47.シンギュラリティ①
一分ほど自動販売機の前で人差し指を彷徨わせる俺は、この十一月間近の気温に相応しい飲料温度とはコールドであるべきかホットであるべきなのかという、ただそれだけの問いに答えることもできない己の無知を呪っている。
個人的にはまだコールドで問題ない体感気温だが、この体感気温というものが厄介で温度の感じ方には男女差があるのだという。三度から五度ほど。それほどまでに違うのであればやはりホットにすべきなのかもしれないなと、日中でありながら冷えた風を感じつつ推測した。まだ若干迷いながらも、ホットのココアをチョイスして俺はボタンを押下する。
押してから思ったのだが、甘い飲み物は気分と好みの分かれるところであったかもしれない。無糖の茶の方が良かったか、などと常の優柔不断ぶりを発揮しつつ、俺はようやく暖かい缶を拾い上げた。
殆ど記憶にない、ずっと住んでいるだろう故郷――ごく一般的な郊外の街である芥峰の駅前風景が周囲にはあった。異界に戻ってからというものの何度か足を運んでいる筈だが、いつまで経っても慣れる気配はない。街といえば石畳の街路であるような気がしてならないし、アスファルトの上を歩くより無舗装のあぜ道を歩く方が快適で性に合っているような気さえしてしまう。
そんなふうに現界の残り香を噛み締めつつ歩く俺は、数メートル先で小さく手を振る女の子に手元の缶を揺らして見せた。
小比賀瑠衣。おさげを丸めた黒髪が印象的なその女の子は、土曜日だというのに芥峰の制服姿だった。部活にでも出ていたのだろうかと勘ぐってはみるものの、吹奏楽部のスケジュールなど帰宅部専門の俺には想像もつかない。楽器とはどれほどまで熱心な練習をして習熟していくものなのだろうか。
そしてネットを活用した事前学習によると、こういった機会には女性の服装をまず褒めるべきだとのことだったのだが、まさか出だしから躓くことになろうとは思わなかった。瑠衣に制服が似合っているのは確かなのだが、それは単に彼女が相応の年齢で学生だからだし、明確な言葉にすると別の意味になってしまいそうで少々憚られる。
「……?」
挙動不審の俺に気付いた瑠衣は自分の出で立ちに視線を落とすが、そこに違和感は持っていないらしい。不思議そうな顔をするだけだった。
ああ、事前学習の信頼度が地に落ちようというものだ。そもそも俺と瑠衣の間で艶っぽいあれこれなどがあろう筈もないので、一般的な男女間コミュニケーションの情報など役には立たないということなのだろう。
「いや……なんでもない。おはよう、瑠衣」
「……おはよう、高梨くん」
意識的に簡便な納得をして歩き出した俺に、瑠衣は少し遅れて横に並んだ。そのとき、ふと視線のような気配を感じた俺は周囲をぐるりと一周見回した。ほぼ習慣になっている魔力探知も行うが、特に異常らしきものはなく、異界の人間特有の微弱な霊体反応があるばかりでこれといった発見はない。過敏になりすぎか。そう片付けて、歩きながらココアの缶を瑠衣へと差し出す。
「ありがとう」
少し驚いたような顔をした瑠衣は、ややあってから缶を大事そうに受け取った。それだけでも悩んだ甲斐はあったというものだが、彼女のぎこちない笑顔を基準とした微妙な表情変化を読み取れるようになってきたのも喜ばしいことだ。
瑠衣は歩きながら常の曖昧な顔で言う。
「……アルバイトのほうはどう? まだ忙しい?」
「だいぶ落ち着いたな。少なくとも今日は朝までぐっすり寝れたよ。先週なんかはヘリん中で寝てた時間の方が長かったからな……」
「大変そう」
「うるさいけど意外と寝れるんだよ、これが。でもやっぱ眠りが浅いというかなんというか……疲れがぜんぜん取れん」
「うん……先週はくまが酷かった……」
「まったく、寝不足慣れしてなきゃ大変なことになってたところだ……二重生活ってのは容易じゃないな、実際。やるもんじゃないよ」
慣れてはいるが、駆けずり回って翼竜の駆除をしているぶん、セントレアでの門番生活よりも多分にハードだ。剣の福音が以前より強まっているおかげもあって駆除自体に大きな苦労はないのだが、いま医者にかかったら過労と診断されるに違いない。
はっはっは、と空笑いする俺に、やはり曖昧な顔で瑠衣は問いを放った。
「……あの蜥蜴ってなんなの?」
難しい質問だ。俺は辺りを――人の姿のまばらな商店街を見てから、まあいいかと口を開いた。
「おそらくだけど、よその世界からやってきたものだろう。どうやってかは俺にもよく分からない。目下調査中」
「……よその世界」
「中近世あたりを想像してもらえばたぶん近い。細かいところが違うが、概ね誤差の範囲かな」
魔術がバンバン飛び交って騎士が音速を超えている以外は、概ね。
いまとなっては巷に魔獣が跋扈し始めているこの世界の方が異常である。少なくとも、現界では滅多にあることではないからだ。
「実は俺も最近まで行っててさ。だからまあ、あれが何なのか知ってるわけだ」
「……なんか、すごく軽く言うんだね……?」
「知ってる人は知ってるからなあ」
万一話がどこかに漏れても、何かの冗談かゲームの話だと思われるくらいだろう。もしこの話が真剣に人に受け止められるようになっていたとしたら、その時はもう、隠す必要があるような情勢ではないに違いない。
「その世界には竜種がいて、まあ、それが馬鹿みたいにデカい……ビルくらいの大きさの爬虫類だったわけなんだけども、そういう体をしてると色々不便があったそうだ。細かい作業ができないとか、背中が痒いとか」
「……そ、そうなんだ」
瑠衣はなんとも複雑な顔をした。遥か昔、竜種の姫君に聞いた話なので確かかどうかは俺にも何とも言えない。記憶も曖昧だ。
「困った竜種が最初に作った小間使いのような生き物が、あの翼竜であるらしい。大仰に言うと眷族だな。で、当の竜種たちが滅び去ったあと、野生化して山で繁殖して人里を困らせてる……ってのが、俺の知ってるあの生き物の概要だよ」
俺の素晴らしい要約を聞いた瑠衣は、複雑な顔のままでぽつりと言った。
「なんだか……外来生物みたいだね」
「外来生物?」
「……外国から持ち込まれた生き物が繁殖して生態系を壊しちゃう……みたいな話……聞いたことない?」
「ああ……なるほど。似てるかもしれない」
侵襲されているのが世界そのものだという点を除けば、今の異界の状況も似ている。魔素に適応していない異界の生物では、魔素ネイティブな魔獣である翼竜には歯が立たない。生態系の崩壊を招くだろう。
当然、ただの学生でしかない瑠衣にそんな不穏で不確かな話をするわけもなく、俺は意図的に話題を転換した。
「ガス爆発ってのは無理があるよな」
「……そうだね」
パークの一件について警察や政府が流布している情報は、それがすべてだった。まず間違いなく翼竜の存在を把握していながら、公にするつもりは今のところないのだろう。おそらく、何も解明できていない。対応の目途が立っていないからだろう。
公安――というより永山管理官が個人の思惑で動いているのは、対応を主導しているという不明災害対策本部なる組織から切り離されたのが理由らしいが、結果的には公安がこの国で一番先を行った対応をしているあたり皮肉だ。
などと話している俺たちが軒先を横切った本屋には、怪生物の特集が組まれた週刊誌のポップなどが大きく貼られていて思わず目を寄せてしまう。
「……人の口には戸が立てられない」
「そうだな」
時間の問題なのだろう。それでも、俺は俺のやれることをやるしかない。これも意識して簡便に片付けて、俺たちは歩を進めていく。
***
道の半ばまでは知っている場所ばかりだったが、後半に差し掛かるとまったく記憶にない街だった。事前に目的地を知らされていない俺は、いつのまにか先を歩く瑠衣についていく形になっていた。
十五分ほど未知の住宅街を歩いたあたりで、瑠衣は唐突に立ち止まった。どうやら目的地についたらしいが、そこはただの住宅街の一角でしかなく、自然、俺は習慣的な観察をするしかなかった。
大きな庭に数台分の車庫。大型の戸建て住宅が並ぶその一帯は、おそらく富裕層の家庭が大半を占めるのだろうと思われた。玄関ドアなどの建具も真新しく凝った造りをしている。高価なのだろう、とだけ想像をして視線を移す。
計画的に整備されだろう宅地と思しきその区画は、道路の向きも網目状に揃っている。瑠衣と俺が立つ道路もそうで、景観に緑を添える街路樹と共に、区画に沿ってまっすぐ伸びている。
高そうな住宅街だ。結局、観察した結論はそれだけだった。
見覚えもない。ないはずだ。
「本当に覚えてないんだね」
しばらく俺の顔を眺めていた瑠衣は、曖昧な笑みを消した、色のない顔でそう言った。正とも負ともとれない、或いはどちらでもない表情で淡々と告げる。
「……上がって」
そう言われ、俺は初めて目の前にある結構な豪邸の表札を見た。小比賀。しっかり物を見るようにしている筈だというのに、見落としていた。
無意識に見ないようにしたのか。それとも、単に目に入らなかっただけなのか。さらっと玄関に達した瑠衣の背中を追うが、俺の足はどんどんと重くなっている。理由は分からない。
もしかすると、土曜の午前というシチュエーションが良くないのかもしれない。瑠衣の家族などが在宅で、もし顔などを合わせるようなことになったら、俺は正直どうしていいか分からない。
おはようございます、瑠衣さんの同級生の高梨といいます。
瑠衣さんには日ごろから大変お世話になっておりまして――切り出しはこんな感じだろうか。どこかしっくりこない気もする。体感的に知り合ったのが最近なのでそのせいだろうか。いや、下の名前で呼んでいるのがそもそも奇妙なのだ。馴れ馴れしすぎる――
と、玄関で煩悶する俺だったが、足を踏み入れると杞憂だと理解した。
小比賀邸には人の気配がなかった。掃除の行き届いた玄関には瑠衣以外の靴もなければ出入りの痕跡も殆どない。車庫に車がない時点で察するべきだったのかもしれないが、どうやら小比賀夫妻は留守にしていると見えた。
思考が顔に出ているらしい。玄関脇の収納からスリッパを出してくれた瑠衣が、やはり淡々と言った。
「最近は滅多に帰ってこないから」
「あ、ああ……そうか」
さぞ仕事熱心な御両親なのだろう。良く言えばそうだが、もし客観的に評するなら、小比賀家はうまくいっていないようだ。
それでも離散蒸発した高梨家よりは良いのだろう。などと他人事のようにしか思えない事実を再確認していると、瑠衣はパタパタと廊下の奥へ行ってしまった。気は進まないながら、後を追うしかない。
先日の騒動のさなか、過去のことを何も覚えていないと瑠衣に明かした俺だが、なにかが拗れていた気配が濃厚である以上、過去の俺と彼女の関係を知るべきだと考えている。
ただ、以前がどうであろうと彼女と友人として付き合っていくと決めているので、個人的な心の整理の域を出ない話ではある。俺の忘却に安堵していた様子の瑠衣が説明を拒むのであれば、さっぱり忘れて気にしないことにしてしまおうとも思っていた。
そういった考えを瑠衣に伝えたところ、休みに会って話がしたいという運びになり現在に至っている。目的地は知らされていなかったのだが、まさか小比賀家に招待されるとは夢にも思わなかった。
その理由は、瑠衣の部屋らしき小綺麗な居室に足を踏み入れた瞬間に分かった。妙にシックな色遣いの家具ばかりで曖昧に想像していたような可愛らしさのある部屋ではなかったが、むしろ瑠衣らしい。それはいい。
書棚に木製の写真立てがあった。
小学生くらいの男の子と女の子が映っている。運動会だろうか、そのあたりのイベントの写真らしく体操服などを着ていて、背景に複数の男女も映っている。
瑠衣はその写真を見る俺に気付くや、すっと手を伸ばして写真立てを倒した。よくよく見れば、同様に伏せられた写真立てが他にもいくつかあった。それらが何なのかをわざわざ問わねばならないほど、俺は鈍くはない。
「……俺たちが初めて会ったのって、いつなんだ」
もう疑問はそこだけだったが、それは瑠衣の予定していた順序ではなかったのだろう。やや戸惑い気味に彼女は言った。
「最初は……小学校の入学式。親同士の仕事の関係で……」
「……マジか」
家族ぐるみの付き合い。
しかもそんなに昔からとなると、もはや幼馴染といっていいだろう。思わず眩暈がしてしまう。マリアのことといい来瀬川教諭のことといい、なぜ俺は重要な人たちを忘れてしまっているのか。或いは、大切だからなのか。
「中学は別……演奏の関係で高校は近所にしなきゃいけなくて……それで、また一緒の学校になったんだよ」
そう聞いてもまだ、自分のことだとはまったく思えなかった。ただ、中学生という多感な時期に三年間の空白があったのだとすれば、一度疎遠になったのだろうと推測できる。
一度疎遠になった異性の友達と高校で再会し、はたして上手く付き合えるだろうか。俺に限って言えば可能性は皆無だ。ありえない。過去の自分の情けなさに気が遠くなりつつ、俺はぼやいた。
「はあ……なるほどな。なんとなく読めてきた。どうせまともに話すのが照れ臭くて酷いことを言ったんだろうな……」
「……照れ臭い?」
「いや、苦手なんだ……女性と話すのが」
異性に免疫が無いという、あまり人に言った記憶のない自分の弱点を吐露する。より正確に言えば、女性と正対した状態で目を見て話すのが苦手、だ。距離をとればある程度は問題ないのだが、それはいい。どうでもいい。
おそらく初めてだった。
小比賀瑠衣が曖昧でない感情を――明確な怒りの表情を見せたのは。
「違うよ。そんなに楽しい話じゃない」
呟くその声も、いつものか細い声から冷たく変じている。これで彼女が俺に怒っているのなら分からないでもなかったが、瑠衣の目線は俺にはなかった。
写真だ。先程の写真立てに向けられている。おそらく、背景に映っていた男女にだ。引き攣った瑠衣の顔は、いつもの曖昧な笑顔からすればまるで別人のようだった。
「……うちの母が浮気してた。その相手が……高梨のおじさんだった」
まさしく言い捨てるように発せられた瑠衣の言葉に、俺はやっと、正しく経緯を理解する。思い出せない過去に何があり、どうして瑠衣が自分が嫌われていなければならないと断じたのか。その理由を悟った。
しかし俺は、特に大きな衝撃を受けたわけではない。
無論、腹立たしい気持ちもあったし、一番悪いのは俺の父親で、人様に迷惑をかけた親を恥じる気持ちもあった。酷い話だとも思う。
ただ、それらは瑠衣に申し訳ないという気持ちを上回らない。何せ俺は、父親の顔も思い出せない。実感も殆どない。
「君に何を言ったんだ、俺は」
「何も。ただ、話さなくなっただけ……お互いに」
語調からしていくらか嘘だなと直感した。
大きく息を吐いて、頭を掻く。
それから俺は、彼女の思いやりを無下にした。
「本当は?」
瑠衣は――
記憶にない俺の幼馴染は、僅かな躊躇を見せた後、観念したかのように言う。
「……お前に思い出させると悪いから、もう話さないようにしようって」
ああ。
そいつはまた不器用なやつだな、などと自分を棚に上げて俺は思った。おそらく彼は、そうやって自分から人を遠ざけて守るしかできなかった。他のやり方を知らなかったのだ。
「……すまない。悪かった」
そう言われて、気弱な瑠衣が距離をとらないはずがないとも分かっていたはずだ。彼はそれで事を終えたつもりでいたのだろう。しかし、そのやり方は、その思いやりは明確に瑠衣の気持ちを無視している。行き場のなくなったその気持ちは、恨みとなって母親に向いたはずだ。故に。
「死ねばいいのにって思ったよ、あのひと」
焦点の合わない目で、彼女ははっきりとそう言った。
これが、小比賀瑠衣の中身だ。
俺はそう確信した。
「高梨くんの家を……私たちをめちゃめちゃにして……なんで平気な顔して生きてるんだろうって思ったよ。気持ち悪い……早く死ねばいいのにって」
「瑠衣、悪いのはうちの親父だ」
「違うよ。あのひと汚いから……本当、なんで死なないんだろう」
言葉の意味は窺い知れなかったが、今の俺が踏み入っていいラインを超える気がした。根底にある原因は、この件だけではないのだろう。瑠衣の瞳には、並々ならない嫌悪――憎悪が見える。
或いは、本当に実行したのかもしれないと思わせるほどに。
ああ、だから小比賀家には人の気配がないのか。
ここはきっと、体裁だけが家という建物で残っているだけなのだ。
かつての高梨家がそうだったのと同じように。
そう気付き、俺は再び詰めていた息を吐いた。
色々と納得をして、少しだけ考えを巡らせた。かつての高梨明人には悪いとは思うものの、俺はもう彼ではない。彼のやり方を踏襲するつもりはまったくない。
空気を完全に切り裂いて、俺は言いたいことを言うことにした。
「よし、じゃあ今からうちに遊びに来るか?」
「……えっ?」
「今日は来瀬川教諭とミラベルがゲームでバトルしてる。一度何かにハマると寝食忘れるんだよ、あの人たち。相手してくれ。俺は飯でも作るから」
そう言って苦笑する俺を、瑠衣は虚を突かれたような顔で見やる。
「……なんでそうなるの? え? なんで?」
彼女が吐き出した憎悪が俺の目にどう映ったのか。少なくとも忌避される類のものだと瑠衣は思い込んでいたのだろうが、痛ましくはあっても怖くはない。
あまりよく知らない幼馴染は、更に何かを言おうとした。が、うまく言葉にならないようなので、俺は結論だけを先に言うことにした。
「また始められるかもしれない。そう言ったろ。だから、また始める。どうして自分たちに関係のないことで繋がりを失わなきゃいけない。もう二度とくだらないことを思い出せなくなるくらい上書きすればいいだけだ。俺が忘れさせてやる」
喋りながら、心から尊敬している来瀬川教諭の言葉が想起されてしまい、オーバーラップして最終的におかしな台詞になった。言い終えてから、下手な口説き文句のようになってしまったと気付く。実際、来瀬川教諭とのやり取りはそういった流れの中でのことだったのだが――俺はみるみるうちに紅潮する瑠衣の顔を見た。同時に、自分が似たような顔をしているだろうことも自覚する。
誤魔化すように、俺は言葉を重ねる。笑えるようになった今だから、笑いながら言うのだ。かつての高梨明人が求めた言葉を。
「だから、息苦しいならさ。こんなとこさっさと出ようぜ」
瑠衣は目を瞠った。それから俺の差し出した右手を、まるで信じ難いものを見るかのような面持ちで見つめた。
話をして、謝って、仲直りをする。そうしてまた始めればいい。何度だって。取り返しのつかない事ではない筈なのだから。
瑠衣の手が、恐る恐る伸びた。
その細い手を取ろうと俺は手を伸ばし、そして。
唐突に、変哲のない居室の風景が大きく歪んだ。
ノイズのような不気味な音が鳴る。聞き覚えのある音。歪な音。有り得てはならない音。瑠衣を中心として、可視光が歪曲しているのを俺は見る。
現象攻撃。
戦慄と共にそう直感するが、瑠衣は確実に往還者ではない。現に瑠衣は、手を伸ばしたまま固まっていた。右目だけを閉じて、蒼白の顔で震えていた。
「……ち……ちがう……ちがうの! もう違う! やめてッ!」
彼女が閉じた目で何を見ているのか、俺には分からない。
しかし、俺の内にある何かが、激しい警鐘を鳴らしている。これをこのまま座視してはならないと叫んでいる。
咄嗟に再度手を伸ばすが、瑠衣の周囲に生じている歪みに弾かれた。福音に起因する現象において、物理的な干渉を伴うほどの歪みなど、俺は目にした事がない。
似ているが、異なる。これは現象攻撃ではない。もっと強力な――まさか。
あまりにも恐ろしい推測に、全身が総毛立つ。その推測を裏付けるかのような叫びが、瑠衣の口から迸った。
「――連れていかないで!」
次の瞬間、俺は、決して持ち込んではいないはずの。
家に置き放していたはずの古びたる剣を抜き放ち、剣の福音を行使していた。すべてを無意識のうちに。不可視の歪みにへと向け、刃を振り下ろしていた。
最初の招き。
俺たちを、往還者全員を現界に送った者が居る。
その何かは、人の姿をしていない何かは、無貌の神は、こうやって人間を引きずり込んでいたのだ――あの地へ!
「てめぇ――ッ!」
嫌悪と衝動的な怒りが、俺の口から吹き上がった。
現象攻撃を当然の如く纏わせた一刀が、歪みに干渉して一層のノイズを響かせた。まるで沼に剣を撃ったかのような手応えと共に、僅かずつ刀身が進む。斬れる。そう確信して剣に全力を籠める。
その瞬間、俺にも見えた。
人影のような何か、遠い彼方に在るその者の姿。人の言葉を解さないそれは、イメージの向こうでなにかを伝えようとするが、俺には分からない。それは人に解釈ができない。
いずれにせよ、絶対にさせない。
強化された剣の福音、その全霊をもって阻止する。剣を振り抜き、不可視の歪みを打ち払った俺は、そのままの勢いで部屋の中央にくず折れる瑠衣へと跳んで彼女を抱き留めた。
しっかりと掴んだその身体が消えてなくなるなどということは起きず、俺は大きく安堵の息を吐く。しかし、腕の中の瑠衣は、目を閉じて動かなかった。
息をしてはいても、動かなかったのだ。




