33.天蓋⑦※
蜂の巣をつついたような騒ぎとはよく言うが、それなら今起きているこれはいったい何の巣をつついてしまったのだろうか。車中の永山は臓腑から込み上げるような悪寒に身を震わせる。
膝に乗せたノートパソコンの画面の向こう、絶叫に近い声が飛び交っていた。それは横須賀にある防衛省の海上作戦センターと、都庁に設置された不災対本部との遠隔会議の様子だったが、終始この有様で会議の体を為していない。
正規の参加者でない永山は盗み見ているだけだったが、かえって幸運と言えた。もし当事者としてその場に立っていたのなら、卒倒していたかもしれない。正気を保っていられる自信がまったくない。
四十分前、東京湾に停泊していたハニーヴァイキングから多数の生き物の影が飛び立つ姿が確認された。
報告したのは木更津側に待機していた不災対の実験部隊だった。その数分後、木更津港を中心に不明災害が発生。実験部隊と交戦に入った。
彼らからの最後の報告によると、木更津側に来襲した不明災害――有翼の大型爬虫類は最低でも百を超えていたという。理論上は不明災害への対応手段を持つ実験部隊だったが、実績は無い。以降、木更津からの連絡は途絶えている。
また、海峡を挟んだ横浜側の市街地でも数体が確認され、未曽有の混乱が起きている。なにせ通常の不明災害と異なり、今回の大型爬虫類は可視光の欺瞞を行っていない――姿を消していない。すでに民間のソーシャルネットワークサービスを中心に情報が流出してしまっている。市街地を飛ぶ姿を収めた映像まで出回っている有様だった。
こうなってはもう、隠蔽も不可能だ。事はもはや秘密裏に処理できる段階ではない。不災対本部が恐慌に陥っている理由の半分はそれだ。
しかし、そんなことは些細な問題なのだ。本当の問題は別にある。
永山は手に滲んだ汗を指で拭う。
永山がパークで見た不明災害――翼竜の死骸は、個体差はあれど約七トンほどだと聞いていた。
もし仮に。ハニーヴァイキングの油槽からそれらが生まれているのだとしたら。五十万トン級のタンカーが満載していたという例の肉塊から生じているのだとしたら。
最悪、数万体の翼竜が発生し得るのではないか。
異界の力を持つ少年の力を借りて、ようやく殺せるような怪物が。この世界の技術では一体も殺傷できていない怪物が、数万体。
永山は百ですら絶望と共に数を聞いたのだ。この世が終わるのには十分な数であるようにも思えた。
その推測に至った瞬間、永山は官房筋の伝手である小比賀を通じ、直ちにハニーヴァイキングを撃沈するよう防衛省に進言した。
返答はなかった。だが当然と言える。いくら不災対が防衛出動に準ずる行動の権限を持っていたとしても、米国籍の船舶を即座に撃沈などできるわけがない。前例もない。米国側との交渉と手続き、承認までにどれだけの時間がかかるか見当もつかない。そして、五十万トン級のタンカーの処理など、自衛隊の装備でしか実現しない。
富士重力波観測研究所とは連絡がつかない。
天秤はオフラインだった。
打つ手がない。
ただひとつを除いて。
「結局、彼に頼らざるを得ないわけだ……つくづく情けない」
「高梨さんですか」
忸怩たる思いで電話を取り出す永山に、運転席の女性が声をかけた。
落合冬子だ。本業はヘリの操縦士だったが、今は腕に不自由がある永山の代わりに運転手をしている。彼女はタンカーの一件である程度の事情を知ってしまっていた。永山は手を動かしながら答える。
「ええ」
「でも……間に合うんでしょうか。おおとりも無しで」
「無理でしょう。いくら彼でも瞬間移動ができるわけではありません。少なくとも、私は聞いていません」
「……」
「既に発生した翼竜の群れは首都圏どころかこの国を喰い尽してしまうかもしれない。ですが、それはもう避けようがない」
落合は翼竜という語にこれといった反応を示さなかった。それが与太話の類ではないということがこの期に及んで理解できないはずがないか。永山は嘆息しシートの背もたれに身を沈ませる。
「いまできるのは、可能な限り速やかに発生源を断つことだけです。これが成功しようと失敗しようと、その先はありません」
現行の社会は存続しないだろうとまで、永山は想像している。落合にその考えを告げないのは、彼女の手がまだ必要だからだ。ただでさえ人手不足の資料室に余剰の人員はない。見切りを付けられて離脱されるのは困る。しかし、落合はハンドルを切りながら小さく顔をしかめるだけだった。
「管理官は、彼がどうやってその……翼竜と戦っているかを直接ご覧になったことがありますか?」
「いえ?」
「……そうですか。そうでしょうね」
意味深に納得した様子の落合に、永山は眉をひそめる。
「どういう意味ですか」
「もし一度でも見たことがあるなら、そんな言葉はでてこないと思ったものですから。彼なら事態を収拾できるかもしれない。僅かながらですが、そう信じさせてもらえます」
馬鹿げている。永山はずれかけた眼鏡を押し上げた。
確認の術はないながら、翼竜は既に東京湾沿岸の全域に到達しているはずだった。対応は物理的に不可能と言える。
「楽観……いや、夢物語ですよ」
「今更でしょう。私たちは皆、悪い夢の中に居るようなものです。本当はもう、ずっと前から」
そうかもしれない。永山は落合の境遇へと僅かに思いを馳せる。彼女は今年に入って家族が失踪していた。確定はしていないものの、不明災害の被害者である可能性が高かった。
落合の職務とそれは無関係だが、永山が資料室の立ち上げに際して彼女を登用した理由のひとつでもある。見切りを付けられる心配などなかったかのかもしれない。永山は内省し、確認の言葉を投げる。
「では、信じて飛んでくれますか。また、ハニーヴァイキングに」
「もちろんです」
車はちょうど江東飛行センターの敷地にさしかかっていた。
フェンスを挟んだ向こうに並ぶ格納庫と、露天で待機しているヘリのカラフルな機体が見えている。
資料室が運用していたアグスタウエストランドAW139、おおとり9号の代替機はまだ手配されていない。
「そういえば、手続きはどうなってるんですか? 飛行許可とか……」
「そんなものはありません。もう要らないでしょう」
永山が放言すると、落合は微かに笑った。車が速度を増す。敷地にある警備詰所も無視し、格納庫を目指して進む。
永山は黙認した。警備に誰何されると面倒であるし、そもそも格納庫まで辿り着けるか怪しくなるからだ。堂々と進んだ方が正解である。
なおも紛糾し続ける不災対の会議を最後に一瞥してから、永山はノートパソコンを操作した。通信指令室に待機させている桧川からいくつかの情報が届いていたが、陸自の提案している一次攻撃計画や横浜近辺の避難計画など重要なもの以外は無視する。
ふと、目に留まる記述があった。
「木更津の被害報告がない……?」
襲撃の初報があった木更津で何も起きていない。現地の状況が想像できず、永山は思案する。現地には氷室一月が居たはず。あの得体の知れないところがある学者が何かをしたのか、それとも。
いや、なんでもいい。思考を切り上げ、分かっている情報をまとめて高梨明人と来瀬川姫路宛てに送信してノートパソコンを閉じた。
永山にできることは残り少ない。次の手を、と永山が電話を操作しようとしたとき、軽い衝撃と甲高い金属音があった。落合がアクセルを踏み込み、急加速した車が離発着場のフェンスをぶち破ったのだ。
「む、無茶をしますね」
「一度やってみたかったんです!」
永山は苦笑する。
これでもう後戻りはできない。
警備に捕まれば終わりだ。落合は当然、永山も警備を納得させるような材料を持っていない。時間のロスも致命的なものとなる。その前に飛び立たなくてはならない。
落合は迷いなく車を操り、離発着場で待機していたおおとり9号と同型機の傍まで車を寄せて急停車させた。永山にはヘリの整備状態などは分からなかったが、落合の判断を信じて給油されていることを祈るしかない。
「すぐに離陸の準備をお願いします」
「高梨さんたちは?」
「飛んでから拾いましょう。急いで」
高梨の現在位置は分からない。電話が繋がりにくく連絡が取れていなかった。芥峰に居るのかセーフハウスに向かったのかも定かではない。姫路が同行しているのかどうかも分からない。
ずいぶん杜撰な計画だ。永山は自嘲し、車から降りる。
「……管理官!」
途端、先に降りた落合が悲鳴をあげた。咄嗟に周囲に視線を巡らせた永山は、離発着場目掛けてやってくる警備職員の姿を認める。
思った以上に対応が早い。舌打ちし、車のドアを後ろ手に閉める。絶対に落合にヘリを飛ばしてもらわなければならない。何を差し置いてでも、それだけは必ず成し遂げなくてはならない。永山は覚悟を決める。
「私が時間を稼ぎます。あなたはその隙に……」
しかし、落合を振り返った永山は彼女の視線が警備職員たちの方に向いていないことに気付く。
彼女は空を見ていた。
再度振り返り見れば、警備職員たちも足を止めて空を仰いでいる。まるでこちらのことなど忘れてしまったかのように、呆けた顔をしているように見えた。
奇妙な予感があった。視線を上げる前から、そうしてはならないという本能的な警鐘を聞いているような気がした。
皆、悪い夢の中に居る。
落合の言葉を永山は反芻する。
まさにそうだ。悪夢を見ているときの、あの、漠然とした不安感にさいなまれる感覚が今もある。
目線を上げ、永山は空を見上げる。
――穴が、開いていた。
暗澹たる空の中心。中天に黒い穴が口を開けている。まるで炎の如き天幕を纏った漆黒が、その後背に覗く星海と共に顕れて揺らめいているのだ。
永山は何か言おうとしたが、掠れた息にしかならなかった。
対流圏界面の重力変動。確かにそんな話を聞いてはいたが、目先の脅威にかかりきりで半分忘れていた。
しかし今、永山の目に見えているものは重力の歪みなどという次元のものではない。それは誰がどう見ても穴だと分かる。
氷室一月が言っていた。歪みは時空構造に形成された穴になりつつあり、相互通行すら可能になるかもしれない、と。
だとして。
あの漆黒の向こうから、いったい何処から何が来るというのか。
***
「……なるほど、確かに天蓋に見える」
天蓋。
氷室一月は一度だけ、ただ一度だけその名を聞いたことがある。遥かな昔、竜種が彼らの発生点から外殻大地へと渡った際に用いられたというその術式には、本来、人間が発音可能な名がない。あらゆる奇跡の模倣者である彼女が、マリアが名付けたのだ。
竜種は外殻大地土着の生物ではなかった。彼らは魔素と共に遍歴するものであり、大いなる理なる指針によって行動しているのだとマリアは言った。そこに例外はないとも。
氷室にそれ以上は分からない。あの空に開いた穴がそうなのだろうと、マリアの暗示を遅ればせながらに理解しただけだ。
思えば、彼女の言を無意識に遠ざけていた気がする。本心ではマリアを嫌悪すらしていたかもしれない。氷室が現界を去ったのも無関係ではなかった。それらは、ひとえに彼が神秘を嫌い、奇跡を唾棄していた故だ。そして、マリアという少女はまるで神秘の化身のようだった。本当に人ではなかったのかもしれない。
人間の尺度で計れない事象は存在してはならないとさえ氷室は考えている。すべてものが等しく法に従えばこそ、安定した世界の運営が実現すると確信していた。国家、都市、コミュニティ、グループ。スケールも問わない。
その上でこそ、氷室一月が望んでいたものが手に入るはずだった。暖かな日差しのもとで笑いかける、あれは――誰だったか。歳月を経た記憶の彼方にある顔。もう思い出すことはできない。
しかし。異なる空、異なる世界で再び、唾棄すべき奇跡が世界を壊そうとしている。それが好ましくないことだけは確かだ。
「さて」
夥しい数の翼竜の死骸が散らばる埠頭で、氷室は大きく伸びをした。久方振りの肉体労働に体の節々が悲鳴をあげている。魔力もざっくり半分を割った。
木更津港を襲撃した翼竜の一波は殲滅したものの、洋上のタンカーから発生し続けている翼竜の群れは、変わらず増加の一途を辿っている。
不災対の部隊は一波を乗り越えられずに壊滅した。交戦と呼べるほどの時間も持ちこたえることができなかった。
椎子は食い散らかされた遺体から使えそうな装備をかき集めているが、どれだけの意味があるかは知れない。
故に、氷室一月はここから動けない。彼の背後、内陸には街がある。手の届く範囲内だけであっても駆除を続ければ、翼竜は同胞の血の臭いに寄ってくる。ある程度は守ることができるだろう。様々な切り上げ時はあるものの、いまは続けなければならない。
氷室は既にいくつかの可能性を見ている。
天蓋が純粋に移動手段なのだとすれば、これから起きることは翼竜のような情報量の少ない従僕が重力波による通信で召喚されるのとはわけが違う。物理的に巨大なものが来る。もしそうなら、全てが終わる。
しかし、幸いにもまだ術式は起動していない。
なぜなら穴の漆黒が何処にも通じていないからだ。条件が揃っていないのか、単にリソースが不足しているのかは判断が付かない。
起動前に術者を抹殺すれば、或いは阻止が叶うかもしれない。木更津港に停泊している船舶を拝借して氷室自身が行くことも検討はしたものの、レジャーボートで翼竜の群れを掻い潜り、ハニーヴァイキングに到達できる公算は高くない。
やはり剣の福音次第。
飛来する翼竜の群れを眺めやり、氷室は声を張る。
「新田君、次が来たようだよ。頑張って生き残ろう」
血塗れの電子銃を両手に抱えた椎子が蒼白になって叫声をあげた。あの有様でも元諜報員だけあってそれなりに使える。守らなくては。
腕を振って氷の長槍を錬成し、氷室一月は地を蹴った。いずれにせよ、切り札を切るのはまだ先。いまはただ、肉体労働に勤しむばかりだ。




