49.シンギュラリティ③
真新しいその大学病院に俺が訪れたのは、おそらく二度目だろうと思われる。断定形とならないのは風変わりな俺の来歴と不確かな記憶のせいではあるのだが、少なくとも覚えている限りで一度、俺はその病院に訪れている。
しかも入院をしていたというのだから、本来なら勝手知ったるとさえ言えてしまうのかもしれない。
実際にはそんなことはまったくなく、俺の自覚している範囲でいえば翌日に退院してしまったし、それ以外の間は寝ていただけなので、慣れる暇などなかった。おおよその設備の位置だとか、何階建てのどこに何があるだとか、売店はどこだとか、あと消灯時間。知っているのはその程度だ。
だから売店への道すがらに目にした、駐車スペースの救急車に貼られた青色のステッカーを目にしたのもまったくの偶然で、別に意図したことではない。
青いステッカーの中心に、切り抜きで描かれている杖。そこから、ひとつ思い出される記憶があった。
アスクレピオスの杖という象徴の話だ。その杖の主、アスクレピオスはギリシャ神話に登場する医学の神、蛇使い座の守護神であるらしい。
俺はやはりギリシャ神話に明るくないので概要しか知らなかったのだが、救急医療のシンボルマークとなっている彼の杖にはなぜか蛇が巻き付いており、いったい如何なる由来なのだろうと疑問に思ったので特に記憶に残っている。そもそも、なぜ医学の神が蛇使いになるのだろうかと。疑問に答えてくれた前任の叡智の福音は、星や星座のことになるとよく喋った。
結論からいって、古代ギリシャでは蛇が知恵や癒し、復活の象徴であったのだという。現代日本の若者である当時の俺の感覚からすれば腹落ちの鈍いところではあったが、そうなのだそうだ。よって天に上げられたアスクレピオス氏は健康の象徴として鰻を捕まえるような格好で大蛇をびちびちさせているというわけだ。
なんでも、名医として身を立てたアスクレピオスは腕の研鑽に励んだ末、死者の蘇生までもを達したのだという。
特に俺の耳に残ったのは、アスクレピオス氏が死を克服したという手段だ。女神から授かったという怪物メデューサの血。それを調合した薬で死者の蘇生を為したのだという。この怪物の髪が蛇であったという点にも、杖の蛇との因果を感じてしまうところだ。
そして、彼はその腕前を疎んじた神々によって雷で撃ち殺された挙句、腕前だけ惜しんだ神々に天に上げられて神になったそうだ。
冥府の王は自らの国が空っぽになると不満を述べ、全能の主神は氏が他者にその秘儀を伝えるのではと恐れたというが、死なせずに神にはできなかったのだろうか。まるで禊であるかのように死を挟まなければ、人は夜空に上がることもできないのだろうか。
実に業腹な話だ、と俺が言うと、叡智の福音はごく微かに笑った。
褪せた記憶を閉じて救急車から目線を引き剥がすと、俺はリノリウム床の廊下に立っていた。ああ、飲み物を買いに行く途中なのだったと思い出して、独特の匂いがする廊下を進もうとした。
もし。
起こり得る全てのことに意味があるのだとしたら、俺がこの日、この場所でそれを目にすることにも何らかの意味があるのだろう。
或いはそれは、最初から最後まで仕組まれていた必然なのかもしれない。悪魔のような何者かの思惑によって、精巧な機械仕掛けのように計画されていた出来事なのかもしれなかった。
通り過ぎようとした病室の前で、俺はふと立ち止まる。
目の端に入った。
扉の隣に掛けられたプレート。そこに記載された患者の氏名が。
足を止め、俺はしばらく床の光沢を凝視した。
なぜその可能性に思い至らなかったのかと、幾度も自問していた。
往還門による転送は時間移動を伴う。常に。
つまり世界間の移動とは、時系列がそもそも意味を為さない。
曖昧にしか理解できないが、次元を超えるということはそういうことなのだ。
――だからこんなことが起き得る。
だが。
だからといって。
「……どうしろというんだ、俺に」
俺はスマートフォンを取り出し、連絡先のアイコンに触れる。
コール音は数回で収まった。
『おや。どうしたんだい、明人君。わざわざ電話をかけてくるとは珍しい』
声の調子から、人懐っこい笑みを浮かべる男の顔が目に浮かぶようだった。
氷室一月。LIBRAや目下の問題である翼竜と無貌の神の件で話し合いたいこともあったが、今はそれらよりも優先すべきことがある。
「悪いが前置きはなしだ。聞きたいことがある」
『……何かな?』
「お前が最初に現界……外殻大地に移動させられたのはいつだった。体感の話じゃなく、今年の何月だった教えてくれ」
『うん? 体感じゃなく、か。そうなると……五月だね。ちょうどゴールデンウィークの辺りだ。戻ったら八月で参ったよ。危うくクビに……』
「氷室、俺は七月だ」
端末の向こうで氷室が押し黙った。
思慮を巡らせているのだと推測して、俺は俺の考えを口にする。
「おそらく……俺たち九人が呼ばれた時期はバラバラだったんだ。全員かどうかは分からないが、俺とお前が違ってて、他の奴らが呼ばれた時期だけ綺麗に揃ってるってことはない気がする」
『なるほどね。確かめようがないけど……それはありそうな話だ。しかし、どうして今さらそんなことを気にする』
「さっき、知り合いの子が持っていかれそうになった」
『……!』
「きっとまだ途中なんだ、氷室。俺たちが勝手に終わったつもりでいただけで、きっと今はまだ途中だったんだ。でなきゃ、また人が送られそうになったことの説明がつかない」
往還門で異界に戻った俺と氷室は、七月末――俺が現界に招かれた日を基準にして異界に帰還した。しかし、実際に往還者たちが送られていた期間はそれとは何の関係もないのだとしたら。氷室が送られたという五月から、瑠衣が送られそうになった今日、十月までを含めたもっと広い範囲の期間だったとすれば、筋が通ってしまう。
そして、俺たちは結果だけを知っている。
往還者は九人だ。もしかすると、送られたものの人知れず命を落とした者も居たかもしれないが、それはもう分からない。
だが、確実に送られた九人だけは判明している。
『……言いたいことが分かったよ。つまり、マリアやカレル達がまだ今のこの世界に居る可能性があるってことだね』
「探せるか?」
『ファーストネームしか分からないマリアは難しいと思うけど……やってみよう。でも、見付けてどうする。まさか……』
もし現界に送られる前の彼、ないし彼女たちと幸運にも接触できたとして。
彼らに待つ過酷な運命を告げて備えてもらうのか。或いは何も告げず、ただその招きを阻止すればいいのか。
どちらにしたって未来が変わる。
それも、ただ変わるというレベルでは済まされない。絶対に。
俺の知る現界の千年に大きく関与した九人のうち、誰か一人でも欠けたら歴史が全く違う形になる。想像に難くない。
もしカレルが居なければ、ウッドランドなどという国家も存在しなかっただろう。当然、マリーやミラベル、カタリナも最初から居なかったことになる。俺の千年も泡沫のように消え失せてしまうのかもしれない。しかし――
「……わからない。ただ……黙って見てもいられない」
『それは……そうだ。気持ちは分かる』
俺たちが現界でどんな目に遭ったかを考えれば、手放しで放置はできない。
できない。
「少し……確かめる。また後で連絡する」
『確かめる?』
答えず、俺は通話を終了して向き直る。
目の前の病室のネームプレートを改めて確認し、ただの偶然、同姓同名の別人であったならどんなに良いだろうと願った。ただそれだけの話であれば、俺と氷室に新たな気付きがあったというだけで済むからだ。
ただ、そうではないのだろうなという予感はあった。
白瀬柊。
昔、そういう名前の奴がいた。俺や氷室と同じ往還者で、日本人。共通点があるということでよく組んでいたし、他は外国人だったので、日本人同士でしか分からない話題で盛り上がることもあった。ダウナーな奴だったので反りはあっていなかったように思うが、不思議とマリアの次くらいに一緒に居る時間が多かったと記憶している。
俺は勝手に、彼女を親友だと思っていた。別離の時まで。
病室の扉にノックをする。
返事があればそのまま去ってしまおうと思っていた。しかし何の応答もなく、それでも、魔力感知によって中に人がいることは分かっていた。
問題行動だろうな、と分かっていながら俺はスライド扉を開けた。
中は、俺が入っていた個室病棟と間取りは同じだった。温かみのある色合いの床や腰壁が彩る空間に、意外と充実した照明やテレビなどが置いてある。過ごしやすく配慮された病室。
同じなのはそれだけだった。他は何もかもが違っている。
ベッドの上に見えるものは、おかしなシルエットをしている。そのせいで一瞬、なにかの機械が置いてあるのかと錯覚した。人工的な二色、三色も見えた。それらは何かのチューブの色で、幾つも伸びて傍の機材に繋がっている。ぐねぐねと伸びて、まるで蛇のようだった。
義務感だけで、俺は歩を進めた。色だけ温かい床が硬い靴音を立てても、ベッドから聞こえるのは空気の漏れるような不自然な音と、規則的な動作音だけだ。
やがて顔があるだろう位置に僅かに肌色が見え、足が義務感だけでは進まなくなった。唇が渇き、何に対する悪罵かもよく分からないまま、口の中で毒づく。
それから、止めていた息を吐いて足を動かして、俺はベッドの傍に立った。
白瀬柊は――千年後の現界でアリエッタと名乗っているその少女は、目を閉じて眠っていた。
人工の蛇に埋もれた姿で、どこにでもいるような普通の女の子の顔をしていた。髪も黒く、ただの人間であるかのように青ざめた顔で、今にも息絶えそうなほど弱々しく横たわっていた。
俺は、詰めていた息を吐いた。
そうして、自分でもよく分からないことを口にした。
「……はっ……そりゃ、生命の福音だろ……お前。そんなだったら……他にあるわけないじゃないか……?」
そんなふうに言ってみても、音は機械のものしか生じない。
どこまでも規則的に、時間を刻み続ける。
決して戻ることはない。
「……どうしろっていうんだ、本当に」
悪魔の笑い声がする。
頭を抱えるしかない俺を、どこかで笑っているに違いなかった。




