44.東方連合②
屍より持ち上がった人影は、やがて黒衣の男の姿をとる。
細い。まるで骨のようだと傍らの王が呟くのを、白の少女は愉快な心地で聞いた。ようだ、ではなくあれの体躯は殆どが骨である。薄皮と少量の肉、臓腑はあっても、血液は詰まっていないと見えた。不死者だろう。
「……ここはお任せくださいな、陛下」
刺繍をあしらった特注の法衣を翻し、蓮の杖を携えた白の魔術師は玉座の前に歩み出た。戴く王、少年の如き少女が玉座から立とうとするのは白杖で制する。其れに及ばず、という体だけはとるものの、白の少女には見えている。この幼い王ではいささか荷が勝つ。手間をかけて修復している城塞をまた壊すのも物憂い。
骨のような黒い男が声を発した。
「おお……! あらためてご挨拶をば。お初にお目にかかります……わたくし、ウッドランド皇国の魔術師、アシル・アドべリと申します。お会いできて光栄の至りでございます、生命の福音」
「人語を解する死体……ずいぶんと気色の悪いものを作ったものだわ」
「恐縮にてございます……この身は死を超えておりますれば……」
芝居がかった男の口調。
それはまた、また随分と皮肉が効いている。
白の少女は黒き死体を嗤った。
「わりとしっかり死に囚われているように見えるけれど……あら、何人前かしら。よくも集めたものね……」
「陛下には死の外典福音と呼ばれておりますゆえ……このような在り方をしております」
「へえ……そう……」
生命の福音、アリエッタは多少の驚きをもって言葉を聞いた。
遊離した殻とは。死体を捏ねた肉人形ごときには過分な呼称である。が、意味を解っているのであれば、この千年で時の福音も段階を上げたとみえる。
驚きを畏怖と捉えたか、笑みを浮かべる男が言った。
「此度は偶々近くに寄りましたので……もののついでにと、東方連合を名乗る蛮族どもめらの頭目。その首級を頂きに参上しました。どうぞひらにご容赦を……」
「――ピスティス、賊だ! 傭兵騎士団と玉座に来い!」
決定的な宣言を聞くや否や、ルカは伝声術にて騎士たちを呼んだ。
顔面を蒼白にするこの王にも理解できている。アシルと名乗るこの不死者が、およそ人の手に負えるものではないということを。
現界に数多ある伝承。
それらに謳われる魔王たちと比肩する、強大なる魔性であると。
片鱗が見えた。黒き男から伸びる無数の腕、透ける霊体の手が。揺れて蠢き、揺れるたびに闇色の尾を引く。その掌に浮かぶ亡者の貌が。たちまち暗黒に包まれる玉座の間にて、若き賢王は慄く。
「亡者の王だとでもいうのか……!?」
切り札たる玉璽を構えるルカだったが、その前に立つアリエッタが蓮の杖で軽く床を突いた。制止の合図である。やはり及ばず、とだけ伝える仕草だった。
玉璽を使っても戦いにはなるのだろうが、城が壊れる。そんな意図の下、ただひとりで膨大な暗黒と相対する白の宮廷魔術師は、しかし、恐怖の色も畏怖の色も持っていない。
それは彼女が光に立つ者だからではなく、より深い暗黒を知る者であるからにすぎない。眼前の黒い男が放散するのは魔術が作り出す影。虚栄だ。真なる闇とは黒ではなく、あたかも光のように振る舞うものだ。
「ああ……」
面白くない。
やや趣きのある木偶かと思えば、もう飽きてしまった。
気怠さが再来し、アリエッタは肩を落として溜息を吐いた。
「あなた……もしかすると阿呆なのかしら……? それとも、なにか皇帝の不興でも買ったの?」
最大限の優しさでもって質問をした少女を、吹き荒ぶ闇の中の外典福音は解せぬという面持ちで佇む。
「あなたの独断かと問うているのよ」
分かりやすく言い換えると、男の骸は嘲笑を顔に刻んだ。
「蛮族ごときの処理をするのに陛下のお許しなど要らぬでしょう」
「ああ、なるほど……阿呆の方だったようね……ありがとう」
アリエッタは蓮の杖を持ち上げる。
生命の福音の現象攻撃、奪命。その白い杖に指された者は、あたかもそれが運命であるかのように確実に絶命する。当然、ルカも男の骸が弾け飛ぶ様を想像した。常の如くそうなると。
しかし――杖で指された男の骸に変化はない。逆襲とでも言わんばかりに、周囲を覆う闇から無数の何かが矢のように撃ち出された。それは白い弧形の円筒。肋骨に似た骨の片であった。これはまた気色の悪い術を、と顔をしかめるアリエッタの腕や腹に、まさしく矢の如く深く突き刺さる。
十ほどの骨矢に貫かれた白い少女は、床に膝を付いた。
赤に染まる少女の足元、大きな血溜まりが広がっていく。
「アリエッタ!」
叫ぶルカは彼女の弱点を知っていた。
アリエッタは――生命の福音は不死身だが、矢や杭、短剣といった異物に身を貫かれた状態では肉体の再生が効かない。異物を体内から除かなければ傷が塞がらないのだ。あの死人の王はそれを知っている――
「阿呆はどちらでしょうかねえ、生命の福音! 御身の持つ奪命の神威は、確かに生あるものの天敵でありましょう! が、人を超え、死をも超えた私には通じない! 死者から命を奪うことなどできはしない!」
勝ち誇ったように闇の中の男が哄笑する。
「であれば! 御身は死なぬというだけの、只の小娘にすぎない! 磔にして陛下への手土産とさせていただく!」
ルカは理解する。
この敵は、違う。この世界にある本当の神秘を知らない、皇国の騎士や魔術師といった今までの敵とは根本的に違っている。
この敵はアリエッタという奇跡の担い手の存在を知ったうえで、勝算を持って襲来したのだと。七年ものあいだ皇国を退け続けた王国の守護者、伝承の英雄を戦って下せると確信している。アリエッタの神秘だけで勝ち得てきた今までの敵とは、違う。
これが、ウッドランドという深淵で淀む悪夢の一片。
そしてこの死人の王でさえ、気まぐれに這い出ただけの一滴にすぎないのだとしたら――考えが甘かった。戦争の勝ち負けなど考えるだけ虚しい。その地獄の窯が溢れる前に、現界に住まうすべての人々のために、いますぐにでも生存戦略を立てなければならない――!
「はははは! 空虚! 空虚! 来たれ軍勢! 死より来て死に至れ、其れは衰退の執行官!」
大魔法。
背筋を悪寒が駆け抜け、ルカは弾かれたように右手の指輪、玉璽を構えた。
渦巻く闇が合唱する魔術を、この賢王は古き文献によって知っている。
これは、いったいなんというものを詠唱しているのか。それは人間の住まう地で用いていい術ではない。決してないはずだというのに。
戦慄と共に身構える賢王と闇とを挟み、回廊から玉座の間へと人影が殺到した。王が呼びつけた騎士たちであった。
「ばかな……! なんだこの化け物は……!?」
「陛下、ご無事ですか!? 陛下!?」
五人ほどの騎士たちは狼狽えながらも一斉に剣を抜く。
この惨状を見て戦意が起こるだけ重畳といえたが、まったく人が足りない。
ルカは王として叫んだ。
「ぼくのことはいい! 刺し違えてでもこれを討ち果たせ! これを絶対に玉座から外へ出すなッ! 術師に障壁を――」
「――虚栄の軍勢!」
忌まわしき死霊術が完成する。
闇が膨れあがり、一斉に沸き立った。そのはためく帳の奥から、幾百もの意思なき魂たちが吹き出してくる。玉座の間を、瞬く間に影から持ち上がった骨の兵たちが満たす。それらは死霊術によって生み出された意思なき魔兵。生ある全てを殺戮するまで止まらない。
その最大が百で収まるか、千にまで達するのか。ルカには窺い知れない。これをそのまま解き放ってしまえば、城塞どころか都市が死ぬ。
もはやどうにもならない。玉璽を行使すべく手を振るったルカの足を、しかし、闇から生まれた骨の腕が掴んだ。そのまま引き倒され、魔兵たちが群がった。咽んだルカは、己の顔を押さえ込む指骨の隙間から見た。
「此の地で滅びるがいい、蛮人ども! 七処の果てで永劫に朽ちゆけ! はははは!」
甲高い哄笑と共に、暗黒の雲を纏い、闇から現出した死人の王を。
身の丈よりも長い両腕を虚空に伸ばし、背から亡者の群れを垂れる黒い異形。
目に入れるだけで精神を蝕む魍魎の姿を。
あんな――あんな御伽噺から出てきた悪夢のようなものに、抗えるはずがない。自らを蹂躙する魔兵たちの暴力も、あの恐怖の前ではもう問題にならない。身体の芯から襲い来る冷たい絶望に染まりながら、ルカは恐怖に目を閉ざす。死を覚悟する。
しかし、
「……あ、やっと抜けた……」
暗黒の中、普段とまったく変わらない声が聞こえた。
気だるげで、倦怠を漂わせる少女の声。思わず目を開いたルカは、ぼろぼろに崩れゆく無数の魔兵たちと、玉座の前で立ち上がった白い少女の背を見た。
彼女の手には骨の矢があった。
「喉に刺さった小骨みたいなしつこさね……めんどうくさいったら」
「え……もしかして、今までずっとそれ抜こうとしてたの? アリエッタ?」
ルカの問いに、血染めのアリエッタは振り返りもしない。
ただ、死人の王が召喚した魔兵たちは、騎士たちと切り結んでいたものも含め、すべて動きを止めて崩れようとしていた。この若き賢王には、そんなことができそうな人物の心当たりなどひとりしかない。
「なんだ……!? 何をしている、生命の福音!」
その証左が起きた。
変わらず闇を纏いながらも、死人の王が薄笑う白い少女から後退ったのだ。
アリエッタは告げる。
常と変わらない、気だるげな声で。
「……やっぱり阿呆はあなたよ、ミスターカルシウム……私の権能は生命を操るのであって、奪うと決まっているものではない……奪うこともできるし、与えることもできる」
ルカは変色して崩れゆく魔兵の骨に触れた。
異臭がする――凄まじい速度で腐っていた。骨に薄く肉が生じ、すぐに腐って黴に覆われて崩れる。ルカの目にはそのプロセスが高速で繰り返されているように見えた。
あまりにグロテスクな光景に、ルカは口元を押さえた。これでは死霊術も成立しない。この骨肉は生きてしまっている。
「腐敗というの……あまり好きではないのだけど、死体相手には便利……早々に土に還っていただきましょう」
「あ、あはは……そっか」
あとで手を洗おう。
いや、お風呂に入ろう。ルカは固く決心する。
そして――かつん、と軽く杖で床をつく音がした。
白き宮廷魔術師が蓮の杖をつき、黒き死人の王を見上げていた。
「わかっていただけて……? あなたと私では相性が悪すぎて……戦いにならない……」
「は……よくも虚勢を張る! 魔術をひとつ破ったくらいで……! そんな小賢しい力など、使う暇を与えねば済むこと!」
なおも闇から骨矢を放つ死人の王。
対するアリエッタは、白杖を鮮やかに操った。
放たれる無数の骨矢を全て叩き落してから、再び垂直に携えて床につく。
「……それで?」
「くそ……くそッ! なぜだッ! なぜ当たらない!」
断続的に、玉座の間の全周に配した黒い霞から次々と骨矢が連射される。アリエッタはそれらをすべて杖で叩き落し、身を躱してやり過ごしていく。
彼女がこうなると、もう当たらない。その背を見守るルカは確信した。アリエッタは杖一本で複数の騎士の相手をこなす、練達の騎士でもある。
その姿は、強大な不死者を相手に戦い方を見い出せずにいた騎士たちにも、勇気と明確な戦術のイメージを与えた。戦えない相手ではないのだと。
「助勢します、宮廷魔術師! 連携を!」
「え、べつに要らないわ……」
しかし、その途端、アリエッタは杖を降ろして跳び下がった。
最後の骨矢を弾き散らし、白き宮廷魔術師は告げる。
「ちょっと……カレルのおもちゃがどれくらいのものなのか見ておこうと思っただけ。こんなの、最初から素直に戦う必要がない。もう終わりにするわ」
「ふざけるな、生命の福音! 私はまだ……ッ!」
「……まだ、なに? また変身でもするの……? もういいでしょ……」
倦怠感溢れる言葉と共に、白い少女が手をかざす。
また腐らせるのか――ルカや騎士たちがそう想像して顔をしかめた瞬間、別の変化が起きた。アリエッタの背に光が生まれ、輪が生じる。次いで、捻じれた鉤爪のような両腕を振り上げた死人の王、その胴体が爆ぜるように割けた。
咆哮があった。それはまさしく、ルカの目には無敵にも思えた死人の王、アシルの不明瞭な口から生じた歪んだ悲鳴だった。
「――あなたに命をあげる、継ぎ接ぎの木偶。もとの人間に戻してあげる」
その意味を正しく理解したのは、なにかされているアシル当人だけだった。爆ぜ割れたアシルは更に四散し、細かな破片となって散らばる。胸元から上の、頭部を含めたパーツが絶叫した。
「ああああ! やめ……やめろッ! やめてくれッ!」
「あら、それはまたどうして……? 喜んだらいいのに。生きられるのに」
「いやだ……痛……痛みが! ああ! 痛みがああああ! わあああッ!」
男の形をしていた何かは細切れの肉片になり、瞬く間に肉片から体が生え、手足が生え。最後には合計で十五人の全裸の人間に変化した。
ルカはまったく理解の追い付かない、想像を絶する光景を前にして辛うじて考察をした。そして、あの死人の王が十五人の人間の――死体を繋ぎ合わせて作られていたものだったことを悟る。もしかすると、霊体はもっと大勢だったのかもしれない。それはもう、定かではなかった。
たしかなのは、十五人の人間に戻されたうち、身動きをしていたのはただひとりだけだったということだった。ルカの知る最高齢の人間は九十歳を超える魔術師の男だったが、その彼よりも遥かに年を経たような――もはや朽ち木のような、弱々しい老人が床を這っていた。
その老人は開いたままの口から言葉を発することもなく、喘ぐような呼吸でしばらく床を這い、そうして、やがて動かなくなった。
それきり、玉座の間には静寂が降りた。残りの十四人は息もしておらず、傍目にも死が明らかだった。呆然と立ち尽くすルカと騎士たちに、背に白き光輪を浮かばせるアリエッタが口を開いた。
「あれは老衰ね……ふふ、どうりで元に戻りたがらなかったわけね……」
「ほかの人たちは……?」
「……魂が死んでる。もう戻らない」
ルカはその返答を不思議な心地で聞いた。
命を自在とするアリエッタが、ことあるごとに人を殺害して蘇生するのは何度か目にしている。それでも、ただの一度だって「魂」などという言葉を彼女は口にしたことがない。
重ねて問おうとしたルカは、闇が去って天窓から陽光が差すなか、無言で光輪を消して去っていく白い少女を見送った。ルカには王として彼女を呼び止めることもできたが、不思議と、今はそうしたくなかった。




