ex.怒れる男
目論見が外れた。
マイルズ・ランセリア公爵は苦々しい面持ちで邸宅の廊下を大股で歩む。
既に日は落ちている。廊下にはただ雨音が響きわたり、湿気た不快な空気が充満していた。羽織った上衣が体に纏わりつくのも煩わしく、マイルズは毒づく。
「まったく忌々しい」
それはまさしく急報だった。
長らく姿を消していた娘、ハリエットが見付かったと。娘は皇女ミラベルの配下だという騎士の男が邸宅に送り届けた。本人には意識がなく、数か月ものあいだ眠り続けているのだと、医官を引き連れた彼は言った。
マイルズは娘を気遣う父親を演じる他なかった。少なくとも、ひとまずは。皇女がマイルズに要らぬ恩を売ろうとしているのは明白だったが、配下の騎士に不審な様子を見せればそれも皇女に伝わるだろう。あの吸血姫に付け込まれるくらいなら、借りの一つや二つの方がまだ安い。
マイルズにとって、政略の道具にすらならない娘など無価値だった。彼女が出奔した際も、何処へなりと行って勝手に野垂れ死すれば良いとすら考えていた。
その娘が、よりによって皇子の不興を買っていたとは。
「よくも余計な真似をしてくれたものだ」
吐き捨てるように呟き、マイルズは寝たきりの娘にあてがった部屋へと乱暴に足を踏み入れた。
天蓋付きのベッドに横たわる娘に変化はない。昼頃に騎士の手によって運び込まれてから変わらず眠り続けている。医者に診せずとも自明だ。世話をしなければ放っておいても死ぬだろう。
しかし、それを待つほどの猶予は皇子から与えられていない。
マイルズは親指ほどの大きさの薬瓶を取り出した。瓶の中は無色の液体が満ちている。家令に手配させた毒薬である。
毒草から錬金によって抽出された薬だと聞かされてはいたが、成分までは気に留めなかった。ただ効果を発揮し、葬式で気取られなければそれでいい。無臭で痕跡が残らない薬を持って来い。彼が家令に命じた条件はそれだけだ。
瓶の蓋を開け、臭いを確かめる。これならば、と瓶を片手にベッドへと歩み寄った。
「ランセリア公」
不意に声がかかり、マイルズは手を止めた。
静寂を破った男の声は、部屋の隅にわだかまった闇の中からのものだ。
男が立っていた。
簡素な麻の服を着た金髪の男だ。
美男、と評して良いだろう相貌には穏やかな笑みが浮いている。
「それ、試しに貴方が飲んでみてください。無理でしょうけれど」
「おまえは……」
娘を邸宅まで届けた騎士の男だった。
マイルズはこの男の素性を看破している。
「……国教会の剣たる九天が、皇女ひとりの私兵とは。実に嘆かわしいことだ。いつから教会はそのような専横を許したのか」
「僕は平民の出です。惜しまれるような格はない」
「出自などはどうでもよい。選ばれた者には相応の理由がある。おまえたちのそれは才覚なのだろうが」
マイルズ・ランセリア公爵は腰に下げた愛用の細剣を抜く。
曇りなく磨き抜かれた剣身は、それが飾りでないことを物語る。
「どうやら才の使い方を誤ったようだな。余計なことを囀られても困る。ここで死んでもらうぞ」
マイルズは公爵である以前に熟練の剣士であった。公務に不要であるが故に返上するまで、騎士号すらも持っていた。九大騎士団の者と手合わせで渡り合い、その剣力は彼らに比肩するとまで謳われた剛の者だ。相手が九天とはいえ、名の通らない若造ごときに遅れは取らない。
だが、闇の向こうで相対する男は笑みで返した。
「誤ったのはあなたの方だ、ランセリア公」
「なに?」
「あなたは僕を私兵だと言った。その僕がここに居る。それが全てです。殿下は貴方が関与している可能性は薄いと言っていたけれど、ゼロとまでは言い切らなかった。全てを見通してはいないけど、色々と想定している人なんですよ。おそらくね」
「……」
「だとして、あなたに勝ち目はありますか。あの吸血姫に」
巻かれる長物を間違えたかもしれない、という微かな懸念はマイルズにもあった。皇子が失脚の憂き目に会いつつあるという情報も、不確かながら届いている。
しかし、公爵はそこで思考を放棄する。過ぎた決断は過ぎたものでしかない。時の流れは不可逆であり、過去に拘泥するのは無意味だと彼は考える。
政争に負ける。
そういうこともあるだろう。今までにもあった。数え切れないほどに。だが、それらを乗り越えてきたからこそマイルズは領主なのだ。ただ規模が違うのみ。であれば、在り様を変えるまでもなし。
「そうあっては是非もない。我が所領の総力を以ておまえ達を潰す。さしあたって貴様からだ、若き九天」
「……そうですか」
男も背に負った白銀の大剣を抜く。
マイルズも知っている。九天の騎士が一翼、水星天騎士が継承する名剣、辰砂。人ほどもあろうかという白銀の剣身には、微細な装飾文字が彫られている。
男は、緩慢に、剣を高々と振りかざして大上段に構えた。
戯れている。マイルズは愛剣の切っ先を持ち上げながら、内心で毒づく。
男の得物は確かに由緒ある名剣、業物である。
だが、撃剣の妙味は兵法と立ち回りにある。室内での取り回しに勝る細剣を相手に隙の大きい上段の構えをとるなど、愚の骨頂。
野戦でもあるまいに、大剣など。
「舐めるなッ!」
気合と共に先制の刺突を繰り出す。
男の大剣が動き出す前に、マイルズの剣は二度突く。受け太刀など許さない。
しかし、目が眩むばかりの激しい火花が闇の中に二度咲いた。予想に反する硬質の手応えに剣を引いたマイルズは、床に真っ直ぐ突き立てられた白銀の大剣を見た。
男の姿は無い。
理解が及ばない光景にマイルズの四肢は硬直する。
「何……ゴッ!?」
直後、顔面に衝撃を受け、マイルズは床を転がった。
反射的に顔を上げると、数瞬前には何も無かった位置に、拳を振り抜いた姿勢で立っている男の姿があった。
「……安心しました。公爵も剣士だと聞いていましたので……もし貴方の剣筋が澄んでいたのなら……心と剣とは、本当に何の関係もないんじゃないかって思ってしまったかもしれない。けど」
次の瞬間には、男の手には大剣が現れている。
「そうじゃなかった。貴方の剣筋は、僕の知る人たちに遥か及ばない。まったく話にもならない。腐ってる」
消えて、現れる。
転移魔術。信じ難い。これほど使いこなすか。
マイルズは口元を拭い、身体を起こして体勢を整える。
一年ほど前、皇国内に転移魔術を持つ騎士が現れたという噂を聞いたことはあった。真実なら百年に一度の逸材である。
有力者間での激しい争奪戦が行われる筈だった。しかし、その若者は既に特定の騎士団に所属していたという。噂は風に消えた。
「魔術使いがよくも言ってくれる! 尋常の勝負をする腕もないのだろうが!」
「尋常? 面白いことを言いますね。そんなものが世のどこにあると?」
大剣を手に歩み寄る男は冷然と言う。
「ましてや、毒を使って自分の娘を殺そうだなんて人が、尋常の何を語るんです。騙して、隠して、卑劣なことを簡単にやる貴方たちが」
「為政者とはかくあるものだ!」
「その汚さで……民衆に倒されるのも、為政者の常です」
「馬鹿が! ここは皇国だぞ!」
「……それが何だと言うんだッ!」
叫ぶ男は魔術を使わなかった。
一瞬のうちに踏み込み、手の大剣でただ突いた。そして、その刃は受けたマイルズの細剣の刀身をへし折り、彼の右腕を根元から吹き飛ばした。
床に撒き散らされた血と肉を蹴散らし、男は激痛に刮目し身を捩るマイルズへと達する。その顔を平手で掴んで漆喰壁に叩き付け、力任せに押し込む。
「がぁあ!?」
「潰すだって!? 僕を!? 貴方が!? 潰せるものならやってみろ! たとえ相手が皇子でも皇帝でも、僕は退かないぞ! さあ尋常だ! やってみせろ、マイルズ・ランセリアッ!」
残る左手で抵抗するマイルズの努力が結実するよりも早く、
男の怒りで壁が爆ぜた。凄まじい勢いで隣室の床に激突して恐慌するマイルズには、もはや抵抗の気力は残っていなかった。
にもかかわらず、床のマイルズ目掛けて男は踵を落とした。膝を砕かれ、マイルズは絶叫した。叫び、恐怖した。
痛みや死への恐怖ではない。未知への恐怖。
これは――この、人の形をとった激甚たる怒りは――なんだ?
沽券と自尊心だけで生きてきたマイルズには、それほどの怒りが理解できない。権威に一切怯むことなく、まったく躊躇せず暴力を行使するこの男は、いったい何なのか。仮にマイルズが身内を殺されたとしても、ここまでは激さない。敵対者が塗った泥を忌々しく思い、報復することはあったとしてもだ。これほどの憤怒は、いったいどこから来るのか。この貴族は分からない。
夥しい流血を続けるマイルズの肩を踏み躙って雑に止血し、男は吐き捨てる。
「簡単には死なせやしない……! 洗いざらい話して貰うぞ……それから罪を償え……!」
こやつ。
マイルズの眼に再び火が灯る。憎悪の火である。
この男は自分を利用しようとしている。それを悟ったマイルズは、その肥大した自尊心は、自らを足蹴とする男の狙いを許容しなかった。
「……下民ごときがッ! ケイブル! スピネル! 何をしているか! さっさと賊を始末しろッ!」
マイルズは領の戦力として雇用している騎士くずれを呼びつけた。人格面の問題で九大騎士団から落伍したという在野の騎士たちである。確かに人として問題はあり、値も大きく張ったが、腕は立つ。異変を察知して近くまで来ているのは分かっていた。
男がどれだけの実力者でも、騎士同士の近接戦で数的不利を覆すのは不可能だ。マイルズは確信している。廊下と窓。それぞれから躍り出た騎士たちの姿を捉えつつ、血塗れの顔でほくそ笑む。
廊下側から室内へと突入した女騎士スピネルは、長剣を腰だめに構えて突進を行った。立つ男と倒れ伏す雇用主。どちらを攻撃するかは明白で、判断は一瞬で成った。無策無謀の極みに見えるこの捨て身の突撃を躱すのは、実際のところは困難である。ただ真っ直ぐ敵へと行って剣を突き立てるだけ。しかし、敵が一瞬でも迎撃に迷えば、健脚を誇るスピネルの勝利となる。彼女は戦いの中でこそ成立するこのギャンブルを好み、幾度となく勝利してきた。
スピネルは男の腹に剣を突き立て、その返り血を浴びる夢想をする。甘美なる勝利の絵図。癖になる。
そして、窓を割って部屋へと躍り出た騎士ケイブルも、敵の姿を捉えた瞬間に獲物である戦斧を振りかぶっている。本命はスピネルの突撃だが、男が大剣を振るって彼女を迎撃し、ひと息で殺傷せしめたとしてもケイブルが男を背から仕留める。彼は最初からその腹積もりであり、わざわざ斧を振りかぶるのも、掛かる機を僅かに遅らせ、スピネルを捨て石とするためである。
だが、殆どの人間は左右同時の急襲に対し、咄嗟には反応できない。躊躇って反撃もできずに死ぬ。ケイブルは嘲笑を顔に刻んだ。
刹那、なんの前触れもなく。
ケイブルの腹に、唐突に大剣が生じた。下腹を大剣の剣先が貫いている。その刃を彼自身が目視する間もなく、大剣は真横に振るわれた。腹が破れ、深紅が吹き散った。
順序がおかしい。
なす術なく崩れゆくケイブルは、今際に理不尽を叫ぶ。
男が腕を振るってから攻撃が為るのであれば、まだ納得もできる。だが、敵の男はただ立っていただけで、撃剣の予兆はなかった。大剣がまず先に現れ、それから剣を振るったのだ。この敵は。
ケイブルの胴を真横に裂き、男を中心として半円を描いて迫った大剣を、スピネルは夢想の中のまま見る。半端な迎撃であれば、一太刀受けてそのまま敵を貫くつもりでいた。しかし、ああ。でも、これはだめだ。
人ほどある長大な剣、その質量。速度の乗った斬撃。致死である。諦観に微笑んだスピネルは、敵に長剣を構えて向かうまま、直後に大剣と激突した。そうして、きりもむようにして吹き飛んだ。
最後に、倒れるケイブルの手から戦斧が落ちて床を転がる。
一瞬で終わったそれは、戦いというより単なる作業だった。
一刀一動作にして二人の敵を斬り捨てた男は、大剣を振り抜いた姿勢のまま、愕然とするマイルズを冷えた目で見下ろした。そして言う。
「次は?」
「……な、なに……?」
「次の手勢を呼べばいい。言ったじゃないか。所領の総力を以て潰すんだろ、僕を。だったら総力を出してみればいい。何人でも呼べばいい」
言ってから、男はマイルズの肩を再び踏み躙った。
弱々しく苦悶する領主を踏んだまま、憤怒の形相で言葉を重ねる。
「だけど言っておく。僕はやる。貴方が改心して自分から懺悔するまで、僕はやるぞ。徹底的にだ。貴方たちの力のことごとくを、ひとつひとつ叩き折って根こそぎ削ぎ落としてやる。貴方たちが二度と悪さができなくなるまで。覚悟しろ」
「……狂人……め……」
失血のためか、マイルズが意識を失った。
男はもはや彼を見ていなかった。彼を通して、その背後にいるだろう敵を見据えている。
「公爵が吐かなくても、ひとつずつ拠点を潰してあぶり出すだけだ。首を洗って待っていろ……僕が必ず追い詰めてやる」
辰砂を振るって清め、転移魔術で待機場所へと還しながら男は踵を返す。
そうして振り返った彼は、闇の中に見た。
いつまにか、天蓋付きのベッドで身を起こしていた少女の姿。
定かでない瞳でこちらを見る、その顔を。
「……ハリエット……!?」
男は信じ難いといった面持ちで少女を見た。
辺境からランセリアまでの長い道中でさえ、ずっと起きなかったハリエットが目を覚ますとは、急には信じられなかった。
事実、まだ少女の精神は曖昧な中に在った。ただ目を開け、体を起こしただけ。まるで魂の抜けた人形のように、何の動きも見せない。
それでも、男は。
ウィルフレッドは、怒りを捨てて弾かれたように走った。いま彼女を掴まなければ、その魂がまた何処かへ去ってしまう。そんな直感があったからだ。千々に乱れた心でそう感じたからだ。
何度も躓き、半ば倒れ込むような勢いでベッドの傍に辿り着いた。そうして抜け殻のような友の手を取った。
「ハリエット! 起きてくれ! ハリエット!」
呼び掛けても虚ろな瞳が虚空を写すばかりで反応はない。ウィルフレッドは恥も外聞もなく、その手に縋りつくようにして祈った。
かつてハリエットの負った霊体の損傷が、彼女の人間的な部分を司る領域にまで達していたのは間違いがない。それは如何なる魔術にも癒せない、自然のままでしか戻る見込みのない傷だ。
この数か月、医官たちの手によって命を長らえる彼女が日に日に痩せていくのを、ウィルフレッドは我が身を裂かれるような思いで見ていた。コールマンは命に別条はないと言ったが、こんな状態でハリエットが長く保つとは思えなかった。
もう奇跡を祈るしかない。
祈らずにはいられない。
もしもこの世界に本当に神のような存在が居るとして、それが簡単に人を救うような者ではないことは、かつて孤児だったウィルフレッドも知っている。
祈りはいつも何の役にも立たず、何の意味も持たず、腹を満たすのはいつだって冷えて硬くなったパンだけだった。味のしない、水のようなスープだった。
しかし、分別を得た今は分かっている。そのパンもスープも、本当は人の手によって作られ、人の手によって与えられていたものだったと。そこには少なからず、人々の善意があったのだと。
もしそれを神の恩寵と呼ぶのだとしたら、ウィルフレッドにとって、人の手の温もりがこそが祈りの形だった。利他を願う動作そのものだった。
「戻ってきてくれ……!」
絞り出すようなその願いの声を、
はたして、聞き届けた者が本当に居たかどうかは定かでない。
ただ、微かに。
青年が両手で包むようにして持った少女の手が、微かに動いた。
ゆっくりと顔を上げたウィルフレッドは、目の間の光景に驚き、小さな声を上げる。それから、みっともなく涙にまみれた顔に、大きな歓喜の色を混ぜて笑った。




