38.招き
夜明けの騎士が異界の乗り物から飛び降り、未知の手段で瞬く間に空を駆けていくのを、ルカは開いたドアから身を乗り出して見送った。
吹き荒ぶ風の向こう。
彼の向かう洋上に渦巻く翼竜の大群も、その中心にある巨大な竜も、ドーリア王国とは無関係だ。彼の戦いを止める理由はルカにはない。
心を乱す理由もまた、ない。
ない筈だったが、傍目には絶望的な戦いに身を投じる夜明けの騎士の背中に、言葉にしがたい感情が湧き上がったのも事実だ。思わず追って、身を乗り出してしまう程度には感じるものがあった。
たとえそれが別世界の他人事だったとしても、無辜の人々を襲う脅威へと一直線に駆けていくその背中に、非力な拳を固めずにはいられない。
皇国北西部、転移街アズルで行われた戦いでも、蘇った竜が同様に街を襲ったと聞いている。ルカに許可なく行われた作戦ではあったものの、王である彼女は弁えている。ドーリアの行いはルカの行いである。当事者でないとはとても言えない。
その夜も、彼はきっと今と同じように戦ったのだろう。あれの目には本当に区分が存在しない。余人とは見ているものが違う。損得どころか善悪貴賤も目に入っていない。ただ「そのほうがいい」から「そうする」だけという、まるで子供のような理屈で目に入る理不尽に向けて剣を抜く。
そんなのは誰だってそうだ。まったく特別なことではない。本当は誰だってそうしたいに決まっている。しかし現実は厳しく、実際には妥協が必要なのだ。ロスぺールを陥落させる際に大量の犠牲者を出したのも、他にやりようがなかったからだ。ドーリア国内でさえ騎士シュバイアのような不穏分子を除くことも難しい。何事も、ままならないものなのだ。
だからか。
「ああ……羨ましいんだ、わたし」
かすかに呟き、ルカは風で暴れる前髪を払う。
遠ざかった夜明けの騎士の姿は、小比賀瑠衣の目ではもう追えない。ただ、蠢く竜が物語っている。戦いが始まった。ルカは遠くから指を咥えて眺めていることしかできない。
「くそっ、ドアくらい閉めていけよな!」
己の内心を打ち消すように悪態をついた。
その声は乗り物のたてる激しい騒音と風の音でかき消されるはずだったが、ドアを閉めながら見れば白瀬柊が苦笑していた。
「小比賀さん……じゃなくて、ルカさんでいいのかしら。彼とは付き合いが長いの? 幼馴染って言ってたけど」
「いや、じつは全然。瑠衣……この体の持ち主は確かにそうなんだけど、ぼくはこないだ会ったばかりさ。気が知れないよ。あんなの付き合いきれないと思うけどね」
どすんと座席に戻って腕組みをするルカに、白瀬柊は困惑の色を見せた。ルカ自身も瑠衣と自分の状態については深く理解していない。特に掘り下げることはせず、同乗する永山の様子を横目で窺う。
彼は操縦席の方に移動して食い入るように戦況を見詰めていた。話を聞かれる心配はないと判断したルカは白瀬柊に顔を寄せ、声を潜める。
「ぼくのことはルカでいいよ。現界のことは心配しないで。白瀬さんが無事にやっていけるってことは、高梨くんだけじゃなくてぼくもよく知ってるからさ」
とはいえ、保険は必要だ。
ルカは買ったばかりの自分のスマートフォンを取り出して白瀬柊の持つバッグに滑り込ませた。その端末には異界の先進的な技術書籍や辞典など様々なアプリケーションがダウンロードされている。もし帰還が叶ったらドーリアの為に使おうと思っていた知識だったが、白瀬柊の――アリエッタの役に立つのなら、まったく惜しくない。
「……もしかして、未来の私はあなたとも知り合いなの?」
「もちろんだよ。だって……」
言いながら、ルカは浮かんだ疑問によって言葉を止める。
どこまで自分のことを話していいものか判断が付かないのだ。
ドーリアの宮廷魔術師アリエッタは、現王であるルカの育ての親と言っていい人間だ。しかし、そんなことは今の白瀬柊には知る由もない。いきなり現れた他人に「あなたはぼくの親代わりの人なんです」などと言われて困らないわけがなく、それによって白瀬柊の未来の行動が変わってしまう可能性すらあるのでは、とルカは考える。
論理的に考えれば、そもそも過去の人間と会話をすること自体がリスクと言える。よくこんな博打をしたものだ。高梨明人に呆れ半分感心半分の感想を抱きつつ、ルカは慎重に言葉を選ぶ。
「白瀬さんは、ぼくたちの恩人だからね」
生命の福音。ウッドランドでは信仰の対象ですらある神代の大英雄。ドーリアの人間であるルカはそこまでの幻想を抱いていないにしても、彼女達が現界の救世主、歴史上の偉人であったのは間違いない。
「彼は言葉を濁してしまってるけど、過去の高梨くんにとっても白瀬さんは大事な人だったんだと思うよ。だから、胸を張って現界に旅立ってほしい」
どこか所在なさげな少女にそう耳打ちすると、彼女は少しだけ照れたように顔を背けた。
これから千年。彼女が過ごすその星霜は、ルカにも想像がつかない。その道行きには果てしない悲喜哀歓があるのだろう。せめて孤独でないことをルカは祈るばかりだが、ある意味でそれは保証されている。千年前の高梨明人が白瀬柊と出会うことも、確定した過去であるはずだからだ。
彼がどういった人物「だった」のかは判然としないながら、一応は彼も英雄なのだから任せられる――はず。大丈夫。たぶん。
それに、短いながら同居生活を続けるうちに人柄も把握している。
彼や来瀬川姫路、それに吸血姫も加えてもいい。彼らは悪人ではなかった。善良ですらあった。
ルカはそれ以上考えるのをやめる。
その先が袋小路に繋がっているのは明らかだったからだ。
「……ねえ、ルカさん」
顔を上げると、白瀬柊の青白い顔が至近にあった。
何か、致命的な問題に思い当たったかのように目を瞠っていた。
「過去の……だった……って、どういうこと? 千年後の私たちはどうなっているの?」
ルカは気付く。
失言だったかもしれない。取り繕う言葉も咄嗟には出なかった。
「ああ、えっと……疎遠にはなってるんじゃないかな……ぼくもアリ……あなたから高梨くんの話を聞いたことはなかったし……」
「……そう」
事実であり、おそらく高梨明人から聞いている話とも合致したのだろう。白瀬柊は疑念を挟まなかった。ただ、ひどく落胆したような色が見えた。
胸が痛んだ。ルカは知っている。彼女にとっては千年の後、転移街アズルでアリエッタと夜明けの騎士は刃を交えることになる。そこに決定的な決裂があったのは想像に難くない。
高梨明人はアリエッタとは違う。彼は不死の身ではない。その彼が生命を自在とするアリエッタに戦いを挑むということが、いったいどれほどのことなのか。両者を知った今のルカには分かる。
それは間違いなく命懸けの戦いだっただろう。もしルカが彼の立場だったなら、アリエッタと戦うという選択肢はそもそもない。アリエッタは慈悲の杖に指すだけで相手の命を奪うことができる。にもかかわらず、彼女自身はあらゆる負傷を受け付けない。知っていれば、彼女と戦うという状況に陥ることがどれだけ無謀で無意味なことなのかは考えるまでもない。
だというのに、どちらも退かなかった。
だとしたら、それほどまでにお互いが許せなかったのだとしか思えない。アリエッタは彼を除かなければならない障害として、高梨明人は彼女を無辜の人々を襲う脅威として、互いに戦いは避けられないものとして見做したに違いない。
しかしその想像は、ルカの頭の中ではうまく繋がらない。病室で談笑するふたりとはまったく繋がらなかった。たとえふたりの間に千年の隔たりがあったとしても、本当は違うのではないかと考えてしまう。違っていてほしいと願ってしまう。でなければ、こんなに悲しいことはない。
ルカは、率直にそう思った。
ドーリアの王としての立場を、いっさい考慮しなければ。
「事情は……高梨くんがくれたテキストにも書いてあるんじゃないかな。でも、彼が言ってたこともそうだけど、先に分かってれば悪いことは避けられるよ。きっと。だから心配しないで」
気休めでもなく、ルカは言った。決断力のないところはあるものの、彼がどれだけ考え抜いたかは間近で見ていた。完璧に思い通りにはならずとも悪い結果にはならないとルカも信じている。
偽りのないその言葉に、白瀬柊は幾分か表情を和らげた。
「……ありがとう、ルカさん」
「ううん。お礼が言いたいのはこっちの方だよ」
遠い未来、彼女は幼い日のルカに出会う。彼女は無力な傀儡、あるいは生贄にすぎなかったはずの幼君を鍛え、導いてくれた。もし彼女が居なければ、ルカは間違いなくこの世にいなかっただろう。その恩は、先の長くないルカの一生では返しきれないと思っていた。
白瀬柊に異界で会えたのは僥倖としか言いようがない。これから星霜を歩む彼女の助けに少しでもなれたのなら、この上ないことだ。
ルカは感謝の言葉を重ねようとした。
が、急激な慣性によって座席に押し付けられて沈黙する。乗り物が急旋回している、と気付いた時、窓の外に一瞬、翼竜の影が過ぎった。
襲われている。危機的状況を悟ったルカに、操縦士の慄然とした声が届いた。
「回避運動をとります! しっかり座っていてください!」
冗談じゃない。
操縦士の指示とは逆に、ルカは席を立った。異界の乗り物、ヘリコプターの性能は動画や文献で見たことがある。速度はともかくとしても、魔術的な防護のない、ただの鉄板で構成されたこの乗り物の耐久力は無きに等しい。頑強な翼竜と接触すれば、たちまち破壊されてしまうに違いない。
「ここまで寄られたら応戦しなきゃ駄目だ! 追い払わないと!」
こちらを振り返り、驚いたような顔をする永山喜嗣のジャケットの懐、銃らしき物体の握把が見えた。ルカは迷わず手を伸ばし、呆気にとられたままの永山から銃を掠め取る。
「瑠衣!? やめなさい!」
「その腕じゃ持ってても意味ないでしょ! オジさん!」
彼が訓練された官吏だということはルカにも分かっていたものの、永山の吊られた片腕はギプスの中だった。それではどうにもならない。
引き抜いた銃は軽く、奇妙な形状をしている。しかし吟味をしている暇はなかった。ルカは迷わず客室に備わったドアを開け放った。
再び暴風が機内に入り込んでくる。風圧に耐えながら頭を出して見れば、翼竜が一頭、ヘリコプターの周囲を旋回しつつ迫っていた。
しかし、翼竜は思いのほか速く、遠い。拳銃の有効な距離は数十メートルとルカは文献で読んだことがある。的が大きいとしても、素人である自分が当てられるかどうかは疑問だった。
でも。
救急バッグを抱いて顔を強張らせている白瀬柊を見やり、ルカは目を細める。彼女をこのまま無事に送り出さなければならない。今この時の為だけに自分の意識が異界に呼ばれたのではないかとすら思った。
一度だけ習った弩弓の撃ち方を思い出しつつ、ルカは異形の銃を構える。引き金に指をかけると、銃身が開いて何らかの機構が展開した。構わずに非力な手で狙いをつけるが、風と相対速度、ヘリコプターの上下運動でまったく狙いは絞れない。ギリギリまで翼竜を引き付けなければ当たる気がしなかった。
分の悪い賭けだ。ルカは非力な己に歯噛みする。
しかし、唐突にヘリコプターの軌道が直進で安定した。更には風でブレていた銃身もしっかりと固定される。ルカは一瞬、忘我した。しかしそれらは奇跡でも何でもない。操縦士の機転。それに、銃を構えるルカの手に、永山の逞しい手が重なったからだ。ルカを背中から抱えるようにして支える永山が、耳元で言った。
「この銃は二発しか撃てません。丁寧に当てなさい」
「……無理しちゃって」
外に身を乗り出している永山だったが、銃に片腕を使っている以上、負傷しているもう片方の腕で自分の体を支えていることになる。
時間はかけられない。
ルカは迫る翼竜に狙いを定め、そのシルエットの中心に向けて引き金を引いた。身構えていたような反動は無く、奇妙な甲高い音が発生しただけだった。
狙いは外れ、翼竜の首に命中したと思われた。翼竜の首の半ばほどに眩い閃光が生まれたからだ。それは、ルカの思い描いた銃の効果とは大きく異なっている。
この銃は武器というより、魔術に近い効果を発揮しているのだ。取り回しの感覚的にも魔術に似ていた。それなら馴染みがある。瞬間的な判断で、ルカはもう一度射撃した。反動のない連射なら、もう一度同じ場所に当たるはず。そう踏んだとおり、光は一段大きく増幅して弾けた。
直後、爆ぜるかのようにして、翼竜の首が割れた。断末魔と飛沫を散らしながら空中で姿勢を崩し、高度を下げて暗い海へと落ちていく。
「やった!」
思わず快哉が口から零れた。
間近にある永山の顔も、眼鏡の奥で安堵に綻んだように見えた。
瑠衣の記憶にある叔父の印象よりも、ずっと頼りになる男だとルカは思った。そう思わせてくれるような人物は多くない。ルカは彼よりも遥かに屈強な騎士を何十人も従えていたが、同じくらい頼りにできる人物は数人しか心当たりがない。感激のまま抱擁をすると、永山は驚いたような顔をした。
しかしすぐにルカを客室に引き戻すと、険しい表情で空を睨んだ。その視線の先には、新手の翼竜の影がある。
「落合君、急いで退避してください!」
その大声に、ルカは手元の銃を見る。展開していた機構は既に収納されていて、引き金に指をかけても開かない。動力が失われているように見えた。本当に二回しか使えない武器なんて、そんなの実用水準に達していないじゃないか――悪態をつきそうになりながら客室のドアを閉める。
あとはひたすら逃げの一手。操縦士が無事に切り抜けてくれることを祈るしかない。座席に戻ったルカは、どこか穏やかな白瀬柊の声を聞いた。
「……本当にありがとう、ルカさん。守ってくれて。あなたとも、もっと話をしてみたかった」
ぎょっとして振り返ると、世界から音が消えた。
機体越しの風切り音も、永山と操縦士の会話も、何も聞こえなくなった。
座席に座っている少女の周囲がねじれていた。奇妙に歪曲して、そこだけが世界から浮き上がっているように見えた。
ルカは直感する。「招き」が始まってしまったのだ。彼が戻っていないのに。高梨明人がまだ戻っていないというのに。
はっきりとしていなかった曖昧な感情を言葉にして、ルカは叫ぶ。
「ま、待って……まだ駄目だ! もっとふたりは話さなきゃ駄目なんだ!」
生気のない少女は、歪みの向こうで静かに首を振る。
自身で止められるものではないのだ。ルカもそれは経験として知っている。なにか大きな力が働いて、ただ成す術もなく飲み込まれるだけだった。
どうにもならない。
「また……会えるんでしょう?」
「……うん、もちろんだよ」
だからルカは、彼女の問いに崩れそうな顔で頷くしかなかった。過去の高梨明人とも、千年後のルカとも、これからの長い道行きの中で彼女はまた出会う。ルカはそう信じている。
「……それじゃあ、また。ね」
白瀬柊は、最後に微笑んだ。
不安の色を見せない、どこか無邪気さを覗かせるその顔に、ルカはようやく年相応の少女らしさを見つけた気がした。
そうして、少女は歪曲する光と共に消えた。
行ってしまった。
音の戻ってきた世界に、空になった座席だけが残っていた。
始終を見ていたのはルカだけだった。永山は操縦席の方を向き続けている。幸いだった。いま何か言われたら、泣いてしまうかもしれなかった。
帰ろう。何としてでも、ドーリアに。
アリエッタのもとに。
強く、改めて決意して、ルカは顔を上げる。
窓の外。洋上で光が瞬いて、海を裂くのが見えた。巨大な肉の竜が燃え上がり、滅ぶ様が微かに見えた。翼竜の影が次々と落ちていく。
ああ、もうだめだ。視界が滲み、ルカは膝を抱えた。
「おそいよ」
永山が操縦士に転回を命じる声も遠く、膝に顔を埋める。穴の開いた暗い空の下、ヘリコプターが向きを変える感覚に身を委ねた。そこになにか、微かな違和感があったが、今はもう、何も考えられそうになかった。




