50.法の福音②
富士重力波観測研究所の地上階の狭い電算室の中、
氷室一月は唐突に切れた通話を少々不思議に思いつつ、ひとまず端末を長机の上に置いた。高梨明人の話と発見を頭の中で整理し、ホワイトボードに新たな記述を書き加えていく。
あらためて整理してみると、結論は明らかだった。
彼が懸念しているだろう未来の修正は、恐らく起き得ない。
首尾一貫の原則に反するからだ。
氷室は、ある物理学者が提示したこの原則を支持している。原因がなければ結果は存在し得ない。未来の情報を過去で使用することはできても、それは既に織り込まれた過去だ。変えられるように見えたとしても、変えることはできない。
実に美しく、残酷で、シンプルな図式。
絶対のルール。
残念ながら、世界とはそうあるべきだ。
万象とは、完全な法則、完全な秩序のもとで運営されるべきなのだ。
この世に幻想と混沌は必要ない。
ルールを、サイコロの出目で変えられてしまっては困る。
しかし、それだから尚更、彼の行動が描く最終的な絵を見たくもある。
彼との友誼だけでは合わない割でも、全力で手を貸していいと思えるほどに。邪魔をするなどとんでもない。呟いてから、氷室一月はペンを置く。
一方で、いわゆる運命、神の意志には興味が全く沸かない。無貌の神。その企みがどういった類のものにせよ関わりたいとも思わない。自分にまったく関係のない所でやってくれ、と結論付けて久しい。
興味深いのは、いつだって人間の意志と行動だ。
「にしても、君にはどこまで見えていたんだろうね、マリア」
氷室は数か月前のことを思い出す。
外殻大地を去る氷室に、魔法の福音を持つその少女はいくつかの頼み事と示唆を氷室に与えた。福音と遺物が戦闘向きでない氷室が借り受けていた永劫を高梨明人に託し、彼の財産を異界で換金した。これらは彼女から頼まれたことだ。
そして、
異界に戻ってから天秤の改修に着手したのは氷室の独断だ。
マリアは言った。
異界に脅威が渡り来ると。
そして氷室なりの解釈と対応を行った。是非は他者に委ねる所ではない。
しかし今にして思えば、あれはあくまで備えろというニュアンスであって、立ち向かえという意味ではなかったのだろう。
既に手は尽くしているにもかかわらず、危難は依然として迫っている。
彼女は、変えようがないと知っていたのだ。
氷室が天秤で往還門を止めたのは、不明な手段で異界に渡る翼竜を抑止する狙いも兼ねていた。
効果そのものは狙い通りであったが、結果として時間稼ぎにしかならなかった。さらに無貌の神の暴虐も止められないのであれば、やはり対応として完全とは程遠いと言わざるを得ない。
破滅を回避できるなら方法はどうだって良い。単純に、既にあるものを組み合わせるだけの天秤が一番手っ取り早い対応であっただけで、世の為人の為などという崇高な理念も氷室にはない。そんなものは外殻大地で死んだ。どうあっても駄目なら重研の地下に生活物資を運び込んでシェルターを拵えるというのはどうだろう、などと検討したのも一度ではない。
よって、高梨明人がまた懲りずに、今度はこちらの世界で戦い始めたのは都合がいい。よせばいいのにまた他者のために身を削っている彼を支援し、あわよくば事態を収拾してもらう。そういうアプローチもありだろう。
問題は、可能かどうかだ。気乗りするかどうかは関係がない。
「むしろ、友人としては止めてあげるべきなんだろうけどね」
氷室は長机に開け放しているノートパソコンの画面を見た。
天秤の観測データは未だ極端な波形を描き続け、長期的には悪化の一途を辿っている。
特に天秤の有効範囲外――国外では顕著だ。
冬まではもつまいと見ていた氷室だが、状況はいつも最悪を上回る。高梨明人が苦心して駆除している翼竜も、国外から流入し始めれば数を取り戻すだろう。
「これは新田君が焦るわけだ」
ペット用のホームモニターの画面を起動すると、うまく女子大生をやっているつもりの補助員、新田椎子が画面の中でスマホゲームに精を出す姿が至近距離に表示された。
氷室は地上階の電算室でサボタージュするように見せかけて、仕事のほぼ全てを碌な設備のないこの部屋とキャンプ場のテントの中で済ませている。
現代のスパイはローテクノロジーに疎いらしい。半導体が絡んでいなければ情報の持ち運びができないと思い込んでいる。新田椎子が観測データ以上の情報に触れることはない。
既存技術の延長でしかない天秤の設計図くらいはくれてやってもいいが――
「この可愛いスパイさんも妙な真似してくれてなきゃいいんだけど……そうはいっても仕事だろうし、無理なんだろうなあ」
ホームモニターを消し、氷室は苦笑しつつキーボードを叩いた。新田の私物を勝手に借用し、人探しをやらせておく。その片手間、新田の飼い主が持つ情報を漁る。
彼女たちが地球外異文明の存在をはっきりと認識し、異星と呼称しているのは氷室も知っている。稚拙な対抗兵器の開発もだ。技術と効果のほどは知れていても、個人の活動とは資金力と規模が違う。多少なり使える情報があればいいが、と検索を進める。
「……おや」
途中、一枚の画像を目にした氷室は指を止めた。
それから、眉間を押さえて嘲るように笑った。
「まさか……転送だけじゃなく物理的に繋げてくるとは……恐れ入るよ。どこまで法則を馬鹿にする気なんだ、あの世界は」
いっそ巡航ミサイルでも撃ち込みたいところだ。そう呟くが、一介の学者である氷室にそんな力はない。根本的な解決にはならないとも理解している。
しかし、満更でもないかもしれない。それほどのことが起き得る。氷室一月は不快感を露わにする。
――地上から上空十キロ。対流圏界面付近を捉えたドローン撮影の画像。薄青い空を背景に、陽炎のような薄膜が徐々に広がりつつあった。
《6章に続く》
5章は当部分までとなります。
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