19.慈愛の福音③
形成界に時間や空間の概念がない、というのは直感的に理解できる。世界線分岐の集合である世界樹を理解していれば、その外である形成界には時間経過というものが起こり得ない、そもそも変化さえしないのではないかと想像がつくからだ。
だから俺の体感上で時間が経過していたり、そもそもエイルとの会話が成立していたのは形成界側、エイルがそのように調整していたのだと推測できる。位相がどうとか言っていたのがそれだろう。
「うわっ」
よって、間抜けな悲鳴をあげて跳ね起きた俺が未だ自室の寝床の上であったのも、時間の頃が朝のままであったのも、おおむね予想どおりではあったのだ。
チチチ、という鳥の声が鳴き声が遠くから聞こえる。朝陽の明るい光が指す俺の部屋、俺の世界にはあるべき音と気配が戻って来ていた。
エイルを怒らせたせいか、どうやら形成界から解放されたらしい。なんにせよ放り出してくれて助かった。あまりに居心地が良すぎてうっかり永遠にあの子と話しているところだった。
寝ぐせにまみれているだろう頭をバリバリと掻き、俺は苦笑した。少し勿体がなかったかもしれない、などと考え、すぐに考えを打ち消す。堕落するところだったらしい。
これで俺の右手に何の変化も無ければ、エイルという女神と会った経験は俺の中の何らかの無意識や非意識の顕れとして処理してしまおうかとも思ったのだが、右手の指にはしっかりと白い指輪が残っていた。
そうだろう、と予感したとおりポケットの中には白い鍵もある。だとすれば、エイルの形成界に取り込まれていたのは夢でも何でもなく、おそらく俺はエイル以外の器たちの協力を得なければならない。
でなければ、だいたい死ぬという。
上等だ。
敵の白刃を掻い潜るのと何も変わらない。実に日常的な危機だ。
が、俺は肝心のことをエイルから聞きそびれている。
結局、剣の福音がどういう機序を持っているものなのか具体的には説明されていないし、器が誰なのか分からないのに協力もクソもない。顔見知りではあるらしいので自力で探せということなのかもしれないが、現状、異界にいる往還者は二人だけだ。
ミラベルと、氷室一月。
氷室が器である可能性も――あるのだろうか。福音を返還した唯一の往還者である彼が、福音持ちの成れの果てである器になるものだろうか。大いに疑問だ。そもそも大径を持っているかいないか、それすら俺には判断がつかないのだ。
仮にその判断がついたとしても、器の協力を得るにはどうすればいいのかも分からない。向こうから形成界に取り込んでくれなければ会話すらできないというのに。
おや?
「むっ……無理では……?」
俺は額の嫌な汗を拭う。
分かっている器はエイルとメティス――愛と理解だ。調べた知識だが、数秘術のオカルティストやユダヤの神秘主義者が本当に真理に通じていたのだとすれば、大径は全部で十。残りは八であるはず。
上から順に、王冠という意味だというケテル、知恵を意味するコクマー、峻厳なる訳がいまいち分からないゲブラー、ティファレトはたしか美で、ネツァクが勝利、ホドは栄光、基礎と訳されるイェソド。最後が王国、マルクトだったと記憶している。
一方の往還者は分かる範囲で、千年前の福音が剣、魔法、叡智、生命、盾、創造、力、時、法の九つ。
現代で増えたのがカタリナの叡智、これは恐らく継承――確信はない――されたもので、サリッサは不明。ミラベルが慈愛だ。
まるで分からない。どの福音がどの大径なのか見当すらもつかない。そもそも正解がこの中にあるという保証もないのだ。
いや、コクマーは叡智の福音なのかもしれない。だとするとカタリナを指していることになりそうだが、前任者を指している可能性もある。はっきりしない。未確定だ。剣の俺も大径がないらしいので除外していいとしても、結果に大差はない。
つまり、エイル以外の器の物質界での姿を俺は特定できない――情けないことに、頭を抱えるくらいしか出来ないのだ。これでは敵と戦う方がまだ楽と言えた。
「日本語が難しすぎる……峻厳ってなんだ……?」
「……読んで字のごとく、厳しいとかそういう意味だったと思うけど……」
そこでようやく、俺は布団の中で猫のごとく丸まっていた女性の存在を思い出した。髪の毛がワカメのような状態になっているジャージ先生、来瀬川教諭である。
サイズとイメージ的には子猫がいいところといった彼女だが、寝起きはどこか艶っぽい雰囲気もある。大きな瞳が眠そうに瞬きつつ、とろんとした色で俺を見上げていた。
「生命の樹の話かな……なんで異世界にそんな名前を付けたんだろう。ややこしいよね……」
「そうですね。皮肉の類だと思いますが」
「峻厳……峻厳。でも、強さなんだよね。英語だと」
「え?」
「日本語訳だと峻厳……でも強さがゲブラーの原義に近いんだよ……判断の本質、制限、それは厳格さ、法律の順守……とかを、厳しさと訳したのかな……」
散った思考をうとうとと呟く来瀬川教諭。その呟きになにか閃きそうなものがあった。のだが、俺はそれよりも起きぬけの、半分寝ている来瀬川教諭に意識を取られてしまった。
エイルの形成界で感じた世界の深淵、彼女の星霜の余韻のようなものが現実の実感に上書きされていく。所詮、俺は物質世界の俗っぽい存在なのだと思い知らされるようだ。目の前の気になる異性にどうしても感情を持っていかれてしまう。
馬鹿め。いまはそんな場合ではない。頑張って頭から雑念を追い出し、俺は再度の入眠に至りそうなひーちゃん先生を揺さぶる。
「んあああ……ああ……」
「先生、ひーちゃん先生、法律と法ってどう違うんでしたっけ!?」
「えー……法は広義な則全般のことでしょ……? 法律は国家の規範だから、法の一部に含まれるんじゃないかな……」
「じゃあ力と強さは!?」
「……力は行使する力のことで、強さは性質の話でしょ……」
むにゃむにゃと見解を吐き出すミニ先生。俺は心の中で快哉を上げた。
力か法が峻厳に対応している可能性がある。どちらも微妙なニュアンスで断言はできないが、最も難解な字面である峻厳が片付きかけているのだから半歩は進んだ気がする。
他はまったく分からないが、訳語を無視して大径の形質を調べれば糸口が見つかるかもしれない、と分かっただけでも前進だ。
やるべきことは定まった。知識を増やすのだ。
今までのタスクに加えて、お勉強だ。このお勉強がメティスの言っていた福音への詮索にどの程度抵触するのか、エイルのくれた指輪の効力がどの程度なのか。そのあたりはもう博打だが、メティスが来てしまったら来てしまったで口先で何とか説得する。これしかない。
「ありがとうございます、先生」
俺は頭を下げる。
丸まった来瀬川教諭はすぴすぴと寝息を立てていた。
***
毎朝のことだが、皇女ミラベルは寝起きであってもしゃんとしている。朝の弱い来瀬川教諭や遅刻ギリギリまで寝ている瑠衣とは違い、比較的に早い時間から起き出して身なりを整えている。朝っぱらから綺麗めのブラウスにチュニックのようなカーディガンを着ているのにあまり違和感がない、というのは凄いことだろう。
そんな彼女を洗面所で捕まえた俺は、その手に白い鍵を置いた。
「わ、私の遺物ですか? そんなものが……」
「ああ、なんかよく分からんが作ってくれた」
「……誰がですか」
「エイルって女神様」
ミラベルはぎょっとした顔で俺を見る。
「……救済に会ったんですか」
そういう反応をする、ということはやはりミラベルにはエイルが見えているのだろう。声も聞こえているのかもしれなかった。
「会ったというか、彼女の領域に引き込まれたというか……なんだろうな。物理的な接触ではないんだろうし……うまい表現ができない」
「私はてっきり、あの子は他の人には見えないものだと……」
「見えない、で正しい。俺も普段は彼女の姿が見えないと思う」
「よく……わからないですが、何か言っていましたか?」
「色々と聞きはした。エイル自身のこととか、世界の構造とかか。まだ理解が追い付かないくらいだ」
どこまで話していいのか分からず、俺は曖昧に言葉を濁す。
ミラベルは呆れたような顔をした。
「……。私、そんなこと聞かされてないんですけど」
「まあ……話さないってことは、聞かない方がいいってことなんだろ」
俺たちは本来、世界樹の外側を認識も意識もする必要がない。エイルがそう言っていた。それはやがて彼女になるだろうミラベルも含まれる話に違いない。
この辺りのバランスは難しいのかもしれない。
過去に戻って未来を変えようとした経験があり、まさに今からまた、柊に対して試みようとしている身としては、なんとなく覚えがあるようなないような気になってくる。
ミラベルはエイルに比べるとやはり大人びた、澄ましたような顔で白い鍵を眺め回した。一見しても用途が分からないので当然だろう。いや、本当なら用途は一つしかないというか、鍵なのだから対応する錠があって然るべきなのだが、この鍵にはおそらくそんなものはない。
「ふうん……ハートの鍵、ですか。少女趣味ですね」
「それは自虐なのか……?」
「何を聞いたのか知りませんが、私はあんな可愛げのない子供になるつもりはありません。一緒にしないでください」
などと言っているミラベルのふくれっ面はエイルと酷似している。違うのは外見年齢だけだ。初めて会った頃のミラベルはちょうどエイルと同じくらいの年頃だったので、俺は脳がバグりそうだった。
そんな俺をよそに、ミラベルは鍵の細かい紋様に視線を注いでいる。
「遺物、というものは……福音とどのような関連を持つのでしょう」
「え? あー、改めて聞かれると難しいな。千年前は各往還者に福音に対応する武具や道具がそれぞれ渡されてて、権能は遺物を介してじゃないと十全には行使できなかったんだ」
「……? でも私やカタリナは……」
「ああ。百パー……かどうかは分からないが、不自由はなさそうなんだよな。俺なんかは明らかに剣の福音が強まってる手応えがあっても、遺物ありの全盛期より数段落ちるくらいだ。そのあたりが大径持ちとの差なのかどうなのか……」
結局、原材料が光なる物質世界の外にある力である、ということしか分かっていない。
「つまり、この鍵も私の福音を補助もしくは補完する道具である、と」
「恐らくは」
「なるほど……だとすると……」
なにをどう納得したのか、ミラベルは頷いて呟く。そしておもむろにブラウスのボタンを外し、鍵の先端を自分の胸に差し向けた。
「こう使うものだと思います」
「お、おおい、やめとけ!? どういう解釈なんだそれは!?」
「なんとなく使い方が分かるんです。たぶんこれ、回すんですよね」
「エイルでさえ向けられたら逃げたんだぞ!?」
自分で作っておきながらあれもどうかと思うのだが、エイルでさえ逃げるような効果を受けて生身のミラベルが無事で済むとは思えない。
しかしよく見れば、鍵の先端がブラウスの隙間に覗くミラベルの肌に埋まっていた。歯に至っては完全に埋没しているように俺の目には映る。
差し込んで回す。確かにエイルはそう言っていた。むしろ直に人に向ける使い方のほうがイレギュラーだったのかもしれない。
「心配されているようなことにはならないと思います。はっきりとは分からないのですが……この鍵は使用者に作用するもののようなので」
「自分で自分の鍵を開けるってことなのか? 難解な道具だな……効果の想像が付かなくなってきた」
「本当に。やはり一度試してみたいところですが……」
「分かるが、近くに俺が居ないときで頼むよ。これ以上魅了だかなんだかされたら本当にややこしくなるというか、自制できる自信がない」
「それは……そうですね」
ミラベルは複雑な面持ちで鍵を抜いた。魅了の件は俺自身よりミラベルの方に尾を引いている。沈んだ声。考えていることは分かる。
もし仮に、俺がこの先ミラベルに好意を示したとしても、彼女はそれを自然なものとして素直に受け取ることはできないだろう。
或いは、俺だけではないかもしれない。人からの好意全てが、もしかすると福音の力によるものではないかと疑わしく思えるはずだ。
現象攻撃を使うか使わないかは重要ではない。生命の福音のように常時効果を発揮し抑制できないケースや、力の福音などは無意識に発動してしまうケースもあった。問題は、福音の効果ではないと断言する証拠がどこにもないということだ。
これを「偽物」や「借りもの」である、と認識してまうと精神的な変容がやってくる。俺は実体験として知っている。手放せない恩恵は解けない呪いに変わり、本当に欲しいもののかたちは見えなくなってしまう。
その問いに解はまだない。
もしかすると剣の福音の仕組みを理解すれば、漠然とした自身の一部であるという実感の正体と共に、何かしらの答えが見い出せるのかもしれなかったが、今の俺にはまだ分からない。
だからといって言えること何もない、というわけでもない。
未来のミラベルであるというエイルと会って、よく理解したことがある。言えるからといって言うべきかどうかは定かでなかったのだが、
千年も前と同じ愚を繰り返すというのも、いい加減にしなければならない。
「まあ、それはそれとしてだ。ミラベル」
「はい?」
「魅了される前から、俺は君が好きだったよ。だから気にするな。ゼロから百ならともかく、百が百二十になったくらい別に大したことじゃない」
俺にとっては、本当に大した問題じゃなくなった。エイルの無限に比べれば俺なんぞゴミみたいなものだろうに、あんなものになってまで目を掛けてくれている。愛おしく思う以外、どうすればいいというのだろうか。
エイルのこともひっくるめて、俺はミラベルが好きだと思える。それ以外に重要なことなどない――――。
――――。
「……」
皇女は呆けていた。
翡翠のような綺麗な目で俺を見ているだけだった。
ややあってから、落ち着かない様子で鍵に髪の毛を巻き付け始めなどした。意図はよく分からない。躊躇いがちに言った。
「え……っと、それって……」
「勿論、親愛の範疇に収まる話だから安心してくれ。俺は安全な男だ」
当然付け足すと、一転して信じられないものを見るかのような顔になった。
おかしなことだ。一つ屋根の下で暮らす異性が危険な狼であっては彼女も困るだろう。安心して夜も眠れないはずだ。
だが今の俺は来瀬川教諭と同じ布団で一晩過ごして何もなかった、という完璧な自信を手に入れている。この先いかなる状況が俺を襲い来ようとも、誰とどのような関係になろうとも、どうにもならない自信がある。断言できる。
おぼろげに見えてきた気がした。
俺はミラベルや来瀬川教諭にとって頼りになる男、喩えるならそう。そうだ、俺は父親のような存在になるべきなのだ。
魅了の効果と欲求が何だかよく分からない混ざり方をして奇妙な方向に向かっているのは自覚しているのだが、父親という存在に対して屈折した思いを抱えている俺にはその素養があったのかもしれない。或いは、来瀬川教諭のおかげで父性に目覚めたのかもしれない。
もしかすると単に、遺物を手に入れたミラベルの力が、魅了の影響が暴走しているのかもしれない。
いずれにせよ、俺はミラベルの肩に手を置いてサムズアップをした。ひたすらに困惑する彼女の綺麗な顔を見ながら、俺は一層、みんなの頼りになる男になろうと強く思った。




