36.天蓋⑩
落合操縦士の駆る新しいヘリ、おおとり十号と俺達が合流したのは大学病院の屋上だった。凄まじい低空飛行でやって来たかと思えば狭い屋上に無理矢理着陸し、搭乗していた永山管理官によって俺と柊、そして遅れてやってきた瑠衣すらも機内に詰め込まれ、ヘリは即座に離陸した。
手短な状況説明は一応あった。機上でも送られてきていた資料にざっと目を通したのだが、状況はほぼ最悪と言っていいものだった。
タンカー、ハニーヴァイキングから大量の翼竜が湧いて出たこと。すでに市街地への襲撃が発生していること。天秤が完全に沈黙していること。そして何より、永山管理官たちと合流する前から、屋上から俺たちは「それ」を見上げている。
空に開いた穴。穴としか表現できないそれは、否が応でもかつてカレルに見させられたビジョンを思い起こさせるものだ。
柊を襲った男、どうやらシーワイズと名乗ったらしい彼の話ともリンクしている。あの穴のように見える現象は竜種の手によるもので、だとするとあれはまだどこにも繋がっていない。穴を現界に繋げるには柊が現界に招かれる必要があるはずだからだ。
その当の柊は、おおとり十号の客室をおっかなびっくり眺め回している。隣の瑠衣共々、生まれて初めての経験と言わんばかりの様子だが、つい最近まで俺もそうだったので特に不思議はない。慣れている方が異常なのだ。
彼女が招きを受けるまでどれだけの猶予があるかは分からない。しかし、その前に最低でもふたつ、やらなければならない事が俺にはある。
「高梨君、ハニーヴァイキングを沈めてください」
永山管理官ははっきりとそう言った。
様々な意味で問題のある発言だったが、聞けばおおとり十号の借用も飛行も完全に独断だという。つまりこれから行われることはすべて非正規活動、要は犯罪行為そのものだということだ。
「いいんですか?」
「現状、翼竜の出現を食い止める以上に優先されることなどありません。裏ではありますが、上の方ともそれなりに話がついています。ただ、隠蔽工作は確実に行ってください。間違ってもあなたが当局に拘束されるような事態は避けるようにお願いします」
それは若者の将来を危惧して、という話では勿論ないのだろう。この先がどう転んでも不明災害に対応する戦力が絶対に必要だから、だ。
ミラベルが作ってくれた付呪付きの仮面がある限り、映像としての証拠は残らない。特に問題はないと判断し、俺は頷く。
「了解です。というか、こっちも似たような結論でした」
「というと?」
「人型……竜種を叩く必要があります。あの穴をどうにかしないといけない」
俺はそこまでで説明を切った。
永山管理官は眉をひそめるが、すぐに小さく溜息を吐いて頷く。
「准教授に聞け、ですね。べつに今なら何を聞いても信じるんですがね」
「だとしても、聞かない方が良いこともあります」
永山管理官は、いや。穴の詳細や柊のことは誰も知らないほうが良い。穴を開けさせない為のもっとも安易で確実な解決策――柊を排除するという選択肢をとるべきか否かで葛藤することになるからだ。
私見だが、永山管理官は選ぶだろう。間際になれば決断する人のように思う。その後に責任を取るに違いない。
俺は、その選択の責任を彼に渡すつもりなどない。悔いなき選択として、俺は術者と思しき竜種オルダオラを排除する。穴が開く前にだ。
オルダオラがハニーヴァイキングに居る確証はなかったが、その時はハニーヴァイキングを沈めるつもりでいた。油槽に溜め込まれていたものが魔力リソース兼、翼竜の材料だったのは現状からしても明らかで、攻撃が加えられればオルダオラも黙ってはいないだろうと踏んでいる。
そしてもうひとつ、俺にはやらなければならないことがある。
柊の未来を変える。
少なくとも、最大限その努力をしておくということだ。
「柊」
「……な、なに?」
呼び掛けると、座席に収まる柊はどこかぎこちない反応だった。
目線も俺の顔の斜め上辺りを彷徨っている。挙動不審だった。
「どうした。大丈夫か」
「あ……ちょっと、慣れないだけだから。ヘリコプターに」
「まあ、そりゃそうか」
窓の外を覗けば一目瞭然なのだが、おおとり十号は通常あり得ないような低空を最大巡航速度で飛んでいる。それでなくとも緊張しようものなので、深く考えずに話を進めることにした。
永山管理官にちらりと目配せをすると、彼は意を汲んでくれたらしく航空機用のしっかりしたヘッドセットを被ってくれた。もしかすると柊が同行している事情をうっすらと察しているのかもしれなかったが、彼は何も言わなかった。
「というか……ひとつ疑問があるのだけれど、どうして私はヘリコプターに乗せられているのかしら」
「至極もっともな疑問だが、答えは簡単だな。一番安全だからだよ。常に移動してれば狙われる心配がない」
その代わりおおとり十号は敵の巣窟に突っ込んでいるのだが、実際にハニーヴァイキングに再突入するのは俺ひとりのつもりであるので問題はない。誤差のようなものだ。
「……」
なのだが、柊は疑わしそうな顔を向けている。彼女や瑠衣をそこらに放っておく方がリスクが高いのも事実なので、嘘ではないのだ。どうも勘がいいらしい柊も結局、深くは追及しなかった。
「まあいいわ。で、なにか話があるんでしょう。なに?」
「ああ。その前にえーと、瑠衣……の中の人。モールで買った充電器とアルミホイルをくれ。保存食もだ」
「なんだよその呼び方は……いいけどさ」
瑠衣の中の人はカラフルなリュックサックから防災用品の太陽光充電器とアルミホイル、いくつかの栄養バーを取り出した。元々は敵の電磁パルス攻撃への対策として用意していた物品たちだが、いつ移動が始まるか分からない柊の方が緊急といえる。
「柊、テキストデータを送ったからタブレットから確認してくれ。終わったら充電器とタブレットをアルミホイルでぐるぐる巻きに……ああ、なんか入れ物ないかな」
喋りながら客室内の収納を片端から開けると、ブルーの救命バッグが出てきた。中のものを半分取り除き、適当に栄養バーを放り込んで柊に持たせる。
「これに詰めろ。テキストの中身は向こうで読んでくれ」
「……向こう、ね。例の別の世界でってことでいいのよね?」
「そうだ」
「このアルミホイルは何?」
「電磁波対策だ」
端的に答えると、柊は首をかしげた。
考えたのは来瀬川教諭で原理は俺もあまり理解していない。なので、知っていることと理由だけを答える。
「ファラデーケージ効果……だったかな。移動のときに持ってる電子機器が軒並み駄目になるから、その対策だ。電磁波が原因かも分からんから気休めだが」
「分かったような分からないような……そもそも、私はその……なんとかって世界に行っても大丈夫なの?」
「現界だよ、現界。大丈夫だから」
瑠衣の中の人はポケットから飴玉の類まで取り出して柊のバッグに詰めている。柊は困惑していた。
「……小比賀さんもその、現界……に行った人なの?」
「ぼくが? あはは、まさか。ぼくは現地民だよ」
「げ、現地民……?」
「わけあってこんな姿だけどね。ぼくはルカ。ルカ・ドーリアだ。会えてほんとうに嬉しいよ、柊さん」
瑠衣はぽかんとした顔の柊の手をとってしっかりと握手する。その目の輝きを見るにハグでもしそうな勢いだったが、俺の関心は別にある。
ドーリア。ドーリアと言ったのか。
「ちょっと待て。おまえ、まさかドーリアの王族なのか?」
「……きみとは握手しないぞ、夜明けの騎士」
「いや、それは別にしなくていいんだが……」
否定とも肯定ともとれない態度のルカ。その顔も声も瑠衣そのものなので、ドーリアの縁者と言われても実感などなかった。こんな身近にドーリアの王族が居るとは。いったい何がどうなっているのか。
「ぼくのことは話せば長いから、先にこの男の話を聞けばいいんじゃないかな」
この男呼ばわりされているところの俺は咳ばらいをしてから、送信してあるテキストにも書いた自分の考えを述べる。
「さっきも少し話したが、柊はこれから別の世界で千年くらい過ごすことになる……はずだ。少なくとも、俺が知っている限りはそうなる」
「……途方もない話ね」
「まったくだ。で、俺の知ってる範囲で未来に何が起きるのか、どうやり過ごせばいいかをまとめたのがさっきのテキストデータだ。だがタブレットが故障したり、別の原因で参照できない可能性も当然あるから、今のうちに重要なことだけは伝えておく」
かつて俺は、直接の介入を避け、忠告をすることで未来を変えようとしたことがある。第二皇子アーネストに対して行ったその試みは、結果として彼自身の裏切りによって何の成果もなかった。
だが柊は、少なくとも今の白瀬柊はアーネストとは違う。不思議だが、俺は彼女を心から信頼している。かつてのアリエッタに対してと同じか、ことによるとそれ以上にだ。
だから今度は変えられる。
きっと変えられるはずなのだ。そう信じて、俺は言葉を選ぶ。
「今はまだ分からないかもしれないが、大きな戦いがあって……その後な。お前は、その。なんだ。家庭を、持つ。持ったらしい」
「……は?」
「つまり、結婚した。らしい。ああいや、らしいというのは俺は見ていないからなんだが……とにかく所帯に入る。分かるか?」
語り難い。それは確かだったが、予想以上に舌が回らなかった。
柊は、呆然とそれを聞いていた。おそらく想像を絶していたのだと思う。見れば、隣の瑠衣も信じられないといった顔で柊を凝視している。
かくいう俺にも、具体的な絵は思い浮かべることができない。どういう経緯なのだったか、聞いてはいた筈なのだが思い出すことはできない。単に忘れてしまったのか、忘れたかったのか。そう考えるのは虫のいい話だろうか。
「そ……うなの……?」
無表情に近い顔で、柊は俺を見る。
何を問われているのか、額面通りではないことは分かっている。しかしそれは、もう過ぎ去った時間の話であって取り繕うことはできない。
「そうだ」
僅かに上昇の感覚があり、客室が揺れた。
おおとり十号は加速を続けている。
できれば俺も話したくなどない。しかし、時間が無いのだ。柊に嘘は通じない。つきたくもない。
「でもそれは……その生活はうまくいかなかった。そう聞いてる。だから、もしこの先そういう話があったとしても、断るべきだ」
「待って……ちょっと待って。そんなの……ぜんぜん大したことないじゃない。離婚するってこと? うまくいかなくて? それだけ?」
俺は、その問いかけに答えることができない。本当のこと以外は、どう話しても嘘になるからだ。
俺が断片的に知る真実はこうだ。柊――アリエッタと連れ添ったその男は、二十年後になぜか居住地の民を扇動してアリエッタを襲撃する。
具体的に何があったのかは分からない。知っているのは街が一つ虐殺によって消え、彼女の髪が白に変わったということだけだ。もともと明るいとは言えない少女だったが、決定的なまでに酷薄さを深めてしまったのは、その出来事を境にしてのことだったと思う。人を憎み、人を嫌悪する生命の福音が生まれたのはそのときだったのだろう。
「酷いことになるんだ。本当に」
そうして、しまいには俺たちは戦うことになる。
それだけは避けたい。
柊のため、と言うこともできたかもしれない。しかしそれは嘘だ。誰だって一番いいと思う今日を繰り返して生きている。選択の恩恵と責任とは、等しく当人のものだ。明日を知っているからといって当人の選択を蔑ろにするのは、やはりどこか傲慢な行いなのかもしれない。
結局、俺自身が嫌なだけだったのだ。
最初から柊のためなどではなかった。来瀬川教諭はきっと分かっていて、柊と話せと言ったのだ。俺が正しく選択できるように。
柊はじっと俺の目を見ていた。
そして、ややあってから溜息をひとつ吐く。
「そう。色々納得はできないけれど……覚えておくわ」
「覚えとくだけじゃ駄目だ」
「……分かってる。あなたの言うことは信じる。そう言ったでしょ」
強く言い切り、柊は生気の薄い顔で微笑んだ。
その様子を見る限り、忠告を無視するということはないように思える。俺は安堵し、そして同時に焦燥のようなものを覚えてこめかみを押さえた。
変化がない。
俺の過去の記憶も、なにひとつ変わっていない。これからのアリエッタの行動が大きく変わるのなら当然起きるはずの変化が、まったく訪れる気配もないのだ。
以前と。アーネストの時と同じだ。変えようとしたのに結局、アニエスは死んでしまった。むしろ俺の行動はその結果を助長さえしたのかもしれなかった。
しかし、前とは違うはずだ。すべてが違う。
ここまで柊の過去を改変したうえでアリエッタがああなるのは、まったく論理的な説明が付かない。あり得ないはずだ。
――改変が足りないのか。それとも、俺がなにか勘違いしているのか。過去を変えても現在の俺には影響を及ぼさないということなのか。あるいは。
高速で思考を回す俺だったが、窓から覗いていた景色が一変して顔を上げる。おおとり十号が市街地を抜け、洋上に出た。
日の傾く頃合いだというのに、波間は暗い空を反射するばかりで濁っている。空に浮かぶ黒い穴も関係しているのかもしれない。
「う……うそでしょ!? 翼竜があんなに!?」
操縦席のシート背面にかじりついたルカが悲鳴をあげた。
進行方向の洋上に、夥しい数の翼竜の影が見えている。遠目にも百では足りないと分かるほどの大群だった。
なにせこれからそこに突っ込もうとしているのだから、悲鳴もあがるというものだろう。
落合操縦士に「考え事をしているから待ってくれ」とも言えない。
時間はない。常に。空に穴があるうちに柊の転送が始まってしまうと、それこそ大惨事を招きかねない。
徐々に慣れつつある感覚で、ゆっくり右手を閉じる。
次の瞬間、俺の手には古びた西洋剣が握られていた。試しに左手もそうしてみるが、シーワイズに破壊された鞘は現れなかった。この剣を呼び寄せる権能は、あくまでも転送ということなのだろう。修復したり無から無限に取り出せるという類のものではないらしい。
つまり、俺の全戦力はまたも剣一本ということだ。
毎度のことながら。
「……行くの?」
虚空から剣を取り出した俺に、救命バッグをしっかりと抱えた柊が、変わらない調子で声をかけてきた。
彼女の雰囲気は暗いといえば暗いのだが、常に落ち着いているともとれる。悪いことではないように思える。ただ少し、感情が分かりにくいかもしれなかった。今は不安。僅かに恐怖。そんなところに見えた。
だから俺は、努めて明るく言った。
「やることが多くてね。人気者は辛い」
「ふ……」
冷笑されてしまったが、俺は肩をすくめるに留めて席を立つ。それから、操縦席の落合操縦士に向けて声を張った。
「高度を上げて、速度を落とさずにタンカーの上を通過して、そのまま退避してください!」
「そ……それで大丈夫なんですか!?」
「ええ! 俺は勝手に降ります!」
オペレーション担当の来瀬川教諭がいないのが痛い。段取りはすべて自分で決めるしかない。
ドアを開けると、凄まじいローター音と風がキャビンに入り込んできた。しかしそれと当時に、なにか、澄んだ音が聴こえる。遠く、ローターの騒音にかき消される程度のボリュームだったが、なぜか耳に届いた。
「なにかの……歌?」
客室内のルカが怪訝そうな顔をしている。
俺は開けたドアから身を乗り出し、凄まじい風圧に目を細めつつ、進行方向の空に目を凝らした。
そして、言葉を失う。
洋上のタンカーが遠目に見えた。
そこから生えた、竜らしきシルエットの異形。肉色の竜種の姿。空を飛び交い、二派に分かれて戦っていると思しき翼竜の群れも見えた。
群れの先頭を行く一体の翼竜が歪み、輝いている。光を溢しながら飛ぶその背に、人影のようなものが見えた気がした。
現象攻撃。
そう直感した。
誰か、福音が戦っているのだと。
たったひとりで。
「……なんて馬鹿なことを!」
体が勝手に動いていた。
時速三百キロ近い速度で飛ぶ機体を蹴り、空へと跳ぶ。客室に残る柊が手を伸ばして何かを言った。その声は風圧で聞こえなかったが、剣を握る手をかざして応える。
招きは近い。もう「白瀬柊」には会えないかもしれない。
しかし。
それでも、行かなければならない。異界に侵入してきた翼竜と竜種。その目論見のすべてをこの戦いで微塵に砕かなければならない。
でなければ何のための剣の福音なのか。
空中で魔素の足場に足をかける。
その瞬間、明確にイメージした。元の戦技。宙を渡る歩法の先。未だ存在しないその完成形を、未来から引き寄せる。
相克属性の魔素、精霊同士の反発力を利用した、加速術の到達点。脳に巣食う剣技が激しく警鐘を鳴らす。それは小径に許容される動きではない。摂理に反している――完全に無視する。
「神の力なんだろうが!」
一喝と共に、俺は虚空を蹴って加速する。
祈りの歌が響く空を真っ直ぐに、音を超えてただ真っ直ぐ。
淀んだ空と黒円の下、決戦の場へと。




