24.人間②
虫の声すらしない。
村落を迂回して野山を進んだ姫路とミラベルは、小一時間ほどかけて不気味なほど静まり返った富士重力波観測研究所の敷地に到達した。どこか役所や公民館のような趣きがある建屋も駐車場も、当然、以前訪れた際に見たままだ。
しかし、受ける印象は大きく異なっている。それは敷地全体に満ちている静寂、素人である姫路にさえ分かるほどの異様な気配による。その空気はあの大型タンカー、ハニーヴァイキングで経験したものに酷似している。
駐車場の車の影に身を隠したふたりは困惑顔を見合わせていた。
「ミラベルさん、これって……かなりアレな感じだよね。気配というか雰囲気というか……」
「いえ……私には武芸の心得がないのではっきりとは……魔力探知でも何も見えていませんし……ですが、何か異変が起きているのは間違いないかと思います」
キャスケット帽の下、苦い顔で呟くミラベル。ふむん、と姫路は腕を組んで思慮を巡らせた。
無理をしないと指針を定めているとはいえ「なんとなく嫌な空気が漂っている」というだけでは引き返す理由にならない。天秤は不明災害に対応するための要であるし、今現在の状況に対しても重要だった。明人が敵に攻勢をかけるにしても、敵の位置が分からないのでは不可能だ。変わらず守勢に回らざるを得なくなる。
十秒ほど考えた姫路は、ほとんど溜息のような口調で皇女に告げた。
「まずは研究所の現状を把握、かな。魔法で中の様子とか探れる?」
「遠見の魔術を使えば地上階は……ですが、地下は難しいです。異界の建造物は壁が厚いですし、地盤は魔術を通しにくいので」
しかし、重要なのは天秤が設置されている地下だ。研究所の職員も殆どが地下階に居ると聞いている。姫路は僅かに押し黙り、いくつかのプランを検討した。どの案もリスクが無視できない。だとすると。
「……遠見の魔術ってどんなもの?」
「基点から二百メートルくらいの範囲で遠くのものを視認できます。基点は基本的には術者ですが、付呪した物品などから飛ばすことも可能です」
ミラベルは指で輪を作り、覗き込むような仕草をした。それが遠見の魔術なのだろうと納得した姫路は無言で頷き、新たな魔法の情報を頭に入力する。
カメラ付きのドローンのようなものだと理解した。地下に通りにくい、というのも電波が届かないようなニュアンスなのだろうと変換して考え、ポケットからハンカチを取り出す。
「地上階のチェックと、これに付呪をお願い」
「……というと?」
「エレベーターに置いて地下階に送ろうかなって」
端的に説明すると、ミラベルは「なるほど」と呟いてハンカチを取った。うまくいけばハンカチが中継アンテナのような役割を果たしてくれるはずで、術者であるミラベルが地下階に赴くよりはリスクが低い。仮に何かあったとしてもハンカチを諦めるだけでいい。ハンカチと術者であるミラベルとの間の遮蔽が原因で繋がらない可能性もあったが、だとしても失うものはやはりない。
魔力使いとして高い身体能力を発揮できるミラベルはともかく、姫路は脅威から逃れる術をいっさい持たない。敵との交戦などもってのほかで、敵と定義できる存在と遭遇すること自体が失敗を意味する。優れた魔術師であるらしいミラベルを伴っていてもそれは変わらない。
そのうえで、できることをする。
付呪と索敵を行うミラベルの傍ら、姫路はタブレット端末の画面を指で叩いた。公安経由で入手した重研の建築設計図を表示し、可能な限り記憶していく。手札は多ければ多い方が良く、情報はその最も基本的な一枚だ。
下準備を終えると、ちょうどミラベルも付呪と索敵を終えて顔を上げたところだった。
「地上階に異常はありません。人の姿もないようで」
「それは……どちらかというと悪い兆候ってカウントしないと駄目かな」
「同意見です」
前回の来訪時は新田が地上階で受け付け役のような仕事をしていた。常にそういった役割の人間が置かれるのかどうかは不明であるものの、無人というのは不用心が過ぎるように姫路には思える。
ましてや、姫路とミラベルから見える範囲にある玄関扉は開け放されたままなのだった。その様に、姫路はなにか、恐ろしい魔物が口を開けて待ち構えているような錯覚をした。
推論を重ねて尻込みをしていても、状況は一向に好転しない。
ふう、と息を吐いた姫路は、意を決して車の影から歩み出る。ミラベルもそのすぐ後に続いた。
皇女の語るとおり、進入した研究所の地上建屋内に人の気配はまったくなかった。姫路は前回の訪問時の記憶を辿り、静かすぎてどこか不気味な廊下をまっすぐ進み、エレベーターへと向かう。
商業施設やマンションの小綺麗なエレベーターとは異なる、業務用の無骨な開閉扉があった。そっ気のないデザインの操作パネルに地下階へのボタンだけが備わっている。姫路は多少の躊躇いを覚えながらもボタンを押下した。
天秤は地下七階、エレベーターシャフトに隣接した専用坑道に設置されているが、その管理を行うコンピュータ自体は地下六階の特別電算室にある。マシンには外部から接続することはできず、今までは新田椎子や他のスタッフが直接操作を行っていた。
つまり姫路の目的も特別電算室に赴かなければ達成できない。図面で確認はしていても、勝手の分からない建物を進むのはやはり気が引ける。地下にスタッフが居ればいいんだけど、と希望的な願望を口の中で遊ばせていると、エレベーターの開閉扉が無機的な動作音と共に開いた。
当然ながら荷室は空だった。特に異状もなく、姫路はひとまず安堵する。それから、ミラベルの手によって細工がされたハンカチを荷室の隅に置いた。
「こんな感じで大丈夫?」
「おそらく。ここまで深い地下に向けて遠見を試したことがないので、やっぱり推測になってしまうのですけれど」
「だめならだめで直接見に行くしかない、ね」
「はい」
開閉扉の前、硬い表情で頷くミラベルに頷き返し、姫路は荷室の操作パネルを向いた。地下一階、二階。飛んで六階と七階のボタンが見て取れたので、迷いなく六階のボタンを押下する。
このまま扉が閉まる前に姫路が外へ出れば、遠見の魔術が仕掛けられたハンカチだけが地下に送られるという寸法で、実際、姫路はそうしようとした。
不意に、空気が揺れた。
なにか大きな音がした。姫路の頭上、荷室の天井の向こうで金属が弾けるような音がしたのだ。咄嗟にはなにもできず、ただ反射的に上を向いた姫路は、明滅する天井の照明を見た。
「ヒメジさ……!」
悲鳴のようなミラベルの声も聞こえたが、それは一瞬で途切れて消えた。なぜならエレベーターは既に自由落下を始めていたからだ。地上一階にミラベルを取り残したまま。姫路がそれを理解したのは、急激な落下の感覚からではない。開きっぱなしの開閉扉の向こうが、下から上へ目まぐるしく流れるコンクリートブロックに変わっていたからだった。
落ちている。
姫路は泡を食った。
しかし同時に、内なる彼女は冷静でもあった。仮にエレベーターが故障して荷室が最下部にまで落着したとしても、実は結構安全なのだ。底に到達する前に安全装置が落下のエネルギーを分散するからだ。まるっきり無事で済むとも姫路には思えなかったが、少なくとも映画のように荷室が粉々になったりすることはほぼないと聞いている。
「って言ってもね!?」
まるで内臓が浮き上がるような感覚に姫路は叫ぶ。力いっぱい手すりを掴むが安心には程遠い。目をきつく閉じ、歯を食いしばって、来たるその瞬間に備える。
そして想像の百倍はあろうかという、凄まじい音がした。
荷室の底が抜けたのではないかと思ってしまうほどの衝撃があり、姫路は床に叩き付けられるようにして倒れ込んだ。手すりを掴んでいたはずが、まったく意味を為さなかった。視界が一瞬にして暗転し、全身に熱が広がった。
眩暈がした。
鼻奥につんとした刺激が広がった。
視界は白んでいるようにも見えたし、全くの暗闇にも感じられた。頭を振って床から首を上げると、姫路は壊れた天井の照明が明滅している様を見た。
どうやらエレベーターは無事、底に落着したようだった。
「っ……」
痛い、という感覚を通り越して体中が麻痺している。
咽ぶように埃っぽい空気を吸いながら、震える手で自分の身体をチェックする。骨折などしてしまっていたら問題だったし、そうでなくても動けなくなってしまうのは最悪だ。
幸い、しびれた足でも立ち上がることができた。顔に付いた何かの破片も拭い、姫路は息を吐く。
ミラベルと分断された。
故意にそうされたのかは判然としなかったものの、事実として再確認する。姫路は、未だに乱れたままの思考で重研の図面を想起した。エレベーターシャフトの最下部まで落とされたのだとすると、直線距離で四百メートル近く離されてしまっていることになる。
ミラベルならシャフトを降りて合流できるかもしれなかったが、状況からして彼女の方にも敵が仕掛けている可能性は高い。
半壊した荷室の隅、天井の破片の下敷きになっていたハンカチを拾ってポケットに。それから姫路は埃まみれのテーラードジャケットを脱ぎ捨ててバッグをひっくり返し、必要最低限の荷物を選んで拾い上げた。
奇妙な形をした黒い銃、作品番号一番を。
画面が割れてしまっているタブレットは最後に保険を掛けた後、床に捨てた。それから銃のグリップで完全に壊す。そんなささやかな作業の最中も左肩が異様に痛み、姫路は涙目で苦笑した。
「向いてないよね、やっぱり」
明滅する照明を再び見上げ、ミラベルが来る様子がないことを確認してから姫路は開閉扉――その上半分にだけ口を開けた空間に向き直った。
最下部から見えているフロア、ということは地下七階。天秤のある専用坑道に出るはずだった。
天井の破片を足場にして、這い出るようにエレベーターから脱出した姫路は、静まり返った坑道に警戒の目を向けつつ息を整える。
幸い、目的地の特別電算室はすぐ上のフロアだった。坑道に数か所あるハシゴや非常階段から昇ることができる。意図的にポジティブな思考へ自分を誘導しながら、姫路は痛む足を引き摺って歩き出す。
薄暗い照明が灯るコンクリートの坑道には、天秤の本体、重力波望遠鏡のパイプが走っているだけで他には何もない。
くらくらする。
足元が覚束ない。頭を打ったのかも、と思い至ったところで意識が途切れかける。姫路は頭を振り、すべての痛みを無視して歩みを進める。
「姫ちゃんさ。向いてないのに、どうしてそこまでするわけ」
そのさなか、聞こえるはずのない声がした。
いけない、と思いつつも姫路は呟く。
「……千暁には関係ないよ」
振り払うように断じて、姫路は額を拭った。ぬるっとした感触があり、手の甲にべったりと何かが付いた。それでも、歩みを止めることはしない。
「ほんとうに?」
姫路はべたついた手で頭を押さえる。まだ聞こえる。
その声は九条千暁。かつてあった姫路の太陽。親友だった少女のもの。
今はもう、どこにも居ない。
居ないのだ。
もし姫路が誰かの物語を彩る脇役なのだとしたら、幼馴染の千暁はまさしく物語の主人公だった。
良家の出で、見目の麗しい聡明な女の子。それでいて底抜けに明るく、周囲を惹き付けるような魅力を兼ね備えていた。
姫路とはすべてが対照していたと言って良い。無口で引っ込み思案な姫路はいつも輝く太陽の影に隠れていた。隠れて、ずっと物語ばかりを読んでいた。チビでいじけ虫の姫路は、自分なんてそれくらいで丁度良いのだと思っていた。
なのに千暁はいつも姫路の手を取り、前へ前へと引っ張った。それは無邪気な友情であり、姫路を孤立させたくないという心からの善意だった。
迷惑だと感じることもあった。
千暁がその優れた能力で名探偵などを始めた時も、姫路はただ巻き込まれるばかりでいつも振り回されていた。せめて名探偵の助手、つまるところワトソンのような働きぶりを発揮できていれば良かったのだろうが、姫路にそんな資質はなかったし、少なくとも自覚はしていなかった。千暁の推理を知識面でサポートする、図書室の主。司書。姫路がやっていたのはただそれだけのことだ。
千暁とは違う。自分は特別な人間ではない。彼女の物語を彩る脇役のひとりに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった。
だが千暁を疎んでいたはずもない。
疎めようはずがない。九条千暁はまさしくヒーローだった。千暁はまだ高校生だった当時でさえ、表沙汰にはならない難事件をいくつも解決し多くの人たちを救っていた。こんなに痛快な話はない。気付けば姫路も、自ら進んで彼女を助けるようになっていた。そうすることで、チビでいじけ虫の姫路も少しだけ輝けるような気がしたからだ。
太陽が翳ることなどないと、姫路は思っていた。だからいつしか千暁の目が昏く、澱のような何かに染まっていたのにも気付かなかった。
人の死は、当然ながら記号ではない。
物語のように平たく、本を閉じれば遠ざかるようなものではない。殺人事件などという言葉で片付けてみても、重みが変わるわけもない。それは十代の娘には重過ぎる現実であり、また真理でもあった。
死に触れるべきではなかったのだ。九条千暁がどれだけ優れた頭脳を持っていたとしても、どれだけ優れた人格を持っていたとしても。
事件とは、未然に防がれるものではない。人死にかそれに準ずる悲劇がまずあり、それから事件が始まるのだ。数多それを繰り返し見た名探偵は、おそらく、無自覚のうちにその悲劇も背負い込んでいったのだと姫路は回顧する。
そうして、九条千暁は心を病んだ。
そして死んだ。
自宅で首を吊った。彼女を発見したのは姫路だった。
そのとき自分が漏らした悲鳴を、絶叫を、姫路はまだ覚えている。絶望と罪悪感と、後悔を。すべてが変わった日のこと。途方に暮れるしかなかった遠い日のことを。きっと生涯、忘れることはない。
特別な人間などいない。
特別な人間だと思っていた九条千暁は、本当はただの孤独な少女に過ぎなかった。溜め込んだ死に窒息していく中、自分の苦しみを誰にも分かち合えず、周囲の誰も彼女の苦しみに気付かなかった。身近な大人だったはずの永山警部補も、親しかった先輩である由紀も、千暁に憧れるばかりの姫路も、まったく気付くことはなかった。理解してあげられなかった。誰も、特別などではなかった。
「結局、あたしの真似してるだけなんでしょ。姫ちゃんは」
幻聴が聞こえる。
姫路はかつてのように、ひどく冷めた顔と心持ちでそれを聞いた。たしかに、笑顔も明るさも、かつての太陽が姫路に焼き付けた影だ。姫路の生来の性格ではない。千暁を失った姫路から、喪失から生まれたペルソナだ。
「……そうだったかもしれない」
当時の姫路は、無理に明るく振る舞おうとした。
自分は立ち直ったのだと周りにアピールしたかった。その手本となる人間が、姫路の中には千暁しかいなかった。それが生来の自分と著しく乖離していたとしても、立ち直った自分を演じることで本当に立ち直ろうとしたのだ。
「けど、違うよ」
でもやがて、よく分からなくなった。
チビでいじけ虫の姫路はいつの間にか居なくなっていた。どこにも。自分を押し込めるでもなく演じるでもなく、来瀬川姫路はよく笑うようになった。
ささやかながら、やりたいこともできた。
誰かの理解者になること。
千暁を理解してあげられなかった。その後悔から生まれた、姫路の願い。進路に教職を選んだのも、子供たちの理解者になろうと思ったからだ。
それは今も変わらない。教師としては未熟でも、ひとりの人間として高梨明人の理解者でいたい。突き詰めてしまえば、来瀬川姫路の動機はそれだけだ。親友の影を追っているわけでも、真似をしているわけでもない。
「わかんないかなあ……名探偵にも」
ふふっと笑うと、もう幻聴は聞こえなかった。
姫路は心霊の類を信じない。
オカルティズムを全否定するわけでもないが、千暁と共にどんな凄惨な事件に出くわしても、霊魂が事件を引き起こしたことなど一度もなかったからだ。
だからきっと、千暁ももう居ない。どこにも。彼女の遺した影が、姫路の中に息づいているだけだ。彼女は既に姫路の一部であり、そうである限り彼女も生きている。
だから死ぬわけにはいかない。
ゆっくりと顔を上げた先、坑道の薄暗い照明に浮かんでいる人影を認めて、姫路は痛む右手で黒い銃、作品番号一番を握り込む。
そこには、古代の神官を彷彿とさせる衣装の女。
大型タンカー、ハニーヴァイキングで死んだはずの竜種、オルダオラの姿が確かにあった。




