29.天蓋③
物事には必ず理由がある。
何の理由もなくそうなっている事柄なんてものはそうそうなく、現状起きている様々な出来事も何らかの理由があってそうなっているに違いない。因果というやつだ。だが、改めて考えてみても全容が見えてこない。
翼竜の異界における出現。竜種の存在。大型タンカーにあった謎の肉塊。無貌の神による現界への招き。半端な招きを受けたと思しき瑠衣。これから招かれる柊。これらの事象は現界の存在という希薄な関連性を持ちながらも、直接的な因果関係としては未だバラバラの点でしかないように思える。
何かが見えていない。おそらく重要な情報が足りていないのだ。そんな予感がひしひしとする中、眠りこける瑠衣を背負った俺を柊は唖然とした様子で迎えた。
「……あの、それ……彼女はどうしたの?」
「どうも死ぬほど疲れてたらしい。悪いんだけどソファーを借りていいかな」
「それはいいけど……学校ってそんなにハードなの……?」
「ああ。こいつ吹奏楽部だから」
「な……なる、ほど?」
どういう想像が巡ったのかは分からないが、俺の雑な言い訳を柊はとりあえず飲み込んだようだった。かなり広めな柊の病室の壁際には応接用のソファーがある。取り敢えずそこに瑠衣を横たわらせるが、寝息が乱れることはなかった。
あとはもう、俺の制服の上着だけ掛けて放っておくことにした。
誘眠の効果は三十分から小一時間程度で薄れる。一応は協力的な姿勢を見せてはみたし銃も取り上げた。過激な行動はとらないと思いたいが、本人が起きるまでどうなるかは分からない。
それまでに瑠衣の中に居る彼ないし彼女と折り合えるような段取りを考えておかなければならない。今の状況で柊の病室に長居するのは危険だ。
「心配ね」
深刻な顔をしてしまっていたのかもしれない。ベッドに座る柊は気の毒そうに瑠衣を見ていた。
「小比賀さん、どこか悪いの? 診察に付き添ったって言ってたけれど」
「貧血だそうだ。不摂生な生活をしてたらしい」
「……そう」
それだけの情報で何か分かるとは思えないが、柊が僅かに腹を立てたような気配がした。
小比賀家の懐事情から言っても瑠衣が生活費に苦労していたとは思えないが、お金があれば自活できるわけでもないだろう。ましてや裕福な家庭のお嬢様が日々まともなものを自分で用意して食えていたかというと、少々疑問だ。実際、貧血の原因もそこらにあるのだろう。
柊にも少し似ている。境遇は全く異なるが、少なくとも俺の見ている範囲で白瀬家の人間が柊のもとを訪れた痕跡は見当たらない。
皆無なのだ。普通、世話というか、着替えや差し入れを持って来たりするものなのではないかと思うのだが、生活感が薄い病室のどこにもそういったものは見当たらない。
もしかすると月に一度だとかそういうレベルではあるのかもしれないが、俺が柊の存在に気付いた頃、彼女が昏睡していた時期でさえ誰も居なかったのだ。
疎遠という言葉では温い。
おそらく彼女は諦められている。
「今は大丈夫だよ。ちゃんと食わせてるから」
「ならいいけど……え? それは……なにか、お弁当を作ってあげてるとか、そういうこと?」
「近い状態ではある」
「……!」
一緒に暮らしてるんだ。などとは口が裂けても言えないので、ぼんやりした返答になってしまったが、柊はなぜか強い衝撃を受けたようだった。
「ほ、本当にあるのね……そういうの。しかも男の子が……」
「ああいや。学校の先生とか、俺の親戚とかも協力してくれてるから。なんかこう、そういうのじゃない」
「ああ……そうなの」
一転して盛り下がる柊。思考回路が乙女だ。そういえば、アリエッタも急に恋愛方向へ話を脱線させることがあったような気がする。同一人物なので当たり前なのだが、少し懐かしくなって俺は苦笑した。
「よかったら柊にもご馳走するよ。そのうち、いずれ」
「……やけに社交辞令っぽいけれど」
「まさか。時期はともかくとしても、実現性の高い話だ」
俺にとっては遠い過去、彼女にとっては未来の話だが、野営だの何だので俺はアリエッタに何度も手料理を振る舞っている。
だから社交辞令もくそもない。このままいけば確定する未来の話だ。
いや、本当にそうか?
現界で初めて会うより前に高梨明人と知り合いになった白瀬柊は、本当に俺の知る過去のアリエッタと同じ道筋を辿るのだろうか。
大なり小なり変わってくる、のではないだろうか。どう変わるのかまではあまりうまく想像できないが、俺の知る過去のアリエッタは少なくとも俺のことを予め知っている様子はなかった――と、深い思考に沈みかけていると、柊の声で現実に引き戻された。
「お誘いは嬉しいけれど、遠慮するわ……普通の食事はできないから、私」
「できない?」
「……薬の副作用で受け付けないの。味もおかしく感じるし、本当は手足もそんなに感覚がない。これから良くなる見込みもない。だからお誘いは嬉しいけれど、実現はしないんじゃないかしら」
淡々とした口調だった。
どういった反応をすればいいのか分からず、俺は微かな気配しかない少女の目をじっと見る。
瞳の奥には動揺も恐怖もない。柊からは感情の揺れが見て取れなかった。だから俺も納得して「そうか」と相槌を打つのみに留まった。
そういったリアクションは意外だったらしい。柊は不思議そうな顔をする。
「普通は驚くか、気の毒がるところなのだけれど……」
「いや、こう見えて驚いてる」
「嘘」
腕組みして睥睨する柊に、俺は苦笑するしかない。
妙なところで鋭い。最初から分かっていたことだから、と伝えることができれば話は簡単だったかもしれないが、当然そんなことはできない。アリエッタ相手ならともかく、柊と化かし合いをするつもりもないのだが――俺は溜息を吐く。
「はあ……まあ、この病院に緩和ケア科があるのは知ってたよ」
「……それだけで?」
「あとは勘かな。薄々そうなんじゃないかってくらいで」
断片的な事実だけを並べる。緩和ケア、つまり治療を目的とした医療ではなく、苦痛の低減を主な目的とした医療のことだ。終末期医療ともいう。白瀬柊が緩和ケア科にかかっている、というのは公安経由で入手した彼女の入院遍歴から推測しただけだが、少なくとも柊が快方に向かうことはないのだろう。
柊は嬉しそうにくすくすと笑った。
「分かってて……その態度なわけね。おかしな人」
「嫌なら改めるよ」
「……いいえ。むしろ好ましいくらい」
彼女の心情は想像するしかないが、少なくとも同情や憐れみを投げかけられるのは不本意なことなのだろう。俺は単に柊がこの先どうなるかを知っているからそういった感情を持ちにくいだけだが、本人は知る由もない。
彼女が思うより、俺は白瀬柊を知っている。
「べつに、この期に及んで長生きしたいなんて思っていないし……いちいち同情されても煩わしいだけだわ」
そうだ。
こんな言葉が強がりに過ぎないことも俺は分かっている。でなければ彼女が生命の福音になることはない。
誰もが望むように、柊だって生きたいはずなのだ。心の底から諦めているわけではないはずだ。最初からそれは分かっている。
なら、俺は柊から何を聞きたかったのだろうか。何を聞くべきなのだろうか。
わざわざまた知り合いになって話をして、「もっと生きたいか?」なんて当たり前のことを聞きたかったのか。
違う。
「なにかやりたい事とかないのか、柊には」
考えた末に出てきた問いはそんなものだった。
あやふやな想像に過ぎないが、ないわけがないと思うのだ。いや。柊にだってなにか望みがあるはずなのだと、勝手に思いたかったのかもしれなかった。
「……質問の意図がよく分からないわ」
「そのままの意味だ」
「いえ、それが分からないのだけれど……」
「たとえば……どこか行きたい場所があるとか、会いたい人がいるとか」
柊は頬に指を当てて考えるような仕草をした。
「特にそういった希望はないわね。外には殆ど出たことがないし、知人も多くはないから。強いて言えば……」
「?」
「……なんでもないわ」
一瞬、目線がぶつかるが、柊はすぐにそっぽを向いてしまう。
分からない――わけはないのだが、いま俺が求めている答えではない。質問の仕方が悪かったのだろうか。
僅かに言葉を選んでいると、生まれかけの沈黙を柊の声が破った。
「……逆にあなたはどうなの。例を挙げてもらえれば答えやすいのだけれど」
「え、俺? いや、俺は……」
不意を打たれて言い淀んでしまう。
行きたい場所はある。会いたい人もいる。そう答えてしまえば良かったのだろうか。
顔に出てしまっていたかもしれない。俺は俺が思うより表情に出しているのだと、誰かが言っていた気がする。
ベッドの上で柊の表情が止まっていた。しまった、と思ったときにはもう遅かった。不意に微笑んだ柊は、どこか苦いものを滲ませる声で言った。
「はあ……あなたがいったい何に悩んでいるのか知らないけど……行けるなら行けばいいし会えるなら会えばいいじゃない。私に言えるのはそれくらいね」
「ち、違う。俺のことは関係ない。俺はただ……」
言いながら気付いてしまう。
何か未練があるのかと聞きたかったのだ。俺は。
ひとつでもそれを聞ければ、免罪符にできると。柊が現界に招かれることを見過ごしても、仕方が無かったと言い訳できるように。
無意味だ。
まったく意味がない。
「ただ……なに?」
「……いや、なんでもない。変なことを言った。悪い」
分かりきったことだった。
誰だって死にたくなんかない。ましてや、悔いのない人生なんてものを十代半ばを過ぎたくらいの人間が持ち合わせているはずがない。そんなものは千年あっても手に入らなかった。
それを、無神経に傷口を抉ってまで聞き出して何になる。俺が楽になる以外の意味は何もないのだ。
答えは出た。
俺は何もしない。
生命の福音が神の奇跡だとも、柊にとっての救いだとも思わない。それでも、彼女の望みが生きることなのだとしたら、それでいいのだ。間違っていない。
アリエッタの辛苦や絶望が俺には見過ごせないものだったとしても、彼女自身には関係がない。
ただ、止められたのに止めなかったという選択を、俺が背負っていけばいい。
きっとそれでいいはずだ。
間違っていないはずだ。




