ex.Amor magister est optimus
政府機関への部分的な協力、という取引の末に発行された公的な身分証明書――得体の知れない乗り物の運転免許証を受け取ったとき、皇女ミラベルは歓喜した。密林を意味する通信販売サービスで購入したいくつかの物品。それらを受け取ったどの瞬間よりもだ。
なぜなら、それ無しでは街を歩くにも常に官憲の目を気にしなければならないというリスクが常に付きまとっていたからだ。ひとりで出歩くことは基本的にできず、同居人である明人や姫路が留守である日中、高梨家の中だけで過ごさねばならなかったのだ。
それはそれで過ごし方を工夫し、充実した時間を満喫してはいたのだが、買い物などで困ることも幾らかあった。明人に頼みにくい必要品に関しては姫路に頼むとしても、目上の人間に頼むのが心苦しい買い物もある。通信販売サービスの記録に残すのも、だ。
ただ、身分証明書に記載された「来瀬川碧」なる人物はきちんとミラベル本人と同様、十七歳であった。残念ながら、大きく見識を広めるには一歳だけ足りない。そこだけは痛恨の極みであり、ミラベルは保護者たる姫路の良識と異界の民法を僅かに恨んだ。
どうしようもないのでその点は諦めるとしても、行動の制限がほぼなくなったこの皇女は、当然、街に繰り出すことも可能となった。これだけでも大きな躍進である。
そんな折では、土曜だというのに「ちょっと出てくる」などと言い残して出掛けていく明人を高梨家のマンションにて姫路と共に見送ったミラベルが、唇を引き結んで考えを巡らせたのも自然な流れだったといえよう。
食材の買い出し以外は出無精であるところの明人が、休日に外出をする。普段ならそんなこともあるのかな、と考えて終えるところだったが、パソコンに残されていた検索履歴を見るなり、ミラベルは考えを変えた。
追おう。
外に出られるようになったわけだし。
前日の夜からミラベルと共に対戦ゲームに勤しんでいた姫路は未だ闘志に燃えていたが「すこし休憩ということで、また夜にしましょう」と告げると、途端に亡者のような顔をして寝床へ吸い込まれていった。
直後、皇女は修道服を脱ぎ去り、通信販売で購入したナチュラルカラーの緩いワンピースとカーディガンの封を切って着替えていた。さらに、長い銀髪はキャスケット帽に押し込み、リムの太い黒縁の眼鏡をかけた。
そうして簡単な変装を済ませつつ、最寄駅方面へと向かう明人の姿を、指で作った輪の向こう――遠見の魔術で視認した。
「はっ、早……!? もうあんなところに……!?」
仕込みなしの遠見術はせいぜい百五十メートルほどの視程しかない。電車に乗られると追跡が困難になる。電車に乗ったこともない。
玄関からローヒールのパンプスとミニバッグを引っ掴んでベランダへと走る。そして、細い不銹鋼の糸を物質転換で錬成しつつ、その端を手すりに巻き付けて宙へ跳んだ。
即製の糸でも、落下を下降とする程度の強度は発揮する。糸を頼りに四階のベランダから地上まで降りると、結合を解いて糸を青い魔素に戻す。
わずか十秒ほどで下まで降りたミラベルだったが、足は止めない。急いで――しかし目立たないように――小走りで駅へと向かった。
急がないと乗車に手間取って見失ってしまう。
ICカード決済という概念が、まだよくわからないからだ。
***
幸い、明人は二駅隣、最寄り駅の同市内にある芥峰という駅で電車を降りた。
よって見様見真似で電車に乗って追跡をするミラベルも、まったく未知の街で心細い思いをする羽目にならずに済んだ。芥峰には一度来たことがあり、明人や姫路からもよく話を聞く街であったからだ。高梨家のマンションからもさほど遠くもない。
とはいえ、やはりICカード――薄い樹脂の札をかざすだけで代金の支払いが済んでしまう仕組みには戸惑ったし手間取った。電車内で軽く調べてみたところ、札をかざす装置が遠方と情報のやり取りをしているとのことで、もしかすると異界のテクノロジーでもっとも肝要な部分とは、こういった通信関連の技術なのかもしれない、などとミラベルは考察している。
意図せぬ異界留学ではあったが、様々な未知の技術を目にしてきたかぎり、現界が技術的に先を行っているのは魔術くらいなものである。皇国でも伝声術等を発展させて、こういった優れた通信技術に繋げることはできないだろうか――無意識のうちに国益を考え始める皇女だったが、
そうこう考えているうちにも明人は進んでいくので、あわてて後を追った。商業ビルの合間にある路地や電柱、スシ屋なる店の看板などに身を隠しつつ、隠形で魔力も抑え、先を歩く少年を尾行する。
そのさなか、傍らのガラスウインドウに白いサマードレスを着た女児の、なんとも言えない呆れ顔が映った。
「なにやってんのよ、私は」
「救済……! ちょっと今は忙しいので後にしてください……!」
「みっともないからやめなさいって……いいじゃない、少しくらい。ちょっとほかの女に会うってだけでしょ。取られるってわけでもあるまいし」
「取られ……!? べ、べつに私たちはそういう関係じゃありませんよ……!」
「はいはい、そうでしょうね」
鏡像はガラスの向こうで肩をすくめる。
救済と名乗るこの鏡像は、ミラベルが福音と同時に獲得した協力者だ。外見だけは昔の自分に似ているこの鏡像は、自称「終端のミラベル」であるとのことだが、その意味は判然としない。自分の未来を指しているのであれば、幼い姿というのは解せない話である。
そもそも、ミラベルは救済ほど天邪鬼ではないし、意地悪でもないと自分では思っているので、未来の自分だと言われても納得はできないのだが。
その救済はこめかみを指先で叩き、僅かに考えを巡らせるように目線を動かす。苦い表情は何らかの躊躇を感じさせるものだったが、鏡像は結局、口を開いた。
「本当に帰った方がいいかも。藪蛇になりそう」
「……蛇が出ちゃうんですか?」
自称未来の自分から出る忠告としては緊迫度が高い。もちろん蛇は比喩表現で、この場合、ミラベルとしては明人が異界で懇意にしている女性を指しているのだが、救済の方はそうではなかったらしい。
「周りをよく見なさい」
言われ、ミラベルは黒縁眼鏡のつるを持ちつつ、周囲を見回した。
駅のすぐそば。主街区であるはずだったが、そのストリートは人通りがまばらだった。商店らしき店が並んではいるものの、全体的に活況とは言えない。商取引の活発な休息日であるはずが店を閉じているのか、白で塗装された金属の蓋が降りている建物も多かった。
「あまり景気がよくなさそうですね」
ミラベルは思ったことを口にしたが、ただの感想になってしまった。
鏡像は目を細める。
「鈍い。右前方、黒い車」
車、と指摘されてストリートの真ん中を通っている自動車用の道に眼を向ける。この自動車というものの存在に未だ慣れないので意識の外に追いやっていたミラベルだったが、見やれば確かに黒塗りの箱が道の端に鎮座している。
客室に六人くらいは乗れそうな大きさの車だったが、窓が黒く内部は見えない。とはいえ、珍しい形状でもない。似たような車はいくらでも行き交っている。
「……あれがなんです?」
「中を見てみなさい。平気よ。連中は魔術を知らない」
「……?」
怪訝に思いつつ、ミラベルは指で輪を作って遠見の術を行使した。
すると、輪の中に見える車の内部には屈強な体格をした男が何人も詰まっていた。出で立ちこそ珍しいものではない、一般的な異界の男性が休日に着ているような服ではあったが、それが逆に異様だった。鍛え上げられたその男達は、どう見ても一般人ではないからだ。
世界の差異があろうと、共通している部分はある。ここまで体を鍛えるのは労働階級にある職工か、でなければ兵士だ。現界においては近接戦闘を重視する騎士や、魔力使いでない一般兵士に見られる特徴である。
「あれは……この国の兵ですか?」
「所属はともかく、正規兵ではないでしょ。偽装が必要なようだし」
「……一理あります」
遠見を消し、ミラベルは思案した。
この国で兵力が用いられる機会自体が稀有――異常事態であるという一般認識はこの皇女にも既にあった。しかも非正規の兵となれば、ただ事ではない。
だとしても背景が分からない。車の様子からして、今やって来たという気配はなかった。
明人やミラベルが来る前からここに止まっていたのだろうと推測できる。
「私たちとは無関係なのでは?」
「だとしても、私が藪と無関係とは限らないでしょう」
などと救済が言うそばから、自動販売機で飲み物を買った明人が待ち合わせ相手と思しき少女に缶で合図をするのが見えた。
ミラベルも知っている。小比賀瑠衣。明人の学友である。皇女は動揺でメガネをずり落とした。
「ええっ、まさか……藪ってルイのことなんですか……!?」
「いいから、もう離れて。いま事を構えるのは得策じゃない。いちどマンションに戻って――」
その時、
微かに、背後から音と気配がした。
鏡像の声が止まり、ミラベルは首だけを動かして背後の路地を振り返る。
中年の男が立っていた。
一般的な服装をしただけの、一般的でない体格の男。短く刈り込んだ頭に、彫りが曖昧な顔立ちで人種の判別が難しい。
男は手に未知の機器を持っていた。異界の武器の概要をある程度学んだミラベルだったが、その機器を見たことはない。黒い柄に黒い本体、引き金。構造的には弩弓に近い、異界で言う銃に近しい物に見えた。
ただ、弾を発射する円筒らしき部品が見当たらない。材質も金属ではないように見えた。銃とは違う武器なのか――ミラベルが無言で思考するなか、男が引き金を引いた。
形容しがたい、軽く、奇妙な音がした。
発射されたのは弾でも矢でもなかった。反射的に振り返ったミラベルの眼には、数条、ワイヤーのような残像が見えている。
未知でありながらも嫌な気配がする。払いのけようと咄嗟に手を振るうが間に合わず、発射されたワイヤーの先端が胸の辺りに当たった。次いで、何らかの生き物の鳴き声のような規則的な音が生じる。
――仕掛けのある武器。
手に僅か絡まったワイヤーから伝わる感触――その金属の構造を読み取ったミラベルは悟る。非致死性の電撃。非常に珍しい、雷撃系の魔術に似た原理の武器であるらしい。電力に寄った技術を持つ異界らしい武器だ。
しかし、通らない。
発射されたワイヤーの先端、電撃を伝える役割を持つ金属針がミラベルの肌に到達していない。その表面にある魔素の膜、魔力障壁を貫徹していないのだ。
「……!」
男は撃った少女の健在に狼狽していた。
その様子から、敵が確かに魔術を知らないらしいと判断したミラベルは反撃に移る。絡まったワイヤーを身体強化で引き、男の体勢を崩す。そのまま制圧すべくミラベルは更に力を籠めるが、男は躊躇なく機器を手放した。
思い切りがいい。いくら殺傷力のない武器とはいえ、警告や確認もなく撃ってきた手際といい、やはり訓練された兵士だ。目算を付けた上で、ミラベルもワイヤーを手放しつつ跳び下がる。そして、
「――救済」
着地と共に呼び掛ける。
瞬間、ミラベルの傍らに重なるようにして、淡く光る少女の幻像が生じた。硝子の向こうに居るだけの鏡像としてではなく、皇女と一体の存在であるかのように同じ動きをする、幻像として。
福音を行使する。
相手の素性も分からないうちから危害を加えるわけにはいかない。非殺傷の魔術を使っても良かったが、男の身のこなしはやはり素人ではない。押さえ込んでいるうちに騒ぎになってしまう。人間が相手ならこちらの方が都合が良いし、速い。
「穏便に制圧しますので、恨まないでください」
少女の幻像と共に佇むミラベルを、男は驚愕の顔で迎えた。そうして、精神的な衝撃を受けながらも低く身構える。その様子からは練度が伺えたものの、これから起きることに技量や意識は関係なかった。
皇女がしたことは、ただひとつ。
たったワンフレーズのハミングだったからだ。
その瞬間、ミラベルを中心として音の届いた範囲、半径五メートルの領域を無色の歪みが包み込んでいた。
歪みに巻き込まれた男は途端に脱力し、既に胡乱な表情に変じている。屈強な兵士だったはずが見る影もなく、半笑いのようなだらしない顔でミラベルをじっと見ているのだ。あきらかに正気を失っている。
「うわ……」
キャスケット帽の下、ミラベルは男の奇態に怯みつつも福音の威力を実感していた。
誘惑の声。
慈愛の福音の現象攻撃のひとつである。以前、台所で鼻歌を歌っただけで暴発し、明人を巻き込んでしまった恐るべき魅了の力だ。
「いきなりぶっ放してくる相手に同情なんかしなくていい。ちゃんと加減もしてるし、そのうち正気に戻るでしょ」
傍らに立つ救済は冷たい声音でそう断じた。
薄く光る幻像でしかない彼女だが、そうして顕現するとやはり昔の自分にしか見えず、ミラベルは複雑な心境で彼女を向く。
「……って、時間が経つと効果がなくなるんですか?」
「加減してればね。このあいだ彼に誤爆したのは別。無意識にやっちゃったからね。どうなるかは私にも分からない」
「そ、そう……ですか」
救済は他人事のように言うが、ミラベルとしてはそれでは困る。福音のおかげで彼に好かれたとしても、まったく素直に喜べない。いかにも不誠実な経緯であるし、なにより、効果中の彼は本来の彼ではない気がした。無理矢理そう仕向けられているのが見えてしまうような、言い知れない不自然さがあった。
「ま、現象攻撃のことはおいおい学んでいけばいいことよ。知るときが来れば知ることもあるでしょう。彼のことも含めてね」
「彼のことは……未来の私にはどうでもいいことなの?」
「そうは言ってない。余計に何か言っちゃって変わっちゃうのが困るってこと。私たち、お互いにね」
やはり他人事のように言う救済の姿は、既にどこにもなかった。ガラスの向こうに戻ったらしい。ミラベルは平静を取り戻し、黒縁眼鏡を押し上げる。
超常的な存在である救済の言うことに振り回されても仕方がない。今は、現実的な問題に対応しなければならない。
ミラベルは胡乱なまま佇んでいる男に近寄るが、なにか、分からない言語で男は喋った。少なくとも皇国語ではなく、骨抜きにした男から情報を得られるかもしれないと期待していた皇女は成す術もなく天を仰ぐ。
「そっか……掌握できても言葉が分からないとこうなるんですね」
「事を構えるのは得策じゃない、って言ったでしょ」
「……」
車の方を襲撃しても結果は同じだろう。うまく急襲して制圧できたとしても、情報が得られる可能性は薄いように思える。
そんな思慮を巡らせながら路地から顔だけ出して黒い車が止まっていた道路を窺ったものの、すでに車は無くなっていた。
狙われていると思しき瑠衣には、明人が付いている。この程度の相手なら何人居ても万が一は無い。
「……ほんとに骨折り損ですね、これは」
ミラベルは苦笑して魅了した男のもとへ戻ると、地面に落ちた電気仕掛けの武器をしっかり男の手に握らせた。それだけで感極まった様子の男はまた何事かを言うが、やはり言葉が分からない。とりあえず微笑んでおく。
それから、地面を指差して「留まれ」とだけ何度か伝えると、胡乱な男は首をカクカクさせて頷いた。
いったいどういう精神状態なのだろう。疑問に思いつつも、ミラベルはやはり、素直な男へニッコリ笑いかけておくことにした。魅了がより強固にかかるのではという打算が大半だったが、何割かは申し訳なさもある。
警察に通報したのは、現場を離れて五分ほど経ってからだった。
白黒の車両に詰め込まれていく男をビルの屋上から見下ろしつつ、皇女はビル風の中でキャスケット帽を脱ぐ。軽く首を振って、巻き上がる髪を寒風にしならせつつ、どうやら翼竜の相手だけでは済まないらしい次の困難を思った。
わざわざ異界にまで来てとなると因果なものだが、どちらかといえば自分向きではあるか。自嘲気味に笑いつつ、不銹鋼の糸を錬成した皇女は屋上から跳んだ。




