20.カオス①
ぽこぽこ、という通知音に小比賀瑠衣が気付いたのは、ひとり歩みゆく朝の通学路でのことだ。今朝も居候先である高梨家で繰り広げられた喜劇にいい加減辟易した末の単独行動だったが、ここ数日の様子からして一人でも特に問題ないと判断したが故でもある。
無貌の神なる超常の存在が瑠衣をかどわかそうとしている、という話の信憑性は瑠衣の記憶からして疑う余地もなかったが、現在において肉体の主導権を持っているドーリア王、ルカからしてみれば危機感を煽るほどのことではない。
むしろ状況を把握すればするほど、歓迎に傾くとすら言えた。
なぜなら、その「かどわかし」が元の世界である現界へ通じる確実な手段のひとつと言えなくもないからだ。確実性や時間――千年前の現界に送られるかもしれないという諸問題を差し引いても、往還門なる得体のしれない仕組みに頼るよりはいくらかよく、それ以前に門は現状動作していないのだという。
そして仮に動いていたとしても、夜明けの騎士は使用を認めないだろうとルカは確信している。あの門の番人は此方と彼方の境界に立ちながら、その往来を認めていない。
彼の言い分も分かる。
行き来をするだけで老いて死なず、神代より謳われる強大な力の保有者になるなどと。摂理に大きく反しているとルカも感じている。老いのない世界など想像するだけで恐ろしい。破綻は明らかだ。
摂理とは、世界がそうあるべくしてそうなっている理そのものだ。対価なくして得られるものなどあるべきではない。それは人を腐敗させる毒なのだとルカは感じている。
救国の王と宮廷魔術師がドーリア王国の民に与えたものも、まさしくそれだ。騎士シュバイアのような貴族派の増長はその歪みの発露だった。白きアリエッタが持つ福音の力がまさしく聖光だとしても、同じ濃度の影を王国に落としてもいる。
人の天井などその程度なのだ。奇跡など手にしていいはずもない。
しかし、それはそれ。これはこれだ。
彼の意見には一定の同意を示すルカだが、現実的な問題としてロスペールに帰れないのは困るのだ。理想もいいが、理想で現実を飛び越えられるわけでもない。
身体の持ち主である瑠衣には申し訳ないが、無貌なる神の手にかかったとしても、最悪、不老者になって千年を過ごせばいいとさえルカは考えていた。高梨の懸念は分かるが、貧弱な瑠衣の肉体でも生き残る程度の自信はルカにもある。
ルカの胸中にあるのはごくシンプルな理屈である。
王であるルカの人生、そして無関係の小比賀瑠衣の人生を完全に費やしてしまったとしても、仮にそこへ更に千年を上乗せしてしまったとしても。
ドーリア王国の人口、およそ二十万人の方が遥かに重い。論理的に考えて。故に、ルカは身命を賭してでも王国に戻り、皇国から時間を稼がなくてはならない。その手段が何であるかは些細なことだと言える。
もしくは、立場的に中立を気取っている夜明けの騎士を説き伏せて味方に付けるか。
「無理だよねえ」
ルカは小比賀瑠衣の顔で苦笑する。
あの藁は戦に使えるような性質をしていない。理想を追い過ぎる。それに、彼の宿敵である竜種と契約しているドーリアの王に味方するとは思えなかった。実情を打ち明けるのすら危険だとルカは考える。
どういうわけか異界に渡ってきているという竜種を、あれは事も無げに屠ったと言ったのだ。ルカには最強の生物だとさえ思えるような竜種をだ。万が一こちらの正体が察知されるようなことになれば、何をされるか分かったものではない。
危機感に表情を歪めるルカは、気を紛らわせるために異界の器機を通学鞄から取り出した。先ほどの通知音にも慣れたもので、スマートフォンに配置されたアプリケーションなる仕組みが鳴らしているものだと理解していた。
異界の技術で特に優れている点は、情報の保存と共有のスピードであるとルカは考えている。
技術の進歩には研究が不可欠だが、知識の伝達を写本や口伝に依存していたのでは効率が悪いとルカは常々思っていた。いっそ自分の頭をパカッと開けて、他者に脳の一部でも移植できたら楽だろうなあなどと何度か考えたほどだった。
異界の技術はそれに近いことを誰でも、いつでも、どこでも可能としている。それが様々な発展に寄与しているのは明らかで、更なる進歩に繋がってよいサイクルになっているのだろうと明確に想像できる。
羨むのはそこそこに、ルカは画面の硝子に指を滑らせた。起動に動作を要求するあたりは魔術に似ている。
「……それにしても、心配性なことだよ」
起動したアプリケーションには予想したとおり文字が表示されていた。夜明けの騎士からメッセージが二件。一人で登校していることを咎める内容なのだろうが、ルカは読まずに無視した。
徐々に心の整理がついてきていた。彼が案じているのは小比賀瑠衣であり、ルカではない。そしてルカは、どういう形であれ瑠衣に危害を加える側の存在だ。
リスクの高くなってきた庇護下から抜け出すことも考えなくてはならない。現状もおおよそ把握できた。あとは門の場所と起動条件が分かればベター。ただ、必須ではない。
しかし入手の難度が高いにしても、異界の武器は欲しいかもしれない。ルカは考えを巡らせながら変哲のない交差点を横断して駅前を抜け、住宅街へ入った。
秋の色に富んだ並木道。通学の頃合いよりまだ早い時間帯で、途端に人の気配が少なくなる。
もしそこが現界であったなら、それほど視界の拓けた街路で気を抜くなどということはルカもしない。遠距離魔術による暗殺。事故に見せかけた暗殺。普通の暗殺。どれも経験がありどれもどうにか凌いだ。立場上、敵が多いこのドーリア王は若年でありながらその境地に達している。剣や魔術だけでなく、立ち回りで身を守る術も師であり親代わりであるアリエッタから十分に叩き込まれている。
ただ、あまりにも異界は平和だった。習慣化していたはずの警戒がいつしか緩んでしまうほど、ルカは瑠衣になってしまっていた。
それ故に、正面からすれ違おうとした女性に何の注意も払わなかった。
「……!」
ぬっと伸びてきた女性の腕が自分の首に巻き付くのを、ルカは数瞬遅れて認識した。咄嗟に振り払うべく腕を掴もうとするものの、膂力の差は明白だった。そのまま羽交い絞めにされたルカは頭の後ろの至近からかかる声を聞いた。
「声をあげなければ危害は加え、加えない、加えない」
「……!? なにを!?」
「お、大人しくついてきなさい。何もしない、ない。彼らも何もしない」
女性の声は調子が奇妙だった。
「彼ら……!?」
「い、居るでしょう。手伝って。そこに居るでしょう。シ、シーワイズ。見てないで手伝って」
「あなたいったい……誰と話してるんだ! 他に誰もいやしないじゃないか!」
怒鳴りながらルカは寒気を覚える。
並木道に他の人影はない。さして体格差もない女性が異様な腕力で瑠衣の首を羽交い絞めにしているだけだ。この相手は正気ではない。
ルカは渾身の力を込めて身を捻り、右肘を背後の女性に突き込んだ。
「がはっ!」
柔い、柔すぎる感触があり、腹を押さえて後ずさるその相手が兵士の類でないことをルカは確信する。
襲撃者は、ルカの目には異界の、街を普通に歩いていそうな若い女性にしか見えなかった。
通り魔のようなものとして考えるにも筋が通らない。誘拐犯。意味が分からない。ひたすら困惑するルカに向き、女性の顔が勢いよく上がる。
乱れた髪の向こうに、怒りの形相があった。
「いきなりなんなんだよ、あなたは!」
「大人しくと言った! 見てないでと言ったでしょうが!」
女性の左右の腕が動いた。
素人ではない。支離滅裂な言動といい、乱心しているとしか思えない様子でありながら、なんらかの武芸。術理を感じる動きで女性は踏み込んでくる。
対するルカは非力極まる身体能力を補うため、左手に携えていた革の学生鞄を振るった。
左の掌打を打ち払い、伸びてくる右の指をステップでやり過ごす。世界観の大きく違う武術の気配を感じながら、それらを紙一重で躱すルカは舌を巻く。これほど進んだ文明を持ちながら、格闘技術などというものが異界に残存していること自体が驚愕だった。騎士ですら組打術に熱心な者は多くないというのに。
「それが文明人のやることか!?」
「ガキが! そこに居るでしょうが! だから大丈夫なのに!」
無手でルカを捕らえるのは不可能と見たのか、苛立つように意味不明な言葉を吐き捨てた女性は何かを抜いた。
ちょうど手の中に収まるほどの大きさの、黒い器具。柄と引き金を持ち、器械弓に似た機構の――あれは。
「嘘でしょ!?」
パパン、と容赦のない連続した破裂音が響く。
咄嗟に盾にした鞄に衝撃が伝播し、ルカは恐慌の中で息を詰める。
銃。それが悪魔の武器だと彼女は確信していた。
異界の武器だ。この存在を異界で知ってから、ルカはその恐ろしさを何度か想像して身を震わせていた。
この武器の最も恐るべき点、それは殺傷力と練度の相関関係が希薄であるということだ。
投石器や弓とは違い、狙って撃てばよいという操作の容易はまさしく器械弓に通じる。それでいながら、連射に技量が必要ない。殺傷力も一定で、当たればほぼ致命傷に近い傷を与えることができる。魔素の伴わない攻撃を無効化する魔力使いや魔獣のいない異界で、銃が戦場の主役となるのは当然だと言える。
しかし。
やっていることが滅茶苦茶じゃないか。
鞄の裏でルカは毒づいた。
目的が誘拐なのであれば明らかに過剰威力な武器だった。多少抵抗されたからといっても、本来は使用候補にすら挙がらないはず。
麻薬の類か、それとも精神支配の術でも受けているのか。いずれにせよ女性が論理的な思考能力に欠いた状態なのは明らかで、この場では打ち倒すくらいしか解決策がない。飛び道具相手に背を向けるのは最悪手。
こんなところでは死ねない。
恐怖に歯を食いしばり、ルカは頭だけを鞄で守りながら姿勢を下げ、女性に向かって突進する。
また乾いた音がして、鞄の手応えが増えた。中に収まっている教科書が銃撃を防いでくれている。銃の威力などルカには計り知れなかったが、束ねた紙が長弓の矢を止めることくらいは知っている。
「このおォ!」
激突と更なる銃撃音は同時になった。
ルカの全体重と鞄とを受けた女性は仰向けに転倒し、腿に焼けるような激痛が走ったルカも足をもつれさせた。
倒れ込みながらルカは無念を噛む。勢いのまま相手を押さえ込むのが唯一の勝機だった。しかし、銃撃が掠めたと思しき小比賀瑠衣の右足は、ルカの感覚でももう動かないとはっきり分かる。
「成果が、死体でもあれば! 手伝ってよ!」
上体だけ起こした狂人の叫びが聞こえる。
分からない。小比賀瑠衣にそれほどの価値があるとはルカには思えない。何かの勘違いなのではないかと推測する。
しかし、その言い分が正気を無くした者に伝わるはずもない。銃の引き金が絞られ、機構が弾丸を撃発する。
銃の弾丸の速度は破壊魔法と同等。瑠衣の身体では避けられない。濃密な死の予感にルカは目を開く。魔術が、せめて身体強化術が使えれば。
瞬間、火花が咲いた。
手鏡ほどのサイズ、円形の銀が宙に生じていた。瑠衣の目には視認すらできなかった銃弾を弾き、幻のように散って消える。
高位の魔術障壁。ルカは直感する。
「鏡楯……!?」
空を裂くような、鋭い風切り音が鳴った。音に釣られて視線を上げたルカは、並木のうちの一本。イチョウの木枝に巻き付いた銀の糸を辛うじて視認した。
魔術師がいる。
ぞっとして視線を左右に振るルカは、再度の発砲をしようとした女性の直前、急制動をかけるような姿勢で現れた銀髪の少女を発見した。
高梨の指示か、本人の意思か。
ルカの目には判然としないながらも、彼女は間に立つ。
皇女ミラベル。キャスケット帽と眼鏡で簡単な変装をしているその少女は、怪訝な面持ちで襲撃者の女性を見ていた。
「……あなたは……たしか、ニッタさん?」
「あ、ああ……その光……! 異星の人型ッ……! こんな街中に!」
両者の反応を目の当たりにしたルカにも理解できた。
絶対に何か行き違いがある。
しかしもう止まらない。新田と呼ばれた女性は銃を持ち上げ、散発的な連射をした。対する皇女は手で払いのけるような動作をしながら後退する。そのままルカを、小比賀瑠衣の身体を抱きかかえて大きく跳躍した。
「一度逃げます! しっかり掴まってください、ルイ!」
「……言われなくてもですよ」
ミラベルは電柱や背の高い建物に金属の糸らしきものを飛ばし、器用に空を滑った。結構な速度で景色が流れる。振り落とされれば無事では済まない。ルカは必死に皇女にしがみ付きながら、血塗れの右足に視線を落とした。
瑠衣に申し訳ないと思いつつも、やはり現実的な問題への対処が先に立つ。並木道に置いていかれた新田は生身の人間であるはずで、皇女の移動速度には追従できない。追っては来れない。
「ミラベルさん、さっきの人は知り合いなんですか?」
「おそらく顔見知りですが、私にもなにがなんだか……なんでルイを……? 異星ってなに……?」
「戻って捕まえた方がいいかもしれません。あの人、なんだかまともじゃなかった。調べないと……」
「なにを馬鹿な! あなたの手当が先です!」
ビルの屋上に着地すると同時に、悪辣なる皇国の姫は言い切った。ルカは思わず瑠衣の顔で唖然とするが、よくよく考えなくとも小比賀瑠衣が彼女から案じられるのは自然なことだった。
それに、大腿には重要な血管があると聞いたこともある。医療の心得があるらしい彼女が重く見るのも当たり前だった。
ミラベルは跪き、瑠衣の足に手早く処置を施していく。
「それにルイ、この国では、あんな武器を使えばすぐ大きな騒ぎになるのでしょう。あの場には戻りません。以前のことも考えると単独犯とも限らない……芥峰からも離れた方がよさそうです」
以前のこと、について知らないルカは触れようとして、思い止まる。事が前例を気にする段階にないのは明らかだった。今は他に優先される事柄がいくつもある。
「……あんな様子じゃ、制圧しないと市民が危険では?」
「伝手に頼ります。具体的には、ルイの叔父様に」
ああ、とルカは永山喜嗣の顔を思い出した。小比賀瑠衣の叔父で、警察に勤めている。高梨や皇女らと共に魔獣に対応している珍しい異界人。人を寄越してはくれるのかもしれない。
「アキトさんにも連絡しないと」
「あ……じゃあ、そっちは私が」
顔を見合わせて頷き、二人は同時にスマートフォンを取り出す。もう操作は慣れたもので、ルカがメッセージアプリを起動するのも数秒かからない。
しかし、通話を選んだと思しいミラベルが白い端末を耳にあてがった瞬間、なにか、言い知れない嫌な風が吹いた。
そしてルカは見る。視線を注いでいたスマートフォンの画面が、爆ぜるように一際明るく発光して消灯する様を。ミラベルも大きなノイズを立てて沈黙する端末に、怪訝な顔をしていた。
「今の風……?」
「……電源が死んだ? なんで」
端末の電源が入らない。それどころか、眼下の街のあちこちから様々な音が生じ始めていた。
ガラス食器が落ちたような音も聞こえた気がしたが、もっとも目立ったのは車のクラクションだ。屋上の際、金網のフェンスに寄って交差点を見下ろしたルカは、信号機が停止していることに気付いて眉を寄せる。
道を歩く人々もスマートフォンを覗いて困惑しているように見えた。
「停電……いや、でも」
「こういう携行端末の電源は電池……独立しているはずです。仕組み的に、発電施設の故障で影響が出るはずがないのに」
異界の技術を理解しているらしい皇女の呟きに、まったく異なる経路、瑠衣の記憶によってそれを理解しているルカも同意する。
なによりタイミングが嫌だ。若年ながら歴戦の王でもあるルカは直感する。指揮系統や連絡手段を潰すのは戦の常道。これも、明らかな攻撃であると。
警戒を促すべく口を開こうとした瞬間、ルカの手から端末が吹き飛んだ。未知の攻撃、ではない。それはもはや既知へと遷移しつつある。
単純で、しかし恐ろしい遠距離からの物理的な攻撃。
銃撃である。ルカは怯みながらも瞬間的な判断でミラベルを抱え、倒れ込むようにしてコンクリートの床に這う。しかしそんな対応で防げるのかどうか、この若き賢王にも確信などは欠片もなかった。




