02.藁②
我が高梨家の住処である2LDKのマンションには、現在俺を含めて四人の住人がいる。内訳は、俺の両親と妹、ではない。此処とは異なる世界、現界の皇女様であるミラベル・ウィリデ・スルーブレイス殿下。それと、彼女との生活を監督するという名目で入り浸っている来瀬川教諭。残るひとりは、記憶に存在しない俺の幼馴染。小比賀瑠衣だ。彼女に関しては色々と説明が難しい。公になれば俺の社会的信用は失墜する同居人といえよう。いや、ほか二人もそうだった。
地味、と形容すると少し悪意ある表現になってしまうが、小比賀瑠衣を端的に形容するとそんな単語になってしまう。
それでも、よくよく見れば容姿は兎かなにかのように愛らしく、話してみれば人格も普通の女の子の範疇に収まる。やや引っ込み思案なところはあるが、気になるほどではない。そんな大人しくも可憐な女の子であるはずの瑠衣だが、どうも独特な物の見方をしているらしく、一般人が発揮するとは考えにくい行動力を見せたことがある。具体的には、数メートルはある怪物の注意をたった一人でひきつけたのだ。そんなことができる一般人は剣と魔法の世界にだってそうはいない。というか、まったくいなかった。
なので小比賀瑠衣という女の子の内面が特異であり、見た目通りの少女ではないのだということはあきらかであったし、それ以降の出来事や会話で理解も深まった気がしていたのだが、別にそんなことはなかったらしい。
なぜなら、その瑠衣がバスケットボールを巧みにドリブルして俺のディフェンスの手を掻い潜り、前傾の姿勢のままで防御を突破してみせたからだ。
「……んんっ!?」
体育館で行われている、体育の授業。
クラスと男女混成のバスケットボールの場である。真面目に取り組んでいる生徒と、そうでない生徒の割合は半々か後者が多いか、といったところだ。
競技。あるいはお遊戯と言い換えても差し支えない緊張度ではありながらも、俺はいっさい油断などしていなかった。
痩身そのものといった瑠衣の身体能力が高いだとか、動きが異様に速いというわけではなかった。老人や女子供が目にも止まらない速さで動く、現界の魔力使いのそれとも印象がまた違う。
鋭いのである。
武芸の心得がある人間のそれに近い鋭さをもった足運び。それに、勘。
人間同士の戦いからやや離れていた俺は面食らい、ボールを持った瑠衣の動きに反応することができなかった。ボールを持って十全に動く印象など瑠衣にはなかった、という意外性もあっただろう。
というか。
「ばっ……うっそだろ!? 吹奏楽部だぞ!?」
チームメイトかつ友人である橋本肇の驚きの言葉が示す通り、小比賀瑠衣に高梨明人が負けるというのは体格差諸々を踏まえて少々考えにくい結果だ。格好もつかない。
やや強引に飛び下がって再び前に立った俺を、運動下手なはずの少女は床と上履きの擦れる高い音を鳴らしながら、どことなくマニッシュで挑発的な笑みを浮かべて迎えた。
「おっと、高梨くん。けっこう負けず嫌いだね? お遊びでしょ、これは」
「俺にもなけなしのプライドというものがあったりなかったりだ、瑠衣」
「あは、きみはいまいちはっきりしないなあ。いろいろさ」
「まあ……自覚はしてる」
「だったら直そうよ」
ドリブルを続けながら、半笑いでツッコミを入れるその目鼻も顔の作りも、最近では見慣れた小比賀瑠衣そのものだ。
だが、やはり人物としての印象が大きく違う。以前に似たようなことがあった気がして記憶を探るも、俺が答えに辿り着くより先に、瑠衣が思い出したように破顔した。
「そんなんじゃ大魚を逃すと思うけど。あ、もしかすると二兎かも」
「なんのことだかわからないぞ」
「またまた……分かってるくせに」
「ど――」
ういう意味だ。
などという問いかけも完成はしない。俺の舌を待たずして、瑠衣が再び姿勢を下げ床を蹴ったからだ。緩から急へ。俺の意識と視線の間隙を縫って、瑠衣の黒髪がするりと躍る。
だが二度は通さない。ゴールを向いて加速する瑠衣の体は無視し、俺はボールの弾む先を予測して腕を伸ばす。
そして、俺の右手は呆気なく空を切った。
「へえっ?」
手を伸ばした間抜けな恰好のままで俺は見る。一度、床に当たって弾んだボールは想定と逆の向きにバウンドしていた。ゴールに向かって駆け出していたはずの瑠衣も、既に急制動をかけてターンしている。
バックスピンからのフェイント。
集中力によって切り取られた一瞬の刹那、ほんの一時だけこちらに背を向けた瑠衣が、肩越しにウインクをした。
「うわ、上手いな」
負け惜しみが言葉になる頃にはもう、弾んだボールを左手で刈り取った瑠衣は鮮やかなステップで俺を抜き去っている。
もはや魔力抜きで追い付く術はなく、ただでさえ身体能力に結構な差があるだろうというのに魔力行使までもはいくらなんでもアンフェアだ。
見送る俺やチームメイトを後目に、滑らかに跳び上がってゴールリングにレイアップシュートを決めた瑠衣は、歓声を上げる女子生徒たちに手を振って爽やかな愛想を振りまいた。
驚き半分、感心半分といった面持ちの橋本が寄ってきて言う。
「やられたな、高梨。しかしルイルイってあんな動けるんだな」
「……俺も初めて知ったよ。センスあり過ぎだろ、あれは」
「やべーよ。つか、帰宅部最強の高梨が負けたとなると……2B運動部代表の俺は絶対に負けらんねえよな」
「いや部活うんぬん以前に相手は女子なんだが……」
半ばレクリエーションであるとはいえ、文化部の女子相手に俺と橋本が二人でかからなければならないというのは、もうその時点である意味負けているのではないかという気もする。
当の瑠衣は息が上がった様子もなく、旺然たる戦意と喜色とを覗かせる笑顔で俺たちを向いていた。その背にかかる黄色い声援にもだが、我らが男子チームはすっかり怯んでしまっている。
ただでさえ女子相手には動きにくいというのに、余計に動きが硬くなってしまっては勝算は減る一方だ。
ああ、これは負けるかもしれん。打開策とかは特にないので、意味もなくしたり顔で呟いてみる。無念だが、俺にできるのはそれくらいだ。
「はいはーい。形無しくーん、ぼさっとしなーい。男子ボールだよー」
ピッピッとリズミカルに笛を吹きながら不名誉なあだ名を付けてくる来瀬川教諭に苦笑しつつ、俺はコートに向き直る。
言うまでもなく、男達は敗れた。
***
来たる十一月に修学旅行を控えた芥峰高校二年生全体の雰囲気は、やはり平時と比べて浮ついたものになっているらしい。
らしい、というのはつい最近まで休学して別世界に身を置いていた俺は学校の雰囲気どころか過ごした記憶をほぼ完全に失っているため、来瀬川教諭や友人たちとの会話から何となく推測しているにすぎないからだ。
よって当事者意識も全くなく、行き先が北国だったか南国だったかくらいの認識しかない。そもそも異界に戻ってさえ様々な問題を抱え続けている現状では参加すら危ぶまれる。呑気に修学旅行などと言っている場合ではない。
「これも美味しいねえ。高梨くんもこれにすれば良かったのに」
それはそれとして、学食のメニューの中でもボリューム感がある唐揚げ丼を頬張る瑠衣の機嫌はそれとは関係なく上向きっぱなしであるようだ。
よく喋るしよく食べる。これも知らない一面である。
「ああ、また明日な」
「またまたー。きみ、そう言って学食じゃカレーしか食べないじゃないか」
「好きなんだよ。カレー」
心の底からそう答えると、俺は笑ってスプーンを動かす。
いまや、カレーには良い思い出しかない。たとえ学食のカレーライスが記憶のそれとかけ離れた味だったとしても、まったく気にならないほどにだ。
そんなことを知る由もない咥え箸の瑠衣は「ふうん」とだけ呟き、すぐに興味を失ったかのように唐揚げ丼へと意識を戻した。
昼休みの食堂で向かい合う俺と瑠衣は、クラス違いでありながら当たり前であるかのように昼食を共にしている。それは彼女が無貌の神と呼称する超常存在に身柄を狙われている――と推測される――状況にあり、その手から守るため、できるかぎり行動を共にしているという事情による。
現在、小比賀瑠衣が高梨家に身を寄せているのもそういった理由からであり、それなりに非常識な申し出であったはずだが、彼女曰く生家には「帰る意味がない」のだそうで、高梨家と近いレベルの劣悪な家庭環境を抱えているだろう瑠衣にとっては丁度よい申し出であったと見える。
長く続けばさすがに家族も気が付いて文句を言うのだろうが、今のところその気配はない。小比賀家の家族関係は相当おかしくなっているようだ。
どうもそこら辺りの酷い話に俺も間接的な関係があるらしい。が、聞いた話でしかなくやはり実感はない。話を踏まえて瑠衣に接する気もなく、今後鑑みる気も特にない。
そんなことを考えながらスパイシーな豚肉と米粒とをのんびり噛んでいると、唐揚げ丼を平らげた瑠衣が湯呑みを片手に柔らかな言葉を発した。
「さて、今日もきみの話を聞かせてほしいな」
言われ、俺はスプーンを止める。
「……またか。よく飽きないな」
「ぜんぜん飽きないねえ。もう食後の定番だよ」
彼女の指す「話」というのはこことは異なる世界――現界での俺の話だ。瑠衣にさわりだけ話したのは俺自身だったが、生粋の異界人である彼女にここまで食い付かれるとは思っていなかった。
俺が話す内容はとりとめがなく、まちまちだ。辺境の街セントレアでの生活であったり、千年前の話であったり。俺の半生から血生臭い話を除くと、どうしても平凡な日常生活の話がメインになってしまうのだが、瑠衣が興味を示すのはどちらかと言えばバイオレンスな内容に寄っているのでやや困る。
「えーと、昨日は何を話してたんだったか……」
「戦争だよ。東方連合と皇国の戦争」
「あー……なるほど。あんまり話すことでもないな」
「えー? なんでさ」
「よく知らんというか、あまり関わってないからだ。話すことがないんだよ」
ざっくり結論付けてカレーライスを口に運ぶ。
戦争、というか東方連合を構成する一国であるドーリアに、転移街アズルでの一件でわずかに関わったことがある。現時点ではそれだけだ。
「そもそも俺は別に皇国の軍人でもなければ騎士でもなかった。東方連合について思うところもあまりないんだよ」
「ふうん……どうでもいいってこと?」
「やり口が好かんから肩入れはしないまでも、いくらか連合に同情はしてるかもしれない。まあ、問題視はしてても敵視はしてないってところか」
「問題視。他人事感がすごいね」
率直な心情を口にすると、瑠衣は苦い顔をした。その起伏に富んだ表情を彼女らしくないと思うのはいい加減、彼女に対して理解が浅かったという納得をするべきなのだろうか。
「他人事というか、俺としては……まあ、心の置きどころが難しいんだよ。少なくとも、現界の人たち同士の間に国境線を引いて考えることはしない」
「なんで?」
「国境線どころか、国っていう概念が無かった頃から世界を見てたからってのが大きいかな。そんなんで国同士の戦争とか言われてもピンと来ない」
千年前の異世界、現界の人類種の文明水準は「古代」と評して良いものだった。竜種に支配される世界で、人々は街や集落という単位でしか社会を持ち得ず、そんな彼らを見続けていた俺からしてみれば、彼らが増えて満ちた後でいつの間にか引いた国境線というものに対しては、どうにも勝手に後付けされたルールのような印象を持ってしまうのである。
必要に応じて尊重はするし文句もないのだが、絶対のものとして捉えるつもりはないし捉えることもできない、といったところだ。それを他人事感というのであれば、そうだろうと納得するしかない。
或いは、俺はその点を剣聖マルトに咎められたのかもしれない。
現界の人間社会に干渉して生きていくつもりは俺にはなかった。世を変えるためだけに生まれた力などは平時に使われるべきではないし、破棄や保管など適切な管理が為されるべきだ。野放図では世を乱すだけだ。軽々に用いるべきではない。そういった点でも、彼女と俺は折り合わなかったのだろう。
「きみは……まるで神様みたいな物の見方をするんだね」
呟く瑠衣は意味深い目をしているように見えた。その様子が誰かを思い出しているようにも感じられたのは、俺の錯覚だろうか。
分からなかったので、俺は思ったことだけを口にした。
「そんな風に言われると薄気味悪いが……結局のところ、いざ目の当たりにすると手は出すと思う。いろいろ言っておきながら、だけども」
「それはまた……どうして?」
「一言で言えば、切り離せないからか。そういう性分なんだよ」
神妙な面持ちをする瑠衣に、俺は抽象度の高い表現をした。
高梨明人が変わらず保持し続けている、あり得べからざる能力である剣の福音は、しかし、確実に俺の一部であって切り離すことができない。持つべきでない、使うべきでないと思いつつも、俺が自分で望むように振る舞えば自然、この能力も振るわれることになる。
まったく封じるには俺が何も望まないか、自分を殺すかしかない。そして経験上、どちらも俺には実践できないのは明らかだ。節度をもって福音と――自分自身とうまく付き合っていくしかない。それはなにも、福音を持つ往還者だけに限った話でもないのだろうが。
いずれにせよ、人にわざわざ説明するほど立派な考えでもない。
瑠衣が首を傾げるのは意図通りである。
「いまいち分からないなあ。分かるように言ってないんだろうけど……うーん、まだ親密さが足りないのかな……?」
「不穏なことを言うな……まあとにかく、関心がないってわけじゃない。解決しなきゃいけない問題だとは見てる」
「ふうん。きみならどう解決する?」
「まだ分からない。いまは手段もないし」
「あはは。帰る方法がない……という問題は置いておくとして、連合と皇国、どちらかについて戦うってつもりはないの?」
その言い回しに違和感を覚えるが推察は後回しにして、俺は肩をすくめた。
「往還者ってのは災害みたいなもんだ。本来は人間社会に首を突っ込むべきじゃない。筋が通らないし過剰だ。例外があるとしたら……」
「……相手が同じような災害だった場合、かな?」
「だなあ」
「なるほどね。高梨くんの考えが見えてきた気がするよ」
「そうかね?」
「うん」
頷く瑠衣。そうなると皇国も東方連合も対処すべき相手であるということになるだが、彼女にはあずかり知らないことだろう。関係もない。そのはずだが、
「きみは藁だ」
「藁?」
「溺れる者は藁をも掴む。嵐の時の港はどこだっていい。きみは藁か港か。危難を前にした人が求める助けそのもの。でも救いの手じゃない。意志を以て差し伸べられるものじゃない」
大げさな表現だが、たしかに俺は救いの手などではない。
スプーンを更に当て、俺は視線を上向ける。
「心無いと?」
「そこまでは言わないよ。けど、受け身すぎると思わない?」
「どうだろうな。薄情なのは違いない」
どういう視点で発せられた評価なのか、いまひとつ分からない。ただ、少なくともゼロか百かで論じられる課題はそう多くないものだ。一面を切り出して白か黒かを決めたところで、側面から見れば白黒が反転することもある。
要は立ち位置の差だ。
どうも瑠衣は現界の民、その広範に感情移入しているらしい。俺にそこまでの視座はない。自分の眼で見た確実な範囲でしか物事を判断しない。それ以外は常に疑うし、裏付けをとろうとする。
でなければ危険だからだ。俺がではなく、他者が。
剣の福音というこの上ない災禍に襲われる可能性が出てきてしまう。
往還者は藁ではない。
大水であり、嵐なのだと俺は思う。
以降、黙々とカレーを口に運ぶのみとなった俺を、瑠衣は意味深い笑顔で見守るだけだった。




