18.慈愛の福音② ※
「思慮がアナタに干渉してるのは、あの人なりにアナタのことを助けようとしてるんだと思う。アナタたちは本来、物質界の外を認識する必要がないし、世界樹のことも意識する必要がないのよ。思慮の言い分にも一理はある……むしろ、私だってそっちの方が自然だと思うくらい」
「自然?」
「知性体が世界樹の外を知るということは、人間が宇宙に行くのと似た話だもの。ありもしない希望や、必要のない播種を夢見て舟を飛ばすのと同じ。浪漫だけ先行してて実利が少ない」
後ろ手に両手を組んで、ゆっくりと階段を一歩一歩下りるエイルはそんなことを言った。
階下から振り返って見上げる俺は、彼女の白いスカートがたなびくたびに俺は気が気でないのだが、神性相手にそんなことを気にするのもおかしなことなのだろうか。まあ、おかしいのだろう。彼女は人間ではないのだし、今いる空間は形成界なる世界によって見えている心象である、らしいので、彼女の服の中に虚無だけが広がっていても何ら不思議はないのだろう。だが、浪漫先行で大いに結構だ。夢があっていいと俺は思う。
そんな妙な思考を打ち切るべく、俺はまったく関係のないことを訊いた。
「メティスが誰なのか訊いてもいいか」
「無意味なことだわ。聞いてアナタが納得するはずもないし、アナタが納得しようとすまいと思慮が思慮になることはもう変わらない」
「なるほど。とすると、まだメティスは往還者じゃないんだな」
「……。めんどくさいわ、アナタ」
「すまんて」
ふてくされた顔でエイルはまた一段、階段を下りる。
「ま、思慮が彼女の権能でアナタの理解を阻んだところで、結局、私たちができることには限りがある。物質界では何もできないし、形成界にアナタを引き込んで真実を隠しても、それ以外のすべてが見えてしまっているなら真実が見えるのと同じ事でしょう」
「……難しいことを言うんだな」
「頭の中で総当たりすればいいだけ。そんな必要も無いと思うけど」
メティスの福音。おそらくは人の理解能力に関連する福音への対処法を示唆して、エイルはまた一段、階段を下りて苦笑した。
「この形成界でアナタが考えることも、思慮には認識できない。私たちはお互いに形成界を共有できないから。それはあくまで小径に接続しているアナタたちにしかできないこと」
「……? しかし思慮にも未来の記憶があるんだろ?」
「この枝がどちらに転ぶかなんて分からない、ということなの。アナタが福音の全てを理解してしまうのか違うのか、思慮には半々に見えてるはず。結果として思慮自身がどうするのかも、そこが決まってようやく定まるんじゃないかしら」
未来を知っている神性の思惑といえども、なかなかにままならないものであるらしい。完全に他人事なので何となくそう考えるに留めた。
それよりも、俺は最も気になっていることを、どこか楽しそうにジャンプして階段を降りるエイルに問うた。
「君はどうして俺を自分の形成界に……俺に干渉しようと思ったんだ?」
「……わからないの?」
またも、エイルは意外そうな顔をした。
そしてすぐに笑顔を見せる。
「たとえば、の話だけど」
「そればっかりだな」
「ずっと昔から大好きな人が居たとして、その人に話しかけられるタイミングが急に出来たとして、よ。やっと話しかけられるのに、話しかけないわけある? ないでしょ」
「そ……、そうか」
要は、俺に干渉が可能になったから干渉した、ということなのか。
この口ぶりではどの枝でもエイルはそうなのだろう。条件が整えば、この女神は絶対に俺を自分の形成界に取り込む。ただ、好きだから。それ以外の動機はないのだ。おそらく。
或いは、メティスにも何か思うところはあるのかもしれない。彼女の手を、その指先を思い出しながら俺はそんなことを思う。
まるで想像もつかないことだが、おそらくそれらは単純な恋愛感情とはまた違う。すべての可能性を同列に捉えるという彼女たちには、俺に出会う世界線も、出会いすらしない多くの世界線も同じように見えているはずだ。
彼女たちが幸せになる可能性もまた、無限にあるに違いない。そこに俺の存在は必須ではないはずだ。そこまで思い上がったつもりはない。あるいは、パートナーの存在だって不可欠とは言い難いのかもしれない。
その上で、ひとりの個人を好きだと言えるのだとすれば、エイルの精神構造はとっくに俺の理解を超えている。どうかしている。
「なら、いきなり頭を蹴られたのは解せないな……」
「それはアナタが悪いでしょ。よりによってヒメジと寝てるから」
「おおーい!? 人聞きが悪すぎるぞ……!?」
「事実でしょ」
つーん、とそっぽを向かれてしまい、俺は落ち込んだ。
だが違わない。現時点の俺はミラベルと来瀬川教諭のどちらかを選ぶということはしないだろう。狡く、愚かしい男のまま。
本当は分かっているのだ。未来を選ぶことができる、などということは。慈愛を司る女神に言われずとも。ミラベルが待っているということも。来瀬川教諭の隠している気持ちも。瑠衣が俺をどう思っていたかということも。柊との間に、本当はあったはずの未来も。
それでも。忘れ得ない光景が俺にはある。それにカタを付けなければ、きっと俺はどこにも行けやしない。結局俺はまだ、門番のままなのだ。
そんな愚かな男を、エイルは許してくれていた。
「要するにね、私も一緒にお茶が飲みたかったの。迷惑だった? だめ?」
「……いや。光栄だよ」
俺は本心からそう言った。もしもいつか俺が前に進むことができたなら、この少女と共に永遠を生きるのも悪くないと思えるほどに。
だがそれは今ではないし、かつてでもなかったのだろう。だから俺はエイルの隣にいない。そういうことなのかもしれない。
長い、やけに長かったマンションの階段を降り切ると、エントランスホールである筈の場所には、天から落ちる水のような、ガラスのような、得体の知れない何かが透明な壁として横たわっていた。
この朝焼けの世界、形成界はエイル――ミラベルの心象を反映しているという。だとすると害のあるものではない、と思うのだが。
「この透明なものはなんなんだ?」
「光。アナタに分かりやすく言うと、現象攻撃を成立させてる力の源ってところ」
「……どっから来てるんだ、これ」
「それは本来人間が知り得ないことなんだけど……世界の形が分かっていて、世界樹のことを少し理解したアナタには、推測することはできるんじゃない?」
「教えてはくれないのか」
「嫌な気分にはなってほしくないし。でも、そう悪いものではないの。少なくとも、アナタが福音を嫌う必要なんてどこにもないわ」
エイルはそう言うと、唐突に手を伸ばして透明な壁――光を一掴みする。のんびりと彼女が手を引いたとき、その手の中には白い塊があった。
そして、エイルはおかしな動作をした。
ぎゅっぎゅっと、白い塊を両手で握る。まるでおにぎりでも作っているかのような動作だった。白い塊はどんどん小さくなっているらしく、完全に手の中に見えなくなる。
「なにやってるんだ?」
「創ってるの」
「……何を」
「遺物」
さらりとそう言うと、エイルは両手をぱっと開いた。
その手の中には純白の鍵があった。ハートと微細な紋様の彫刻がされた、レトロなスケルトンキー。俺の知るどの遺物とも違う、未知の遺物だった。
「な……え? 作れるのか……?」
「逆になんで創れないと思ったの?」
ひょい、とエイルは白い鍵を摘まんで俺に投げ渡した。
手にした小さな鍵は、確かに独特の存在感がある。かつての俺の白い剣や、来歴の分からない永劫と同じ性質のものだと確信できるほどに。
「しかし、遺物は無貌の神の……」
などと口にしてから俺は頬を引き攣らせた。
エイルはほぼ神だ。
「あ、使い方は差し込んで回すだけだから。簡単でしょ」
「いやいや、待ってくれ。頭がぜんぜん追い付かん。何に差し込むんだ?」
「描いてあるじゃない」
言われて鍵に視線を落とすが、ハートの彫刻以外に判別できる意匠はなかった。或いは、微細な紋様は未知の文字なのかもしれなかったが、俺には読めない。
読めないものを指しては読めとは言わんだろう、と甘えた思考を発揮した俺は、勘で使い方を推測し――白い鍵をエイルに向けた。
途端、彼女は慌てて身体を傾けて射線から逃れた。女神は狼狽していた。
「こ、こらあ! なんてことするの!?」
「ああ、たぶん人に向けるのかなと。どうなるんだこれ」
「分かりそうなもんでしょ!? バカなの!?」
「そもそも何の福音の遺物なのかも分からんのに分かるわけが……ああいや、そうだよな。たぶん慈愛の福音だよな」
相手をめちゃくちゃ好きになる効果、とかだろうか。実にファンシーだ。慈愛でハートというのも少し奇妙に思えるが、さほど遠くはないのかもしれない。
とすると、やはりこれはミラベルのための遺物なのだろう。明らかに元の所有者以外が扱ってきただろう永劫のような例もある。遺物自体は他人でも扱えるのだろうが、ハートの鍵を俺が使うのは色々と適合していない気がする。
「長剣とか作れないか? 別にハートが付いててもいい」
「……実に即物的な発想ね。でも残念。私に武器は作れないわ。聖性に反してるから、光をそういうことには使えないの」
ジト目のエイルに釘を刺されてしまう。
半分程度しか本気ではなかったので気にせず、俺は別のことを考えていた。
遺物の形が作った神の聖性に左右されるということは、逆に言えば、剣を作ってみせた無貌の神はそういうことに光が使える聖性の持ち主ということになる。恩恵も受けておきながらだが、今までの印象もあって善神の類とは思えない。
エイルに聞くべきだろうか、とも思ったが推理が可能であるというメティスの素性でさえ言葉を濁すのだ。無意味なこと、だろう。
「この鍵は持って帰れるならミラベルに渡しておく。で、いいんだよな」
「別にアナタがその鍵を使ってもいいんだけど。私にさえ向けなければ」
「冗談だろ……?」
「身に付けてもらえると形成界に呼びやすくなる効果もあるの。声も届きやすくなるし、アナタなら私が見えるようにもなる」
少々違和感のある言い回しだった。
「俺なら?」
「アナタは例外的に全ての小径に接続できる。それはつまり、全ての大径に触れられるということ」
さっぱり分からない、という顔をするとエイルは笑った。
「ものすごく要約すると、大径の器になり得る人間、全員と顔見知りなのよ。アナタ」
「……そうなのか?」
「その可能性を持った稀有な……唯一の小径の接続者。燃える剣の道。それがアナタ。剣の福音」
よっこいしょ、と言わんばかりの緩慢な動きで、エイルは透明な光の塊に腰かける。
剣は駄目でもそういう用途は良いらしい。エイルは暁天のまま停止している茜色の空を仰いで言葉を続ける。
「もちろん、とても長い目で見れば全員ってわけじゃない。知性体の歴史はもっと永く続いていくから。その中で代替わりもあるし、アナタは過去の大径と繋がりもない。だけど、ひととき。ふたつの世界樹をまたがって、アナタは全ての大径を繋ぐ唯一の人になる。なるし、なった。この枝では確定した。だから私たち器はアナタに干渉できるようになった。アナタはもう、世界樹の外にはみ出してしまっている」
その語り口は、神性というにはあまりに人間的すぎた。
滔々と語るエイルは喜んでいるようにも、憐れんでいるようにも見えた。
俺は納得できなかった。
「悪い事じゃないと思うんだが……なんでそんな言い方をするんだ」
「どうして?」
「どうしてって……それで剣の福音が強まってるんだろ? もっと色んなことができるようになるかもしれない。こうやってエイルとも話せるようになった。何がいけないんだ」
「……アキト。ここは宇宙なのよ」
そこで。
初めて、エイルは俺の名前を呼んだ。
まるで恋人に呼ばれているかのような、とても心地のいい音だった。
神であるなら。
超然としていればいい。全ての可能性、枝とやらの記憶を持つというのなら、何度となく見たはずなのだから。
なのにエイルは、恐らく悲しんでいた。
「この枝のアナタは、だいたい死ぬわ」
俺は少しだけ驚いてみせた。
そして、わざとらしく笑った。
「だいたい、か。よかった。なら十分だよ」
今の世界線は俺にとって悪い方向へ進んでいる。
メティスの言動を少し考えてみれば想定できなくもなかった。どうも俺は、少なくとも二柱の女神に愛されているらしい。
だったら何が怖いというのだ。俺には理解できない。するつもりもない。
確実に死ぬと言われないだけマシなくらいだ。
分かっているのだ。色んなことに目を瞑りさえすれば、幸せな人生も選ぶことができる、ということも。慈愛や理解を司る女神たちに言われずとも。
別に、剣の福音が何なのか知らなくとも俺は生きていける。もしかしたら異界の問題も解決できるのかもしれない。あるいはそこそこにやり過ごしたり、誰かと家庭を築いたり、一人気ままに生きてみたりもできるのかもしれない。そんな風に、幸せな人生を送れるのかもしれない。全然アリだ。選ばれし者じゃない男には、過分なくらいの幸せだろう。
でも、それでは足りない。俺は欲張りなのだ。俺が選ぶ未来では、誰も彼もを幸せにしようと、きっと俺は走っている。
「助けてくれ、エイル」
「……バカ」
キン、と音がした。
よく見えないまま、俺はエイルの手から飛んで来た礫をキャッチする。開いた俺の手には、簡素な白い指輪があった。白い鍵と似た意匠が彫られた、男物の指輪。どう考えても前もって用意されていた遺物だったが、それ以上を考えるのはやめた。
「身に付けて。指輪自体に強い力はないけど、ある程度は思慮の目が誤魔化せるから」
「……助かるよ」
「でもね、分かってると思うけど思慮も敵なんかじゃないの。ううん、思慮だけじゃない。アナタがもし最善の未来を目指すなら、もっと器の協力を取り付けないといけない」
指輪をなんとなく右手の薬指に嵌めながら、俺は唖然と口を開けた。
「他の器?」
「うん。できれば全員」
「ミラベ……エイルだけでも凄く大変だったのに……?」
刹那。ドゴッと俺の頭蓋が鈍い音を立てた。
エイルの手から飛来したティーカップである。物質界とは違い、形成界では人は死なないのかもしれない。多少の衝撃はあったが、俺はもんどりうってその場に転倒しただけで特に傷は負わなかった。物理法則が半分くらいしか機能していないのでは、と思ったがエイルの踵は痛かったのでよく分からない。
どうせなら踵がよかったな、などと胡乱なことを考えながら、俺は地面とキスをした。




