28.天蓋②
「これは今朝の一件で吸血姫が倒した異界の兵から拝借したものさ。つまり拾い物なんだけど、ちゃんと使えると思うよ。くれぐれも注意して欲しいね。こんな真似はぼくも不本意だから」
などと宣い、瑠衣は自らのこめかみに当てた拳銃を軽く揺らす。
迂闊には動けない。彼女を取り押さえようとしてうっかり暴発などされては溜まったものではない。俺はどうとでもなるが、瑠衣は確実に無事では済まないだろう。当たり所によっては死ぬだろうし、そうでなくとも重傷は免れない。
いくら瑠衣が浮世離れした人格の持ち主だからといって、この行動は一線を超えている。しかし彼女の外見上は瑠衣本人であるし、幻術の類の気配は全くしない。少なくとも瑠衣本人の意志ではないはずだが手段に見当がつかない。
ある程度であれば精神を支配したり操作する魔術もなくはない、と記憶しているのだが、本人の意思を大きく捻じ曲げるような操作は困難だと聞いたことがある。自制心を緩めたり欲望を増幅させるのがせいぜいで、明らかに本人の意に反するような――自決を強要したりするような魔術は互いの合意を前提とする契約魔法のような例外を除き、滅多に成立しないのだという。
そもそも、そういった支配の魔術は一見して分かるほど人格に影響が出るし、結構な魔力の痕跡を残すことになる。自前の魔力に乏しい俺は魔力に敏感なのだが、見る限り瑠衣にはその様子もない。
憑依、のような現象はもっとあり得ない。生きた人間に別の人間の霊体を混ぜ込むなどということは、偶発的に発生しただろう木蓮とハリエットのような特殊なケースでもない限り考え難い。
自殺行為だからだ。
仮に出来たとしても、憑依する側の肉体は霊的にゼロの状態になる。つまり即死するだろう。憑依された側はいくらか長生きするだろうが、肉体と強い相互関係を持つ霊体が別人の肉体で安定などするはずがない。時間の問題だろう。
一瞬のうちにいくつかの可能性を検討してみたものの、答えは出ない。
瑠衣の顔をした何者かは口ぶりからして現界の関係者なのだろう。そうとだけ理解して、俺は彼女と対峙する。
「おまえは誰だ」
「言うわけないでしょ。敵性国家の人間だとだけ教えておくよ。先に言っておくと、こんなことになってるのはぼくの意思でもない。瑠衣には申し訳ないと思ってる。ぼくは一刻も早く元の場所に帰らなきゃいけない」
敵性国家。東方連合だろう。皇国に帰属意識などない俺は敵性などと言われてもピンとこないのだが、傍目には関係ないのだろう。
色々と迷惑極まりない話だが、当人の主張が嘘でないのなら瑠衣の中に居る何者かも同感であるに違いない。
「だったら帰ればいいだろう」
「できたらやってると思わない?」
そりゃそうか。
呆れたような顔をした瑠衣は、俺の思ったとおりの言葉を放った。
「だから要求その一だよ、高梨くん。ぼくは門を使わせてほしい」
「……断ったら?」
「残念だけど、最悪の手段で帰還を試みるだろうね」
その最悪が無貌の神による招きを指しているのか、それとも瑠衣の肉体の破壊を指しているのかは分からない。が、どちらであっても看過できる話ではない。
瑠衣の体で往還門を使わせるのも俺としては論外に近いが、全貌が分からないうちから答えを出すべきではないだろう。
「たぶん知ってると思うが、今は使えない。時期が来たらって話でいいなら検討する。邪魔はしない」
俺が往還門についての話を聞かせてしまったのもこの瑠衣だろうと踏んでそう言うと、彼女は「ま、信じようか」などと言って皮肉気な笑みを浮かべる。先送りにしようとする俺の魂胆など見透かしているのだろうが、往還門が使用できないのは純然たる事実なので彼女も強くは出れない。
「……で、他に要求があるなら一応聞こうか」
帰還後の路銀や東方連合までの護衛、くらいが妥当な線だろう、と俺は言いながら予想していた。一般的な異界人に過ぎない瑠衣の肉体で現界を旅できるとは思えない。ましてや皇国内から東部の戦場を超えてとなると、まず不可能と言っていい。
瑠衣の体に往還門を使わせるか否かを別として考えれば、そこまで無茶な話でもない。
しかし、彼女の要求はまったく予想外のものだった。
「あとは難しい話じゃないよ。白瀬さんが現界に招かれるのを阻止しないこと、だ。それだけでいい。簡単でしょ」
俺は一瞬、呆気にとられた。
柊の問題と正体不明の憑依現界人。
まったく無関係のふたつの事柄が強引に繋がれたかのような感覚だった。
「……なに? なんでそこで柊が出てくるんだ」
「詮索は無用だよ、夜明けの騎士。もともときみもそのつもりなんでしょ。だったら何の問題もないはず。だよね」
微笑むような顔で確認する瑠衣。
事情を説明する気はないらしいが、アリエッタの知り合いなのだろうと見当はつく。これはまったくの想像だが、東方連合の盟主であるドーリアの宮廷魔術師ともなれば顔も広いに違いない。だから柊――アリエッタを欠くことで起き得る連合の戦力低下を嫌ったのか。
しかし、実際には事はそんな程度で収まらない。
まずドーリア王国が皇国に反転攻勢を仕掛ける、という状況そのものが成立しない。その先触れであり決定打でもあったロスペール攻略自体が、アリエッタが蘇生したと思しき竜種の使役を前提としたものだったからだ。
そもそも、彼女抜きではドーリアどころか皇国すら存在しているか怪しい。
かつての往還者九人のうち最も欠いてはならない人間を選ぶとしたら、当然ながら俺は生命の福音を挙げるだろう。他が重要でないとはまったく思わないが、彼女に比べれば一枚劣るのは間違いない。
記憶している限り俺は死んだことなどない。が、あらゆる傷を癒し死を遠ざける生命の福音の重要性は説明不要の域にあると断言できる。アリエッタを欠いた俺たちが竜戦争に勝利するのは困難だと言える。
もし柊が現界に招かれず、生命の福音が存在しないという世界線がありえたとすると、現界はいまだに竜種が支配しているという可能性すらないとは言い難い。
もし瑠衣に乗り移っている現界人がそこまで考えているのなら、いくら俺の話を聞いていたからとはいえ思考が柔軟すぎるように思う。多少の不自然さはあったとしても発覚しない程度に異界人を演じていたことといい、もしかするとひとかどの人物なのかもしれない。
「個人の都合で台無しにするな、ってことか」
「そんなつもりはないよ。きみの感傷に白瀬さんを巻き込むなってだけで」
感傷か。
たしかに、そう切って捨てられてしまえばそれまでのことだ。
だが――いや。
「だったら別に、俺を脅しつけるような真似なんかしなくても良いだろうに。俺は招きに手を出さない……出せないって踏んでたんだから」
「きみの優柔不断ぶりで信用できるものか。ぼくは彼女の無事を確実なものにしたいだけ。そして帰還する。きみに損はないでしょ」
「損得の話じゃないだろ……つか、俺に得のある話なんて久しく聞いたことがないんだが……まあ、今の話もそうだ。取引というにはお粗末すぎないか」
彼女の言うとおり、彼女に往還門を提供するのも柊を見過ごすのも、俺には何の苦労も生じない。ただ耐え難いというだけだ。それに目を瞑れるような条件など検討の余地もなく存在しないが、何かしらの交換条件がなければそもそも取引でも何でもない。
「小比賀瑠衣は交換条件にはならない、と」
「おまえが現界に渡ったら瑠衣を解放するとでも?」
「……確約は難しいけどそのつもりだよ」
「お話にならないな」
「信用できないと?」
「信用云々以前に、算段がついてるようには見えないからだ」
彼女が自分で言ったのだ。こんなことになっているのは彼女の意思ではないと。つまり自力で元の状態に戻すことはできないということだ。だとすると、彼女の要求を呑んだところで元の瑠衣が無事に解放される保証などない。それでは取引材料とは言えない。
自覚があるのだろう。瑠衣は溜息交じりで言った。
「……なら何がお望みかな、夜明けの騎士。ぼくが払える対価は多くないけど、善処はさせていただこう」
譲歩の姿勢を見せるのが早い。平静を装ってはいるがここまでの挙に及んだことも考えると、思ったより余裕がないのかもしれない。そんな感想を抱きつつ、俺は努めて無関心を装った声音で問った。
「具体的には何が払える」
「国許に戻れば幾ばくか金銭を。足りなければ土地や人を譲ってもいい」
領地の割譲、だろうか。
縁遠い話題であるし本当に興味がないので、領地持ちの貴族かそれに準ずる身分なのだろうとだけ理解して、俺は首を振った。
「悪いがそういうものに魅力を感じない。異界を見たなら理解できるだろうが、俺に現界の価値観は通用しない」
「それは……道理だね。ぼくも染まりつつある」
いくらか悔しさのようなものを滲ませ、瑠衣は暗い呟きを発した。
まるっきり話が通じないわけでもないらしい。ここまでのやり取りで得た僅かな情報を総括して、俺はそんな結論を出した。
「まあ、だから対価で取引ができるとは思わないでくれ。今だって俺がおまえを押さえないのは瑠衣をなるべく傷つけたくないからであって、押さえるのが不可能だからじゃない」
「……」
「異界の医療技術は優秀だ。即死しなければ蘇生の目がある。そんな脅しをしたって決定打にはならないぞ」
嘘まではいかない誇張した表現でそう告げると、真に受けたのか瑠衣の表情が曇った。実際、こめかみを銃で撃ち抜いても死なかったケースがあると何かで読んだ記憶があるので完全な嘘ではないはずだ。
こちらの意図を計りかねている様子の瑠衣に俺は肩をすくめる。
「いま足りないのは信用や取引材料じゃない。お互いの情報だ。まず事情が分からないんじゃ歩み寄りようがない」
「……?」
「要求は分かったからもう少し事情を話せってことだ。現界に帰りたいって話なら協力したっていい」
彼女からすると俺は敵国――皇国寄りに見えているのだろうが、俺自身にそんなつもりはまったくない。現界の話をする過程で何度か説明した気がするのだが記憶に残っていないのか信用がないのか。
瑠衣は僅かに目を瞬かせると、すぐに怪訝そうな顔をした。
「ぼくを助けると? 中立を気取ってるきみが?」
「現界のものを現界に戻すって考えれば、むしろ俺の望むところでもある。柊とのことは……他人に口を挟まれたくないが」
「……ッ!」
予防線として柊の件に触れた途端、瑠衣は怒りを露わにして銃口を俺に向けた。俺としては単に状況が好転しただけなのだが、逆上したらしい彼女は気付いていない。
「他人だって!? きみにそんなことを言われたくない! アリエッタのことを殺そうと考えたくせに!」
驚いた、というより俺は戸惑っていた。帰還云々よりそこに反応するのは奇妙だ。顔見知りの間柄で有り得る反応ではなさそうに思える。
友人。恋人か家族あたりか。
家族という線は薄い。俺くらいしか知る者は居ないのだろうが、アリエッタは人として命を作る機能が備わっていない。それ以前に新たに身を固めるということも有り得ないだろう。
「……アリエッタとどういう関係なんだ?」
思わず直接的な問いを投げてしまったが、瑠衣は答えなかった。明言するほどの関係がないか、口にすると自身の素性が自明となってしまうか。そんなところだろうか。
おおよその見当を付けて俺は思案する。瑠衣――の中の何者かは、おそらく白瀬柊がアリエッタであると知ってこんな行動に出たのだろうが、いささか軽率だ。
それだけアリエッタのことを想っているのかもしれなかったが、それにしたってもっと慎重に機を窺うべきだった。
まあ、いいか。
溜息を吐いてから、少しだけ魔力を行使する。
手を伸ばせば届く位置にあった瑠衣の拳銃を、俺は上から掌を被せるようにして掴んだ。スライド後部にある撃鉄をしっかり押さえると銃が動作しない、というのは映画か何かで得たあやふやな知識だったが、別に撃たれたところで問題はなかったのでやるだけやってみた、という格好だ。
そも、虚を突かれた瑠衣は引き金を引くこともできなかった。
魔力使いとそれ以外では住んでいる速度域が違う。反応することもできていない瑠衣の細い首筋に、俺は空いた左手を伸ばす。
それから、年代物の低位魔術を発動した。
「誘眠」
騎士相手にはまず通じない、生活レベルの睡眠魔法だ。魔術的な意味での抵抗力が皆無である瑠衣にはすんなりと通った。
非魔力使いの身ではどうやったってこうなる。せめて対面で交渉などせず、メッセージや電話を介していたら対処も難しかったのだが、やはり迂闊と評さざるを得ない。
「…………くそっ」
糸の切れた人形のように床へくずおれる直前、意識を失った彼女を抱き留めた。そうしてみて、瑠衣に対してこうするのは二度目と思い出す。
一度目は彼女の家で。無貌の神の招きを阻止した際、瑠衣が気を失ったのだった。思えば、瑠衣の様子が変わったのもそれを境にしていたような気がする。とすると、彼女たちがこうなったのもやはり、無貌の神の招きに原因があるのかもしれない。
俺の横槍によって不完全な形で招きが行われた結果、現界の人間の精神だけを呼び寄せてしまった――のだろうか。あり得るのか、そんなことが。
確かなことは分からない。
そうだとしても、元の瑠衣の精神は眠っているだけだと思いたい。
でなければ。
「まったく、悪態をつきたいのはこっちだよ」
眠る瑠衣のあどけない顔を眺めながら、俺はぼやくように呟く。そのぼやきは、空の病室に虚しく反響するだけだった。




