05.パスファインダー①
船体を縦断するパイプラインに沿い、情報局員シーワイズは甲板上を全速力で走る。甲板の先、船首部分の上空に待機する輸送ヘリの下までだ。
もしも幸運に恵まれて生きてヘリに辿り着くことができたなら、この船を生きて降りることができる。
でなければ、たとえ生還が絶望的でも漆黒に波打つ海へと飛び込んだ方がいくらか人間らしくは死ねるに違いない。シーワイズは疲弊した頭でそう考える。
中東アメリカ間で運行される石油タンカー、ハニー・ヴァイキング。
夜闇に浮かぶ五十万トン級のこの大型タンカーは、いまや人間の屠殺場と化している。まるで出来の悪いスプラッター映画であるかのように大勢が死に、そこかしこの壁や床にへばり付いて異臭を放っている。
航海中に行方をくらませたこのタンカーが太平洋の公海上で発見されるやいなや、シーワイズたち情報局特殊作戦群の即応チームが現地に送り込まれた。
重力変動が観測されたからだ。重力変動は地球外文明、情報局では異星と仮称されている侵略者の活動痕跡である。テレポートで地球上に投入されているという侵略者の飛行型生物兵器は徐々に被害を拡大させつつあり、いまや各国が秘密裏の対応に追われている。情報局もその対応を行う機関のひとつだ。
当初はシーワイズも半信半疑だった。
悪い冗談のような話だが、冗談で局は動かない。
タンカーは無傷で、無人だった。生きている人間という意味では。船内にはむせ返るような腐屍の臭いだけがあり、五十余名の乗員は例外なく平面上にこびり付く痕跡になっていた。
そして、当初は飛行型の関与を疑っていたシーワイズは、ここで自分たちが前提を間違えていることを悟った。
痕跡がタンカー内部にも残っていたからだ。象ほどの体躯を有する飛行型生物では、タンカー内の人間を殺傷することなどできないはず。気付いたちょうどその頃、チームは船内の闇の中でそれと遭遇した。
それは人の姿をしていた。
古代の神官のような、奇妙な服装をしたコーカソイド系の女に見えた。
少なくとも人間には見えた。
小銃のタクティカルライトに照らされた女の姿を見たシーワイズは、生存者の発見を無線で報告してしまったほどだった。
しかし次の瞬間には、女を保護しようと近寄った同僚が床にぶちまけられるのを見る羽目になった。
まるで人間を頭からひき肉機にかけたかのような有様で、女が素手でそれをやったのだと認識する頃には、シーワイズは腰だめに発砲していた。
彼には八年の軍務経験があった。一見して無害に見える罠には慣れていた。人の形をした爆弾にもだ。無意識下の対処だった。
だが女は、異星の飛行型と同様に小銃弾を受け付けなかった。悪夢のような白い手を伸ばし、逃げるシーワイズの目の前で鋼鉄の開閉扉を左右に引き裂いてみせた。
女が一歩足を踏み出すたび、床の鋼板がひしゃげる音がした。シーワイズは女が秘める質量を実感して戦意を失った。あれは見た目通りの生き物ではないのだ。中に何かが詰まっている。莫大で異質な何かが。
無線機に叫びながら逃げた。順繰りに殺戮されていく隊員の悲鳴を聞きながら、撤退と支援要請を本部に叫び続けた。
もしも敵が人型の生物兵器を新たに投入してきたのなら、もはやタンカーごと沈める以外に対処法がない。
情報局が関知する限り、空軍ですら飛行型の殺傷実績がないのだ。いずれも撃退に留まる。タンカーごと海底に沈めて葬る以外に手はない――
そうして、シーワイズは甲板の上を走っている。
勝つためでなく生き延びるために。
しかし、ヘリの下に至るまでの空間。
船首までの数十メートルの途上、物陰から人のシルエットがぬっと生じた。
――奇妙な服装をした女。
「駆逐艦に攻撃させろ! 今すぐだ! 俺たちは戻らない!」
無線機に怒鳴り、パイプラインの陰に身を隠しつつ小銃を連射した。銃弾を弾き、青白い火花を散らしながら、神官のような出で立ちの女はゆっくりとシーワイズへ迫る。
確実な死を前にして、兵士はいまや冷静だ。
女。異星の新型についての情報は、局員たちが装備しているマイクとカメラによって本部に伝わっている。光学映像は異星の迷彩技術によって使い物にならないかもしれなかったが、人型であるという最重要情報と大まかな外見が伝わっていればそれでいい。それ以上を望むのは、もはや高望みだ。
だが。
弾を吐き出し尽した愛用のブラックライフルに予備弾倉をねじ込みながら、シーワイズは己を鼓舞する。
この化け物の数分を、兵隊一人。シーワイズの命で引き受けられるのなら、全体としての勘定は悪くない。僥倖とさえ言える。あとは味方の砲撃なり敵の手なりが己を食い破るまで、一つでも多く敵の性能、弱点を引き出すのだ。恐怖する時ではない。
「お前の弱点はなんだ、異星人――」
パイプライン越しに女の顔へと小銃の照準を合わせ、シーワイズは引き金を引き絞ろうとした。しかし、
「小賢しい」
女の唇が動き、人語を紡いだ。
そのたった一言で、シーワイズの指は止まった。
未だかつて、異星との間にコミュニケーションが成立した前例などなかったからだ。ただ襲い来る怪物ばかりを寄越していたこの地球外文明の侵略者たちが、地球上の言語を解しているという事実。
このひとつで、死にゆくシーワイズの命を遥かに上回る価値がある。
戦慄する兵士へ、異星の女は言う。
「わからん。なぜおまえたちはそのように小賢しいのだ、遠き地の定命の者。戦士かと思えば……筒を組んだ投石器などを向けてくる。敵わぬとみればすぐに逃げる。つまらぬ。まったく理解に苦しむ。小賢しくてつまらぬ」
こいつは――何を言っている。
英語を喋っているくせに、まったく意味が分からない。
本当に言葉の意味を理解しているのか?
しかし、シーワイズは激情を飲み込み、職務に殉じた。
この接触は大勢を左右する。個人的感情は殺さなくてはならない。
「こちらに……我々に争う意思はない。あなたがたの要求を教えてほしい。我々には話し合う余地がある」
語りかけてはみたが、会話が成立するかは疑問だ。
噛み合わない方がまだいいのかもしれない。そんな予感に乾いた唇を舐める。
しかし、女は応じた。
「ほう、余地があるのか。なぜそう思う。おまえたちが我らの何を知る」
やはり言葉を解している。
焦燥は押し殺し、交渉の要求を繰り返す。
「知らないからこそ、我々のあいだには互いの理解を進める機会が必要だ。話し合いの場を……」
「これはこれは……はっ。なんと増長したものか。己らにそのような権利があると思うのか。おまえたちのことはなにも知らぬが、どうやら勝てぬようだから、とにかく矛を収めて話をしてくれ、と。ははっ、なんだそれは。そのような要求が通ると思うのか」
「それでは蛮人の理屈だ……!」
シーワイズは怒りによって銃把を握り込む。
意思疎通が叶っていないのならともかく、言葉が通じた上で、こんな一方的な理屈で攻撃をしてくるなどと俄かには信じ難い。
星を渡るような技術を持つ高度文明が、ここまで短慮だなどということがあっていいのか――
表情らしい表情を浮かべないまま、女は言った。
「我らが望むはただひとつ。死ね。悉く。おまえたちがその過程をどう変えるにせよ、我らの知るところではない。死ね。戦って死ね。そのつまらぬ賢しさで我らを興じさせられるというのなら、せいぜいにそうしてみるがいい」
「……クソめ」
義務は果たした。
実質上の宣戦布告を受けた。
この異星人に交渉の余地はない。今度こそシーワイズは発砲した。
女はやはり銃撃を意に介さず、緩慢な動きで歩み寄る。
異星の技術。銃弾を防ぐ力場、慣性を抑止するような未知の要素があるのは、飛行型に対する数多の報告で判明している通りだ。その防御性能は誘導弾の直撃をも凌ぐという。
だが、無限ではない筈だとシーワイズは考察する。原理は不明ながら、それが防護機能なのであればなにか、動力源やエネルギー源がある筈だ。それが尽きるまで撃てば、或いは力場を突破できるかもしれない。ましてや、飛行型よりも小型であるこの人型ならば、飛行型よりもエネルギーの総量が劣る可能性もある。
「クソッタレのエイリアンめ!」
しかし、再び弾倉を空にしたシーワイズは、変化なく寄ってくる女に罵声を吐いた。小銃の予備弾倉はもう無い。答え合わせの機会も、もう永遠に無い。
それでも、男は人間として最後まで抗うことを決めている。この相手には気休めにもならない拳銃を抜き、盾としていた鋼管からも身を離し、女に向けて発砲しながら前進した。
「戦って死ねだと!? 化け物風情が偉そうに!」
小口径の拳銃弾も当然のように弾きながら、女も前進する。
交錯。距離がゼロになる瞬間、シーワイズは弾の切れた拳銃を捨ててハーネスからシースナイフを抜いた。
自棄ではなかった。銃弾、爆発物の効果がなくとも、異星の力場がそれらに対してのみ効果が発揮されている可能性も皆無ではない。万に一つもないその可能性を検証し、潰しておく。後に続く者のために。それに、激しく沸騰した怒りを直接ぶつけておかなければ気も済まなかった。
そして、逆手で突き立てられんとしたナイフの切っ先は、
少なくとも外見上は女に見える異星の生物の肌には達しなかった。
女は初めて見る行動をしていた。
ナイフを持つシーワイズの手を掴み、万力のような膂力で防いだのだ。
防御。いくら銃撃されても見せなかった防御反応を、した。その意味をシーワイズが推察するより早く、女は目を細め、嬉しそうに笑った。
「やればできるじゃあないか」
笑って、空いた手でシーワイズの頸動脈を無造作に引き千切った。
致命の損傷を受けた男が膝からくず折れるのを、女は腕を掴み続けて阻止する。ごぼごぼと吹き出る命の赤を至近に見ながら、女は言った。
「おまえに僅かばかりの敬意を表しよう、遠き地の者。この光輝なき地、この臭くてかなわぬ鉄の船で、おまえだけが戦士だった」
シーワイズの手からナイフがこぼれ落ち、甲板を転がる。
彼は既に事切れていた。
「肉にはせん。形を残すことを許す」
男の最期を見届けると、女は手を離した。それきり死体には視線を送ることもなく、ゆったりとした足取りで甲板の上を歩く。
男が連絡を送ったと思しき別の船から、何らかの攻撃が来るだろうことは分かっている。古風な火砲か、或いは原始的な誘導弾だろうとも見当を付けている。有視界の間合いでもないはずだ。
であれば、この地の定命の者が好んで用いる電磁放射の波を欺瞞すればいくらでも躱せるのだろうが、手間だ。いつまでもというわけにもいかない。
「なかなかどうして煩わしい……渡し船が目立ち過ぎたか?」
基底大地の海も広い。陸地まではまだ少し距離がある。歩くのは億劫だ。空間的な魔素の欠乏が酷く、短距離の渡界もできない。
女は未練がましく船の上空に留まり、効果が無いと分かっている筈の銃撃を繰り返している回転翼の航空機に目をやった。「疾く失せればよいものを」呟き、あらためて状況への対応を検討する。
ふと思いついて、無造作に指を弾いた。電磁の波が放たれ、それに当たった回転翼機が内から火花を散らす。途端、触角を失った羽虫の如く、ひとりでに回転しながら落ちていった。
「……まあ、このような仕掛けがほどよいか」
ぱん、と両の掌を合わせて出力を上げる。大気の絶縁を超えた余剰分の力が雷光となり、周囲を覆っていく。それから早々に海上の走査を終え、大雑把に見当を付けた標的の方角に向けて手をかざした。
そうして、練った力にある程度の指向性を持たせる。周辺すべてを薙ぎ払ってもよかったが、渡し船が故障するのは好ましい事態ではない。歩くのは本当に億劫なのだ。
「鉄の機構などを頼るから、粒子の波動なぞで無様を晒すのだ。つまらぬが、此度はおまえたちの流儀に合わす。波動とはこう使うのだ」
女は仕掛けを雑に解き放つ。
帯電した海が白く発光し、直線状の線となって一瞬だけ伸びた。直後、熱で蒸発した海水が蒸気となって噴き上がる。
変化はそれだけに留まった。
いっそ的が派手に爆ぜてくれれば一興だったが、さすがにそこまで脆くはないだろう。夜闇の彼方に目を凝らし、わざわざ鉄くさい船を探すのも風情に欠ける。
やはり、的撃ちに趣きを見い出すのは難しい。女は顔をしかめる。それにしても、まさか反撃のひとつもないとは。
まあ、いい。
この地の定命の者の戦術は分からないまでも、さすがに、陸地に達するまでには後詰めが来るだろう。的も死に体ながら食い下がってくるやもしれない。
それまではこの渡し船で戯れておくのも悪くない。さしあたって書のひとつでもどこかに転がっていれば重畳だが、さて――




