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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
六章 天蓋
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40.智解の福音③

 一見して広大な書庫である創造界(ブリアー)なる場所をひた走る俺だったが、行けども行けども回廊は無限に続いている。仮に、本当に果てがないと言われたとしても俺は疑わないだろう。エイルの形成界(イェツィラ)がそうであったように、この場所は見えている通りの場所ではないのだ。

 その主であるメティスの不興を買ってしまった俺が、すんなり無事にここを出られる可能性は絶無だろう。そもそも時間的にも空間的にも物質世界から隔絶されているだろうこの図書館に、物理的な出口があるかは疑わしい。逃げられるはずもない。下手をすれば、永遠にこの図書館を走り続ける羽目になりかねない。

 

 ではなぜ逃げるのか。

 まったく情けないことに、これは純然たる時間稼ぎだった。

 エイルの指輪。灰色になってしまっているこの遺物が、ただ一度祈りの剣を使用しただけで完全に力を失ったとは思えない。時間経過で戻るのではないか、という淡い希望を俺は持っている。指輪の力が戻れば再びメティスの力を跳ね除けるのではないか、という強い期待も。

 そして、俺のその考えはどうやら思考を読み取る力を持つらしいメティスの知るところにもなったはずだ。彼女がわざわざ自分の世界に取り込んでまで俺に何をする気なのかは想像もつかないが、今までの流れからして歓迎すべきこととは思えない。

 故に、有無を言わせず真っ先に逃げた。

 あらゆる意味で未知数の相手に対し、時間を与えるのは下策だ。俺にはプライドもない。逃げていい場面では迷わず逃げる男だ。

 

 はっきりしていることは二つ。

 ひとつは、メティスが逃げ出した俺を直ちにどうこうする術を持っていないということだ。これは走り出して数分後、振り返ったときにメティスの姿が遥か後方に米粒程度の大きさで見えたことからも明らかだ。

 突如として空間を捻じ曲げて眼前に出現する、などという芸当は彼女にはできないのだ。最初からそうなのか、或いは何か別の要因によってできなくなっているのかは判断が難しい。現れた時にはいきなり背後を取られたので、後者の可能性が高いように感じられるが確信は持てない。

 

 もうひとつは――――俺の魔力が尽きたということだ。

 これはもう論ずる必要もないだろう。大学病院からこっち、全力の戦闘が続いていたので尽きない方がおかしい。

 身体強化抜きで普通に走るのが厳しいということはない。幸い人並みに体力はあるし、鈍らない程度の運動は怠っていなかった。異界に戻ってからは授業以外にはなくなってしまっていたが、それでも並の異界人よりは運動能力に優れている自信もある。

 

 が、連戦によって体力も尽きそうだということを俺は失念していた。

 

「うぐ……ごふっ……! ふぅ……フゥー!」

 

 喘ぐように肩で息をする。足の進みはもはや徒歩と大差なくなっている。

 どれだけのあいだ走っていたかはもう記憶にない。体感で半日経ったような気もするしまだ一時間しか経っていないような気もする。とにかく肺は空気を求め続けているし、喉は水分を要求し続けている。

 メティスが追ってきている筈の方角を振り返るが、無限の書架以外に見えるものはなかった。足音も気配もない。かなりの距離が離れていると見えた。

 脹脛の筋肉が独自の意思を得たかのように痙攣し始めるに至り、俺は手近な長椅子に倒れ込んだ。滝のような汗で服は惨憺たる有様だったが、無論、タオルも水もありはしない。ここは図書館だ。本しかない。

 

 右手の指輪を確認するが、色合いに変化は見られない。時間経過によって回復するという俺の推測が間違っていたのかどうかは不明だったが、遠大な鬼ごっこを続行するにしても体力の回復は待たねばならなかった。

 書架の陰に移動して思案する。せめて仮眠をとりたいところではあったが、いくらなんでも呑気が過ぎる。折衷案として床に座り込み、採光窓を見上げながら休息だけをとることにした。

 嵌め殺しの採光窓の向こう、ガラス越しに見える外界は黄色がかった白。アイボリーに染まっている。色以外の景観などは一切見当たらない。無が広がっているのかもしれない、などとしょうもないことを思わず考えてしまう。

 

 ふと思い立ち、背にしている書架から本を一冊引き抜いた。

 状況を打開する手立てを見い出せるかもしれない、と考えたわけではなかった。そんな都合のいい話はない。ただの手慰みに近い感覚だった。すべてが心象で構成されているという世界で、本の体裁をとっているものに何が記されているのかという興味もある。

 内装に合わせているのか、内装を合わせているのか。ずしりと重いその本は洋書の装丁だった。植物学ラテン語辞典などと題してあっても不思議はない威容だったが、カバーに題は見当たらない。

 厚い表紙を除けて頁をめくる。最初のページには、ミステリー小説の冒頭のような文字がびっしりと並んでいた。

 いかにも奇妙だ。辞典のような装丁と中身が噛み合っていないし、探せばあるのだろうが、十センチ以上の厚みがある小説など俺は読んだことがない。読破に何時間かかるものやら知れたものではないだろう。

 そんな時間はないし、俺は読書家でもなかった。斜め読みで頁をめくってざっと主旨をだけを読み取っていく。

 

 その物語は、九条千暁という名前の少女を主人公とした小説だった。九条嬢の活躍を、名前の明かされない友人の視点から描いた推理ものだ。あまり読まない種類の本だったので戸惑ったのだが、それ以上に、視点となっている人物の名前が終始明かされないのが奇抜というか、やはり奇妙で印象に残る。

 描かれている話自体は単純な殺人事件だ。と、そう評して片付けてしまえる俺はおそらくどうかしているのだろうが、他に形容のしようがない。九条嬢は卓越した推理力と行動力によって複雑怪奇な事件の背景ごと全容を解き明かし、物語は終わった。本もそこで終わっている。

 

 興味を惹かれるところは特になかった。

 強いて言えば、視点となっている人物の自己評価がやたらと低いあたりが気にはなったが、それは興味というより応援の意味が強い。凡人の域を出ない身としては身をつまされる心地だ。

 あとは、こんなものがここにあるという事実そのもの。メティスの創造界に所蔵されているということ自体が気にかかる。

 

 本を元の位置に戻し、隣の書を抜き出して改めるが、全く同じ装丁でありながら内容が大きく異なっている。哲学だ。流し読みでも苦労したものの、内容がドイツの著名な哲学者の著書に関する独自の解釈と考察であることを理解した。理解して、俺は棚に本を戻す。脳に痛覚はない筈だがひどく痛むような気がした。

 

 続けざまに別の本もいくつか確認し、まったく理解不能の言語で書かれた書や俺の知る限りは存在しない国の旅行記、コメント付き深海生物の写真集などを経て、俺はひとつの結論に至った。これらはおそらくメティスの記憶なのだろう、と。

 一見脈絡がない書の数々には、すべて主観視点で記されているという共通点がある。それこそ辞典や技術書のような、事実や知識をただ列記しただけの書が一冊もない。要するに人間臭いのだ。とても。

 

「なんか……そう考えるとけっこう背徳感があるな」

 

 人の頭の中を覗くというのはなかなかに罪深い行為だ。メティスの正体は分からないままだが、うら若い女性であるにも違いない。控えた方がいいか、と思いつつも俺はまた何冊か手に取って頁をめくっている。

 よくよく考えてみれば、俺も理解(ビナー)の聖性だか何だかで思考を覗かれているのでお互い様なのだ。敵を知り己を知れば百戦が何とやらでもある。そうやって自分に言い訳をしながら数冊を確認し終えたところで、俺は「本命」に行き当ることとなった。

 

 普通の日記である。

 今どき実際に日記を付けるような筆まめな人物は稀だろう。他の書と同じく記憶が本という形になったもの、と受け取るのが正しいだろう。それでいて、他の書では曖昧な時系列や事実が整然と記載されている筈だ。貴重な情報源である。

 書の厚さを考えれば当然のことだったが、最初の頁はメティスと思しき女性がまだ小学生ほどの年齢から始まっていた。子供とは思えないほど乾燥した、素っ気ない文章が並んでいる。仔細はプライバシーの観点から記憶しないようにしたが、家庭環境が普通ではないらしいとだけ読み取った。

 文面に祖父母しか登場しないからだ。

 また身をつまされるような思いがした。先程の比ではなかったが、俺は頁を進め続ける。

 途中、千暁という人名が増える。それにつれ、メティスと思しき女性の内面は徐々に変化していったらしい。読み取れる限りは良い方向へだ。おそらく先ほどの小説に登場した九条千暁と同一人物なのだろう。あちらはさすがにバイアスのかかった描写だったと思うのだが、警察に協力していたのは事実であるらしい。永山管理官の名前を見つけるなり、俺は、

 

「……」

 

 頁をめくる指を早め、飛ばし飛ばしに進めていく。

 熱中してはいない。つぶさに確認しようとも思っていない。

 九条千暁という名前に覚えはない。まったくの他人である。が、彼女がどうなったのかを直視する覚悟が俺にはなかった。おおよその想像がついているくせに。

 最初に記述が消えたのは彼女の祖父だった。やがて祖母が消え、飼い犬が消えた。永山管理官の名も見えなくなった。九条千暁は時折記述があるようだったが、本人はもう居ないようだった。

 日記の終わり近くまで来ると、ただでさえ記述が少なかった人名は殆どなくなっていた。その中に見つけた俺の名前さえも、途中から消えてしまった。

 

 メティスが誰なのかはもう分かっていた。

 正確に言えば、誰でないのかが分かっている。

 可能性がある人物を列挙して、不自然な空白が存在することに俺は気付いている。名前を思い浮かべることはできないものの、大した問題ではないように思う。むしろ、現象攻撃を使ってまで自分の素性をひた隠しにする理由の方が謎だ。

 

 それに。

 日記の最後の数頁。十月頭ごろに失踪したという高梨明人についての記述を何度も読み返し、自分の記憶と食い違っていることについて俺は思考のリソースを割く。

 

「……別の(ブランチ)ってやつか」

 

 今の俺には推測ができる。

 これは別の可能性を辿った世界の記憶なのだろう。

 何らかの理由によって俺が十月頭の時点で失踪――往還門から戻ることがなかったのか、戻った上でそうなったのかは判断する材料がない――した世界があったのだろう。世界樹がそういう構造をしているとは理解している。

 俺に別の枝の記憶はないが、エイルは全ての枝の記憶を持っていると言っていた気がする。それはメティスも同様なのだろう。

 

 別の可能性を辿った世界とはいえ、他人事ではない。枝の全体数は定義不可能な規模に及ぶに違いなく、相対的に見て、この程度の差ならほぼ同じ世界と言っていい。そう考えれば、その程度の差しかない世界の記憶を無限の書庫からたまたま引き当てるという部分に別の因果を感じるが、今は良い。そんなことより、あきらかな異常がある。

 

 最後の数頁。

 あと数頁なのだ。数頁しかない(・・・・)。まるでそこで全てが終わってしまったかのように、彼女の日記は途切れているのだ。

 猫を飼うことにした。新居に移ることを決めた。前向きな出来事が並んでいたはずなのに、唐突に終わっていた。

 

 

 ――空に、黒い穴。

 

 

 最後の記述に目を通し、俺は大きく息を吐いてから本を閉じる。

 取り乱しそうになりながらも、頭の中で「別の可能性」という言葉を念仏のように唱えることで平静を保っていた。

 黒い穴。それは間違いなく、俺達の枝でも開いた穴のことに違いない。日記の枝ではオルダオラが行ったあの所業で、多くの人が犠牲になったということなのだろう。止められる者が居なかったがために。彼女さえも。

 

「……くそっ」

 

 だとしても、俺達の枝では間に合ったはずだ。

 オルダオラは今度こそ倒れた。

 あの穴も閉じたはずだ。

 

 

 違和感がある。記憶を探る。

 俺は確認した、だろうか。

 空を。

 

 戦いの消耗で思考が鈍っていた自覚はあった。

 しかし、

 

「いや……まさか。あり得ないだろ……?」

 

 オルダオラを撃破すれば止められる。そう思っていた。思い込んでいた。

 だが、誰かがそれを保証してくれていただろうか。

 確信があっただろうか。

 

 

 

 エイルはそ(・・・・・)う言っていたか(・・・・・・・)

 

 

 

 自問の答えを探すように、俺は書架の本を片端から抜き出して開いていく。

 どこかにあるはずなのだ。この書庫に無限の記憶があるのなら、平穏無事に彼女が生き続ける枝の記憶だって当然ある筈なのだと。

 ただ縋るように、俺は本を開き続ける。

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