03.改変③
白瀬柊が地方の病院から中央、芥峰の大学病院に移ってきたのは二年ほど前のことらしい。以来、彼女はずっと病室にいる。年頃として同年代であるように見える彼女の来歴がそうなのだとしたら、これまで学生をやるのは到底不可能だったろうし、この先の目途もないに違いない。そもそも日常生活への復帰を前提とした扱いではない。病状がその段階にないのは明らかだが、永山管理官――公安経由で得た情報はそこまでだ。
富裕な家でありつつも後ろ暗いことのない一般家庭について、公安警察が把握できる情報などはそう多くないらしい。それはそうだ。職務に関係がない。この簡単な経緯ですら役所と病院に問い合わせたに過ぎないという。
だとすると、柊の家族には高梨や小比賀であったような家族間の重大なエラーはなかったと考えられる。少なくとも表沙汰にはなっていない。
だからといって幸福かといえば、それはまったく別の話だ。年単位の治療を必要とするほど娘が臥せっている家庭が幸福であるはずがない。高梨や小比賀とは別種の苦難であるだけで、白瀬一家も薄幸と言える。
「……お労しいことと思います」
同感であると明確に口にして、異世界の皇女ミラベルは目を伏せる。
彼女の態度にはいくつかの意味合いがあるように思う。現界ではこの世界、つまり異界ほど医療技術が伸びていない。いや、伸びていないというと語弊があるかもしれない。伸びた方向が違うのだ。
魔素が極端に少ないこの世界とは異なり、現界ではあらゆる技術に必ず魔素――魔術が絡む。魔力使いの数が限られているとはいえ、才能ある者によれば手順を踏んだ祈祷は効果を持つし、特定の文字や文章にだって力が発生するような有様なのである。
故に、疾病への対処も同様だ。極端なことを言えば、病人に魔術をぶち込んで体の抵抗力を賦活させ、早期の快癒を促すなどという乱暴な治療ができてしまう。抵抗力で快癒しない感染病以外の疾病は外科的に病変部位を切除して治癒術により復元、あるいは代替させるという再生医療の方向へ向かっていった。
この極まった対処療法である程度は事足りるのだから、内科学、薬学が高度に発展するはずもない。そもそも、医療技術の基盤となる科学ないし化学技術だって錬金どまりなのだ。異界とは様相がまるで異なる。
そんな現界基準の感覚を持つミラベルからすれば、臥せった病人に器機を繋ぎ、体を切り縫いして辛うじて生かし続けるという処置は異様に聞こえるのだろう。或いは残酷とすら捉えるのかもしれない。世界観、死生観の違いだ。
それに、生命の福音である彼女への敬意もあるか。
残りは単純に、死病に瀕している者への同情だろう。ミラベルは未来の柊――アリエッタと顔見知りだ。やがて彼女が戦争状態にある隣国の臣となる身であろうが、そんなものは今の柊と関係がない。吸血姫などと呼ばれていても、それは外面であってこの皇女の本質ではなかった。
「本当にそうだね」
ミラベルの様子をじっと見ていた、同じように沈鬱な顔をした瑠衣が相槌を打った。瑠衣がはっきりと感情を見せる様にはやはり違和感が拭えない。それ以前に、ミラベルに対してなにか含むところがあるようにも見える。まだあまり打ち解けてはいないということか。
授業も終わり、放課後。芥峰の大学病院に備えられた真新しいラウンジでテーブルを囲う俺と二人の間には、そんな重い空気が漂っている。簡単な事情説明ですらこれなのだから、あまり深く伝えるのはやめた方がいいのかもしれない。彼女たちに負担をかけるのも本意ではない。
思案していると、瑠衣が首を傾げた。
「じゃあ、これからその白瀬って人のお見舞いに行くんだね」
「いや」
「……え、違うの?」
「面識がない。見舞う理由がない」
ぽかん、と瑠衣の口が開いた。知り合いでもなんでもない人間の身の上を説明したということになるので、その反応でまったく正しい。
決して無駄話ではないのだが。
「だったらなんで病院なんかに来たのさ……」
「お前の再診だよ。忘れてたろ」
「あー……」
そういえば、といった顔で瑠衣が頬を掻いた。
少し前に倒れた瑠衣は、この病院で診察を受けている。異状らしい異状はなかったが、その時に医者から経過観察のための再診を言いつけられていた。なんでも、血液検査で血色素量の低下が認められたのだという。つまり貧血だ。あまり良い食生活をしていなかったらしい。
食に重きを置く我が高梨家においてそんな失態は有り得ない。充実した食事を提供しているので再診で問題が出ることはないだろうと思っている。とはいえ、医者の言うことは聞くものだ。
「悪いけど付き添ってやってくれ」
「はい、お任せください」
にっこり頷くミラベル。
外出にも異界にも不慣れであるこの皇女殿下が付き添いの人選としては不適当なのは間違いないが、無貌の神への対策として考えると他に任せられる人物が居ない。「招き」を阻止する能力は精神的な効果の福音を持つミラベルにもないだろうが、事情を理解していて報告連絡が可能となると資料室の大人三人かミラベルしか居ない。が、大人組はまだ仕事中である。
それに、無貌の件以外にも気になることもある。ミラベルから聞いた話だが、瑠衣の近くに不穏な気配があって尾行したところ、襲撃があったのだという。異界側の兵らしき者だったというのでミラベルが穏当に対処したそうだ。脅威ではないし、いまのところ一度のことだったので確信はない。因果関係も分からない。にしても用心は必要だ。吸血姫なら盤石である。しかし、この件も永山管理官に問い合わせる必要があるか――という思考に到達したところで、瑠衣が思い当たったように目をこちらに向けた。
「あれ? それじゃ高梨くんはどこへ行くの?」
どう表現したものか、と僅かに考える。
代わりに応答したのはミラベルだった。
「つまり、白瀬さんと知り合いに行かれるのでしょう」
「……そういうことになるか」
「難儀なことですね」
「ああ。どうしたもんかな、ほんと」
柊の未来を変えるにせよ変えないにせよ、話をするとは決めてしまった。
本来なら俺が柊と初めて会うのは現界でのことだし、当時は確実に初対面の反応だったと記憶している。その彼女が現界に招かれる前の時点で俺と知り合うとなると、やはり未来にある程度の影響を及ぼすように思う。
だが致命的ではない――はずだ。
誤差に収まる範囲ではないだろうか。
そう納得しなければ前に進めない。なら、そう納得して進むしかない。
以前、俺は未来を変えようとして失敗している。死ぬ運命にあったアニエスという少女を結局、助けることができなかった。変えようとした俺の行動さえも過去は織り込んでしまっていたのだ。
今回も同じことになるかもしれない。そうなっていない保証はどこにもない。
だとしても、何もしないのはそれこそ無理だ。来瀬川教諭に後押しされたのもあるが、やはり俺は手を出してしまうのだ。
どうも剣の福音が強まってから奇妙な感覚がある。そうして欲しいと、どこか遠い場所から、誰かが、祈っている。そんな声が聞こえる気がする。
***
時折、すべてが夢だったのではないかと疑うことがある。
此処ではない遥かな場所。父祖から受け継いだドーリア王国。その王だったルカという少女は幻想で、小比賀瑠衣という異界に生まれた少女が見た夢想ではなかったか。
身体の持ち主である瑠衣として生活をするにつれ、ついそんな想いに駆られる。瑠衣の生きた十七年の人生はあまり明るいものではなかったが、ルカの負った重責と苦難とは比べるべくもない。異界はあまりに平穏が過ぎる。幸福に満ちているとさえ言える。
此処は楽園だ。
人は満ちて富み、民は自由と平等を謳歌し、市井にすら豊かな食物と清潔な水が溢れている。世に戦乱はなく、子は死なず、苦役もなく、剣は遥かな昔に廃れた。善政の極地のような世。だというのに、この国は東の僻地。ごく小さな島国だという。驚嘆の他ない。
無論、それらが長い苦難の歴史の産物だと弁えてはいる。しかし、王国があと千年かけても此処に到達するとルカには思えない。法や技術、統治機構。知れば知るほど絶望する。此処と比べれば、王国など国家ごっこと言ってもいい。血統による君主制のどれほど未熟なことか。賢王などと、笑い種にもならない。
いっそすべてが夢であったならどんなにいいか。
そんな捨て鉢な心持ちになりながらも、ルカが呑まれないでいられるのは環境のおかげだ。
「どうかされましたか?」
「あ……」
銀糸の如き髪がさらりとこぼれ、ルカは意識を現実に戻した。高梨明人が去り、ひとりの少女だけがテーブルを挟んだ向こうに在る。
ミラベル・ウィリデ・スルーブレイス。高梨明人からそう紹介された皇国人の少女だ。同居人でもある。
初めて対面した瞬間、なにかの冗談かと思って一笑してしまった。次いで、企みを疑った。なぜならミラベル・ウィリデ・スルーブレイスは敵国たるウッドランド。その皇統に連なる、れっきとした皇族――しかも、転移街アズルで竜種を撃破し、王国最大の戦力である生命の福音アリエッタをも退けたという剣の福音、夜明けの騎士の主。悪名高き吸血姫という大敵だからだ。
訳が分からなかった。いよいよ己が身に起きていることを口外するわけにはいかなくなったとも思った。
ひとまず小比賀瑠衣の記憶を利用し、瑠衣として状況の把握に努めることにしたルカだったが、聞けば聞くほど混乱した。皇国は――というより、皇女らを中心とした小規模な勢力だったようだが、信じ難いことに異界との往還を可能とする門を保有していたのだ。
そして、門の機能不全によってミラベルと夜明けの騎士は異界に取り残されてしまったのだという。
どこまでが真実かは分からないまでも、彼女と彼が知己である小比賀瑠衣に嘘を語る理由はない。なにより、夜明けの騎士――高梨明人は明らかに小比賀瑠衣を庇護に置いている。皇国では神の使いとさえされる不死者。福音の担い手。その彼でさえ掴めぬという無貌の神の手からだ。
彼等は敵ではないし、頼る他ない。少なくとも、今は。
そして、その彼らと言葉を交わす度に思い知る。現界は夢などではないし、ルカは帰還しなくてはならない。己が責務から逃げ出すことはできない。
「いえ、なんでもありません、姫殿下」
瑠衣の顔で上手く笑えているかは分からないまでも、ルカは敵国の姫に笑った。するとミラベルも、異界どころか現界でも稀有な美貌で困ったような笑みを浮かべた。
「あの……その姫殿下というのはやめませんか?」
「え?」
「まるで現界人を相手にしているようで落ち着きません。瑠衣が皇国語……ではなくて英語ですね。そちらに堪能なのは助かりますが……呼びやすいように呼んで頂いて構いませんよ」
「は、はあ……」
「異界で皇族もなにもあったものではないでしょうし、おかしいでしょう? 私も自分をそんな大層な者だとは思いません」
無防備な表情だとルカは感じ取った。皇国の姫もそういう顔をするのか、と。
実際、異界人である小比賀瑠衣には現界の身分構造などまったく関係がない。畏まられる筋合いがない、というのは一理ある。
とはいえ、一国の王族に敬意を払わないというのはルカ側に抵抗がある。即製極まりない未熟な王だが、ルカにも一国の長として弁えなくてはならないラインがあるのだ。誰知らずとも、己への律としてだ。かといって、そこからボロを出すわけにもいかない――
「では……ミラベルさんということで」
妥協を重ねた落としどころとしてそう口にしたルカに、ミラベルはやはり困ったような微笑のままであった。なにか間違えただろうか。訝るルカにミラベルはやや肩を落としつつ、
「……やっぱり駄目ですね、私」
「駄目?」
「情けないお話なのですが、同世代の方と親しく接する感覚が分からないのです。思えば誰かと友誼を交わした経験もあまりなく……」
「……は、はあ」
「どう接していいものやら……こういうとき、異界の学生たちはどんなお話をされるのでしょうね?」
「ええ、と」
友達が居ません、と言いたいのだろうか。
ルカは引き攣った笑みで腹をさする。胃痛がする。この緊張感は何だろうか。
そんなことを言われても、ルカにも友と呼べる人間に心当たりがない。ひとりもだ。忠実な臣下はいても決して友ではない。身分が対等ではないからだ。身分を超えた友情も世をつぶさに探せばあるかも知れなかったが、ルカは知らない。恵まれなかったし、そんな暇もなかった。
そして、頼りの小比賀瑠衣の記憶にも同性の友人に関するものがほぼなかった。なんと幼少の頃にまで遡ってしまう。これでは使い物にならない。なぜなんだ、瑠衣。ルカは内心で頭を抱える。
「えー……自然体、でいいのではないでしょうか。あまり構えず。市井ではそのようにすると思います。あ、いえ。読み物ではそうあったような……」
「ははあ、そうなのですね」
少し目を丸くして頷くミラベルに、口にしてからルカは気付いた。この皇女だって書くらいは嗜むだろう。何も知らないということはないはずで、だとすると単に自身の交友関係の乏しさを話の種としているのだ。
ああ、後手後手だ――猛省しつつ、ルカは白状をした。
「……実はわたしもです。機会に恵まれませんで……」
「まあ。異界でも数十の学生が机を並べて学ぶと聞きましたが」
「そうですね……そうなのですが」
本当にそうだ。それで、なぜ友人の一人もできないのか。
ルカは瑠衣に嘆息する。身体の主であるその少女はどうも積極的な性質ではなかったらしい。ルカが瑠衣の立場であれば、学友に愛想を振り撒いて味方を作るのも簡単だ。実際にそうしてみたように。瑠衣の学友たちは驚くほど単純で、無垢だった。言葉と所作で惹いてみせるだけ。引き入れるのは容易だった。
いや、それも違うのかもしれない。それは友誼ではないのだろう。ルカは思い直して腕組みをした。後手ばかりでは情けないか――
「……高梨くんが唯一の友達かもしれません」
つい、違うと理解しつつも、夜明けの騎士を引き合いに出した。すると、ミラベルが面食らったような顔した。
「アキトさんがですか?」
「他に心当たりがありません。もしかすると彼は誰にでも気安いのかもしれませんが……」
「そ、そんなことは……いえ……」
言葉が濁る。ミラベルはおとがいに指を当てて考え込んでしまう。
この感触はよくない。ルカはまたも嘆息した。記憶を覗く限り、瑠衣が夜明けの騎士に抱いている感情はどう考えても友情ではない。書でもあまり見ない類の――偏執的な――重い愛情である。記憶を共有しているだけのルカでさえ、思い至ると変な気分になるほどのだ。あまり考えないようにしなければならない。
しかし、やはり。皇女のこの反応。
もしかすると彼は色んな女性に手を出しているのではないだろうか。そんな疑念がルカにはある。書を齧っただけの、皆無に等しい経験則などからではない。
同居するもう一人の女性。来瀬川姫路の存在からの推測である。
なぜ一介の教師である来瀬川女史が同居する必要があるというのか。ルカには彼女の存在が解せない。しかし、夜明けの騎士が色好み、女たらしなのであれば様々な推測が立つ。
たとえば、どちらかが正妻でどちらかが愛妾のような関係――などだ。飛躍かな――爛れてる――混乱気味にそう考えてみる。そのような人種が現実に、本当に存在するのか――ええ?
スー、と息を吸ってのぼせ気味の脳と顔を冷却し、ルカは自分の顔を揉んだ。自分のといってもそれは瑠衣の顔だったので我に返る。この人格転位とでも言うべき状態が何なのかは解らないが、少なくとも瑠衣の記憶に引きずられるのは良くないだろう。
諸問題はさて置き、目の前の少女は敵国の姫。夜明けの騎士はその騎士である。色恋か情愛か、とにかく何かしろの醜聞や弱みがあるのなら押さえておいて損はない。
「友人との接し方はともかく……高梨くんに関しては相談に乗れると思いますよ。付き合いが古いですから」
「相談、ですか」
「ええ。気軽にお話しいただけると嬉しいです」
頑張ってそんな言葉を捻り出すと、ミラベルはやはり意外そうな顔をした。この反応、やはり瑠衣を恋敵と疑っていたか。
だとしても、今のわたしはドーリアの王、ルカなのだ。瑠衣には申し訳ないとは思いつつも、ここは皇女の相談相手として立場を固めた方がスマート。面従腹背とするのが正しい。
――腹背? なぜ?
ルカは再び自分の顔を揉む。訝しげな皇女に見止められたが気にはならなかった。上気した頬を自覚して、ただ苦々しく思っただけだった。また記憶に引きずられている。賢王ともあろう者が、なんともやりずらい。情けないことだった。




