34.天蓋⑧
巨大な鉄の渡し船、その胎内たる鉄の槽を満たす闇の中。肉から新造された躯体を持ち上げ、右角オルダオラは双眸を開いた。数度の瞬きで焦点を合わせ、形を成した己の白い掌を握って肉体の感覚を取り戻す。
死からの再生。挿し木された聖性は依然機能している。
いかに右角が偉大なる竜種のひとつ、誉高き陪神の右だとしても、魂魄を宿した躯体の死から逃れる術は本来ない。不死と不滅が約束されているのは最後の竜、呪われしデッセネウラのみ。
右角の再生を実現しているのは、分け与えられた忌まわしき聖性。怨敵たる剣の者が操る力と同じ、放光界に由来する新しき神々の力の一片だった。
不快である。
右角は素から衣を練り上げ、人の身の上に羽織った。不快感の正体は何度目かの死と再生に忌むべき力が絡んでいること、ではない。
ただの人間に前回の躯体を殺された。その恥辱こそがまさに悪心の原因だ。脆弱な躯体とはいえ、あの人間の少女、塵芥同然の小虫に過ぎない定命の者が、その小賢しさだけで右角を下したという事実が許し難いのだ。
怨敵たる剣の者ならいざ知らず、基底大地の人間ごときにしてやられるなどと、右角自身の存在強度にまで影響する凶事だ。魂魄の深部に無視できない傷が入っている。一刻も早くあの定命の者を引き裂き、その血と臓物でもって恥辱を雪がなくては大事に障る。
しかし、じきに刻限であるのも事実だった。
もうじき蓋が開き、神がこの地に手を伸ばす。
人の手によって張られた波動の結界、あの地下に築かれていた天秤なる邪魔な装置は除くことができた。次は基底大地で掻き集めた肉と魔力を用いて儀式を完遂させなければならない。再び天秤のもとに出向き、あの定命の者を殺している時間はない。
右角は、定命者の魂魄と肉から作り出した傀儡たち――その中でも力ある者、シーワイズの意識に同調しようとした。しかし、傀儡たちの意識は既に基底大地のどこにも存在しなかった。僅かに聖性を株分けさえしたというのに、滅ぼされてしまったとでもいうのか――右角は端正な顔を歪める。
「所詮は人か……しかし、白の女を押さえられた? こちらの腹を読まれている筈も無かろうが……なんだ……?」
奇妙だ。つい数日前までは盤石としていた計画が、いつの間にか薄氷を履むが如し有様になっている。解せない現状に、右角は腕の震えを自覚した。
そもそも、基底大地に剣の者が居ることが右角にとっては想定外の事態だった。かの者は外殻大地に留まっていたはずなのに、まるで行き来をしているかのように基底大地にも現れた。
新しき神々の力を受けているとはいえ、人ごときが渡界を行うなどと、そんなことは有り得ないし、あってはならない。神そのものの仕業以外にはない。なら、人と神が手を結んでいるとでもいうのか。
「それこそ有り得ぬ」
己の考えを一笑に付する。
神は人を愛してなどいない。それがすべてだ。そうでなければ困る。
深く呼吸し、すべては躯体に影響されているがゆえのことだと結論付ける。右角の使用している躯体は惰弱な人の肉体そのものであり、ゆえに人と同じように、まるで人であるかのように失敗をする。惑いもする。それだけだと片付けた。
溜め込んだ資源を出し惜しむ局面でもない。既に起動した儀式に用いる膨大な素を除いても、剣の者を圧倒するに充分な量の肉がある。
剣の者が邪魔なら殺戮を撒けばいい。かの者を釘付けにする、程の良い餌になるだろう。
「このうえは、総力を以て理を遂行するのみ」
右角は掌を打ち合わせ、素を操った。
遠き地から微小な魂魄を呼び寄せ、渡し船に貯蔵している肉に宿す。生まれ出でた翼持つ従僕たちが無数、首だけで右角の躯体を遥かに上回る長い首を一斉に持ち上げた。渡し船の鉄を引き裂き、竜の似姿が次々に空へと舞い上がっていく。
あとは、あの人間の少女だ。
出向く時間がないとしても、消費を度外視すればどうとでも料理できる。邪魔な結界も既にない。居場所もおおよそが分かっているのなら、あの定命の者の方を渡界でこちらに移動させればいい。
再び掌を打ち合わせる。
素を介して意識をあの天秤なる装置があった地下に合わせ、それらしき人間の反応がある一帯を丸ごと範囲に指定する。地盤のせいで精密な狙いは付けられない。が、生きていさえすれば右角の目的には沿う。構わず目の前の空間と繋げる。
右角の眼前、部屋一つ分の空間が一瞬、弓なりに曲がって弾けた。領域を三次元上に限定しているとはいえ、二地点間の空間結合は余力だけで長時間の維持ができるほど安くはない。しかし、その一瞬で右角は目的のものを空間ごと抉り取り、引き寄せることに成功した。
右角の目の前には、球形に削り取られた地下施設の制御室らしき部屋の一角が現れている。
動く影はふたつ。そのうちのひとつが、素を操って白光を放った。それは照明の機能のみを持った術式だったが、右角は眉をひそめる。
人間の術師などと。
光輝なきこの地にあるはずのないものだ。だが、
「地下で横槍を入れた術師か……!」
白光の向こう、銀の髪の少女が強張った声を漏らす。
「ここは……例の船? まさか転移魔術まで使うとは……」
「ミラベルさん! あれがオルダオラだよ!」
忘れ得ぬ声もした。術師の隣に、こちらを指す例の少女の姿もあった。
両者の視線が右角に注がれ、表情を硬くする。恐れと戦意が等分に混ざった貌。戦いを辞さぬ者の顔だ。
そうでなくては。
従僕を生み出し続ける肉を背に、右角は人間達と対峙する。渡し船の倉の中は、従僕の手を借りるには狭過ぎる。しかし、地下施設の時のような小細工の心配はない。人間の術師と力のない小虫。その程度、手ずから叩き潰すのは容易い――容易い筈だが――
「…………なんだ?」
右角は眉間の皴を深める。
ミラベルという名であるらしい術師の小娘を目の当たりにした瞬間から、右角は無自覚に動揺していた。
まったく、勝てる気がしない。
術師は確かに人間にしては強い力を持っているものの、それはあくまで人の身にあっての話であり、絶対的には現在のオルダオラの躯体にすら大きく劣っている。間違っても畏れを抱くようなものではない。ない筈だというのに。この感覚はまるで、怨敵たる剣の者と同じ――――まさか。
「ッ――聖性だと!?」
「緑炎!」
右角が狼狽を露わにすると同時に、ミラベルなる術師は照明を消し、誓言を口にして両手から碧い焔を放った。
右角の知る竜種の祈祷とは系統が異なる、人の術。魔術だ。だが精緻な術ではない。ばら撒くようにして放たれた火を、右角は飛び下がって避ける。
直撃したところで素の護りを崩すには至らないと見たが、あれが新たに聖性を得た人間であるのなら、術にさえどのような仕掛けがあるか分かったものではない。
受け入れ難くはあったが、右角は既に認識を改めている。
もはや慢心も油断もならない。
放たれた緑の炎が床や肉にも燃え移り、露わになった倉の異様に狼狽する人間たちをも照らし出した。
惰弱な精神。しかし、真に聖性を持つのであれば、あれらの手は右角の王にも届き得る。朽ちかけた剣の者のみならずとは、なんたることか。
「殺す。おのれらは殺さねばならぬ」
「古の魔性が……こちらの世界にまで出でて何を宣うのです! お前たちを討つことだけには、迷いも躊躇いもありません!」
帽子と目の装身具が消え、術師の手に光が点る。
あの放射光。
「させん」
右角は素を掌で束ね、電磁の波動として放った。出力の制御などもはや必要ない。人間の肉体など一瞬で過加熱状態になり爆散する。
その寸前、術師は手の光を振るった。
「積層鏡楯・十七層!」
術師の手から瞬時に伸びたのは、白い鍵だった。
手の中に収まる大きさであったはずのそれが、一瞬にして杖として扱えるほどの大きさにまで拡大したのだ。そして術師の素を伝導し、術式の補助具として機能した。
幾重にも現れた銀の薄膜が、右角の波動と激突して爆散する。鍵の杖を翻し、舞い散る銀の破片の中から術師が跳び出した。
「清浄なる破魔の銀! 縫い止めよ、縛り付けよ!」
なんと奇怪な誓言か。未知の術式の起動を察知し、右角は足元の床に視線を落とす。素で編まれた光の紋様と共に、おそらく拘束を目的とした錬成が開始されようとしている。
「小賢しい!」
右角は踵を落とし、肉体に秘めた素のみで術を踏み壊した。同等の出力であればいざ知らず、銀髪の術師と右角とでは操れる素の出力に天地の差がある。右角が触れただけで術式を破砕しうるほどに。
しかし、踏み壊した術式がその瞬間に輝きを増した。光が膨れ上がり、直上の右角を飲み込んで銀色に爆ぜる。
罠。
術式を二重に重ねたのか。
非力な人間が。どこまでも賢しい。
無傷の右角は銀の爆煙を腕で払い、駆ける術師目掛け術で応射する。波動は術師の守り、鉱物錬成を基調としたあの銀の防御術式と相性が悪く、有効とみられる熱、炎は右角の得手とする属性ではなかった。だとしても、術の撃ち合いで人間に後れを取る道理はない。
術師の張った薄膜が再び砕かれ、右角の放った波動が遂に直撃した。くずおれる術師がすぐに爆散するものとして笑みを刻む右角だったが、
不意に、倒れ行く術師の姿がかき消えた。右角は瞠目する。虚像。
「ふっ!」
空気を裂く気配が右角の間近にあった。近接戦闘の間合いにまで踏み込み、鍵の杖を振り下ろす術師の姿を視認し、素で強化した膂力でもって迎え撃つ。鍵の杖と掌が激突し、右角は衝撃で床に沈み込んだ。
やる。
状況を忘れて戦いに興じそうになってしまう。躯体の差を差し引いても、右角が駆けたかつての大戦でさえ、これほどの人間はそうは居なかった。
しかし右角は戦いに没頭しない。理を遂行するのだ。専心しなければ。その為にこの人間たちを殺さねばならないだけだ。
そこで、気付く。
あの小虫は、術師でも戦士でもない方の娘は何処へいった。
直後、右角の肩に異様な感触が駆け抜けた。
勘定の外に追いやっていたあの矮小な人間が、死角から黒い小型の火器をこちらに向けていた。素の護りを素通りする、波動の武器。
損壊した躯体から血がしぶく。傾ぐ視界に、怒りが沸き起こった。
おのれ。
またしても、あの小虫。
右角の怨嗟が喉を衝くよりも速く、娘が必死の形相で波動の武器をもう一度撃った。咄嗟に盾とした右角の腕が電離気体に飲まれ、爆ぜるようにして折れる。
その隙を逃さんと、競り合う術師の鍵の杖が力を増した。
まさかこのまま押し勝てると踏んでいるのか。
右角は驚き、憤激する。
人如きが。
「図に――」
折れた腕で術師の頭を無造作に掴んだ。そして力任せに振り回し、武器を構えたまま呆然としている小虫目掛けて、投げた。
「乗るなッ!」
投げた術師と小虫が衝突し、大きく弾け飛んだ。破砕音。術師はともかく、小虫の肉体強度でそれは致命的な衝突だった。無抵抗のまま床を転がり、うつ伏せで僅かな痙攣を見せた後、動かなくなる。
術師もすぐには立たなかった。
鍵の杖を支えに、ようやく弱々しく立ち上がる。満身創痍が見て取れる。しかしその顔は、まだ死んでいない。戦意の消えない瞳が、緑の炎に照らされている。
他愛ない。
術の撃ち合いに拘らなければこんなものか。
右角は、損壊した躯体の肩を横目で見た。大きく抉れ、腕が千切れかけているように見えた。既に痛覚は麻痺している。ぼたぼたと落ちる血液を見るにも、この躯体が長くもたないのは明白だった。
「……やってくれたものよ」
潰れた小虫。
右角はもう動かないその人間に、憎悪とそれを上回る称賛の念を覚える。二度もしてやれれば認めざるを得ない。
魂魄の深部に入った傷はもう癒えない。圧倒的弱者である人間に敗れたという認識が、右角の魂に刻まれてしまった。それは強大な肉体と精神を持つ竜種を、唯一弱らせる毒でもある。
躯体もやがて死ぬ。右角は間違いなく痛手を負った。
だが、勝利した。
小虫は潰れ、術師は死に体。脅威は排除した。貯蔵した肉は節々燃えているが、一部に過ぎない。従僕の召喚と儀式に影響はない。躯体はまた再生すればいい。
次々に生まれ来る従僕たちが牙と体躯で船倉の天井を引き裂き、合間から仄暗い空が見えた。空に落ちる影、儀式によって開きつつある天の蓋が浮かび上がっている。
素晴らしい。
「ああ、見るがいい。あれこそは我らが王の歩まれる路。この地にも真なる理と光輝が齎されるのだ。歓喜せよ、人間」
右角の呼び掛けで術師は空を仰ぎ、僅か表情を曇らせた。
それから、再び右角に視線を戻して、言った。
「はっ……ばかばかしい」
術師は凄惨な笑みを浮かべていた。
死に体でありながら、不気味に笑っている。不気味。そう感じたことに、右角は戦慄する。
そうだ、何を偉業に酔っているのか。この術師はまともではない。我に返り、掌を持ち上げた右角は、術師の手から鍵の杖が消えていることに気付く。
「……すこし癪だけど、お前にも見せてあげます。獣と変わらないお前たちは、どうせ知らないのでしょう」
「何を」
術師は答えず、手の中の鍵を己の胸に刺して回す。
その瞬間、世界から理が姿を消した。
万物から色彩が消え、右角の目にはすべてが崩れたようにも見えた。そして、あの忌まわしい放射光が見える。
聖性の行使。
右角の魂魄に刻まれた恐怖が噴き上がって精神を蝕む。崩れたはずの万物が嵐のように渦巻き、再び形象を取り戻す中、術師の姿が消え、決してこの世にあってはならないものが顕れている。
面立ちは術師のもの。
しかし幼く、それは純白の衣をまとった少女のかたちをしていた。
華美な衣装が舞い、閉じられていた目が開く。
深い碧の瞳が右角を見据える。
それが在るだけで世界が軋み、右角は悸え、遂に恐慌の叫びをあげた。全身に吹き荒ぶ戦慄が足を後退させた。
いまにも吹き散らされそうな自我で、辛うじて理解している。あれが本当にそのものであったのなら、すでに基底大地ごと万象が崩壊している。
ならば限定的な降臨である筈なのだ。そうでなければ、右角はもはや思考すら許されていなかった。だから、絶えることのない恐怖が、喉から迸るだけで済んでいる。
おぞましい音が聞こえる。
叫び続ける右角は、理の消えた世界に音を聞く。細く、澄んだ氷柱を弾いた音のような声。偉大なる竜種とは決して相容れぬ、惨憺たる祝福の音を。
「愛をよ」




