07.パスファインダー③
桜田門。警視庁の通信指令室は前年からの移転作業の関係で一時的に余剰が生まれていた。まだ設備の撤去されていない前通信指令室が放置されていたのだ。それを公安部として確保したのがつい先週のことで、永山が前通信指令室に足を踏み入れるのもまだ二回目だった。
警視庁公安部第三資料係資料室。略称、資料室は特異な部署だ。人員は最低限。前通信指令室にも通信要員が一名、交代で常駐しているのみである。数十名が収まる規模の指令室内にポツンと数台のモニターが点灯しているような有様で、永山は思わず嘆息する。
他にしようのないことではある。公安独自の不明災害対策部署として新規発足したこの資料室は、その活動実態について上層部の限られた範囲の承認しか受けていない。当然のことだ。秘密裏に、ましてや民間協力者に害獣駆除をやらせている。そんな実情を公にできるはずがない。所詮、資料室は永山が個人的にねじ込んだ組織にすぎないのだ。今はまだ、使える予算にも権限にも限りがある。
「桧川君、おおとりから連絡は?」
声を掛けると、モニターの薄明りの前にあった人影が顔をあげた。
桧川絵里。まだ若い警官だ。内勤希望のノンキャリア組から引っ張ってきた。どうも強い癖のある人物で部署をたらい回しにされていたらしいが、経歴のクリーンさ、面談時の理路整然とした語り口を見込んで引き入れた人材である。その桧川は永山の問いに首を振った。
「ありません。コールは続けておりますが」
暗闇を背にした桧川は、本人の血色の悪さ、無表情さもあってか幽霊のような印象がある。永山は眉間を押さえた。色々と言いたいことはあるが。
「電気くらい点けたらどうかね」
「小官ひとりのためにですか」
「目を悪くするだろう」
「世論に反します」
なんだそれは。知ったことではない。
永山は入口脇の電灯スイッチをすべて弾いた。前通信指令室の照明が全点灯し、がらんとした指令室内に白光が満ちる。それから桧川のデスクまで歩きながらスマートフォンを操作した。
十数分前、千葉沖に派遣したヘリコプター、おおとり9号との連絡が突如として途絶した。航空隊の管制も原因を把握しておらず、情報は何もない。おおとりがまだ飛んでいるかも定かではない状況だ。
事故か故障か。それとも別の原因か。
おおとり9号を喪失した可能性も考慮しなければならない。
「不災対経由で海保に捜索を要請。あと、大判に絵を出してくれ」
端的に支持すると、桧川の操作で指令室中央の大画面に地図が表示された。指示していなくとも、付近を飛んでいた航空機の飛行計画が反映されている。桧川の機転だろう。おおとりの経路がどれとも重ならないことを確認し、永山は腕組みをした。
「海上は?」
「付近に考慮すべき船舶はありません」
「ハニー・ヴァイキング以外、か」
「駆逐艦も除きます」
永山は頭を抱える。
「迂闊だったか。おおとりを踏み込ませ過ぎてしまったな」
不明災害――高梨明人が翼竜と呼ぶ害獣の駆除を優先し過ぎたかもしれない。一刻も早く人的被害を抑えるためにと無理のある即応体制を組んだ。そのツケが回ってきたのかもしれないと思った。
「状況から考えれば、駆逐艦がおおとりを撃った可能性がある」
「誤射ですか」
「仮にそうでも向こうは認めないだろうがね。互いにオフィシャルな動きではない。問い合わせても黙殺が関の山だろう」
「なるほど」
桧川は無表情のまま目だけを明後日の方向へ動かした。
「ではケツまくって逃げますか」
「何処にだね」
「ハワイに縁戚がおります」
永山は苦笑し、スマートフォンを操作して外交筋の伝手を呼び出した。コールはしているものの、時間帯もあってか連絡がつく相手は少ない。そんな永山を横目で窺っていた桧川は、僅かに首の角度を傾けて問いを投げた。
「小官には不思議です。どうも管理官には余裕があるように見えます」
「そうかね?」
「どう考えても、おおとり9号の喪失は命取りでしょう。突き上げを食らいます。管理官の首が飛ぶだけでは済まないのでは」
もっともな疑問だが、その認識は様々な間違いを含んでいる。
正しておく必要がある。永山は口を開く。
「桧川君。資料室で損失が許されない財産は我々要員でもおおとり9号でもない。おおとりの積み荷だけだ」
桧川は積み荷の実態を知らされていない。
対外的に、おおとりには氷室准教授が開発した重力波観測干渉器、天秤の発展型と、その運用のための人員が搭載されていることになっている。
法的、倫理的に大きな問題を孕む真実――民間協力者の存在を知っているのは、当事者たちを除けば永山とその上司のみだ。決して明かされることはない。
「資料室は数千倍の予算を食っている不災対と比べても、まったく比較にならないほどの大きな成果を上げている。これまでの分だけでもだ。おおとりを何十機潰しても釣りがくる。公になっていないだけで、その成果だけは正式に承認されている。飛ぶとしても私の首だけに収まるだろう。安心したまえ」
表情を変えないまま頷く桧川。
永山は「それと」と付け足す。
「私は何人分かの弔辞を述べる覚悟で資料室を立ち上げたし、おおとりは高価だが替えが効く。あの積み荷が簡単に壊れるとも、私は思っていない。積み荷の確認と回収が最優先だ。他の心配はいらない」
「……なるほど」
言い切ると、桧川はやはり無表情で頷いた。
「小官は管理官がそこまで腹を決めていると思っていませんでした」
「そうかね」
「情熱家だとも。奥方に逃げられたと伺ってます」
嘆息する。
婦警というのはどうも噂好きでいけない。
「……昨今珍しい話でもないだろう」
「いえ、その熱を私生活にも発揮できなかったものかと愚考した次第です」
永山は無言で睨むが、桧川の頭は既にモニターの陰に隠れている。人格面に問題がある。道理でたらい回しにされる筈だ。苦虫を噛み潰していると、コールを続けていたスマートフォンが通話を接続した。
相手は官房の伝手である。油断はならない。一拍を置いて意識を作り、永山は口火を切った。
「室長、遅い時間に申し訳ございません。喜嗣です。ご無沙汰しております」
『あー、うん。久し振りだね』
「お休みのところ恐れ入りますが、折り入ってご相談があり……」
『前置きは良いよ。千葉沖の話でしょ』
電話の向こうの男は、軽い調子で言った。
把握されていることに対して、永山に驚きはない。相手の職務からして、逆にそれくらいはしてもらわなければ永山も困る。
『で、何が知りたいの』
「駆逐艦の動向を貰えれば。初報以降、本店にも情報が来ませんで」
『……高いよ?』
「後日、ご自宅にお送りします」
『職場にしてくれると嬉しいな。ウチには帰ってないんだ』
笑い声が響くが、永山はそれを冷めた心地で聞いていた。気配が伝わったか、男は咳払いをして声を潜めた。
『向こうさんが言うには、米海軍艦ズムウォルトは千葉沖で座礁したんだそうだ。航行不能だとさ』
「は?」
軍艦が沖で座礁? 素人でも信じない話だ。
「鵜呑みにされたんですか?」
『馬鹿言いなさんなって。そんな程度の低い仕事はしないよ』
男は一笑に付した。
『ズムウォルトは例のタンカーに部隊を送り込んだらしいんだがね、どうも反撃を受けたようだ。艦の電装が全部やられたって話もある』
電装。電子装備を指しているのだろう。
思いもよらない角度の話だ。現地の状況がまったく想像できず、永山は氷室や姫路の不在を呪う。
「電装……だけをですか? 不可解な話ですね」
『そうね。でも電装やられた近代艦は悲惨でしょ。航行不能どころか通信もままならないんじゃないかな。火器使用なんてもっての外だね。きみ、そこを聞きたかったんでしょ』
「ええ、まあ……」
米国側の主張が事実なら、駆逐艦は無力化されていると考えていい。駆逐艦がおおとりを誤射したという線は消えた。
しかし、ハニー・ヴァイキングから離れた位置に居ただろうズムウォルトの電子装備だけを破壊する手段など、本当にあるのだろうか。常識的に考えればそんな手段など存在しない。だが、常識など既に富士の遊園地で死んでいる――
思惟に沈みかけていると、男が言った。
『例のタンカーさ、沈んでくれた方がいいかも知れないよね。あれに何が乗ってるか分かんないけど、皆が困りそうだもの』
含みのある口調だった。「やれ」とも「できるか」とも言わない。しかし言外に何かを望んでいる。
こういった駆け引きはままあることだ。永山は端的に返事をした。
「検討します」
『うん。よろしくね』
満足げな返事だったが、永山としては少々気に入らない流れだ。取引の勘定が釣り合っていない。とはいえ、相手との関係を崩すほどでもない。
「ありがとうございました、小比賀室長。例のものはご自宅にお送りします」
『ぐっ……』
「できればもう少し家に帰ってあげてください。瑠衣が可哀想ですよ」
答えは聞かず、永山は通話を切った。
多少溜飲が下がったものの、目の前には朗報とも悲報とも言えない情報と厄介な課題だけが残されているだけだ。永山はやはり苦虫を噛み潰すばかりである。
しかし、駆逐艦に撃墜されたのでなければ、おおとりはまだ飛んでいるのかもしれない。不確かな希望だったが、まずはそう信じなければ成るものも成らない。
そうだ。損失が許されないのは要員でもおおとり9号でもない。彼らを失えば、おそらく、本当に何もかも終わりなのだから。
***
照明が消え、異音が響いていた。
「うん……たぶん、電磁パルス攻撃みたいなものだと思う」
闇の中、来瀬川教諭が推測を事もなげに披露するのを、俺は至近距離で呆然と聞く。彼女が膝の上に置いていたタブレット端末――見るも無残に破裂した残骸を摘まみ上げ、「これはバッテリーが粗悪だったのかも」などと言うのも、頬に小さな切り傷があるので痛々しい。
いや、未だ衝撃の冷めやらぬ俺は冷静でもなかったのだろう。
血濡れでいながら冷静である彼女の異様さ。負傷の確認と手当。様々な問題が山積していたが、最大の問題は俺たちの乗るおおとり9号の機体が大きく傾ぎ、異音を発していることなのだ。
墜落すれば絶対に全員死ぬ。
「――落合操縦士ッ!」
俺が叫ぶや、機体の姿勢が平行に回復した。だが安定はしない。どこかぐらつくような飛行。機体の故障は明らかだ。通信用のヘッドセットも機能していないので放り捨てる。
「すみません、意識が飛んでいました!」
操縦席から緊迫した応答が返ってきた。
何が起きたのか。機体がどの程度の損傷を受けたのかは門外漢の俺には分からない。そんなものは後回しだ。
「陸まで飛べそうですか!?」
返答がない。異音は依然として響いている。
主機の音の調子が狂っているのだ。とてもではないが小一時間も飛べるとは思えない。
かといって海上に降りる選択肢もないように思う。遭難や漂流以前に、無事に着水できる気がしない。が、そんなことは専門家に言うまでもないだろう。
どうする――
「タンカーに降りるしかない」
来瀬川教諭の声が淡々と告げた。
ハニー・ヴァイキングまでなら飛べるかもしれない。彼女が言わずとも、落合操縦士も同じ考えだっただろう。
しかし、俺はここに至って間近となった気配に嫌なものを感じている。千年前の記憶が否が応でも蘇る。そんなものが、近くに寄ってきている予感がある。




