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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
六章 天蓋
263/321

13.烏龍茶か

 あたかも一万年生きるかのように行動するな、とはマルクス・アウレーリウスの言葉。明日死ぬかのように生きよ、はガンジーの言葉だ。

 古今東西の先人達が口を揃えて降り落ちる砂粒を尊べと言うのだ。不思議なことだったが、きっと、いつの世も人は砂を持て余らせているのだろう。その贅肉を落とすのに戒めが必要だとしても、それはそれで幸福なことなのだろうと柊は思っている。

 毎日のように行っていた検査の頻度が週に数度まで減った頃、夜の帳がまるで刃物のように感じられた時期が柊にはあった。時間の歩みに身を削ぎ落とされていくような錯覚をしたのだった。

 その心地はどれだけ日々を尊んでも減じ得なかったし、むしろ失われていく日々の重みを鮮烈にするだけだった。金言が万人の薬になるわけではないのだと、柊は遅まきながらに悟った。

 

 代わりに、日々はただ過ぎゆくもの、人はただ死にゆくものと納得をすれば少しだけ楽になった。そうして時間を軽んじることは麻薬に似ていて、疼痛を緩和して苦しみを消してくれる。どうせもうそんな麻酔しか効かないのだから、そんな言葉だけで日々を埋めたいと願った。麻酔で眠るように夜を越えることでしか、もう、夜の訪れに耐えることができなくなっていたのだ。

 

 

 しかし、今日も病床に収まる白瀬柊(しらせひいらぎ)が夕暮れ時に不機嫌顔である理由は、そういった常の苦しみとはいっさい無関係だ。

 備え付けのテレビでバラエティ番組を流し見ているのも、ただ気を紛らわせているだけで不機嫌の種とは無関係だ。最近よく目にする怪生物特集などは失笑ものではあったが、今日に限って言えばいまひとつ笑えないでいる。

 

 待ち人来ず、である。

 特に約束をしたわけでもない人物を、柊は今日一日待ち構えていたのだった。

 

 服装からして普段着と言えるパジャマ姿ではなく、一度しか袖を通したことのない外出用のセーターやロングスカートを引っ張り出して着込んでいるほどの念の入りようだった。

 考えてみれば、昨日の今日で彼が訪ねて来る可能性の方が低いのでは――と、ようやく思い至ったのは午後も過ぎておやつ時になった頃合いだった。

 柊は菓子を食べる習慣を持ち得なかったが、企てのもとに用意した茶菓子が所在なさげに影を落とす様が、どうも浮かれ過ぎている自分を窘めているように感じられるのだった。

 

「それも浮かれている故なのかしらね」

 

 さすがに茶菓子と対話してしまうほど孤独ではないはず。

 毎日ちゃんと緩和ケア科の看護師や医師と会話はしているはずで、ただ顔と会話の内容が明確に思い出せないだけだった。彼ないし彼女たちは、職業柄のペルソナが厚すぎて個人の判別が難しい。担当医の大橋と専任看護師の黒岩以外は必要性も薄く、あまり記憶に残らない。

 黒岩。この名を思い浮かべると柊は寒心に堪えない。緩和ケア科の師長を務めるというベテラン看護師で、杓子定規という言葉を擬人化したような女性だ。黒縁眼鏡ときつい釣り目が印象的で、その顔がぬっと病室の扉から現れると、柊はいつも暗い気分になるのだった。

 

「……はぁ」

 

 ちょうどその黒岩がやってくる時間帯に差し掛かっていることを思い出し、柊は溜息を吐いた。彼女に服装や茶菓子について触れられるのは憂鬱なので、そろそろ片付けた方がいいだろう。人の訪れに備えようなどと、ずいぶんと先走った愚かな真似だった。猛省しなければ――

 気力に乏しい、まるで軟体動物のような動きでベッドから降り立つ柊だったが、ちょうどその瞬間、病室の扉に控えめなノックがなされた。柊はたちまち顔をしかめる。黒岩だろうと思った。間に合わなかったか。

 

「……どうぞ」

 

 厭わしさの滲む声で招き入れると、スライドドアの向こう。廊下に立っていた人物の姿が露わになった。

 昨日屋上で知り合った、高梨明人と名乗る少年だった。昨日と同じ制服姿で学校帰りと思しい。その姿を認め、柊は自身の口から内臓が飛び出るかのような衝撃を受けた。釣り上げられた魚がそのような状態になると、柊は何かの本で読んだことがあった。

 いや違う。断じて否だ。

 自分は断じて釣り上げられてなどいないし魚でもない。口から内臓を出す意味が分からない。愚かしい動揺をそう打ち消して、柊は呼吸をした。

 それでも先制したのは高梨だった。

 

「こんにちは、白瀬さん。時間帯的にはこんばんはと迷うところですが」

「こっ……こんにち、は」

 

 ぎこちない挨拶を返す柊。一方、高梨は昨日と同じく優しげな笑みを浮かべているのみ。その表情を精神的な余裕と見て取った柊は、自分の体たらくをやや恥ずかしく思った。彼の態度はどう見ても、異性を訪ねて来た少年の浮ついたそれではない。こんなことでどうする。咳ばらいをして、柊は背筋を伸ばした。

 

「……五時くらいまでならこんにちはでいいかと。だいたいそれくらいだと調べたことがあります。人の出入りが多かった頃に」

「へえ。なら、こんにちはで正解ですね。やったぜ」

 

 へらっと笑って小さくガッツポーズをする高梨。

 その年相応さが顔を覗かせる様さえも柊の調子を狂わせる。言葉が続かない。この生き物に対し、どう対応して良いのかが柊には分からなかった。

 が、高梨の方は違っている。彼は目端を利せてこんなことを言った。

 

「今日誰か来てました? ああいや、これから来るのかな」

「えっ」

「急須と茶菓子が出てるのでそうかなと。服もよく似合ってますね」

 

 さらりと言ってのけるのだ。

 柊は後ずさりをした。そしてベッドに崩れるように腰かけ、顔を手で覆う。

 ただでさえ浮かれ過ぎかと恥ずかしくなってきていたところに、待ち構えていた相手本人から言及されてしまった。余裕たっぷりで。

 

「は、あ……どうも」

 

 顔が熱い。子供の頃、祖母に悪戯がバレた時と同じような気持ちと、素直には認めがたい特殊な感情が綯い交ぜになった、実に複雑な心境だった。

 唐突に挙動不審となった柊に、高梨は怪訝そうな顔をした。柊にもおかしなタイミングで動揺してしまっている自覚はあったので、なんとか立ち上がって居住まいを正す。ぐにゃぐにゃになりそうな顔をきりっと引き締め、訊ねた。

 

「あの……高梨さん。それで、今日はどういったご用件でしょうか」

 

 分かりきった話ではあった。

 高梨が昨日置いていったコートは、病室のクローゼットの中できちんとハンガーに掛けられている。彼がどういった狙いを裏に隠しているにせよ、再訪の理由はコートの回収の他には考えられない。

 あ――逆にコートを返してしまうとお互いに口実がなくなってしまう。備えてはいたものの、そこにまで考えが及んでいなかった柊は内心で慌てた。慌てて、慌てる意味を自分でも測りかねた。続く高梨の言葉も。

 

「いえ、今日は特に用件とかはないんです。そういや白瀬さん元気かなって」

「……は?」

「あんなとこで寝てたから風邪でも引いたんじゃないかって、もう心配で心配で。要するに、白瀬さんの様子を見に来ただけです。ご迷惑でしたか」

「え、なんで……ぜ、全然迷惑じゃないですけど?」

「ならよかった」

 

 と、何でもないような顔で笑うのだから堪らない。

 もう柊の思考は追い付かなかった。ただ分かったのは、高梨はここに来るまでにしっかりと段取りを決めている、思い付きで話をしているわけではないのだということくらいだった。でもなければ、コートのことよりも先にこんな言葉は出てこない。

 柊は目と口を細める。

 上気した頬はどうにもならないので諦め、表情だけを変えた。

 どうも、面白くない。高梨のそれは大人の喋り方だ。この先が彼の中でどういった想定になっているのか、それは柊には窺い知れないことだったが、ただ一方的にペースを握られているのはなんとなく、面白くない。

 

「……高梨さん」

「はい」

「お茶を……ご馳走しましょう。昨日のお礼に」

「ははあ。そりゃ嬉しいですね。お言葉に甘えさせていただきます」

 

 呑気に会釈する高梨の前で、柊は用意しておいた高級烏龍茶の袋を取り出した。目にした高梨の顔色が僅かに変わる。

 

「それは」

「百グラム……三万円」

「……ッ!?」

 

 愕然とする高梨の顔をちらりと見上げ、柊はいささか満足する。彼女としては金額がどうというのは興味の薄いところで、単に余裕たっぷりの高梨を驚せてみたかっただけだった。

 ひとまず満足したところで、急須と給湯ポットを使って茶の支度を始める。本来であればネットで調べた茶壷を使った正しい淹れ方を実践してみるところだったものの、道具が足りないので簡易的な手順に留めつつ、柊は種明かしをした。

 

「……昨日の夜、ネットで頼んでおいたの。今日届いたのはお菓子とお茶っ葉だけなので、まだちゃんとした茶器がなくて。日本茶の急須で我慢して頂戴」

「十分では……? にしても、病院でも通販ってできるもんなんだな……」

「病院が用意してる宅配便受け取り窓口があって、送り先をそこに。だいたいの買い物は病院内でできるってことね」

「へえ。知らなかった……ちょっと前に俺もここに入院してたんだけど、殆ど寝てたし数日だったんで、そういうの利用する暇がなくて」

 

 入院?

 ポットの天辺を押し込んで湯を注ぎながら、柊は停止した。高梨は面白そうに急須を見ているばかりで、特に変わった様子はない。

 事情を聞いてもいいものなのだろうか。言われてみれば、高梨の顔色は少し悪いような気もした。

 彼もどこか悪いのだろうか、と心配などをしてみてから、こんな自分が心配するのもおかしな話かと思い直す。心配のされ方はよく知っていても、人の心配の仕方はよく分からなかった。

 

 お湯を注いで一分。

 感心したような顔をして見守る高梨の前で、静かに急須を傾け、湯呑に澄んだ琥珀色の茶を注ぐ。考えてみれば人にお茶を淹れるのは初めてで、まず味見をするべきだったのかもしれなかった。

 しかし、柊は自分よりも先に、湯呑を高梨に差し出そうと決めている。理由らしい理由はない。強いて言えば、白瀬柊という人間にできる最大限が、その一杯の茶くらいだったからかもしれなかった。

 誰に好感を持とうと持つまいと、この先もこれ以上も柊にはない。巷に溢れる恋愛小説のようにはならない。食事に誘ったり誘われたりは当然のこと、出掛ける提案すら柊にはできない。末梢神経の一部が駄目になっていて健康な人間と同じ食事をするのは難しいし、外を出歩く体力も許可もないからだ。

 柊にできるのは慣れない茶を淹れることくらいで、ただ、そういうことをしてみたかっただけだ。一度だけでも。

 

 そんな事情も万感も、重いだけだと了解している。

 高梨には関係もない。

 

「どうぞ」

 

 身を乗り出してサイドテーブルに湯呑を置くと、高梨は驚いたような顔のまま備え付けのチェアに腰をかけた。が、それきり動きを止めてしまう。

 柊は首を傾げた。

 

「……そんなにひどい味ということはないと思うけれど」

 

 口も勝手に動いてしまったので慌てて閉じる。

 この少年相手だと、不思議と気を抜いただけで毒が溢れてきてしまうのだ。ちらりと横目で顔を窺うと、高梨は苦笑していた。

 

「いやいや、疑ってるわけじゃないよ。なんか……勿体ないなと」

「勿体ない?」

「こっちの話。頂きます」

 

 値段のことだろうかと訝る柊だったが、湯呑を手にした高梨は特に遠慮の様子を見せずに茶を飲む。それから感じ入ったような面持ちで、唸るように言った。

 

「おお、美味い」

 

 そんなあるがままの反応がこそばゆいような、安心したような。柊は胸をなでおろしながら自分の茶も湯呑に注いだ。

 普段は味覚異常のために口にするものを限定している柊だったが、烏龍茶が問題ないのは昨日の高梨から貰った茶で分かっていた。

 口を付けた初めての自前の茶の風味もただ清々しく、どこか花のような香りがする。へそ曲がりの自覚がある柊でも、素直に美味しいと感じられた。

 

「うん。さすがは高級品ね」

「自分で茶化さんでも……ああいや、今のも駄洒落とかではなく」

「ふふ」

 

 多少なりペースが乱れた様子の高梨を見やり、柊は小さく笑った。これだけでも待ち構えていた甲斐はあった。

 

「……あまり烏龍茶を飲んだことはなかったのだけれど、こんなに美味しいとは思わなかった。もっと早く知っておけば良かったわね」

 

 それは昨日の高梨の差し入れを指した発言だったが、差し入れた当人は意外そうな顔をした。

 

「そうなのか? 俺はてっきり柊が烏龍茶を好きなものだと思って……あれ?」

「たしかに私の好みには合うけれど……」

 

 初対面で飲み物の好みなど分かるものだろうか。しかも、当人が気付いてすらいなかった好みをとなると有り得ない話であるように思えた。

 高梨の口ぶりも、いかにも奇妙だ。本人すら首を傾げ、今しがたの自分自身の発言がよく分かっていないといった様子で、「誰かと勘違いしたのかもしれない」などと呟く。

 そんなわけない。ようやくぼろが出たと柊は思った。

 

「……やっぱりどこかで会ったことあるでしょ、私たち」

「ええ? いや、ないない」

「そうでもないと勘違いのしようもないと思うけれど……どう?」

「……」

 

 柊としては思い切った踏み込みだったが、高梨は図星を突かれたというより、ただ困惑したような顔をしていた。それだけをもって違うと納得するのは難しかったが、柊も高梨の顔に見覚えがないのは確かだ。

 じーっと再度の観察を行ってみても変わらなかったので、柊はわざと溜息を吐いて切り上げ、流れを変えることにした。

 高梨がしらばっくれているのか、本当に面識があるのか、それとも高梨が一方的に柊を知っていただけなのか。確かめる術はないし、確かめる意義もない。そこに何らかの縁があったとしても悪いことはない。

 むしろ嬉しいのかもしれなかった。

 

「まあ、いいわ……お茶が美味しいから勘弁してあげる」

「はは……そりゃどうも、何よりで。ああ、茶菓子もありますよ」

「あなたが用意したものではないでしょうに……よかったらそれもどうぞ。沢山あるから、好きに食べて頂戴」

 

 サイドテーブルの上に置かれた漆塗りの菓子鉢には、これも昨日のうちに柊が見繕った甘い粒あんのパイ饅頭が盛られている。

 差し入れの意趣返しである烏龍茶とは異なり、明確な理由のあるチョイスではない。柊がなんとなく妥当かと思ったに過ぎない品だったが、よく考えてみれば男性の歓待に甘い菓子は失敗だったかもしれない。

 

「明人の口に合えばいいのだけれど」

 

 一抹の不安が、口から勝手に溢れた。

 何故か、ちょうどパイ饅頭の個包装に手を掛けていた高梨は目を瞠った。心底驚いたという面持ちで柊を見詰める。心当たりしかない柊は首を縮めるのみだ。やはり辛党だったのか――

 しかし、高梨はすぐに微笑を浮かべて言った。

 

「合うよ。甘いものが好きだから有難いくらいだ」

「そ……そう? よかった」

 

 個包装を切って一口で饅頭を平らげる高梨は無理をしている様子もなく、さっきの間はいったいなんだったのかという疑問は残りつつも、とりあえず柊は再び胸を撫で下ろした。

 高梨の来訪からまだ十数分しか経っていない。お茶を飲んでもらうだけだというのに、柊の情緒はもう大忙しだった。高梨のペースであろうとなかろうと、自分の胸の高鳴りに振り回されるのは変わらない。けれどそれは自然で、とても楽しい時間だ。

 

 少なくとも、夜の訪れに気付かないほどには。

 だったらいいか、と柊は思う。

 

 あたかも、明日死ぬかのように生きても。

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