41.選択①※
軽い足音がする。
木床を踏む音がしばらく前から聞こえていた。
「よくもまあ散らかしたものだね」
まるで散歩でもするかのような足取りで、メティスは俺に追い付いた。体感で半日は経っていたかもしれない。その間に俺が積み上げた無数の本の山を避け、彼女はゆっくりと近寄ってくる。まだ距離があるうちに、俺は声を発した。
「……もう現象攻撃は解いていいですよ、先生」
驚くようなことではないのだろう。メティスは何の反応も見せなかった。俺も、そんな彼女の様子に何かを思うことはない。
彼女の現象攻撃にはいくつも穴がある。特定の対象についての理解を阻む効果がある、と俺は解釈しているその効果は、人物であったり言葉であったり、もしかすると物事や概念にまで及ぶのかもしれない。
だが、それだけだ。付随する事柄、たとえば代名詞や関連するエピソード記憶までを対象にはしていない。関連付けて考えることができないというだけで、完全に忘却させられるわけではない。強力な思考誘導という意味ではミラベルの魅了に近いかもしれない。
そして、時間が経てば経つほど効果は減衰する。あれこれと推理する必要もない。それ以外のすべてが見えているのなら、彼女が理解を阻んでいるものは逆に浮き彫りになる。まるで影絵のように。彼女の書庫を思うさま漁った俺には、残された疑問も多くない。
「もう無駄だと分かっていて、どうしてまだ隠すんです」
「きみは正しい選択をするべきだから」
機械的なその返答は、難解と言う他ない。
正しさなどというものは俺には解らない。少なくとも、それをいつも俺に示してくれていた筈の人に問われても、返す言葉がない。だから俺は、目の前にある危機を言った。
「異界が壊滅するのを防ぐことですか」
千には届かないかもしれない。
それでも、確実に数百は超えている。読み散らかした本の中に、滅亡以外の結末を記した書は見付からなかった。
そこには二種類の終焉だけがある。
竜によって潰されるか。炎によって焼かれるか。
詳細は分からない。視点になっている人物が大きく関わっていないからだ。
分岐する条件も推測のしようがない。
確実なのは、その二パターンがあるということだけだ。そのどちらもが絶望的な未来であるのも間違いないはずだったが、メティスは否定する。
「それは些細なことだよ」
「些細……?」
「きみは人間だから、きみから遠い可能性を見ることができないというだけ。本当はもっと手前で折れる枝もあるし、もっと先に腐る枝もある。広い目で見れば等価値であるとも言える」
まったく人間味のないその視座に、俺は閉口するしかない。
だからどうでもいいとは俺には思えない。
「関係がない、の方が近い。きみたちのことはきみたちが選べばいい」
「だったら阻止するに決まってるでしょう」
「そうだろうね。きみは」
思案の必要もなく断言する俺に、メティスは相槌を打つだけで歩みを止めない。接近に何の意味があるのか分からず、同じ分だけ後退する俺に彼女は言う。
「でも、福音についての理解は回収させてもらう。その指輪も」
石英のようなメティスの手が持ち上がる。
あれに触れられるのは不味い。そう直感する。「理解を回収する」という抽象度の高い表現が具体的にどんなものかは知れなかったものの、なにか仕掛けがあるとすれば、あの印象的な白い手に違いない。
「理由を聞いてもいいですか」
「きみは枝の記憶を得るべきでないから」
「……それじゃ説明になってませんよ」
いまの俺に福音への嫌悪はない。由来が今の自分ではないにしても、その根源が別世界の自分たちが最後に抱いた無念なのだとしたら、やはり嫌悪は妥当ではない。報いたいという気持ちすらある。
拘るわけでもないが、忘れたいとは思わない。
「せめて、納得できる説明をしてくれませんか」
「必要性を認めない」
「……自分で勝手に決めるんじゃなくて、相手とちゃんと話をするべきだと教えてくれたのはひーちゃん先生です」
彼女の足が止まる。
口にすることすらできてしまい、メティスの現象攻撃が弱まっていることを実感する。体力もある程度戻っていた。このまま、また逃げても良かったのかもしれない。しかし、彼女の真意を確かめたいという気持ちが勝った。
「正しい選択って、いったいなんのことですか」
問いを重ねると、メティスは真っ直ぐに俺の目を見た。
その瞳には見知った人の面影がある。その人は、筋の通らないことは絶対にしない。もし彼女が意図的に真実を伏せ、回りくどい言葉しか発さないのなら、それは本当に俺にとって不利益になるからに違いない。それは分かっている。
しかし、過保護だ。俺にとって彼女が偉大な先達であるのは不変だとしても、俺は対等な人間でありたいと思っている。それは彼女自身ではなく、メティスが相手であったとしても変わらない。
「そこを区別する必要はないんだけど、ね」
メティスは初めて、僅かに人間味を見せた。それは言葉にだけであって彼女の顔色はまったく変わっていなかったのだが、なぜか俺は安堵していた。
「救済の小細工のせいでこうなったんだし、あの子に倣って少しだけ話をしてみるのも悪くないのかもしれない」
「……少しだけっすか」
「なんにせよ、決めるのはきみだから」
ともすれば投げやりともとれる態度だったが、メティスは最初からある程度譲歩している。問答無用で襲い掛かるのではなく最低限の筋を通そうとしている。本当に最低限ではあるが、ゼロと一はまったく違う。
なので彼女が話をしてくれるというのであればかなり期待できると思ったのだが、想像以上だった。メティスはいきなり核心を突いた。
「オルダオラを滅ぼしても天蓋は停止しない」
「……あの穴のことですよね」
「そう。あれは存在が大きなものが境界を超えるための儀式なんだけど、いちど外殻に穴が開きさえすれば向こう側からこじ開けることはできる。余分な手間がかかるにしてもね。それはこちら側では止められない」
巨大な図書館。創造界に居ると考えれば不適当な相対表現である気もするが、要するに儀式とやらは両界で行われていて、異界側だけを潰しても完全ではなかったということなのだろう。
転移魔術の類も長距離の移動では二地点間の座標決定が非常に困難であるため、入口と出口にそれぞれ術式を配置して座標を固定する必要がある。転移門がそれだ。ああいう施設には運用する術師の省力化という意味合いもあるが、今は関係がない。
「なら、阻止するためには穴が開くことそのものを止めるしかなかった……ってことですか」
「きみは勘違いしているようだけど、それも難しかった。外殻に穴を開ける要因、白瀬柊の招聘は剣の福音で退けられるものではないし、それはたとえ彼女を殺したとしても為されるものだから」
メティスは、軽々と前提条件を覆していく。
「小比賀瑠衣の招聘を妨害した件で、きみは誤認してしまっている。本来のあれはきみに止められるものではなかった。なのに、別の要素も干渉してああいう中途半端な結果になった」
「別の要素?」
「天秤だよ。氷室一月が作ったあの装置は、きみが無貌と呼ぶ者の招聘にすら影響を及ぼすものだった。弱まっていたところにきみが横槍を入れたから、彼女は半端な形で招かれてしまった。まあ、事故だね。丸ごと持っていかれるよりいいかどうかは、考え方次第かな」
「……よくはないでしょう。それだって」
受け取った言葉を吟味しつつ、俺は嘆息する。霧が晴れていくように明るみになりつつある全体像は、決して良いものとは言えない。
「当然、天蓋にも影響があったからオルダオラは天秤を破壊した。これを防ぐのはもっと難しい。撃退しても、消耗度外視で空間系の魔術を使われたらどうにもならないから。結果として白瀬柊の招聘もきみが防げるものではなくなった。もっとも、それ以前にきみにそのつもりはなかったんだろうけど」
まるで経験したかのように言うメティスだが、もしかするとそんな経緯を辿った枝もあったのかもしれない。
情報が多く整理しきれない。ただ、ここまでの要点だけで見ても、状況の推移が俺の認識より遥かに複雑だったことは理解できる。何本もの糸が滅茶苦茶に絡み合ったような具合で、どの糸を正せば良かったのかは一見しても分からない。煩悶していると、メティスから簡潔な解答が投げられた。
「オルダオラが日本近海に現れる前に、突如として神の啓示を受けたきみがタンカーを強襲して殺してしまえばいいんだよ」
「身も蓋もないな……つまり、エイルが俺に教えればよかったと」
「私でも構わなかっただろうね」
言葉通りに受け取れる話ではない。
彼女たちはすべてを知っているが、知っているだけだ。そうしなかったことにもやはり相応の理由があると考えるべきで、実際にそうだった。
「その段階でオルダオラが死ねば天蓋は阻止される。けど、その場合、こちら側の世界は黒に焼かれることになる」
「は……?」
黒。ウッドランド皇帝の作り出した破滅の炎。まったく、想像だにしなかったことをメティスは言った。過程が飛んでしまっているので理解も追い付かない。
「ひとつめの天蓋が開くことはなかった。でも、ふたつめの天蓋は開く。竜種との直接的な接触がなかったぶん、こちらの世界の対応はより遅れてしまった」
曖昧に想像する。おそらく、異界と現界の戦争が起きたのだ。カレルの言っていたとおりに。彼は先制し、異界を焼いたのだろう。一方的な殺戮であったに違いない。なにせ、異界は魔術などというものを認識すらしていなかったのだから。
「しかし、オルダオラが暴れることで異界側が魔術を認識する……と」
「結果的にね。世界規模の変化の端緒にはなった。ふたつめの天蓋を乗り切る可能性はその先にしかない。それでも、ほとんどの確率で燃えてしまう」
だからメティスもエイルも天蓋を阻止するような動きをとらなかったということなのだろう。転移街アズルで俺がしたことと似ている。
竜種によって滅ぶか、戦争によって滅ぶか。高い確率でどちらかに収束する未来。しかし、望みがないわけではないはずだ。
「ほとんどの確率、ってことは……そうはならない可能性だってある」
「勿論、そう」
喜ばしいことのはずだったが、頷くメティスに喜色はない。天蓋を阻止せず、ふたつめの天蓋とやらを迎えることが「そうはならない可能性」の前提であるとしたら、現状はそう悪くない筈だった。分かっているならやれることもある。行動方針に迷うような話ではない。
異界に渡ろうとしている竜種の目論見を崩し、皇帝を止める。困難だが、やるべきことは明白だ。
「その可能性を目指すのが正しい選択だと俺は思います」
「……」
言い切る俺に、小さな女性はこれといった反応は見せない。
どう考えても間違いのない答えだったはずだが――
「余談はここまでだね」
今までの話を一言で切って捨て、彼女は改めて俺と向き合った。
これ以上に切迫した話など想像もつかない。
「きみ以外にひとり、未来を変えようとしているひとがいる」
俺は、無言を以てその事実を迎えた。
メティスは静寂へ言葉を落とす。
「このままこの道を行けば、きみはそのひとの願いを叶えられるかもしれない。そのひとには祈りの剣が必要だった。断ち切る力が必要だった。きみの、いちばん大事なひとには」
その言葉は弾劾に似ていたかもしれない。
誰への、とまでは分からない。分からないままでいなければならない。脳裏に誰かが過ぎったとしても。その思考は覗かれている。何かを言われる前に、俺は苦し紛れを口にした。
「俺に……どうしろというんですか。それは悪いことなんですか」
「私の関知することじゃない」
回答を拒否し、一歩、メティスは足を踏み出す。
俺との彼女との間に与えられた、距離という名の猶予が減っていく。
「いつか。この道の先で、きみは選択を迫られることになる。そのとき、ほかの枝の記憶は邪魔になる。私やエイル、ソフィアやアイオーンも口を出してはいけない。それはきみ自身が選ばなきゃいけないことだから」
おそらく別の器を指す名をも口にして、すべての結果を知る人はまた一歩足を進める。
これは詭弁だ。あきらかに矛盾している。彼女は「余計な口出しをさせないという口出し」をしてしまっている。何故か。考えるまでもない。俺を慮ってのことに決まっている。無限を経ようと、全知に至ろうとも、彼女は彼女だからだ。
来瀬川姫路だった人だからだ。
「……きみがそう観測することでまたひとつ、可能性が消えていく。やっぱり、私のささやかな聖性じゃ食い止めるのも限度があったね」
俺の思考に被せられていたヴェールが取り払われる気配がした。阻まれていた理解が追い付いてくる。来瀬川教諭がメティスなのだ、と。
無論、彼女は往還者ではない。現時点では。しかし、将来そうならないという可能性はどこにもない。それがどれだけ歓迎できない未来だったとしても、そうなる可能性すべてを駆逐することなどできはしないだろう。或いは、第三者が彼女を認識することで揺らぐ未来が確定していくものなのかもしれなかった。
確かなことは分からない。
だが少なくとも、メティスが足を止める理由としては不十分だったらしい。
彼女は踏み込めば届く距離――間合いに俺を収めた。彼女の体運びは素人そのもので、間合いという表現すら大袈裟と思えるものだ。が、技量とは無関係に、その脅威度は物質界の存在とは比較にならないほど高い。
だが、これ以上は逃げても意味がない。メティスが悠長に徒歩で追いかけて来たのは俺との体格差から足で追い付くのが不可能だということもあるのだろうが、時間稼ぎが無意味だという確信があるからだろう。
ならどうする。高速で思考を回し、活路を探す。
その最中、唐突に、
俺はメティスの姿を見失った。
「っ!」
魔力はともかく、体力的には回復していた俺は咄嗟に前へ跳ぶことに成功した。凡庸以下の速度で伸びてきた気配を躱し、踵を軸にして素早く振り返った。
メティスの姿はいつの間にか俺の背後に回り込んでいた。手を伸ばした恰好で、変わらず無感動な顔を俺に向けている。だが転移や瞬間移動の類ではない。そんなことが彼女にできるなら、最初からそうしているはずだ。人の理解能力に関連すると思しき彼女の福音とも合致しない。
「普通、避けられないんだけど」
「……慣れてるもんで」
最近、瞬間移動ないしそれに準じる力を扱う相手と二度戦っている。不意打ちの類をカウントすると数えきれない。だから辛うじて、相手を見失ったらとにかく動く、という原則が体に染み付いているというだけだ。余裕はない。
純粋な反射神経勝負であればメティス――来瀬川教諭に負けるとは思わないが、最大の問題はこちらに勝ち筋がないことだ。
「傷付くなあ」
まったく感情を匂わせない呟きが聞こえ、俺はまたもメティスの姿を見失う。
二度目となれば構えることもできたが、テンポが速くなっていた。攻撃とも言えないような、ただ手を伸ばしてくるというだけのアクションをギリギリで横っ飛びに避け、俺は肺に貯めていた息を吐く。生身の体力だけでどこまで持つかは知れなかったが、体力を使ってでも距離を空けなければいくらメティスの動きが早くないといっても俺に手が届きかねない。
気付けば追い詰められている。
ここに至って俺は理解する。オルダオラとの戦いの直後、俺が消耗しているこのタイミングでメティスが仕掛けてきたのは偶然ではないに決まっている。せめて魔力切れでなければ鬼ごっこを続けることもできただろうし、剣があればもう少し抵抗らしいこともできたかもしれない。だが、今の俺にはどちらも欠けている。
これが偶然なわけがない。狙ってやっているに違いない。肉体的に非力な彼女が、一対一で勝利条件を成立させるために仕組んだ、極めて現実的で効果の高い作戦だ。
いや。
作戦。作戦か。
なるほど、これは戦いであったらしい。
だったら馴染みが深い。
息を整え、努めて冷静に状況を整理する。今は「余談」も完全に忘れる。
俺に逃げ場はない。戦力もゼロ。メティスには未知数の部分が多すぎて評価が難しいが、ウィークポイントは明白。異能と頭脳以外のすべて。フィジカルだ。
よって、消える――少なくともそう見える彼女の能力にさえ対応できれば、最低でも鬼ごっこレベルまで状況を戻すことはできる。
なら、やることも決まっている。彼女の能力を看破するのだ。説得にせよ何にせよ、まずはそこからになる。
腹を決め、俺はメティスと正対する。
目を凝らし、その能力の正体を見極めて凌駕するために。
「……来たね、高梨くん」
メティスが目を細める。思考を覗く力を持つ彼女は俺の狙いも完全に把握している。しかし、能力使用を控えるという選択は有り得ない。素の彼女の身体能力では俺に触れるのは不可能だからだ。このまま能力で攻め続けて体力を削り切る以外にない。
俺が彼女を看破するのが早いか、彼女が俺に触れるのが速いか。
つまりこれは、そういう勝負だ。




