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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
六章 天蓋
265/321

15.おでん

 前日の朝から起き続けている俺はいよいよ限界の一歩手前であったのだが、マンションに帰り着いて自宅の玄関ドアを開けた瞬間、暖かな室内の空気に包まれてそのまま玄関で寝ようかとも思った。

 以前と同じく一人気ままな生活を送っていたのなら迷わずそうしたのだろうが、玄関に三人分の靴が揃っている状況ではそういうわけにもいかない。

 気を抜くと床に根を張りそうな足で廊下を進む途中、浴室から水音がするのを常のように努めて思考の外へ追いやってリビングに辿り着く。

 

 そうして、ちょうど。

 食卓に着いた皇女ミラベルが大口を開けておでんの種、三角形のこんにゃくを頬張ろうとする瞬間を俺は目撃することになった。

 彼女と対面する席には瑠衣が座っていて、二人とも首だけをこちらに向けて硬直していた。

 

 ああ。それが恥ずかしいシチュエーションなのかどうかすら、俺は疲労のせいでよく分からなかった。少なくとも現在入浴しているのが姿の見えない来瀬川教諭なのだとは理解できたので、とりあえず俺は少しだけ想像してしまったそのビジョンも頑張って思考の外へ追いやる。

 べつに大口開けて飯を食うくらい構いやしないと思うのだが、いつだったか長命寺が飯を食っている最中にその様子を注視していたところ、なぜか怒られたことがある。エロいだとかどうだとか言っていた気がするが、俺にはまったく意味が分からなかった。理不尽にもほどがあるとも思ったのだが、あれも性差による感覚の違いなのだろうか。

 やはり、異性と同じ屋根の下というのは気苦労が多いものだ。思えば現界でミラベルの妹マリーと暮らしていた頃から俺はそのあたりによく気を遣っていた。千年の間に俺が発明――というより単にノリで用意しただけのドラム缶風呂が詰め所には存在したのだが、それを使う際にもお互いに気まずい思いやトラブルがないよう厳格な時間管理をしていたくらいだ。

 危険は他にもある。いや。寝室やトイレ、生活スペースの大半が危険に満ちていると言えるだろう。うっかり更衣になど出くわさないよう、俺は常に気を張って気配や魔力を探っていた。

 その覚悟たるや、もしマリー相手にそんなものを見てしまったなら、詫びの証として腹を切ろうと決めていたほどだ。年端もいかない少女相手にハラスメントなどを決めてしまったら床の染みになって然るべきだ。のうのうと生きていられる自信は俺にはない。それは今もだ。そんな努力の甲斐もあって、俺はそういったハプニングに遭遇したことがなかった。いや、あったかもしれないが少なくとも腹は切っていない。この先もその予定はない。たとえ高梨家の同居人がこの先何人に増えようとだ。

 それほどの鋼の意思を持つ俺であれば、べつに皇女が大口でおでんを食べているくらいでどうということはない。笑ってしまうということも、気まずそうに愛想笑いを浮かべてしまうということも、幻滅して白けた視線を送ってしまうということもないのだ。そもそも幻滅するようなことでもない。

 むしろ、ウッドランドに存在しないこんにゃくなどという得体の知れない食べ物を口にしようという皇女の勇気をまず褒め称えるべきだ。もしも仮に俺が現界人だったとしたら、とりあえずあれは口にしない。ぷにぷにぷるぷるとした灰色の低分子物質で、水で抜かなければ結構な臭いもする。何も知らなければ食べ物として捉えることすら難しいだろう。気乗りのしなさはかつて現界に存在したモルモルという食物にすら匹敵すると勝手に思っている。そのモルモルですら数百年前に廃れたことを鑑みるに、或いは、こんにゃくは日本の貴重な食文化なのかもしれない。食べると美味しいし――などと疲れた頭で意味の無い思考を延々と空転させていると、瑠衣の声がした。

 

「た、高梨くんさあ……なんか反応してあげなよ……」

「あは……あははは……」

 

 ミラベルは器に戻したこんにゃくに視線を落として撃沈していた。

 なんだか恥をかかせてしまったようだ。

 俺は更に少し考え、ぐっと拳を握って皇女を励ました。

 

「気にするなって、ミラベル。俺はすごいなって思ったぞ」

「……いや、どういう思考回路してたらそんなリアクションになるの」

 

 白けたような顔の瑠衣が肩をすくめる。ミラベルは辛うじてお姫様ガッツを発揮したようだ。こんにゃくから顔を上げ、まるで何事もなかったかのようなすまし顔をした。

 

「おかえりなさい、アキトさん。お夕飯ができていますよ」

「ああ、ただいま。まあ……おでんだよな」

「はい」

 

 現在の高梨家の夕食は日毎の当番制になっている。

 この献立は来瀬川教諭だろう。テーブルにはメインのおでん鍋とおばんざいの小鉢が三つほど並んでいる。

 おばんざいは京都近辺の家庭料理の一ジャンルだ。ぱっと作れる範囲の簡単な惣菜を小分けにしたものである、と来瀬川教諭が言っていた。もしかすると彼女の出身は京都辺りなのかもしれないが、相変わらずひーちゃん先生は自分の話をあまりしないので不明である。謎多き人のままだ。

 余談だがミラベル担当時の献立は和洋の煮込み料理が中心、瑠衣の当番時は概ねインスタント食品になる。高梨家では生活能力の格差が深刻だった。

 

 俺はのそのそとダイニングテーブルに着き、自分の取り分け皿におでんをよそった。玉子と大根である。

 

「俺は食ったら寝る」

「ええー? お風呂は?」

「止めてくれるな。そろそろ命にかかわる」

 

 瑠衣は口を尖らせたが、そもそも関心が薄いらしい。すぐにだし巻き卵に向き直って格闘を始めた。

 

「ずいぶんとお疲れのご様子ですね。どうかされましたか」

「昨日から訳の分からないこと続きで参っててさ。そろそろ休まんとどうにも整理がつかない」

「訳の分からないこと、ですか」

「まあ、いろいろと。一番きな臭いのは竜種(ドラゴン)か」

 

 と、俺が口にした途端にミラベルも瑠衣も顔色を変えた。

 

「竜種!? 異界(こっち)で戦ったんですか!?」

「ああ。人化……妙な個体だったから大事にはならなかったんだが、まさか異界(クリフォト)で出くわすとは」

「……え? ちょっと待って、殺したの?」

「多分死んだよ」

 

 端的に答えると、瑠衣の顔がさっと青ざめた。

 本来の竜体ならともかく、人化した竜種程度なら今の俺でもやりようはある――と言ったところで瑠衣には分からない話だろうか。単に残虐に聞こえたのだという話であれば、いささか配慮が足りなかったかもしれない。

 食事時にする話でもないので具体的な被害については触れず、俺は疑問だけを口にする。

 

「個体がどうこうより、どうやって蘇ってどうやって異界に来たんだかが問題だ。翼竜が居る時点で何らかの手段が存在するのは分かってたんだが……天秤で抑制されてるから重力波絡みなんだろう、とまでしか分かってないんだ。手がかりもなくて」

「……い、一度ちゃんと調べたほうが良いんじゃないかな。ほら、警察とかはあてにならないわけだし」

 

 明後日の方向を向いた瑠衣が言った。身に染みて翼竜の危険性を知っているだろう瑠衣なら無理もない反応ではある。

 

「そうだな。やり方は考えないといけないが……資料室(バイト)もしばらく休めって言われてるから丁度いいといえばいい」

「何かされるのであればお手伝いしましょうか」

「どうするかな。でも瑠衣を見ててくれるだけでだいぶ助かってるよ。更にあれこれ頼むってのはちょっと申し訳ない」

「いえ、そんな……なにかあれば遠慮なく言ってくださいね」

 

 ミラベルは微妙に釈然としない面持ちではあったものの、笑って頷いた。

 

 口ではこう言いながら、俺は別の考えを持っている。

 資料室での翼竜退治だって少なからず危険はあるというのに、竜種が絡む事案にミラベルを関わらせるのは気が進まないのだ。

 彼女がか弱いとはまったく思わないが、竜種相手では万が一が有り得る。調べもの程度が許可できる限度といったところだ。

 

 それに謎の往還者メティスのような背景が不透明な人物まで接触してきている現状、あらゆる面でリスクは少ない方がいい。

 といっても、あの女性は俺が福音(エヴァンジェル)について詮索しない限り姿を見せない、或いは見せられないといったスタンスであるように思う。(ブランチ)がどうとか言っていたような――などと余計なことを考えているとメティスはまた現れるのだろうか。どこからどこまでが詮索の許されない範囲なのか分からない以上、詮索しないというのも難しい話ではないだろうか。

 逆に、もし彼女を呼ぼうと思ったら全力で彼女自身のことや福音の仕組みについて考察すればいいのかもしれない。召喚する術があるとでも思っておけばいいだろうか。

 一方的な要求をしてきただけなので友好的なのかそうでないのかも曖昧な相手ではあるが、うまく協力できる場面だってないとも限らない。もちろんそれは彼女が人間で、人類の味方であるという前提の話だが――

 

「おっ、高梨くん帰ってたんだねー! おかえりー!」

 

 味の染みた見事な玉子を噛みながら考え事をしていると、底抜けに明るい声がした。面倒な悩み事が頭から消し飛ぶ。

 タオルをターバンのように頭に巻いたジャージ姿の来瀬川教諭がキッチンから手を振っていた。湯上りであるためか非常に血色がよい。

 

「ただいま帰りました。おでん頂いてます」

「うん。ごめんねー、簡単なものでー」

 

 簡単?

 俺は首を傾げる。おでんは簡単お手軽な料理などではない。手軽なのはイメージだけだ。きちんと作ろうと思えば、異なる種物それぞれに的確な下処理を要求する手間のかかる料理と言える。

 そして俺の皿に鎮座する透き通った大根を見るにもかかっている。手間が。どういうわけだか、薄い色合いなのに味がしっかりしている。品の良いダシの引き方をしているのだろう。淡口醤油だろうか、くらいの推測はたつが凝り性の俺にもそれ以上は分からなかった。

 

「いや、可能なら毎日食いたいくらいです。好きですね、これ」

「わっはっは、そっかそっか……え、毎日?」

「手間を考えると厚かましい話ではありますが、そういう夢を見るくらいには旨いですよ。現界に居た頃に食ってたら、おそらく泣いてましたね」

「お、大げさだなあ」

 

 ジャージ先生は満更でもなさそうな顔で謙遜をした。

 旨いのは単なる事実だ。でなけりゃ皇女もこんにゃくを食べようという気にはなるまい、と口の中だけで付け足して見やれば、ミラベルも頷いている。また微妙に釈然としない面持ちなのは大口を開けていた件でも思い出しているのだろうか。

 

「毎日食べたら飽きるよ、ぜったい」

 

 照れたような苦笑を浮かべつつ、来瀬川教諭はタオルターバンを解いた。ブラウン混じりの長い濡れ髪が落ち、とりあえず俺はまた想像してしまったビジョンを頑張って思考の外へ追いやる。

 視線を逃がした先、瑠衣がチクワを片手に「けっこう元気だよね高梨くん」などとでも言いたげな顔をしていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 大人しく風呂に入った方が瑠衣の当たりが柔らかくなりそうだったので、俺は女性陣の風呂が終わるまでダイニングテーブルで仮眠し、その後に手早く風呂を済ませて自室の布団で就寝した。決して「けっこう元気」などではなかったので、その間の出来事はあまり記憶に残ってはいない。本当に限界だったのだ。

 

 現在の高梨家は二部屋の居室にそれぞれ二名ずつが分かれて寝ている。割り振りは日によりけりだが、俺が寝室に割り振られることはない。寝室はベッドに二名が寝る体制だからだ。それはさすがに倫理的な問題がある。

 あとはもう一部屋の俺の自室、いや元自室と言うべきだろうか。私物の殆どない空の部屋に二組の布団を敷いて寝ている。ベッドとどちらが良いかは好みだと思うのだが、基本的には俺と来瀬川教諭になる。女性陣の話し合いには参加していないので理由は不明だ。

 

 俺としては廊下だろうと風呂場だろうと寝れる自信があるので、ずっとソファーでも構わないと主張したこともあるのだが、それはさすがに哀れだとされて認められなかった。異界のお嬢さんたちは野宿を知らないので困る。現界人はミラベルだし俺は異界人だが。

 快眠できるかどうかを完全に無視すれば、俺は野宿の方が好きなくらいだ。ごろ寝をしながら星を見るのが好きだし、雨でほら穴などを探して奔走するのも面白がるほどだ。ベランダでも寝れるだろうし、いっそその方が回復するかもしれない。魔力的なものが。

 

 皆が寝静まった未明に目を覚まし、俺は布団の中でそんな取り留めのないことを考えていた。

 がらんとした部屋に布団を並べて寝ているのが来瀬川教諭だから目が冴えている、というわけでもない。単に眠りが短く、浅くなっている。短時間の睡眠に慣れ過ぎた弊害だろう。来瀬川教諭のせいではない。

 別にこの生活がいま始まったわけでもない上、意識されていないのに意識するのもおかしな話で、失礼だという気もする。彼女にとって俺は異様に手のかかる生徒、もしくは年の離れた弟のような存在なのだ。今ならそう納得できる。

 

 来瀬川姫路(くるせがわひめじ)は凡人ではない。

 

 パークの一件や以降の資料室の活動、そしてタンカーでも明らかであったように、彼女は非凡な洞察力と行動力を有している。

 もっと違う形で、より多くの人々のために華々しい場所で働いていても不思議はない。彼女が一介の教師をやるのは不自然で過剰だ。野に埋もれている意味が分からない。

 彼女が芥峰でひーちゃん先生をやっている理由も俺は知らない。ありがたいとしか思わない。しかし彼女がその能力的な余裕から、一般人には立ち入り難い、関わるのが危険な事象にも首を突っ込めてしまう(・・・)のは問題だ。

 やろうと思えばできてしまう能力と、人の好さとが噛み合ってしまうとこういう人になるのだろう。善良であるが故の危うさだ。そのせいでパークでもタンカーでも危険な目に遭っている。見合う報酬も何もありはしないというのに。

 

 そしてそれは、きっと俺のせいなのだ。

 この期に及んで思い上がりだなどと否定はできない。とっくに教師の領分なんて超えているのに、彼女は教師の立場で踏み止まっている。おそらく、俺を学生という範疇に留めるためだけにだ。

 要するに、俺は面倒を見て貰っている。甘えているのだ。彼女の厚意に。

 それで対等な立場になどなるはずがない。

 

 そもそも、対等でなければならない理由はない。

 先生と生徒で困ることは何もないだろう。

 

 そんな風にまとめてしまうと、より浮き彫りになることがある。

 嫌なのだ。実に耐えがたい。

 面倒を見て貰っている自分も、甘ったれている自分も、俺はまったく好きになれない。俺が少年なのはどこかの神のような何者かの仕組んだ都合、魔素で複製されたらしい体の特性なのであって、俺自身は別に少年で居続けたいわけではないのだ。髭を蓄えたダンディな中年になりたい、というのはいまさらな高望みだとしても、せめて来瀬川教諭の隣に対等な男として立ちたい。そんな奇妙で幼い願望がある。

 

 ふと思う。

 もしかすると、かつての高梨明人も同じ心境に至っていたのかもしれない。来瀬川教諭を頑なに名字で呼ばず、あだ名である「ひーちゃん」に「先生」を付けていなかったその理由は、少しでも対等でありたいという形ばかりが先行した子供っぽい反抗ではなかったのか。本当のところは確かめようがないが、そんな気がしてならない。

 

 自然、口から溜息が漏れ出た。

 

 微かなそれは枕と天井の間で霞むだけだったはずだが、俺の意識が再び眠りに落ちる前に、数秒間の沈黙を挟んで声があった。

 

「……高梨くんはまたお悩みなのかな」

 

 来瀬川教諭の声がした。

 首だけ動かして見れば、綺麗に布団に収まった先生の後頭部が見えた。

 それはおかしな話だ。

 彼女は寝相が悪く、だいたいの朝で布団からはみ出している。最初から寝ていなかったのではないだろうか。

 

「起こしましたか」

 

 敢えて、俺はそう訊いた。

 来瀬川教諭にも寝れない夜はあるのだと、なぜだか素直に認められない自分が居た。ふっと笑うような気配がした。

 

「ううん。昨日の夜は……ハードだったからね。なんだかいろいろ思い出しちゃって。最近夢見も悪いから」

 

 すぐには思い当たらなかった。来瀬川教諭が言っているのはタンカーでのことだと、俺にはすぐに分からなかった。

 おそらくハニー・ヴァイキングで見つけた犠牲者たちを指している。たしかにあの発見は少なからぬ衝撃だったし、恐ろしくもあり、到底許せるものでもなかった。納得もしないし忘れてもいない。

 しかし、俺は既に出来事を出来事として消化してしまっている。

 来瀬川教諭と俺では感覚が違う。手を合わせる暇があれば剣を握っている。どちらが正という話ではなく、ただ異なる。死者を振り返って嘆くのも、俺にはあまりない習慣だ。

 振り返るのが恐ろしいとも思わない。そこに俯く大勢の姿があっても、その沢山の手が俺の肩にまでかかっていても。これは常態であって異常ではない。老いで死なない俺はそうなるべくしてそうなっている。千年もそうしていれば尚更。こぼれてしまったものはもう戻らない。そう受け入れている。

 だから余計に、まだこぼれていない、こぼれる前のものに強く拘ってしまう面もあるのだろう。そのどちらが表でどちらが裏かは、もう分からない。

 

「牛乳でも温めましょうか」

 

 だから、俺は男性脳を発揮して解決策を提示するに留める。

 いま安易に理解を示すと、それはきっと嘘だった。

 苦笑の気配があった。

 

「……ミルクペプチド?」

「ですね。効果はあるかと」

「あはは……遠慮しておきます。歯磨きしちゃってるし」

 

 それもそうか、と納得した俺は布団の中で姿勢を変え、こちらに背を向ける格好の来瀬川教諭を向いた。

 話ができるならしたい、とだけ思ったからだ。感覚的にも心理的にも遠い場所にいる彼女の話を俺が聞いてどうするということもないのだろうが、埋められるものが僅かにでもあるなら埋めたいと望んでいた。

 それは決して物理的な距離の話ではない。

 

「そっちに行っていい?」

 

 ゆえに、遠慮がちなその呟きが聞こえたとき、俺は苦慮するはずだった。

 だというのに口は裏腹に動いた。

 

「いいですよ」

 

 予感めいたものがあったからだ。或いは、そうではないはずだと、俺は無意識に目を逸らしていただけなのかもしれなかった。

 来瀬川姫路という人間が思いの外に、脆いものだと。

 

「……えへへ、役得だ」

 

 もぞもぞと動いて布団の中に滑り込んできたその小さな女性は、そんなよく分からないことを言った。しかし、完全に言い訳のしようのないライン。至近距離にある悪戯めいた笑顔の裏に、俺には彼女の無理が見えている。

 来瀬川教諭も人の子であるはずで、家族がいるはずだと思い込んでいた。親兄弟が居て、家に帰れば迎えてくれるはずなのだと。もしかすると違うのかもしれないなどとは想像することもしなかった。

 彼女がこの家に居ることは、自身で言うように大人としての義務感からなのだと半分信じてすらいた。もう半分で、そんな道理があるはずもないと分かっていたはずなのに。

 

「大丈夫ですよ、先生。大丈夫です。俺がなんとかしますから」

 

 両腕で抱き寄せると、彼女は布団の中ですっぽりと腕の中に収まった。そして、ちょっと見たことのないほど狼狽えた顔をして息を呑んでいた。俺も同じく平静とは遠い心地だったが、それはまだ親愛の延長にあって逸脱していない。

 おそらくこれは、遠い昔、泣き止まない妹にしていたことと似ていた。どうすることもできない俺が、それでも妹を安心させようとしたいつかの名残のような行為だった。そこからまたひとつ、俺は過去の残滓を拾い上げる。

 

「……子供じゃないんだけどなあ」

 

 意図が十分に伝わったと思える時間が過ぎた後、彼女は困ったようにそう言うと、額をこすり付けるように俺の胸へと顔を埋めた。

 体格差だけを見れば、来瀬川教諭は本当に収まりがよかった。そして予め線さえ定めてしまえば、腕の中の重みと温もりはただただ心地よく、深い安心感があった。これさえあれば、おそらく俺はどんな荒れ海の航海でも乗り越えられる。なんだってできるのだと確信できるほどに。

 

 しかし、これではどちらがどちらに甘えているのか分からないな――などと自分に呆れて苦笑していると、ぴったりとくっ付いているせいで頭頂部しか見えない来瀬川教諭のかすかな寝息が聞こえてきた。

 実のところ、俺の習得している数少ない魔法の中には誘眠(ヒュプノシス)というものがあり、もし来瀬川教諭があまりに寝付けないのであれば至近距離からこっそり使ってしまおうかとも考えていたのだが、そんな必要はなかったらしい。安心に勝る薬はないということだ。

 

 まあ。

 よかったような、残念なような。

 

 複雑な余韻を噛み締めていると、おそらくシャンプーか何かだろう、バニラのような柑橘のような仄かな匂いがした。ごく稀に来瀬川教諭の傍で感じる匂いだ。普段の距離なら分かるかどうかといった強さだが、今は密着することで明確に分かっていた。しかし今日、別のどこかでその匂いに行き当った気がする。記憶を探るも、俺の魂もすでに眠りの坂を転げ始めていてうまくいかなかった。

 どうも信じ難いことに、俺というやつはこんな状況でも寝れるものらしい。場所を問わない自信はあったが、まさかシチュエーションもだとは。初めて知る己の性質に僅かに驚きながらも、俺の意識は暖かい闇に落ちていく。

 

 明くる朝、どんな顔をすればいいのかはまだ分からなかった。

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[良い点] ぷ…ぷろぽーず……! [一言] やはりメインヒロイン
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