35.天蓋⑨
富士重力波観測研究所から話に聞いていたタンカーへ転移させられたと気付いたとき、ミラベルは敗北を覚悟した。
オルダオラ――人化した竜種が脅威となり得ないのは明人のような例外だけであり、姫路の予測どおり船倉で蘇生していたオルダオラに自らが抗し得るとは思えなかったからだ。
剣聖マルトから授受された高位破壊魔法、銀弓も竜種の魔力障壁には通用しない。ミラベルが習得している魔術は百種を超えているが、そのいずれもオルダオラに効力を発揮するものではなかった。
なら福音はどうか。
ミラベルが自覚している慈愛の福音の現象攻撃はひとつだけだ。
誘惑の声。歌を聞いた者を魅了する、ただそれだけの権能ながら効果は強力だ。その魅了は人格にさえ影響を及ぼすほど強固なもので、取り除くことはミラベル本人にすらできない。洗脳とさえいえる。
しかし、ミラベルにしか見えない少女、救済は言った。竜種に慈愛の福音は効かない、と。
「竜種には愛情とか親愛とか以前に、愛って概念がそもそもないの。そういう造りをしてない生物だから」
「そんな生き物が居るんですか? だって親子とか夫婦……つがいのような関係は竜にもあるはずです」
「ないのよ」
「え?」
「家族に相当する単位が竜種にはないの。個にして最強。不老長寿の生命体がわざわざ子孫を作る意味なんてないでしょう。数を増やしたところで世界は有限。食い扶持が減るだけよ」
「……個体で完結している生き物だから、愛がないということですか」
「そうね。執着とか崇拝とか、それに近いものはあるかもしれないけど……愛はない。だから届かないわ。私の福音は。せいぜい怯ませるくらいしか効果がない」
つまり、ミラベルの持ち得る手段でオルダオラを打倒する目があるとすれば、姫路のような搦め手か、でなければ人化した肉体の弱点である、物理的な脆さを突くしかないということだ。
前者は、いくらなんでも二度は通じないと思われた。姫路に一度殺されたオルダオラは、仕掛けに対して最大限の警戒をするはずだった。また、不意の転移からの遭遇戦で、大掛かりな仕掛けを用意する隙などもなかった。
だからミラベルは後者の戦術を採った。術で隙を作り、殴打で倒す。それが唯一の勝算であり、それ以外の勝ち筋は何処にも無かった。
遺物を使う、という賭けを除いては。
救済が創り出した遺物、心奥の鍵に、実際のところ大きな力はない。
その鍵を他者に回せば閉じた心をも開き、自分に回せば己の裡を外へ開く。要は「鍵を使われた者が素直になる」という程度のささやかな奇跡をもたらす神器でしかなく、そうであるが故に愛という聖性にこの上なく則したものである。
しかし、聖性の器が――皇女ミラベルが用いる場合に限り、そのささやかな奇跡は意味合いを大きく変える。
ミラベルの心の裡、その器の中身たるものは、世界樹の外、形成界に座する高次存在へと繋がっているからだ。鍵の使用は即ち、本来は成立しない、物質界における神格の顕現を意味する。
それでも、これはやはり成り立たない式なのだ。
無限の情報量を持つという神格を受け入れるキャパシティが世界樹には無い。最悪の場合、泡のように世界が破裂し、すべての枝が無に還る。
だから心奥の鍵の使用はミラベルにとって賭けだった。救済が滅びの手段を明人に託すはずがないという信頼。世界樹が遠い未来まで存続しているはずだという推測。あやふやなそれらを越えた先にしかない、奥の手。
成り立たない式がもたらした結果は、鍵を回した直後に理解できた。
世界樹に許容される範囲に限定した、部分顕現。それは本体からすればやはりささやかな、爪先だけをほんの少し泉に浸けるような範囲のものでしかなかった。
しかしそれでも、ミラベルは垣間見た無限によって自分の意識が世界樹の外にまで拡張するのを感じた。
すべての真理を手の内に、自らが全能であるかのように錯覚さえした。この力を使えば、あらゆる問題を駆逐することも叶うと。
あの憎き父や、親愛を裏切った剣聖に復讐することも容易だ。戦乱を平定し、大陸に平和をもたらすこともできる。もう敵はいない。福音たちでさえも、もはや自分を止めることはできない。
私は自由だ。
自らの形成界。星海の下、光に満ちた広大なる泉の上で、ミラベルは大いに歓喜した。喜びのままに走り、息を弾ませてくるくると躍った。泉の下に近代的な街が透けて見える。その幻想の意味さえ、今は理解できた。泉に満ちているのは水ではなく、様々な可能性の枝から汲み上げられた熱量。光だ。光が街に滴り落ちているのだ。
もしそれをほんの少し掬い上げ、物質界での力に変えてしまえば、きっとできないことは何もない。その力で盾突くものたちを焼き尽くし、綺麗に滅ぼしてしまうこともできるだろう。無限の知でとこしえの善政を敷くこともできる。
なんだってできる。
これは当然の権利だ。
自身の運命を知らされた日から、あるいは生まれた時から、常に他者から生き方を強いられてきた。小さな願いを踏みにじられ、血の詰まった型に押し込められてきた。その報いはあって然るべきだ。でなければ嘘だ――
ああ、でも。
すすり泣く声が聞こえる。足音が聞こえる。
ミラベルは足を止めた。
すでに狂喜は去り、胸の痛みだけが残っていた。ちゃぷちゃぷと小さな足音があり、本当はとっくに見えていたはずのものを、ミラベルは振り返る。
泉の上を少女が歩いていた。白いサマードレスの幼い自分が、泣きじゃくりながらずっと歩き続けていた。
死と夜から逃げて、ずっと逃げ続けているのだろうとミラベルは思った。
きっと今も、まだ。
その涙が落ちて、落ち続けて泉になった。無限ある可能性のほとんどで救われなかったあの子の涙が、誰にも掬われることなく溜まり続けて、こうなった。視野を埋め尽くすほどの泉。慈愛の福音の源泉に。
あの少女は救済であり、ミラベルでもあった。
背が伸びても、体が大きくなっても、無限を得てもきっと変わらない。すべてがあの少女から始まった。憎悪でも復讐でもなく、ただ愛されることをねだるあの子から続いていた。
すべてを理解し、ミラベルは再び水を蹴る。
躓きながら、涙の飛沫を掻き分けながら少女のもとへ走る。重く、邪魔な全能も無限も、放り捨てた。泉に落ちて淡く消えるそれらを振り返りもしなかった。
知っていた。
ほしいものは最初からひとつだけだった。
だから伝えなければならない。報いはあるのだと。未だ愛に満たずとも、好きだと言ってくれる人がいるのだと。歩みの先が死と夜に追い付かれるばかりではないのだということを。
少女に追い付いたミラベルは、その手を取って振り向かせ、小さな体を抱き寄せる。少女が瞳をいっぱいに広げた瞬間、ミラベルの体は涙の粒になって泉に落ち、溶けて消えた。
残った少女は目を瞬かせ、己の顔に触れる。そこには悲しみも恐怖も、憎悪もない。すべてはひとつだった。
眦の涙を拭い、決然と星海を見上げて手を伸ばす。手には白い鍵がある。心奥の鍵。ささやかなる奇跡。
***
鍵は回り、錠は外れた。
救済と同じ、幼い日の自分へとその姿を変じさせたミラベルは、嵐のような変化の中でゆっくりと瞳を開く。
古代の神官服を纏う、人の形をとった竜が恐怖に叫んでいた。世界樹が神格の部分顕現で軋んでいる。拡張された意識でそう理解したミラベルは、残された時間が三十分程度であると決め打ちして、心奥の鍵を杖の大きさに変えた。
早々に片を付けなければならない。
「愛……愛だと!? 馬鹿が! 愚かな人どもめらが! そんな錯覚のためにそこまで理をねじ曲げているのか!? その在り方がどういうことか解っているのか!?」
人化した竜、オルダオラの叫びはいつのまにか弾劾に変わっていた。
自らを棚に上げて、よくも言う。砂嵐めいた現実の書き換えから舞い降り、ミラベルは乱れた髪を髪を手で払いながら言い放つ。
「当然です。少なくとも、歪な生命に説教される謂れはないわ。大人しく退くならそれでよし。でなければ愛を執行します」
「ほざくなッ! おのれごとき半端な神もどきに何ができるものか! 我が手で四界に叩き返してくれる!」
一理ある。
思わず怯んでしまいそうになる。
神格、救済の部分顕現を経て肉体的にも精神的にも変化したミラベルだったが、無限と全能を――無限光を置いてきてしまったので、神そのものでは決してない。神としての記憶も無ければ、行使できる力も慈愛の福音に限る。でなければ部分顕現ですら実現しなかった。
しかし、いまや福音のすべてが見渡せている。
その使い方も、どうすれば現状を打開できるかも分かっている。だからもう、オルダオラは恐ろしい怪物ではない。十分に打倒し得る「敵」だった。
ミラベルは鍵の杖を持つ手で指を組み、祈る。神にではなく、彼女が万象に見い出した愛に祈った。
自身の本質を受け入れたいま、抵抗なく認めることができる。敵味方、親兄妹。境界などない。種族さえ超えて垣根なく、すべての命に愛はあり、また、あるべきなのだと信じている。此処にこそ在れかしと祈ることができる。
だから。
「愛を此処に」
唇から祈りが地に落ち、鍵の杖から光が広がった。オルダオラが電磁の術式を放つのも、光はまったく受け付けない。
術式を成立させている粒。魔素も意思を持っている。術式とは、究極的に言えば、魔素の意思を隷属させて使役することに他ならない。そして、それは愛より弱い。ただの強制に過ぎない術式と、愛の概念そのものの具象であるこの光とでは、最初から勝負になっていない。魔素は術式に従わない。
少女は歌う。
彼女は国教会の司祭として習った聖歌しか知らない。
だからそう歌い、声よ届けと祈りを込める。
聖歌は光を広げ、さらには船倉から溢れ、次々と生まれ来る翼竜たちを一定数飲み込んだ。
目の色が変わる。翼竜たちのおよそ半数が一斉に挙動を変え、手近な同種に襲い掛かり始めた。
「なんだ……どうなっている! こんなことは……!」
オルダオラはなおも術式を放っていた。
何度も放ち、掻き消されている現実を認めないと言わんばかりに繰り返す。その何も変わらない様子に、ミラベルは諦念と共に目を閉じた。
あれには愛が届かない。どうして竜たちがそんな風になってしまったのかは分からなかったが、ただ知らないだけなのであれば、知ってほしかった。そんな願いがなかったとは言えない。
おもむろに。光を受けた翼竜の一体が首を伸ばし、あぎとを開いてオルダオラを飲み込んだ。
従属から解放された翼竜が、自由意志としてそうしたのだった。高度な思考を持たない生き物でありながら、なぜそんなことをしたのかはミラベルにも分からない。いずれにせよ、それきりオルダオラの気配は消えた。
あの竜がその程度では滅びないということは分かっている。明人に一度。姫路に一度。何度殺されても、あれの魂は何か、竜種の力とは別の法則で保護されているように思える。
「間違いない。聖性だわ」
救済の声が脳裏に響き、ミラベルは幼い顔をしかめた。
「やはり竜種が福音を?」
「それはない。ありえない。でも、あの竜が聖性を帯びてるのも間違いない。きっと誰かが……福音が手を貸してる」
でも誰が。
疑問を声にはせず、ミラベルは倒れ伏した姫路を抱き起して治癒術を施した。重傷、特に頭部の挫傷がひどかったが、すべての能力が二回り底上げされている今のミラベルには救命する自信があった。
空では翼竜同士の同士討ちと共食いが激化している。そしてその向こう、上空に開いた黒い穴は未だ健在だった。
オルダオラが開いたと思しきあの穴が閉じていないということは、殺すだけでは、一時的な撃退ではやはり足りないのだ。
「オルダオラを完全に滅ぼさないと」
「聖性がこの船にある肉塊全部に繋がってる。あれをぜんぶ殺さないとだめ」
ミラベルは船倉を満たしている肉の山を見やり、歯を食いしばった。いったいどれだけの人間が形を変えたものなのだろうか。目が眩むような思いがする。
そして物理的にも困難だ。
全長五百メートル近い船体のほとんどを肉塊が占めているとすれば、それらをすべて殺し切る規模の破壊魔法などミラベルは習得していない。そもそも、そんな魔術は知り限り黒しかない。
船を沈めれば肉塊も死ぬかもしれなかったが、確証がない。
「……少しずつでも薙ぎ払うしかない、ですね」
ミラベルの魔力も一時的に数十倍程度に増えている。
様子見に生み出した銀弓も、一発ごとの大きさが普段の何倍も膨れあがっていた。
これなら、と数百の魔弾を掌からばら撒くミラベルだったが、その矢先に肉塊が突如として波打った。
船倉が大きく揺らぎ、吹き溜まった闇の向こう、肉の海を突き破って何かが飛び出した。まず巨大な骨と筋が見え、それが手らしき形であることをミラベルが認識した瞬間、救済の声が叫んだ。
「あれは……!? だめ! 逃げて!」
逃げろと言われても、肉の満ちた船倉の中に逃げ場などない。気を失ったままの姫路を抱えて硬直するミラベルだったが、助けの手は意外なところから伸びた。
オルダオラを平らげた先ほどの翼竜が首を伸ばし、ミラベルのサマードレスの背を噛んだ。そのまま凄まじい力で運び、自らの背にミラベルと姫路を置くやいなや、翼を広げて船倉の穴から飛び立ったのだ。
タンカーから数十メートルは舞い上がり、ミラベルはようやく我に返った。
眼下に見えるタンカーと恐ろし気な顔の翼竜を何度か見比べ、どうも懐いてくれているらしい、とだけ理解して顔を引き攣らせる。
そうはいっても翼竜は翼竜なので、蛇めいた目や並ぶ牙に怖気を覚えてしまうのは避けられないのだが――
「和んでる場合じゃない! 竜体が来る!」
眼下のタンカーから轟音がした。翼竜によって穴だらけになっていたその上部甲板の大半が内側から弾け飛んで舞い上がっていた。
分厚い鋼板だったはずのそれらを紙のように破り捨て、まず腕が現れた。次に首、そして胴体。剥き出しの肉と骨で構成された巨大な竜が、タンカーから持ち上がった。
ミラベルには覚えがあった。それは、かつて転移街アズルを襲った災厄。生命の福音によって蘇った、あの半死半生の竜に酷似していた。
しかし、異なる点もあった。
醜悪極まる肉の竜が、その背から一対の翼を生み出して広げてみせたのだ。ミラベルは凍り付く。
「生命の福音……! あなたは……なんてことを!」
完全な竜体、完全に蘇った竜種を打倒する手段など現界にも無いかもしれないというのに、よりによって異界の空にそんなものが解き放たれようとしている。
翼竜の背で鍵の杖を翻し、ミラベルは再び銀弓を詠唱する。まだ下半身が未完成らしき竜体の構築が終わる前に、あれを斃さなくては。空の穴から王とやらが来なくても、きっとあの一体で異界の人類種は滅んでしまう。
「お願い、力を貸して!」
背に乗せて飛んでくれている翼竜に呼び掛ける。言葉を解するとは思えなかったのに、翼竜はミラベルをぎょろりと一瞥して進路を変えた。タンカーから生えた竜体――オルダオラの上を旋回するような軌道を取り始める。
ありがとう。
口の中で感謝を呟き、ミラベルは幾百もの銀の魔弾を空にばら撒いた。
まずは竜体の翼。
ただでさえ強力な魔力障壁を備える竜に魔術は通らない。頭部や胴体などは容易く弾かれると推測した。
狙いを定め、ミラベルは銀の流星を次々と解き放つ。高まった魔力により、その光はひとつひとつが極大の光線にまでなった。
着弾の度に爆発が起き、竜体が不気味に揺れる。しかし、膨大な威力を秘めている筈の攻撃を受けてもなお、翼には傷ひとつない。
何度も攻撃を繰り返すしかなかったが、その前に竜体が完成してしまう。部分顕現にも時間の限りがある。場所もよく分からない海の上、孤立無援。希望はどこにも見当たらない。
数百、ことによると千を超える翼竜が乱戦する空を駆けながら、ミラベルは滅びの気配に唇を噛む。
無限を垣間見た今なら分かる。世界は、こうして幾度も滅びを迎えている。いくつもの枝が途上で潰えている原因のひとつ。数多の世界樹を渡り歩く、蝗の如き悪しき夢。竜種。
止められない。
また。
「大丈夫。やり方が間違ってるだけだから」
「……救済?」
「いいから祈りなさい。私にできることなんて祈ることくらいなのよ。でもそれは、剣聖から貰った魔法なんかよりよほど強い力になるから」
静かに語りかける声に、ミラベルは小さくなった胸で息を吐く。
魔術で戦うのは間違っている。
それは、そうなのかもしれない。魔性の権化に魔術で対抗する。考えてみればおかしな話だ。
今も背に乗せて飛んでくれている翼竜が、またこちらを見た気がした。ミラベルは孤立無援ではなかった。祈りは届く。届いていた。
「愛を此処に」
再び鍵の杖を持つ手で指を組み、静かに祈った。
そうして、また光が満ちた。形成界から汲み上げられた涙が、力になってくれている。
此処にこそ在れかしと祈り、少女は歌う。光は再び翼竜たちを飲み込み、その過半を従えた一頭を先頭にして群れを成す。
少女は歌う。その在り方と祈りを、ただそのままに。




