にできないのか?」
「世界樹を離れた時点で、おまえたちの存在は因果から除外されている。より正確に表現するなら、総体に接続した高次接続者であるおまえたちは、世界樹の内側には存在できない」
薄らぼんやりと固まりかけていた理解が霧散する。
明人は慌てふためいた。
「いや、いやいや全然話が分からないんだが……俺たちって普通に存在してるんじゃないのか?」
「世界樹の内側にある肉体と精神は、ある種の分身と理解するのが妥当だ」
「分身? なら本体はどこにある」
「世界樹の外だ。その概念を容易に表現する語をおまえは知っている」
明人は目を瞠る。
燃える世界樹の周りに、小さな星芒が無数に生まれた。
無貌の神は告げる。
その情報は有害な結果を齎さない。そう誤認していたがゆえに。
「魂だ」
それは真理のほんの一端に過ぎない。
しかし、高梨明人は理解する。彼のよく知る奇跡のひとつ、生命の福音による生物の蘇生。あれはおかしい。肉体が死に、脳が生理活性を失って霊体が霧散する。死はそのようにして機能し、後には何も残らない。
なのになぜ蘇生できるのか。骨片からでさえ蘇る命に、記憶があるのはなぜか。その答えがこれだ。時間と空間を超えた、世界樹の外。魂。
「…………あ」
高梨明人には発想があった。
三つの条件。二つの世界樹。魂の真理。それは帰還を望む魂を鎮める、ひとつの報酬。その、おぼろげな雛型。
未だ与えられないそれは、そのようにして発生した。




