44.選択④
世界樹外からの二度目の帰還は、目覚めるというより我に返るといった表現が妥当であるように思えた。気付けば俺は沈みゆくタンカーに横たわった状態のまま、燃え上がり滅びゆくオルダオラの竜体を眺めていた。
直前までの、メティスとの遭遇――あの無限の図書館での記憶と経験は失われていない。疲労困憊の体へ更に何度か駄目押しの体力勝負を重ねたのだ。身動きひとつが億劫な有様で、俺は甲板の上で干物のように広がっている他なかった。
それでも、落合操縦士が――おおとり10号が回収にやってくるまでの間、メティスから得た情報をゆっくり吟味することはできた。
未来を変える、というマリアの目的のこと。空に開いた穴が消えていないことにも、その先にあるらしい破滅の未来についても、俺は冷静に考えを巡らせることができた。
まだ疑問は多い。
メティス曰く天蓋というらしいあの穴から何がやって来るにせよ、祈りの剣を取り戻した今の俺なら、概ねの相手は対応可能だ。エイル――愛の力を借りなければならないし、一度の行使で尽きてしまうようだったが、制限があるならあるなりのやり方を考えれば良いだけの話である。
にもかかわらず、俺が創造界で目にした来瀬川教諭の日記。多くの並行世界の記録上、やってくる者によって遠からず世界は破滅するという。しかし、それらの並行世界すべてで俺が不在だったとは思えない。
もしその推測を事実として素直に受け取るなら、襲来する何かは今の俺でも対処不可能な相手だということにならないだろうか。
襲来が予想できる存在のうち、最も可能性が高いのは陪神であるオルダオラが仕えていただろう上位格の竜種だが、千年前に何体か居た王の位階に列する個体はおろか、種の頂点にあった暴竜の王と呼ばれた者でさえ、祈りの剣で対処できない相手ではなかった。でなければ現界は未だに竜種に支配されていただろう。
奇妙だ。どうにも腹落ちが悪い。
或いは、他の並行世界の俺はここまで力を取り戻してはいなかったのだろうか。だとすれば一応の筋は通る気はするのだが――
「おい、夜明けの騎士」
「……ああ?」
思案から顔を上げると、至近距離に目尻を吊り上げた瑠衣の顔があった。
中の人、ルカという人物にはどうやらもう装う気がないらしい。腕組みをしておおとりの座席にふんぞり返っている様子には、瑠衣の面影など微塵もない。
「きみ、なにか言うことはないのかい」
「……なにかってなんだ?」
「戻ってきてからこっち、いちどもまともに口を利かないじゃないか」
「ああー……」
曖昧に相槌を打ちながら、無事回収されておおとりに搭乗しているという現状を思い出す。瑠衣と永山管理官に引っ張り上げられた俺は、沈むハニーヴァイキングを見送った後、黙って機上の人であり続けていた。
別に、時折話しかけてくるルカを無視したかったわけでも邪険にしたかったわけでもない。彼もしくは彼女に構っていられないくらい情報と問題が殺到しているだけだ。
「いくら消耗してるからって一言もないってのはどうなのさ。ぼくはともかく……白瀬さんが居なくなってるのに」
「……ああ」
よく分からない憤慨を続けるルカの言うとおり、おおとりの中に柊の姿はなかった。なんとなく、そうなるのではと予感していたとおり、既に千年前の現界に招かれたのだろう。
敢えて触れずにいた事柄を突き付けられた格好だ。
「分かってるよ。やれることはやった。あとはもう信じるしかない」
やっとのことでそう返すが、ルカは不満げに吐き捨てる。
「そういうことじゃないでしょ」
「……」
ではどういうことなのだろうか。
ただでさえ素性の分からない相手だというのに、なまじ知り合いの見た目をしているせいもあってか、ルカが何を考えているのかまったく分からない。いや、もともと俺はさほど人の気持ちを汲める人間とは言い難いが。
「おまえ、よほど柊のことが好きなんだな」
「……」
それくらいしか分からないのでそう言うと、ルカは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。よくよく考えなくても瑠衣のそんな顔は見たことがなく、中身が別人に入れ替わっていることに気付かなかった己の不徳を恥じるばかりである。
もし俺の介入によって招きが不完全になったという瑠衣が中身だけ現界に移動したのであれば、このルカと名乗る人物は逆。不完全な形で異界に招かれたということなのだろう。が、その人選が偶然なのか必然なのかは判断が難しい。
そもそも無貌の神のやっていることは完全に意味不明だ。異界人類を過酷な現界に放り込んだところで、何か得られるものがあると俺には思えない。嫌がらせか。或いは、俺ごときには理解できない神慮というものがあるのかもしれないが、いずれにせよ結論は出ない。
こちらを向いて敵意を露わにしているような、単に図星を突かれて恥ずかしがっているだけのような顔をしているルカに、俺は言った。
「何度も言ったが、俺はドーリアを敵視なんかしてない。おまえが帰りたいって言うなら協力するのもやぶさかじゃない」
「……本当に?」
「もちろんだ。王族に恩を売っておけば後々役に立ちそうだしな」
敢えて隠さずに伝えると、ルカは白けたような顔をした。
「本人に向かってよく言う」
「よく知らんが、貴族の子……それも王族の男を助けたとなればそれなりにデカい恩になるんだろ。嫡子でなくとも」
今まで判断を付けていなかったルカの性別を振る舞いや名前から男性と仮定し、俺は補足する。
ドーリアに対してどう動くにせよ、王族であるらしいルカ少年とその家族に恩を売っておくのは悪い話ではない。俺にも何の因果かウッドランドの皇族に多く縁がある。上手く立ち回れば両者を結び付けられるかもしれない。それだけで両者の根深い対立を解消できるとは思わないが、何事もまずは一歩からだ。
などという皮算用をしている俺の前で、ルカは何故かひどくショックを受けたかのような顔をしていた。そういえば自身が伝説の人外と見做されているのだった、と思い出して適切な説明を試みる。
「い、いや、そんな無茶なお願い事をするつもりはないよ。安心してくれ」
「……」
「本当だぞ」
「……」
虚ろな目を上げて俺を見るルカは、ややあってからポツリと言った。
「……ぼくはきみが嫌いだ」
嫌われてしまったらしい。俺は肩を落とすくらいしかできない。
彼はどうもアリエッタに懸想をしているのではなかろうか、とおぼろげに考えてはいたのだが、この様子ではもしかすると俺を恋敵か何かだと思っているのかもしれない。であれば、良好な関係を構築するのはなかなか困難だ。
しかし彼自身も困難な状況に追いやられているという現状も斟酌しなければならない。突然まったく起源の異なる文明に放り出されたたというのに、歳若いだろうルカが瑠衣の体に収まっているのは精神的にかなりの負担だろう。性差からくる気苦労だけで相当のストレスだろうし、肉体、霊体的にもどうなっているのかは想像もつかない。
ドネットやカタリナが居てくれれば、と思わないでもないが、彼女たちに頼るにせよ現界に戻ってからになるだろう。
難事だらけだ。
「……なんにせよ、まず先に天蓋だな」
窓越しに見える空の黒い穴は健在で、不気味な口を広げている。
遠からずそこから襲来するだろう何か、おそらく上位の竜種を撃破する。これ以上異界に被害と混乱を齎さないためにも、これが最優先だ。問題はそれが可能か不可能か、という点なのだが――
「駄目か」
エイルから貰った右手の指輪に目をやると、未だに灰色のままだった。
祈りの剣さえ使えれば何が来ようと撃退する自信はあるのだが、エイルの力を借りなければ使用が不可能だ。その力が戻っていない以上、このまま迎え撃つのは難しい。
そもそも、武器がない。
短い付き合いになってしまった愛剣は柄だけが手元に残っていた。刀身を根元から失った古剣。当然、修理のしようもない。代替品の宛てもない。
撤退。
一度下がって立て直すしかない。状況判断としてそれが最善であると結論を出さざるを得ない。来瀬川やミラベル、それに氷室と合流し、然るべき準備をしてから敵を迎え撃つ。この辺りが妥当な線だ。
操縦席に乗り出していた永山管理官の肩を叩く。立派な航空用ヘッドセットを装着しているせいで、普通に声をかけても気付いてもらえないからだ。
彼は数度瞬きをしてからヘッドセットを外した。
「管理官、誰かから連絡ありましたか」
「タンカー沈没の寸前にミラベルさんが無事を知らせてきたのが最後、ですね。手近な陸地に行くと言っていましたが」
「場所分かんないですね、それだけだと」
「いずれにせよ、タンカーを処理するまでが我々にできる最大限の対応でしょう。おかげで翼竜の出現と拡散も最小限に留まったと見ました。我々の仕事はここまでです」
彼の言葉は間違っていない。しかし、来瀬川教諭と連絡が付かない現状を考えると、永山さんにしては迷いがなさすぎる。
あらかじめ切り上げ時を来瀬川教諭と示し合わせていた、のだろう。
「……すみません」
永山管理官には後が無い。
おおとりを飛ばすのも、タンカーを沈めるのも、おそらく然るべき手続きを経た行動ではなかった。裏で手を回していたといっても表面上は永山管理官の独断専行であり、この後がどうなるにせよ表向きの彼は処罰を免れないだろう。きっともう、資料室に同規模の行動はできなくなる。
それらの意味も含めて俺は頭を下げた。しかし、
「君たちは十分過ぎるほどよくやってくれました。翼竜の拡散が抑えられたのは大きい。少数であれば対処する技術もなくはないですからね。穴のことを考えなければ、望みは大いにあります」
そう簡単な話ではない筈だったが、永山管理官は電子銃を片手に明るく言った。公安内の政治的なあれこれについても触れない。そもそも関わらせる気がないのだろう。
口惜しいことだったが、俺に役立ちそうな社会的権限がないのは事実だ。
「俺にできることがあれば言ってください。できる限り力になります」
「いえ。人間相手の面倒事くらいは私が引き受けますよ。せめて、ね」
ここまで協力し合ってきたのだから、もう貸しだの借りだのを考える間柄ではない。この際、いくらか法に触れることでも請け負うつもりで切り出したのだが、永山管理官は苦笑するだけだった。
食い下がっても結論は変わらないのだろう。視線を外して強引に未練を切ってから、俺は別の話題を切り出した。
「ところで……もしご存じだったらで大丈夫ですが、剣が手に入る場所に心当たりありませんか?」
「剣?」
一瞬怪訝な顔をする永山管理官だったが、俺の携えた柄だけの古剣に目をやって納得したらしい。難しい顔で答えた。
「刀剣を扱う古物商なら都内にもいくつかあるでしょう。まあ、美術品でしょうから実用に耐え得るかまでは分かりませんが」
「そういうところで取引されてるのは日本刀ですよね。欲しいのは西洋剣なんですけど……」
「西洋剣……それは難しいでしょうね。そういったものの取引が全くないとは思いませんが、私は見たことがない。個人か美術館の所蔵を探した方が早そうだ」
「ですよね」
「日本刀だと何か問題が?」
「そうですね……あれは剣じゃなくて刀なので、ちょっと」
「……なるほど、そういうことですか」
彼も警官なので剣道の心得があるのかもしれない。どこまで伝わったかは不明だが、永山管理官は納得した様子で頷いた。
刀では駄目ということはない。
遥か昔、俺は「刃物のどこからどこまでが剣なのか」を調べる実験をしたことがある。様々な形状の武器を使い、剣の福音が適用される武器の限界を探るのが目的だった。
結論から言えば、鉱物製で全体的に剣らしい形状をしていれば条件を満たしていると分かった。剣でさえあれば片刃でも両刃でも、刀身の形状も問わない。試したことはなかったが、日本刀でも剣の福音は機能するのだろう。
ただ、片刃の曲剣と両刃の直剣であれば直剣の方が戦い方を組み立てやすいのは間違いない。それぞれの術理がまったく異なり、どちらかと言えば後者の方に俺が慣れているからだ。この慣れが紙一重を分けることもあるし、薄刃の刀が翼竜のような大物の対処に向いていないのもある。故に、日本刀を入手するという発想自体が俺には無かった。
そもそも、俺は装備の調達を軽視するきらいがあるのかもしれない。
来瀬川教諭なら。彼女ならすぐに博物館あたりに見当をつけるだろうし、実際、富士の一件では僅かな時間で調達までしてしまった。思えばあれも大概に不自然な理解力と行動力で、どこか福音の気配を感じるものだった気がするが、頼りになるのは違いない。
彼女の不在が恨めしい。
そう思うのは、勝手が過ぎるだろうか。
「いや……都合のいい時だけ頼りにするなよ……!」
一般人でしかなかったはずの来瀬川教諭を体よく利用している。その結果があのメティスなのだとしたら、俺は許され難い過ちを犯しているのだ。
幸い、本当に幸いながら、彼女はまだ違う。俺の知っている来瀬川教諭は往還者ではないのだ。ならせめて彼女は往還者にさせない。それくらいの分別は持たなければならない。これ以上、現界絡みの事情に巻き込んではいけない――煩悶していると、永山管理官が俺の肩を叩いた。
「とにかく、今は来瀬川さん達を回収しましょう。我々は本庁に戻りますが、高梨君たちがどうするかは一旦お任せします。個人的には休息をお勧めしますが」
「……そうも言ってられませんよ、色々」
やることは明白だ。
ひーちゃん先生や消耗しているだろうミラベル、瑠衣を避難させ、武器を調達して敵の襲来に備える。引っ掛かるところはありつつも、これが最善手だ。
方針を固めて座席に戻ろうとした時、懐のスマートフォンが鳴動した。
慌てて画面を改めると、来瀬川教諭からの通話だったので迷わずタップする。しかし、聞こえてきたのは期待した声ではなかった。
『やあ、明人君』
「氷室?」
最近では聞き慣れた、氷室一月の穏やかな声がまずあった。
『まさか泳いでタンカーから脱出したわけはないよね。今は公安のヘリかな』
「当たり前だろう……そっちは何やってるんだ。なんで先生の電話を?」
『さっき海岸でたまたま彼女たちと会ってね。いまはみんなで君の家に向かっているところさ』
「はあ? なんで俺の家に?」
集合場所にしたって芥峰は遠い上、うちに集まる理由はちょっと思い付かない。おおとりが降りられるような場所もないので必然性は皆無だ。
しかし、続く氷室の言葉は意外なものだった。
『往還門を使う』
「……なに?」
『天蓋の先が外殻大地……現界に繋がっているのは明白だからね。こちらから手が出せない以上、あちら側から対処するアプローチは正しいだろう?』
「いや……っ!? ちょっと待て! なんでお前が天蓋のことを知ってる!?」
俺がその名を知ったのはメティスとの会話の中でのことだ。氷室が彼女や同等の存在であるエイルと会話しているとは思えない。彼が聖性の器であれば別だが、でなければ彼女たちを知覚するのは不可能だと俺は認識している。
『マリアが教えてくれたのさ。僕が現界を去る前に、ね』
「……!」
氷室の答えはつくづく予想外だった。
俺は息を飲むしかない。
『彼女には見えていたんだろう。今のこの世界の状況……滅びたはずの竜種の侵攻と境界の破壊が。彼女が予知能力を持っていたのか、それとも往還門と同等の機能を持った何かを使って過去に渡った人間なのか、僕には判断がつかないけどね』
「……んな大事なこと、なんで黙ってたんだ……!」
『無駄だからだよ』
間髪入れない氷室の応答は、その口調は、シニカルな笑みが目に浮かぶような響きを有していた。
『彼女が齎した情報は彼女が見た未来のものだからね。つまり彼女を由来とする変化では、彼女の見た未来は変えられないと想定できた。天蓋が開くまでが既定路線だったのさ。どう足掻いてもね。そこまでは分かってた』
「……? どういう……?」
『だからやはり、天秤は時間稼ぎにしかならなかった。マリアに未来は大きく変えられないんだ。その推測は僕がミラベルさんを目にした時、確信に変わった』
心臓が跳ねる。
やめろ。やめてくれ。
無意識の中から、そんな声がする。
「何を……言ってるんだ、氷室? ミラベルは関係な……」
『千年後のカレルの娘なんだろう? なぜ君は気付かないんだ、高梨君。彼女はマリアによく似ている』
奇妙な声が漏れた。
それが自分の喉が発した音だと気付くのに、俺は数秒を要した。
『君がもし千年でマリアの顔を忘れてしまったのだとしても、僕が彼女を最後に見たのはつい最近だ。その僕が言い切ろう。十中八九、本人か血縁だ』
「……」
『だからもう偶然じゃない。君が千年をあっちで過ごしたことも。この世界のこの局面に、君が今こうしていることも。マリアには千年が必要だった。自分という存在が生れ落ちる時代まで、君を現界に縛り付ける必要があった。君が必要だったからだ』
氷室の言っていることは俺には上手く飲み込めなかった。いや、氷室自身だって完全にすべてを理解しているわけではないのだろう。
だが彼には何かが見えていて、俺にはまだ見えていないものがある。それは確かだった。
「何が言いたいんだ、氷室」
『君なら未来を変えられるかもしれない、ってことさ。少なくとも、確定していない未来を左右し得ると僕は推測してる。なぜなら……』
頭痛がする。
きみは知らない方がいい。
メティスの言葉が、頭を過ぎる。
『往還門を開けたのは君だからだ』




