29.皇女殿下①
崩れかけた南門の見張り台から見える平原の向こうには、まだ昼間だというのに、いくつもの明かりが灯っていた。
無数の天幕と馬車が並び、米粒のような人影が右往左往している様子が見て取れる。
掲げられた旗標は、第十六皇女ミラベル配下、水星天騎士団のものだ。
「すげえ。奴ら、野営地を構築してやがる」
俺は真鍮の単眼望遠鏡を静かに折り畳み、首だけを動かして傍らに立つ男を見た。
男はこの街、セントレアの町長だ。若くして難儀な町長職を立派に務める優秀な男なのだが、今回ばかりはその表情も険しい。
「あの連中、日没までにマリアージュ殿下を一人で出頭させろと言ってきましたよ」
「そうか」
町長に対しては、二人きりの時だけは敬語を取り繕う必要がない。
体裁を気にする必要がないからだ。
ボリボリと頭を掻きながら頷く俺に、町長はしかめ面で眼鏡をかけ直しながら言う。
「そうか、じゃないですよ……どうするんです、タカナシ君。連中はまともじゃありません。とにかく皇女様をよこせの一点張りで、要求を呑まないと街を制圧するとまで言いましたよ」
彼は、頭は切れるのだが、どうも昔から不測の事態に滅法弱い。
危機的な状況であればあるほど、焦っても悪循環が生まれるだけだというのに。
「交渉の余地はないわけだ。最初から分かっちゃいたが」
「で、では、大人しくマリアージュ殿下を渡すんですか?」
「冗談じゃない。そんなわけないだろ。叩き潰す」
「……えぇ!?」
仰天する町長に望遠鏡を突き返し、慌てふためく背中を叩く。
「いくら正規の騎士団だからって、さすがに要求が無茶苦茶だ。法に触れてる。つまり、正義は我らにあり、だ。馬を出して隣町の騎士団に応援を要請してくれ」
「な、なるほど……しかし、間に合いますかね……」
「どうかな」
そもそも、要請したところで隣町の騎士団が動いてくれる可能性は五分か、それ以下なのだが、そこまで口にはしなかった。
基本的には賊相手の点数稼ぎしか頭にないあの騎士団が、わざわざ皇族配下の騎士団とやり合ってくれるとは考え難い。なので、駄目で元々といった程度の手でしかないのだが、町長の精神衛生上、安心材料がひとつでも多く必要だ。
「よりによって、収穫祭の時期にこんなことが起きるなんて、間が悪過ぎる……」
俯いて嘆く町長。万が一、祭りに影響が出るような事態になれば、街に与える経済的な損失は計り知れない。金勘定も町長の責務だ。しょぼくれる町長の背中をもう一度叩こうとした俺は、しかし、顔を上げた彼が放った言葉に、思わず手を止めた。
「……今年も準備をしているんでしょう? あの魔法を」
この街で唯一、かの大魔法の影響から外れている彼だけは、毎年この時期、この街で起きる現象の本当の意味を知っている。彼が生まれる以前からずっと、この街の町長と俺との間に連綿と受け継がれてきた、ある取り決めを。
「ああ。ちょっと早まったが、今日使う」
端的に肯定する。
町長はその言葉に何かを悟ったように瞠目し、顔を伏せて力なく首を振った。
「……タカナシ君。僕は、君と違って凡庸な男です。この期に及んで街のことしか考えられない。でも、僕だって本当は……」
彼はその先の言葉を飲み込み、口を固く結ぶ。
その先は言葉にならずとも分かっている。今の彼には立場がある。
「いいから、こっちは任せろよ。そっちもしっかり頼むぜ」
俺はやはり、かつての友人の肩を叩き、努めて明るく笑った。
詰め所のリビングに誰も居ないことを確認すると、俺は足音を立てないよう、忍び足で寝室に向かった。
寝室の下にある地下室に用事があるのだが、誰かに気取られるのはまずい。
極力、物音を立てないようにドアを開けると、そこには背中に手を回してあたふたする少女の背中があった。
「……ん? 誰だ?」
物音に気付き、くるりと振り返った金髪の少女――マリアージュ・マリア・スルーブレイスは、きょとんとした顔で俺を見る。
たちまち柔らかい表情になる。
「なんだ、タカナシ殿か……あ、いや、ちょうど良かった。すまないが背中の留め具を留めてはくれないか。なかなか……うまく留められなくて」
皇女殿下は日頃の青チュニックの上から、見事な装飾が施された銀色の胸甲を装着していた。見れば、同じ誂えの手甲や脚甲も床に転がっている。
ベッドに放り出された外套と長剣は、彼女がすぐにでもそれらを帯びるつもりなのだと、暗に物語っていた。
「一体、何をしてるんですか」
「見て分からんのか。支度だ」
そういうことじゃない。
喉を突いて出そうになる怒声を飲み込み、俺は奥歯を噛む。
「頼むよ、タカナシ殿」
マリーは、微笑んで希う。どうして断れようか。
俺は彼女の背中で胸甲の革紐をしっかりと留め、軽く引っ張って確かめた。
こういう類の防具は僅かにずれたりするようでも問題がある。
「貴殿のその様子では、わたしの事情もある程度は分かっているのだろう」
「ええ、まあ」
「やれやれ、カタリナにも困ったものだ。タカナシ殿に余計な気苦労をかけてしまうではないか」
白々しくかぶりを振るマリーに、俺は忸怩たる思いを噛み殺して言う。
「カタリナじゃありませんよ。あいつも教えてくれましたが、全てを知っていたわけじゃなかった。殿下は、カタリナには全てを話さなかったんですね」
目の前の少女の肩が、僅かに震えた。
それを肯定と受け取り、俺は言葉を続ける。
「ミラベル殿下から聞きました。継承戦とやらの本当の目的を」
「そうか。姉上と話したのか」
マリーは掠れた声音で言うなり、俺の方へ振り返る。
「であれば、最早わたしから伝えられることは何もない。短い間だったが、貴殿にはとても世話になった。礼を言う」
「……いや、何をなさるおつもりで?」
「決まっておろうが。姉上と戦うのだ」
至極真面目な顔で言ってのける皇女殿下を見ても、俺には何も理解できなかった。
この少女は一体、何を言っているのだろうか。
「カタリナから、ミラベル殿下を慕っていると聞いていましたが」
「もちろんだ。しかしこれは、姉上とわたしの問題だ。わたし自身が戦わねば筋が通らん。わたしがカタリナの提案を蹴っていたのは、あやつに戦わせたくなかったからだ」
「いや、外に居るのは騎士団ですよ。およそ百はいる。殿下なんか五秒で殺されます」
「そうであろうな」
「そんなものは戦いとは呼べません。自殺です」
「違う。少なくとも、わたしにとっては全然違う」
強い語調で少女は言う。
「知っておるなら話は早い。そうだとも。わたしも姉上も、ただ一人を生かすためだけに生まれてきた。未練がましく世を呪い続けている、古き王のためだ。錆びて朽ちかけ、ついには狂った、時計の歯車に過ぎん」
血を吐くような表情で述べるマリーの瞳に、俺は確かな意思の光を見る。
「だがな、そんなものは知ったことではない。血を分けた一族を殺し、化け物の親になって、満足して死んでいけとでもいうのか。そんなものは、わたしの人生ではない。人としての生き方ですらない。姉上は正しい。あの邪悪な王は直ちに除かねばならん」
脚甲の革紐を結び、手甲を嵌めながら、皇女殿下は言う。
細い手足と、明らかに大きさが釣り合っていない。
「だが、姉上がどれだけ正しくとも、そう物分りよく死んでもやれん。なにせ、わたしには夢がある。こうと決めた生き方がある。姉上にも父上にも邪魔はさせん。それを通そうとしている限り、わたしはわたしの人生を生きていられる。だから戦うのだ」
言い切り、マリーは笑って白い外套を羽織った。
その在り方は、とても頑固で、とても我侭で。
俺は言葉を見つけられず、答えの分かりきった質問をした。
「念のために聞いておきますが……殿下の夢って何ですか」
「貴殿は知っているだろう。門番だよ」
「……そうっすよね」
なぜ門番を目指すのか。それを聞けば、もう後に引けなくなる予感があった。
だから俺は、それ以上は何も言えなかった。
目を閉じ、頭を抱える。
そうしていたところで、この完全武装したお姫様の猛進を止められるわけでもない。
思案に暮れていると、唐突にドアが開き、見知った人物が顔を覗かせた。
「ああ、良かった。お二人ともご無事で……殿下、なんて格好を!?」
「カタリナ、わたしだって鎧くらい必要があれば着るぞ」
安堵の表情で寝室に入ってきたカタリナ・ルースは、マリーの物々しい格好を見て仰天した。そのまま卒倒しかねない勢いだったが、今はそんな猶予はないので先を促す。
「すまん、カタリナ。状況はかなり悪い。九天の連中はどうだ?」
「え、ええ。表に全員集まっています。ですが……」
カタリナの表情は暗い。
九天の騎士達との交渉が決裂したという可能性が、俺の脳裏を過ぎった。
彼らとの連携がなければ、この状況を乗り切るのは著しく困難になる。
カタリナが発した言葉は思いもよらないものだった。
「……九天の騎士の一人、ハリエットという魔術師の娘を人質に取られました。彼らは動けません」




