39.智解の福音②
「―――ッ」
躯体の深奥、堪え得ぬ悲鳴が右角の口から溢れた。傷の入った魂魄。なれど敵は強大。矜持も意地も捨て、ただ只管に勝つ為に作り上げた巨大な肉が、躯体が、激しく揺れている。剣の者の燦爛たる牙、あの恐ろしい光が肉を、右角の命を貫いているのだ。接続した幾万の命の貯蔵さえも総て殺しているのだ。
再起の目は無い。
其の真に恐ろしきは斬ることに非ず。剣の者が剣の者たる所以。剣とは。刃とは。命を切り裂き殺す為に鍛えられた鋼であるという、その直向な概念が総てを殺す。万であれ億であれ鏖殺し零とせしめる。不滅である筈の竜種さえをも殺すのだ。
そのようにして昔日の栄光は過ぎ去り、また、そのようにして今日の右角も再び滅びる。かつて剣の者から与えられた死をそっくりなぞるように死ぬ。またしても。
右角は在りし日を幻視する。
聖性を持つ者たちによって王が斃れ、片割れが斃れ、起死回生の一手として打って出た右角も剣の者に敗れた。理を、強者が恣に奪うことを、ただただ許さぬとして立つ者に。ありもしない夢想をこの世の真理かのように信ずる異常な生物に敗れた。
最強の種として設計された竜が、それ以外のものから奪うのは自然なることだ。それは大いなる理の遂行であり、それは摂理でもある。強き適者が生存し弱き不適は糧となる、万象の循環を回す確固たる真理だ。
剣の者。あれは狂っている。酷く、どうしようもなく。
大敵であるという以前に、憎悪を通り越して哀れですらある。あれらの光はまやかしなのだ。感情などという、脳内物質の作り出す揺らぎに過ぎないものを根拠としたあやふやな概念――虚構だ。実体の無い蜃気楼に踊らされているに過ぎないのだ。くだらぬ妄念に過ぎないのだ。
なのに、何故敗れる。
「弱いから」
あの小虫の声がする。情感のない声が聞こえる。
己の腑から沸き起った炎に焼かれながら、右角は声を聞く。
「その理屈で生きて、その理屈を是として振る舞い、その結果として敗れるのであれば、弱い肉である自分を認めるしかない。認めるしかなくなる」
反駁は不可能であった。ヒトの型に発話の力は残っていなかった。
それでも右角は思念のみで激昂する。
剣の者が強いのではない。理外の力、聖性が本来の摂理を曲げているだけなのだと。あるべき序列を無視し、誤った結果を齎しているのだと。
「自分たちにとっての理外を摂理に含めないところはとても人間らしい考え方だね、竜種。法則のごく一部を切り取って摂理と定めたとしても、所詮それは単一の有機生命体の視点から見た主観。欠けた計算式で正誤を計ろうだなんて」
あろうことか矮小な人類種と右角の思考が似通っているとさえ言ったのだ。右角の中に激甚たる怒りが沸くよりも早く、小虫の声は告げる。
「そもそも誰も強くなんてない。あなたたちがどれだけ大きくどれだけ強靭にデザインされていたとしても。人がどれだけ小さくどれだけ脆弱だとしても。そんなの、小さな系の小さな一要素でしかないんだから。強いとか弱いとか、それこそあやふやな概念じゃないかな」
死にゆく右角は忘我する。
それは、価値観の全否定だった。
「そんな幻想に依って立つから、くだらない妄念にだって負けるんだよ。あなたたちは弱さを受け入れればよかった」
躯体も、精神も、全てが崩れていく中で右角は理解する。
人に倣い、徹底して弱者の戦術を選び得れば、或いは剣の者に勝ったかもしれない。しかし、それはどこか矛盾している。強者であるはずの竜が、弱者であることを受け入れるなどと。それでは強者という定義がひどく曖昧になってしまう。強者たる、と断言できなくなってしまう。右角の魂魄はその負荷に耐えられない。
故に敗れるのだ。欠けた式であるが故に。
弱者たり得ない故に。
その理解は、死よりも恐ろしい奈落だった。聖性によって復活せずとも悠久の後に蘇る竜にとって、その保証たる魂魄の崩壊ほどの恐怖はない。たとえ死が意識を全きの闇に浸すことと知っていても、自己の意義さえ失い完全に消滅するよりは遥かに良い。この声は、あの小虫は、それをこそ求めているのではないか――
しかし、追撃の手は伸びてはこなかった。分からせるという神威を用いて右角の魂魄を滅却せんとしていたはずの声は、ただ、冷たく囁く。
「さようなら、オルダオラ。あなたが次の星霜を超えられたら、また」
終わりの帳が落ちる。
焼き尽くされた右角は暗黒にあった。肉体が死んだ。視神経は炭化し、茹った脳は変性して生理活性を失った。すべてが途絶し、停止する。
だが、右角の意識は無明の闇の中で哄笑する。
確かに右角は敗れた。それでも、儀式によって穴を開け、結界を破壊した時点で右角は最低限の役目を果たしている。王の路は開かれる。大勢での勝利は約束されているのだ。完全ではないにせよ。
哄笑を続ける右角は、しかし、ひとつの事実から目を背けている。
あの小虫の声は、あの新しき神の一柱は、右角の思考を読み取って会話していた。ならば自然、王の路が開かれることも知っているはずなのだ。
その上で、なぜ揺らがないのか。なぜ右角を完全に滅ぼさななかったのか。いまや何の意味も発揮しない意識でしかない右角には解らない。その無関心の意味を理解し得ない。
***
大の字に倒れた俺が再び目を開けると、そこは海の上のタンカーでもなければ海の中でもなく、どこか甘い匂いが満ちた古い洋館のホールだった。
古い洋館だと思ったのは、どこか懐かしささえ覚える近世様式の天井とそこに描かれた宗教画のせいだ。これは近代建築にあり得る造りではない。電灯を備えられないからだ。
結論から言って、その推測は当たってもいないし外れてもいなかった。
倒れたまま視線を横倒しにしてみると、何らかの書物をぎっしり収めた古めかしい書架が居並んでいるのが見えた。図書館。そんな単語を想起させるが、木目の多い、特定方向の美意識を感じる内装には骨董美術の趣もある。
甘いような匂いは古紙のものだったのだろう。それはいい。
問題は、立ち上がった俺が見回すホールの長大さにある。採光窓を備えた壁と並ぶ書架。アンティークめいた閲覧机や長椅子が無数に並んでいるのは正しく図書館であるのだが、果てがないのだ。
回廊の先、突き当たる壁があるべき方向にも無限とも思えるほど書架が並んでいるのみで、壁は見えない。あったとしても、少なくとも俺の視力では見通すことができないほど遠い距離にあるということだ。それでは間取りを図示すると長辺だけが異常に長い長方形になってしまい、どう考えても建築物の構造としては成り立たない。風で煽られただけで倒壊してしまうだろう。採光窓のおかげで地下という可能性もない。
つまりこの図書館は尋常な場所ではなく、現状も尋常な状態ではないということだ。苦心してオルダオラを撃破した直後だというのに、まったく別の危機的状況に陥ったと言える。
心当たりはある。
形成界だ。
「違うよ」
「……っ!?」
背後からの声に、飛び上がるようにして俺は振り返る。
直前まで気配も何もなかった。しかし、既知であるはずが未知のその女性は確かにそこに立っている。以前とは違って春物らしきクラシカルなリボンブラウスにハーフスカートという装いだった。季節感が奇妙なのは相変わらずだが、手にしている分厚い洋書のせいもあってか場に沿っているように思える。
いや。事実、ここが形成界なら沿っているも何もない。彼女、メティスがこの世界の主であるはずだ。
が、メティスは無表情で頭を振った。
「違う。ここは創造界。見てくれが心象という意味では似たようなものだけど、物質界からもっと遠い場所になる」
「……は、はあ」
俺は曖昧な相槌を打つくらいしかできない。理解外の存在にまた世界樹の外へ引きずり込まれたという意味では大差がないし、いずれにせよ蛇に丸飲みにされた蛙のようなものなので危険度も誤差に収まる。
というか、メティスは先ほどから口に出していない俺の思考を確実に拾っている。これはもう勘が良いとか読心術などというレベルではないだろう。理解の器であるというメティスの現象攻撃に違いない。
「そっちも不正解。きみの言葉で言うと概念攻撃になる」
「……概念攻撃?」
馴染みのない言葉を反芻してみるも、はっきりとした記憶にはない言葉だ。メティスはフラットな表情のまま目を伏せた。
「ごめん。まだ知らなかったね。内向きの力のことだよ」
「ああ……なるほど」
俺で言う剣技を指しているらしい。言われてみればメティスは俺に対して自分の正体を悟らせない為の現象攻撃を常に発動していると思しい。その上で別の現象攻撃を扱う、というのは無理がある話だ。一度に二つの現象攻撃を同時に発動するのは不可能だからだ。少なくとも往還者にはできない。
――いや、不味いな。それは。
思い当たって僅かに身構える俺に、メティスはやはり部屋に漂う埃でも見やるかのような顔で言うのだ。
「救済の小細工のせいで気付くのが遅れた。私の忠告を無視したね、高梨くん。困ったことになるって言ったのに」
枯木寒巌そのものであるメティスの口調には抑揚がない。それは決して圧のある態度でも言葉でもなかった筈だが、俺は背筋に冷たいものを感じている。
エイルから貰った白い指輪。メティスの目を誤魔化す効果もある、と聞いてはいたが、ちらと視線を送れば色が変わっている。くすんだ、灰色に近い色に。その意味するところは難しくない。
「祈りの剣。愛を借りて撃ったんでしょ。だからだよ」
おそらくそうだろう、と予想した通りの答えが投げられた。祈りの剣を使用したせいで、一時的に指輪の力が低下したのだ。
そして折しも、俺は福音――剣の福音の正体をおおよそ推測してしまっている。結論に近いものを手にしてしまった。知らない方がいい、とメティスが断じた真実をだ。
喧嘩を売っているに等しい。
変わらず抑揚ゼロの声音と表情で、メティスは宣言する。
「言ったはずだよ、高梨くん。私は許容しない」
彼女の、まるで石英のような白い手が動いた瞬間、俺は全力で飛び下がる。魔力も体力もオルダオラとの戦いで消耗していたが、出し惜しみはしなかった。
そんなことをすればどうなるか、俺は弁えている。
明確にしておかなければならない。
俺は現在まで様々な相手と対峙してきたが、メティスはその中でも――読み取れる限りで言えば、ぶっちぎりの最弱と言える。見た目異界の一般人そのものである彼女に敗れる、という図式は、立ち合いを百度繰り返したとしてもまず有り得ないだろう。武芸者としてそう断言できる。
だがそれは、現状においてまったく意味のある見切りではない。攻撃的な性格を持たないとはいえ、彼女はエイルと同等以上の力を持った神格なのだ。
勝負にならない。
絶対にだ。
確信して脱兎のごとく逃げ出す俺の背中に、冷ややかな声が届く。その言葉を吟味する余裕も今はない。
そうして無限に続くかのような本の回廊へ向かう最中、やはり古紙の匂いだろうか。ふと、バニラのような柑橘のような仄かな匂いがした気がした。




