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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
六章 天蓋
280/321

30.天蓋④

 高梨明人が「なんでもない」と告げた時、彼の表情から白瀬柊は漠然と理解した。今、何かが終わったのだと。それが何だったのかまでは分からずとも、顔色を読むことに慣れていた柊には理解できてしまう。主に家族相手に発揮されていたその技能は他人にも有効だった。たとえ相手が医師や看護師であっても、未だ三度しか話していない少年であっても。

 結局、高梨明人が何を求めていたのかは分からなかった。迂遠な言葉で柊に何かを確認しようとしている。そこまではおぼろげに分かっていたものの、その先は掴めない。

 どことなく苦しさを滲ませる彼の表情から甘い話ではないのだろうとだけ想像してはいたものの、高校生くらいの男子から勉強や部活や色恋を取り除いていったい何が残るのか、柊には分からない。知らない。

 ただ、彼の言っていた自分と同名の「白瀬柊」が関わっているのではないか、と推測することはできる。もし、その推測が答えに繋がっていれば、あるいは柊も言葉を重ねることはできたかもしれない。

 しかし現実、柊には何も分からなかった。だからただ明人が求めているだろう答えを返した。それだけに留まった。留まってしまった。「なんでもない」と返した明人は変わらず苦しそうではありながらも、もう此処を見てはいなかったように柊は思う。

 漠然と分かっていた。彼は行くのだ。行きたい場所、会いたい人のもとへ。彼が挙げた「たとえば」は、きっと彼自身の無意識の顕れだったのだから。

 

 やがて小比賀瑠衣が目を覚まし、どことなく態度が奇妙な彼女と高梨明人が辞去の意思を匂わせると、柊はクローゼットから彼のコートを取り出して返した。高梨明人は特に何も言わず受け取り、何度か礼を言って帰っていった。

 彼はもう来ない。それはおそらく口実に過ぎなかったコートを返却したからではなく、もっと根本的な理由が消えたからだ。高梨明人の行動には何らかの理由があり、柊のもとに来ていたのも理由があってのことだった。今更コートを返そうが返すまいが、彼はもう来ない。だからコートは返した。

 

 終わってみれば何のことはない。他愛も呆気もない話だった。

 当たり前ながら、劇的な何かが始まることもなかった。

 

 小比賀瑠衣は体調を崩していたと聞いていたものの、その割に綺麗で健康的な少女だった。

柊の基準が低すぎるのかも知れなかったが、どのみち近くにあんな子が居るのだから、半分死人のような柊に出る幕などない。最初からそうだったのだ。

 

「……とんだピエロね」

 

 ふう、と吐いた息が淡く消えるのを、フェンスにもたれた柊は横目で見送る。

 屋上には常と同じく誰の姿もない。入院患者の日光浴にしたって、曇天の寒空の下でわざわざやる人間は居ない。片足が冬に入っている時期に違わず、逆に健康を損なうような気温だった。

 指で弾いたタブレットの鏡面には明人の連絡先が表示されている。彼が「何かあったら連絡してほしい」と言って残していったものだったが、柊は数度タップして削除のダイアログを表示した。残していても仕方がない。用がなくとも連絡しようかと煩悶する、みっともない自分が目に浮かんでしまう。

 

 再び吐いた息が視界の端を流れていく。

 ボタンをタップする指を止め、柊は思惟に沈む。

 

 明人にやりたいことを問われたとき、頭にはいくつかの絵が浮かんでいた。どこかの遊園地のような場所を歩く自分と、その手を引く明人の姿。いやに具体的な映像として浮かび上がってきたそれを、当の彼を相手に言語化することはさまざまな意味で困難だった。

 浮かんだものはほかにもある。深い夜、森のような場所で火を囲う自分。見たこともないような険しい山を旅する自分。おおきな、悪しき夢(・・・・)の影。妄想とも空想ともつかない幾つかの光景。夢に見るような、此処ではない何処か。まるで物語のような日々。

 しかし、柊が本当に望むのはそんな泡沫のような夢想ではなかった。もっと些細で、ありふれたものでいい。

 

 たとえばそれは、一本の烏龍茶のペットボトルでいい。待ち合わせの間の胸の高鳴りでもよかった。相手の名前をどう呼ぶかどうかの躊躇いでもいいし、指先に触れる前の不安や緊張でもよかった。

 

 そうして誰かと恋をして、喧嘩をして、仲直りをして、結ばれてみたかった。夫婦になり、子を為して育て、やがて年老いて死にたかった。

 そんな風に生きたかった。生きてみたかった。

 既に告知された余命を大きくオーバーランしている自分には、決して手に入らないものだと分かっている。なのに、未練は腐り果てたはずの胸の中に未だ残り続けている。

 

 或いは、そう聞かせれば明人は満足したのだろうか。

 馬鹿げた自問と自嘲しつつも、柊は少しだけ考える。変わらなかったように思えるし、そうでもないような気もする。その未来を(わたし)は知り得ない。

 なぜならこの(ブランチ)の白瀬柊は高い確率で同じ線をなぞるからだ。その他の可能性、距離の遠い(ブランチ)の記憶を得るには同位体から得るしかない。

 同じ(ブランチ)にある同位体間では、それぞれの情報量を同量に近付ける力が働く。まるで水の入った二つの容器をホースで繋いだかのように、二つの容器は最終的に同じ水位になる――

 

「……?」

 

 由来の分からない記憶が励起され、柊は小さく頭を振る。視線を落としたタブレットの画面には相変わらずダイアログが表示されていて、仄かな非現実感は目の焦点を合わせるなり消えた。

 薄らぎかけている体の感覚は寒さのせいか、と思い至って肩のストールをしっかり巻きなおす。アンニュイな物思いに耽るのもいい加減にしなければならない。そんな風に急かしてみても、自分に削除のダイアログしか残されていない現実は何も変わらない。

 指は動かない。

 押そうと思っているのに指が動こうとしない。もう他のものは何もないというのに行動に移せないでいる。現実から逃げるように、ただ先送りにしている。

 

 もし。

 此処ではない何処か。まるで物語のような世界があるのだとして。寒さも痛みも、死さえも遠ざかるような、奇跡があるのだとしたら。

 

 そこへ行きたい。

 そう願うのは身勝手な事なのだろうか。

 

 

「――っ」

 

 そう考えた途端、息苦しさが胸の奥からせり上がってきた。

 体を冷やし過ぎたのかもしれない。微かな死の気配に、柊は後悔と自嘲を噛み締める。いつまでも諦めきれずに馬鹿なことをしたから、きっと罰が当たったのだ。そんな風にしか思えなかった。

 

 取り落としたタブレットがコンクリートにぶつかって割れる。息苦しさに悶えながら、柊は拾った。それさえも無くなってしまったら、本当に何もなくなってしまうからだ。ひび割れた画面を抱えて、そのまま消えられれば楽だと柊は思う。

 もしも最初から何も存在しなかったかのように消え失せることができれば、きっと惨めでも悲しくもないと。

 医者の嘘と家族の嘘とに塗り固められた箱に押し込められ、ずっと痛みに耐え続けた先でなにひとつ報われることなく死んでいく自分を、ただ消し去ることができたなら。

 

「……ふ」

 

 自然と笑みがこぼれた。

 死は身近な隣人だ。この病棟で暮らす柊からすれば、壁を一枚挟んだ向こうで待っている知人のようなものだった。その隣人がまたドアをノックしている。ただそれだけのこと。

 まだドアは開かない。まだ。

 

 

「開くとも。きみが蓋を開くんだ、お嬢さん」

 

 

 柊の無音の呟きを引き取ったのは、まったく覚えのない男性の声だった。息を切らしながら顔を上げた柊は、曇天の下に佇むワイシャツ姿の男を見る。

 

「……誰?」

「はじめまして。私はシーワイズという者だ。お会いできて光栄だよ、ミス……白瀬だったかな?」

 

 体格のいい外国人の男。柊の狭い世界には存在しない、初めて見る種類の人間だった。スポーツか何かで鍛えているのか、シャツ越しにもシルエットがいびつなのが見て取れる。普段なら気後れしてしまいそうな風貌だったが、いまの柊にそんな余裕は精神的にも肉体的にもない。

 

「なにか……ご用でも」

「いやなに、きみに用があると言えばあるのだけれど、実に気が進まなくてね。時間稼ぎに世間話でもどうかなと思ったのさ。名案だろう?」

 

 シーワイズと名乗る男は流暢な日本語でそう喋り、破顔した。

 笑う為だけに顔を作ったかのような、どこか不自然な顔の動きだった。言葉は流暢でも言っていることはまるで意味が分からない。眉をひそめる柊に、シーワイズは構うことなく言葉を続ける。

 

「ミス白瀬。きみは宇宙人を見たことがあるかな」

 

 奇妙な男から出るにしては、という話題だ。

 柊は息を整え、気付かれないよう隠しながらタブレットを指で叩く。それから、あまり力の入らない足で立ち上がって答えた。

 

「……ないわね。怪物……未確認生物とかっていうのなら最近テレビでよくやってるけれど」

「それは実に幸運なことだ。私はこう見えて公僕だったのだけど、仕事の内容が酷かった。宇宙人退治だ。笑えるだろう? 私もお近づきになってしまった」

 

 柊は笑えなかった。シーワイズの顔が笑みで固定されている。それだけのことが、不気味で仕方がない。名乗ってもいないのにこちらの名前を知っていることも。訳の分からない世間話も。

 酔っぱらっているのか、度の過ぎた変質者なのか。それらならまだしも、狂人の類なら柊にはどうしようもない。

 

「彼らが言うには、だ。彼らの技術でのワープ……? ワープでいいのか分からないが、とにかく彼らの世界からの移動を行うにはいくつか制約があるのだそうだ。なんでも彼らは彼らの力だけでは大きな穴を開けられず、巨大な彼らは彼ら自身を移動させることも難しかったようだ。困った彼らはどうしたと思う?」

「知らないわ」

「身体を小さくしたんだ。人間のように」

 

 男はくつくつと笑った。

 何が可笑しいのか、柊には何も理解できない。

 

先駆け(パスファインダー)だ。そうやって最初の一体が私たちの世界にやって来た。この世界でしもべを増やし、彼ら自身が通れるくらいの大きな穴をこちら側から開けるためにね」

「……妄想ね。私には関係ない」

「いやいや、いや。あるんだよ、ミス白瀬。きみは関係ある」

 

 笑顔の男が一歩踏み出す。柊は息を呑み、同じ分だけ下がろうとした。思う半分も足は動かず、フェンスにも阻まれる。

 そうしてようやく、自分が屋上の端に追い詰められていることに気付いた。

 

「制約があると言っただろ。彼らも自力では穴が開けられないんだ。誰か(・・)に開けて貰わなきゃいけない。少なくとも、最初の小さな穴はね。でも誰か(・・)が何時、何処で穴を開けるかなんて彼らにも分からない」

「……」

「だから彼らは確実に転送(それ)が起きるタイミングを教えてもらって(・・・・・・・)利用することにした。一度目で先駆け(パスファインダー)を送って準備をし、二度目で大きな穴を開ける。それが彼らのプランだ」

 

 分からない。知らない。

 

「つまり、きみは二度目のタイミングなんだよ、ミス白瀬」

 

 今の柊には何も分からない。

 

「私は彼らに頼まれて転送(それ)が滞りなく起きるように見守りに来たんだ。まあ、とてもとてもおそろしいものが近くに居るから、本当に見ているだけのつもりだったのだがね。少々事情が変わった」

「なに……が?」

「命令が聞こえなくなった」

 

 シーワイズが笑みを消す。

 

「……まさか先駆け(パスファインダー)を殺す方法があるとは思わなかった。それはそれで希望を持てる話だ。が、私は私で彼らのプランを台無しにしようと考えている」

 

 男がまた一歩踏み出す。

 柊は動けない。まるで凍り付いてしまったかのように、足が動かない。息が苦しい。声も出ない。

 

 

 

「要は、きみが居なければいいんだろう。ミス白瀬――」

 

 

 無表情の男が断じる。

 その瞬間、いくつかのことが同時に起こった。

 

 柊の目には殆どが霞んで映った。シーワイズの右腕が膨張し、彼自身の体躯よりも長い、有り得ない長さに伸びたように見えた。それが蛇のように迫り来るのも、それが柊を絶命に至らしめるような恐ろしい力を秘めているのも、一瞬の霞みのようにしか認識できなかった。

 

 そして。

 

 屋上の端、何もないはずの柊の後方から躍り出た灰色のコードが翻るのも。

 垣間見えた白い無貌の仮面も。

 霞んだ二つの人影が瞬く間に激突し、駆け抜けていった。雷鳴のような音だけを残して。

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