42.宵を越えて② ※
航空艦フリームファクシの艦橋は一般的な帆船などとは構造が大きく異なる。艦体の中央寄りに櫓のような構造物があり、その上部に操舵と通信機能を集中させた艦橋という名の指揮所が配置されている。前側面にガラス張りの窓を備えるこの板張りの指揮所には中央に硬質の素材で作られた舵輪、その傍らと側面部に十数もの計器および艦体制御の操作盤が設置されている。航行に必要な人員はこの艦橋だけでも十。艦体に揚力と推進力を生み出すための機関部に配される人員を含めると、要員は二十数名に上る。
これは実に不完全な状態である。久方振りに航空艦へと足を踏み入れた皇女マリアージュは、中央行政府が苦心して整えたその運用体制に眉をひそめる。根本的に他者を信用していないウッドランド皇帝が設計した船が、整備調整はともかくとしてあれやこれやと人の手を要する造りになっているわけがないのである。
主動力の供給さえも含め、艦体の制御はすべて艦橋から、もっと言えば舵輪に備えた制御盤のみで行えるよう配されている。知って慣れてさえいれば一人で艦を飛ばすことも可能だ。
実際そうすべきだろうか――などという考えが一瞬だけマリアージュの脳裏に過ぎったのは、水星天騎士団を姉より引き継ぎ、率いてロスペールへと行くことを決めた明くる日。中央行政府から旧アズル領の統治権と共にフリームファクシを貸与されたカタリナ・ルースの案内で艦橋に至ったときのことだ。
まさか彼女が航空艦を調達するとは思わなかったマリアージュだったが、カタリナはいつになく真剣な面差しであり、改めて自己紹介をした彼女は独特な喋り方もやめていた。
領主、カトリーナ・フルウム・スルーブレイス。それは誕生から間もなくして失われたはずの、ミラベルの双子の姉妹の名だった。まったく実感のないままその名を聞いたマリアージュだったが、漠然とこの元侍女には何かがあるのだろうと思っていたのもあってか、どこか腑に落ちる感覚があった。
むしろ、聞いてしまえば納得のいく話だとすら思える。そんな事情でもなければカタリナが自身にここまで付き合いはしなかっただろうし、マリアージュもとっくの昔に本気で彼女を遠ざけていた。そうできなかったのは主従の情などではなく、カタリナに対するどこか、親近感のようなものが根底にあったのかもしれない。
「いまさら姉上と呼ぶのは……その、なんだ。すこし面映ゆいよ」
たっぷり五分ほど悩んだ応答の言葉がそれだった。「お互い様ですよ」などと微笑むカタリナも似たような様相で、とっくに主従などではなくなっていた両者は、ただ笑ってその事実を受け入れた。
マリアージュには欠けてしまったピースに馳せる思いもあったが、表には出さなかった。もし三人が揃ってこの日を迎えていれば、また少し違って、また少し大きな喜びだったのかもしれないとだけ思った。
なにか、強い覚悟を決めた様子のカタリナに後ろ向きな言葉をかけにくかったのもある。深くは窺い知れないことだったが、そうでもなければ今になって名乗り出はしないだろうとマリアージュは察している。
こうして、当初はマリアージュ個人の思惑であったはずのロスペール救援に、水星天騎士団に続く、新たな領主を得た旧アズル領の行く末という、新しい荷がまたも追加された。
そういった経緯を経て、三時間後。
マリアージュはフリームファクシの艦橋で、万年筆を鼻と唇で保持しながら胡坐などをかく羽目になっていた。ただただ偉そうにしているというわけではない。ときおり天啓を求めて天井の魔力灯などを見上げたりしながら、出航に際しての挨拶の言葉を必死に考えているのだ。
昨日の今日での出立にも相応の理由がある。兵は拙速を尊ぶ、という慣用句を引き合いに出すわけではなく、アーネストの一派の動きが不透明なままである以上、最低限、九鍵の有効期限とマリアージュが記憶している一ヶ月の経過より前に救援作戦を開始しなくてはならないからだった。
陸路であればどう転んでも博打とせざるをえなかった時間という要素が、航空艦を得たことにより解決し。ロスペール救援はいまや確実性を有する「作戦」として成立しつつある。領主カトリーナに感謝するところも非常に大きい。それはいい。
ただ、事がここまで大きくなってしまったのでは適切な挨拶をせねばならないだろう、という思いがマリアージュにはあった。
航空艦による軍事作戦。これはアーネストが行った魔導院侵入や先の戦いでの近衛師団の投入などが現界初の試みだったに違いない。しかし、そんな非正規戦が表沙汰になるはずもなく、公的には今回が現界初の航空艦による作戦活動となる。航空艦を供与しているのが中央行政府という事実も大きい。間接的な協力ではありつつも、事実上、ロスペール救援は皇国が承認した正規の活動と見做されるからだ。これに異を挟めるのは父である皇帝くらいなものだったが、察知される前にさっさと実行してしまうのでなんの問題もない。
それより、目だ。民衆の目にこの挙がどう映るかを考えると、いまさらながらにマリアージュは胃が痛くなるのだった。無名の皇女が率いる新領主の軍が東方に出征する――などと言われるのが目に浮かぶようだ。活動の実態はあくまで人命救助に終始するつもりだが、傍目にそんなことは分からないし、動員される騎士たちも昨日の今日で出立をするのだから、マリアージュの腹づもりなどをちゃんと汲んでいるかは怪しい。
よって、きちんとした出航挨拶によって体裁を整えつつ、意思表明と意識統一を行わなければならないのだ。
ぐっと拳を握るマリアージュだったが、たまに艦橋を行き来するフリームファクシのクルーや騎士に奇異の目で見られるのみで、原稿はまだ白紙のままである。
スルーブレイスとしてある種の英才教育を施されている末の皇女だったが、そのカリキュラムに作文は含まれていない。人間的な教育はまったく年相応でしかなく、経験は教育係の課した申し訳程度の読書感想文くらいなものだった。それがこんな形で足を引っ張るとは思わなんだ。マリアージュは困り果てていた。
「ははん? あんたがお姫様らしいことしてるの初めて見たわ」
などと茶化すのは、口元にまで達する大きなマフラーを巻いた赤いエプロンドレスの騎士、サリッサだ。救援に参加する九天の騎士――先の戦いで負った傷が重いバルトーと不在の二名を除く計六名も出航準備を始めたのだ。そう悟り、皇女はさらに慌てた。
「サリッサ! サリッサは実戦経験豊富なのだろう! 代筆してくれんか!?」
「いやいや、あたしが出撃前の挨拶なんてするわけないでしょ。そういうのはお偉いさんがするもんよ。店長かレオナールにでも頼んだら? もう間に合わないかもだけど」
「おまえも高位騎士であろうが!?」
「あはは、まー平民出だからねー。それでは殿下、ごきげんよう」
恨み節を涼しい顔で受け流した薄情者は、そのまま歩き去ってしまった。
あわわわ、と取り敢えず耳にしたことのある演説文句を片っ端から書き殴り始めるマリアージュであったが、次に艦橋に現れた騎士リコリスの仮面を見るなり、勢いよく原稿を差し出した。
「いま挨拶を考えているのだが代わりに書いてくれまいか!」
「はあ。私のような者で良ければさらさらっと書きますが……そんなの読み上げちゃうときっと噂になりますよ?」
「噂?」
「ウッドランドの皇女は東方連合を灰燼に帰すつもりだとか、敵兵を煮て食うだとか。そういう」
「なにを書く気なのだ貴殿は!?」
仮面の少女はころころと笑い、後から小走りに追ってきたモイラを確認するや、脱兎のごとく走って艦橋の窓から外へと身を躍らせた。
甲板などを備えていないフリームファクシの外装は人が立つことなど想定していないし、艦はいまセントレアの教会上空に滞空している。が、マリアージュも肩で息をするモイラも、仮面の騎士の安否などは気にしていない。彼女なら空くらい飛んでみせても不思議はないからだ。
「リコリス様ぁー! お戻りくださーい! リコリス様ぁー!」
窓から身を乗り出して呼ぶモイラだが、声は晴天に虚しく響くだけだ。仮面の騎士が戻る気配はなかった。
どうせ仕事から逃げ回って副官の手を焼かせているのだろう、と見切りをつけたマリアージュも己の仕事に向き直る。向き直ったが、原稿は支離滅裂な単語の列挙でしかなく、溜息を吐く。
そうこうしているうち、ついにぞろぞろと艦橋に人がやってきた。カタリナを始めとする皇族、第一皇子マクシミリアン、第三皇子レオナール、そして第七皇女イヴェットだ。
「うわっ、なんなのだ。まだ出航まで時間はあろうが」
面食らって不出来な原稿を背に隠すマリアージュに、先頭に立つマクシミリアンが苦笑した。
「うわとはなんだ、うわとは。フリームファクシに乗っていくのはレオだけだからな。俺とイヴェットはそろそろ艦を降りるんだよ。その前に軽く挨拶だけはしておこうと思ってな」
「ぬ? 皇都までなら通り道だ。途中まで乗っていけばいいものを。元々長兄殿が用意した船であろうに」
「最初はそのつもりだったが、グラストルとランセリアに野暮用ができた。大きく迂回して陸路で皇都に戻ることにしたのさ。べつにおまえ達と一緒に行くのが不味いってわけじゃないから安心しろ」
「そんな心配はまったくしておらんが……政治は大変なのだな。同情する」
「ふ。ちょっとは殊勝に感謝をするとかないのかね、おまえは」
マクシミリアンはマリアージュの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫で回し、そのまま踵を返して颯爽と去っていった。感謝なら十分にしている。乱れた髪を整えつつ、マリアージュは心の中だけでその背に呟く。言葉にまでしてしまえば、難しい立場にあるマクシミリアンが少なからず苦しむと知っていたからだ。
気付けば、つまらなさそうな顔をしてそっぽを向いていたイヴェットの姿はいつの間にか消えていた。あの姉が陸路をのんびりと帰る様子が想像できないマリアージュだったが、残ったレオナールが厳めしい顔で立っているので、ひとまず疑問は横に置いておくことにした。
「三兄殿?」
「……」
神妙ともとれる表情でじっとマリアージュを見ていたレオナールだったが、やがて口を開いた。
「俺と部下は前線の手前に下ろせ。その先のことを俺は関知しない」
「う、うむ。元よりそのつもりであるが……」
「……東方連合の陣容は想定より厚いぞ。集っているのは三国の騎士だけではない。竜種とやらのこともある。常套は通じないものと考えろ。侮れば足を掬われるだろう」
「う、うむ……了解した」
「……」
再び押し黙るレオナール。
いったいなんなのだ――困惑気味に首を傾げるマリアージュだったが、結局レオナールはむすっとした顔のまま艦橋を後にした。
最後に残ったカタリナは戸惑うばかりのマリアージュにそっと耳打ちをする。
「あれであの方なりにあなたを心配しているんですよ。きっと」
「そう……なのか?」
「ええ」
なんともわかりにくい。カタリナが言うのであればそう的外れでもないのだろうとは思いつつ、末の皇女はぐにゃっと唇を曲げる。率直に言ってくれればよいのでは、と思ってから自分も人のことは言えないと気が付いて肩を落とす。継承戦があろうとなかろうと、兄妹間のコミュニケーションは難しいものだ。しみじみとそんなことを考えていると、カタリナが思い出したかのように言った。
「ところで殿下。荷と人員の積み込みが終わりました。出航の頃合いです」
「……あっ」
***
そろそろだったろうか。
航空艦フリームファクシの群青色の船体に寝そべっていた仮面の少女は、不意に思い出して上半身だけを起こした。最低限やらなければならないことはある。
抜けるような青空と、高空から見下ろすセントレアの街。まばらな民家や跡形しかない街壁、雪化粧で白に染まる広大な平野や森、遠方の山々の稜線を改めて眺めやり、無言で指を鳴らした。
途端、淡い光の球体が生じる。広域の伝声術。
フリームファクシの艦内全域に、水星天騎士団の騎士たち。それから艦の乗組員。あわせて総勢九十名弱の作戦要員全員に聞こえるよう光球を配置した。更に、セントレアに残る水星天騎士団の半数足らずと街の全域に声が届くよう調整している。打ち合わせどおりの段取りだったが、
『うわっ……なんだ!? リコリス殿か!? まだ準備ができておらん! ちょっと待つのだ! ちょっとだけ!』
狼狽える皇女の声だけが全域に流れる結果となった。
ある程度は双方向のやり取りとしているため、結構な数の笑い声が巻き起こった。仮面の少女は頭を抱える。いままでいったい何をやっていたのか。
仕方がない。
仮面の少女は小さく咳払いをした。
「えー……艦長であらせられますマリアージュ皇女殿下がただいま準備中とのことですので、僭越ながら、このたび水星天騎士団の団長を拝命いたしました私、リコリス・ブルーマロウから前座として少しだけお話をさせて頂きます」
ここで何を話しても未来はさほど変わらない。
経験からそう思いつつも、仮面の少女は本棚からおすすめの本を取り出すかのような気軽さで、ひとつの話を選んだ。
我ながら諦めの悪いことだ。
そう自嘲しながら、少女は口を開く。
「むかし……この辺りがアズル領と呼ばれるよりももっとむかしの話ですが、ここ、セントレアという街はひとつの国の首都でした。その名残はこの街のあちこちに残っているので、何百年か経ったいまでもご存じの方はいらっしゃるでしょう」
街壁など遺構を指して言うが、それがなくともウッドランド皇国の領土の九割が似たような経緯を経ている。アズル領に限った話ではない。
「当時のウッドランド皇国がこの地方にまで版図を広げたとき、その国は侵略国家である皇国が当然この地方にも進行するものとして防備を固めました。これは想像ですが、滅亡を覚悟していたものと思います。ですが、そうはなりませんでした。皇国はなぜかこの国に対してだけは対話を選択し、合意によってこの地を併合する形をとったのです。この地が戦火で焼かれることはなかった。これは異例なことです」
仮面の少女はただ記憶を辿る。
「察しのついている方もいらっしゃるでしょう。ご存じの方も多いはずです。この地に古来から在ったもの。在り続けた者のことを。時の皇帝はその力で彼を察知し、この地に居るだろう彼を恐れ、争いに持ち込むことを避けたのです」
当時も、彼女は枝の調整や情報収集の合間、森に構えた小屋から門番の少年を眺めていた。この千年、決して会うことのできない少年を少女はずっと見ていた。
遠くから黙って見守っていた。
「そうして、この地には今日にまで続く長い平穏が訪れました」
色褪せた記憶の一片が終わる。
仮面の少女は聴衆の顔を想像する。疑問符を顔に張り付けた人々の顔を。
「……私がなぜこんな話をしたのか、多くの方が疑問を抱かれていることと思います。もちろん、居なくなった彼を偲ぶ、という意味ではありません。あなた方、皇国の民にそんなことを求めたって仕方がない」
彼は別に皇国の守護者ではなかった。
ただ、人々の守護者であっただけ。そこに国境はなく、過去よりそうであったというだけだ。それ以上ではない。
仮面の少女はもっと現実的な、脅威の話をしようとしていた。
「私がまず伝えたかったのは、あなた方が信仰し、神の使徒と呼ぶ福音とは、それほどまでに強力な存在だということです。同じ福音を持ち、強大な皇国を統べるあのウッドランド皇帝ですら、同じ福音との戦いは可能な限り避けるほどだと」
混迷を極める現界の現状、その一端を紐解いていく。
「疑問に思いませんでしたか? 圧倒的大国であるはずの皇国が、なぜ東方連合などというものを成立させてしまうまでの苦戦を強いられたのか。そして東方連合の成立後も、なぜ戦線全体を押し返せないのか。なぜウッドランド皇帝はロスペール奪還に消極的なのか。それはロスペール一箇所に陣取るにすぎない竜種の存在だけが理由だったのでしょうか」
紐解き、覚悟をしてもらう。
その為だけに、少女は事実を口にする。
「答えは簡単です。今、我々が相手取る東方連合には、最低でも四人の福音が参加しています」
決定的な言葉を口にした途端、どよめきが光球から伝わってきた。
聴衆の動揺そのままに。
仮面の少女は平静であっただろう者の顔を想像するが、ひとりしか浮かばなかった。既にその事実を伝えていたカタリナ・ルース。他には皆無だった。
いずれにせよ、ロスペールに近付けば明らかになることだ。前もって覚悟してもらわなければ、士気に影響する。仮面の少女は言葉を続けた。
「……千年前に存在した九つの福音のうち、その半数近い四つが東方連合についているわけです。強大な侵略者、邪悪なる帝国に対し、団結した人々と共に、英雄たちが再び立ち上がった。それが、東方諸国から見た今の現実です」
わざと強調しておきながら、少女は善も悪もありはしないと思っている。
国境という人間が引いた勝手な線で綺麗に善と悪が分かれるのなら、最初から難しくない。全員で善の国に移住してしまえば良い。苦笑しながらそんなことを思いつつ、少女は問いを放つ。
「その上で、私たちは何をするべきなのでしょうか」
答えて見せろと問いを投げかける。
聴衆にではない。
「このまま強大な侵略国家であり続けることでしょうか。それとも、かつて地上の生命を蹂躙した古の悪竜までも使い、復讐を叫ぶ人々を是とすることでしょうか。そのどちらもの根底が、この大陸さえ焼き尽くして余りある憎悪の炎だとしても、それらから明日を選ぶのでしょうか」
ただひとり、この道を拓く少女へと。
その責任において答えてみせよと問いかける。
「……それでは、マリアージュ殿下。後はお願いしますね」
その答えこそが、最低限、戦場に向かう資格になる。
***
静寂があった。
フリームファクシの艦橋に満ちる静寂は、想像を絶する東方連合の正体への衝撃、そしてリコリスの放った問いへの熟考がもたらしたものだ。
マリアージュは光球を前にして沈黙し、思惟を巡らせていた。リコリスの狙いが分からない。なぜこのタイミングでこんな話をし、そして問いかけるのか。完璧な答えなどどこにもないその問いを、なぜ投げるのか。
傍らのカタリナも黙して語らない。静かに、マリアージュが答えるのを待っている。じっと、見守るように。
そうだ。
わたしはもう、守られるものではない。
「……うむ。立派なことを言わねばと思って原稿などを準備していたのだが、完全に無駄になった。リコリス殿のあの話のあとでは、いかにも虚しい。であるから、わたしはわたしの考えのみを話そうと思う」
大して書きもしていない原稿を懐に仕舞い、マリアージュは光球へと踏み出す。問われているのも正答かどうかではない。ただ勇気をもって一歩踏み出す。踏み出して、己の内にある答えを口にした。
「そもそも、我がウッドランドがその勃興の折から大陸統一を国是としたのは、異界と戦争をするためだと聞いている。現界を束ね、異界に対抗する勢力を築き上げるためには一つにまとまらねばならない……という大義名分が父上の主張するところであるらしいのだが、これはいかにもおかしな話だ。外敵に対処するにあたり、無理にひとつの国家にまとまる必要などなかろう。それは東方連合を見ても明らかだ」
団結を促すのは支配ではない。
もっと尊いものだ。継承戦を経た末の皇女は、そう信じている。
「もっと言えば、そもそも異界と戦争をする必要などない。交渉を可能とする立場を築けるぶんだけの力があればよい。そして、異界も決して一国の独裁などではないと聞いている。説き伏せる目もあろう。であれば、なぜ戦争などをする必要がある」
敵とは本当に敵なのか。
継承戦は悲しい争いだったが、その末に得たものもあった。
本当に断たねばならないものが、今のマリアージュには見えている。
「ただ燃やしたいのだ。すべてを。きっとなにかを憎んでおるのだ、父は」
あれは敵ではない。妄執の中にあるひとりの老人にすぎない。
「そしてそれは、東方連合を名乗る者たちも同様かもしれないとわたしは思う。でなければ、あのような暴威としか言えぬ獣を街に差し向けたりはせんだろうし、そのやり方はとてもではないが正当とは言えない」
そして生命の福音も――東方連合も違う。敵ではない。
あれも、あてどない復讐に囚われた悲しい少女でしかなかった。
戦うべき敵はどこにも居ない。見つからない。
少なくとも、人々の中にはいない。
「講和するのがよいのだろうな。人は、どちらかが滅びるまで戦うなどということをしてはならないのだ。きっと。課題は無数にあるだろうし、わたしにその権限はないから、長兄殿がまだ聞いておられたら、ぜひその努力を頂きたい」
きっとどこかで聞いているだろう第一皇子の渋面を想像しながら、マリアージュは音もなく頭を下げる。それから顔を上げ、顔の見えない聴衆に声を張る。
「さて。最終的にどうあれ、いまは目の前の危機に対応せねばならない。さしあたって、わたしはわたしにできることを、わたしにできる範囲でする。まずロスペールに取り残されているであろう皇国の民を救助すること。つぎに、第二皇子アーネストのロスペール攻撃を阻止すること……そして最後に、この地に全員が無事に戻ることだ」
言い切り、言い切ってから大言壮語だったかもしれないと反省した。
それでも敢えて、強く話を続ける。
弱気になどなっていられない。先頭は自分なのだ。
「これらをわたしは達したい。が、困難であるらしい。難しい。できぬ。最近はそういった声ばかりを聞いた。たしかに、わたしのごとき小娘ひとりでは無理からぬことだ。ひとりでは野垂れ死ぬと。事実そうなのだろう」
そうなった未来も、もしかすると何処かにあるのかもしれない。マリアージュはいつか見た夢や、もはや慣れつつある不思議な感覚でそう思った。
もしかすると未来とは、目に見えずとも数え切れないほど無数に存在し、その残滓のようなものが、いまある自分にほんの少しずつ影響しているのかもしれない。そう思った。
「だが違った。いまはもう違うのだ。わたしはひとりではなかった」
そして、いまあるこの現実を、
歓迎すべきこの現在を形作っている。
「本当は皆わかっていたのだ。本当はこうでありたいという姿を、皆が心に持っている。それが今はわかる。今日、ここでこうなっているのは、単にわたしが最初に言いだしたからというだけであって、なにひとつわたしの力などではない。皆が少しずつ手を貸してくれねば、こうはならなかった。手を貸してくれたのだ。誰もが」
その中に、門番の少年はもう居ない。
しかしかつて、彼は喪失から得られるものがあると言った。それは確かだった。彼の代わりに、その奇跡の数万分の一でも代行したいと考えたマリアージュ自身が、喪失から生まれた自分だった。
「だからきっとできる。皆が力を貸してくれるなら」
だから。もし居てくれたなら、どんなに良かっただろう。どんなに心強かっただろう――そんな弱さの実感が瞳から零れ落ちても、末の皇女はもう声を揺らさなかった。ただ、己の胸のうちにある言葉と行動をした。
深く、一礼をして希った。
「どうか、わたしに力を貸してほしい」
伝声術の光球はいつの間にか消えていた。
それでも、しばらくの間、マリアージュは立ち尽くしていた。リコリスがどう思ったか、聞いた人々がどう思ったか。それはもう予想もつかなかった。
ただ、やがて足元に響く振動があった。
なんだ、と目元を拭うマリアージュが訝るより早く、艦橋に人がなだれ込んできた。出航まで待機していたはずの艦橋要員たちだった。彼らは何か言われるのかと身構えるマリアージュを素通りして、そのまま勝手に持ち場についてしまった。
「アンカー回収。機関起こします。出航可能まで三十」
「もうプリフライトチェックリストも省略していいっすかね。マクシミリアン殿下居ないし、誰も怒んないでしょ」
「うわ、昇降盤まだ下にあるじゃない。誰が乗ってんのよ。もういいから格納しちゃいましょ。待ってらんないわ」
「あー……いいですけど壊さないで下さいよ、あれ高いんですから。気を付けてくださいね」
面識もない艦橋要員たちが勝手に出航準備を始めるのを、マリアージュは成す術もなく見守るしかなかった。そうしていると、艦長補佐に任命したトビアス・ガルーザまでもが艦橋に姿を現した。常の甲冑姿でなく、ステッキ片手にミラベルの執事をしていた頃のような礼服などを着こなしていた。
お洒落をしている――鼻白むマリアージュに向き直ったトビアスは普段の厳めしい態度をとることもなく、好々爺然とした笑顔で言った。
「いえね。彼らが、もう待てぬと言うものですから。好きにさせました」
「……そ、そう……なのか」
「ええ。私も好きにします。どうぞご命令を、艦長」
老騎士に促され、マリアージュは変わらず黙して佇むカタリナの顔を窺うが、彼女も頷くのみだった。
マリアージュは戸惑いながらも、やがて意を決して背筋を伸ばし、息を吸った。その一瞬、目を閉じて心の中で別れを言った。それはこの上なき守護者であり続けた少年に向けてであり、もう戻らない幼子の時代への言葉だったかもしれない。定かではなかったが、定める必要もなかった。
「出発する! 進路を東へ!」
そうして、末の皇女は号令を発した。




