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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
五章 シンギュラリティ
237/321

40.とこしなえ②

 仕える主たる皇女ミラベルを失った水星天騎士団だったが、陣営地はなおセントレアのささやかな教会の(そば)にそのまま残り続けている。並ぶ天幕に(とも)る明かりも数を減らした様子はなく、それどころか転移街(ポート)アズルでの一件以降、離散消滅した木星天騎士団の人員と装備すら一部受け入れているとサリッサは聞いていた。下手(へた)をすれば皇帝から賊軍と見做(みな)されかねないセントレア勢力にそれほどの求心力をもたらしていたのは、まず木星天騎士団との衝突をほぼ無血で決着させたカタリナやミラベルへの人望と信頼。そして竜種(ドラゴン)を撃退した夜明けの騎士(デイブレイカー)、伝説の剣の福音が参加しているという風説、大義名分が主な要因だろう。

 

 そして、いまや白日の下に(さら)された第二皇子アーネスト一派の企て。敵国ドーリアの軍勢とその戦力であろう竜種(ドラゴン)ごと城塞都市ロスペールを焼き払うという目的を聞き及び、その蛮行を阻止すべく戦って傷付き消息を絶った両者への支持は、もはや盤石のものとなっている。血気盛んな騎士団の若手などはアーネスト一派の討伐やロスペール奪還を主張するまでになっている。九天の騎士バルトーがそう言っていた。

 サリッサは(あき)れた。何の準備もなしにそんなことをしても土星天騎士団の二の舞になるだけなのは火を見るよりも明らかで、そもそも行動に及んだ途端に騎士団が分裂するのが目に見えている。軍事行動とはそれほどの困難を伴う。戦闘地帯への移動手段や兵站(へいたん)の確保。必要な施設の構築と維持。資金は当然必要で、強い士気も求められる。(はや)る若き騎士たちの主張は恐らく実現しないとサリッサは見ている。騎士団が(あるじ)を失うとは、そういうことなのだ。

 

 なので、その若手の騎士である水星天騎士団の団員ヘッケルに天幕へと呼び出されたサリッサは、彼らに一言忠告でもしておこうという腹積もりだったのだが、天幕の中で待っていたのは意外な人物だった。

 上等そうな服の上からでも分かる、見事に鍛え上げられた肉体。そして太い首の上に乗っかる、野性味と気品が同居した男前の顔と鮮やかな赤髪。うわっ、と口を開けてたじろぐサリッサに気付いたその美丈夫は、むっすりとした表情で(はる)か下方にあるサリッサの顔を見下ろす。

 

「……随分と縮んだな、破軍(アナイアレイター)

「レ、レオナール……殿下」

 

 ひくひくっ、と自分の頬を()()るのを自覚しながらも、サリッサは一応の礼儀として(かしず)こうとした。したのだが、第三皇子レオナールは途端に、ただでさえ無愛想な顔をさらに固くした。

 

「やめろ。お前を(かしず)かせるのは、俺のこの手でお前を下した時と決めている」

「は、はあ…………そういう変な方向に堂々としてるのが苦手なんだけど」

「何か言ったか?」

「いえ……」

 

 圧の強い第三皇子にとりあえず愛想笑いをする。

 むっすりとしたままのレオナールは、鷹揚(おうよう)(うなず)くのみだ。

 

 サリッサとレオナールの初対面は、彼女が剣聖の下で修業を終えた後。月天騎士団の一員として働いていた僅かな期間、東方三国の一角、イオニア都市同盟に対する戦線でのことだった。アーネストの命によって援軍として単身遣わされたサリッサと、戦線を展開するレオナールの火星天騎士団。両者は不幸な行き違いによって交戦を交わしてしまう。結果、口火を切った火星天騎士団側は死者こそ出さなかったものの大量の負傷者を出して撤退。そして火星天が前線で相対していたはずのイオニアの傭兵(ようへい)騎士団は、孤軍と化したサリッサただひとりに壊滅させられることになる。

 破軍(アナイアレイター)

 後にそう呼ばれることになる少女の、これが初陣(・・)であった。

 

 ――お前はいずれ俺の駒とする。これは決定事項だ。

 

 サリッサと刃を交え、負傷と撤退に追い込まれたレオナールが去り際に残した()台詞(ぜりふ)がこれだった。当時のサリッサは辛勝を収めた直後の青い顔でその声を聞いた。前線ではこんな気持ちの悪い化け物たちが戦っているのか、と。

 後になってそれが味方だった――しかも皇子様だったと聞いてさらに青くなったのだが、アーネストは顛末(てんまつ)を聞いて馬鹿笑いするだけで、誰からもお(とが)めらしいお(とが)めはなく。

 代わりにとばかりに頻繁に宿舎へ届くようになったのが、火星天騎士団への勧誘の書状である。以来、レオナールは顔合わせるたびにサリッサを強引に引き抜こうとした。皇都(トラスダン)上層(アッパー)で開かれる上流のパーティーの席ですらそうだった。

 レオナールという皇子は筋金入りにそうなのである。自身の火星天騎士団も()()きの精鋭ばかりを自ら招いている。火星天の騎士たちもそんな武闘派で野心家の皇子に心酔して忠誠を誓っている者ばかりであり、レオナール自身に苦手意識しかないサリッサにはどう考えても水が合わないので、どんな好条件を出されても断り続けた。国教会付けかつ、ある種の別格である九天の騎士(ナインヘイブン)に選出されてからはさすがに勧誘攻勢もなくなったものの、一度生じた苦手意識はなかなか消えない。

 騎士としての力量も、皇子でなければ九天の騎士に居ても不思議はなかった。下るもなにも、様々な意味で二度と戦いたくない相手である。福音を得た今、万に一つでも彼に負けるとは思わなかったが、その後が怖い。

 

「えっと、わたくしめになにかご用で?」

 

 ひくひくする愛想笑いで伺いを立てるサリッサ。

 小さくなったサリッサに何事か考えていたらしいレオナールは、ああ、と思い出したように(うなず)くと、両者の因縁に想像を(たくま)しくさせて突っ立っていたらしい騎士、ヘッケルに向けて顎をしゃくった。

 

「ガーウェイ、捕虜を連れてこい」

「あ、はい! ただいま!」

 

 あいつ、名字(ファミリーネーム)はガーウェイっていうんだ。と小さな発見に瞳を瞬かせるサリッサだったが、すぐに忘れ去ってレオナールを向いた。

 それでも、先んじて言葉を放ったのはレオナールである。

 

「そんな顔をするな。水星天を掌握する意図などない。どのみち、ここの騎士は俺には付かん」

 

 言われ、サリッサは自分の()が険しくなっていたことを自覚する。

 サリッサとしてもレオナールはひたすら苦手なだけで、決して嫌っているわけではなかった。嫌いたくもない。アーネストのように嫌悪したくないという気持ちがあった。(あるじ)を失った騎士(たち)を引き受けるならまだしも、唆すような真似(まね)はしてほしくない。

 

「先に言っておく。俺は、賊に対して捕虜は取らない」

「……アーネストを賊とおっしゃる?」

「賊以外の何だと言う。(やつ)(やつ)なりの大義があったとしても、皇国内で動乱を首謀したのは事実だ。離反した近衛(このえ)共々、皇国の敵と見なす」

「それを言ったらそもそも継承戦が動乱でしょ。表沙汰にしてなかっただけ」

「皇帝が是とした競争とこの叛乱(はんらん)は同等ではない。アーネストは明らかに帝位を簒奪(さんだつ)するための動きをしている」

「は。お仲間じゃない。今さらでしょ」

 

 野心家の第三皇子レオナールが幾度となく皇帝バフィラスに挑戦し敗れているという事実は、皇都でも公然の事実だ。叛意(はんい)というならレオナールにもあるし、セントレアに集まっている誰しもが大なり小なり抱いていると言える。

 しかし、レオナールはサリッサの不遜な物言いにも不快感を表すことなく、ただ自身の考えを述べる。

 

(やつ)のやり方の最大の問題は、まず少なからず皇国の民を犠牲にすることだ。それはもはや皇国への裏切りに(ほか)ならない。違うか」

「……それは」

「国とは、臣民の集まりを指す。決して王のみを指す言葉ではない。ゆえに、臣民に背くは国に背を向けると等しい。そしてそれを賊と見做(みな)さなければ、我らに王の眷族(けんぞく)を名乗る資格もなくなる」

「そうね」

 

 その言葉にはサリッサも同意を示すしかない。これで武闘派を自認するのだから恐れ入る。この皇子は、野心を抱きつつも王道を外していない。

 

「従って、俺は先の戦いで(とら)えた者を全員処刑するつもりでいた」

「……!」

 

 苛烈な結論を口にする皇子に、サリッサは一瞬、自身の見立ての甘さを呪った。この皇子でもそこまではすまいと、どこかで甘く見ていた。だからこそ、あの戦いで敵対し、捕らえられただろう知己の女騎士に面会もせず、成り行きに任せるつもりでいた。

 しかし、命まで取られるという話なら別だ。サリッサは現段階で彼女がそこまでの罪を犯したとは思っていない。(すべ)ては命じたアーネストの罪なのだ。場合によっては騎士達と事を構えてでも救い出さなくてはならない――

 などと無言の計算を済ませるサリッサに、レオナールはやはりむっすりとした顔でいながら、やや困ったように眉を傾けた。

 

「そんな顔をするなと言っているだろう。つもりだ。つもり。だからそんななりで(すご)むな。俺が悪いような気になるだろうが……」

 

 狼狽(うろた)えるかのようなレオナールのその様子は、なんだか少し面白い。

 まさかこの若獅子が一介の騎士に心から狼狽(うろた)えるなどはないのだろうが、思っていたよりも取っつきにくい男でもないのかもしれない。サリッサは複雑な心境でそう思った。

 

「俺はそのつもりでいたが、ミラベルの考えは違っていた。事実、水星天と九天は死人を抑えて勝ちもしてみせた。そこに口を挟むのは筋違いだ。捕虜をとることに異論はない」

「……そう。その言葉を聞けてよかったわ。ほんとに」

「ああ。そして、捕虜とするのであれば尋問をするのが常だ。だが、アーネストに共鳴した者たちが簡単に口を割るはずもない」

「あー……なるほど」

 

 ここでようやく、サリッサは自分が呼び出された理由に見当をつけた。

 尋問。これは扱いがとにかく難しい。少なからず争乱慣れしているサリッサはよく知っている。

 捕虜が素直に口を割るというケースは、少数の例外を除けば(ほとん)どない。自陣営の敗北が決定している場合くらいなもので、そうでなければ捕虜は何らかの理由で口を閉ざす。その理由が保身か忠誠かは人によりけりだが、どちらであっても割らせるのは難しい。まずは取引を持ちかけることになる。その材料がない、取引に応じない。そうなってようやく強引な手段が視野に入ってくる。

 ただし、皇国の騎士が正当な捕虜にそういった強引な手段――拷問を行うことはほぼない。意味がないからだ。拷問で得た情報は信憑性(しんぴょうせい)が薄く、そのような蛮行によって品位が損なわれるのも皇国の騎士は嫌う。正当な捕虜は厚遇した方がよい。それが皇国での通例だった。

 が、非公式の捕虜や賊、急を要する場合はその限りではない。それでも大抵の場合は騎士の手では行われず、軍や行政組織に少数存在する専門家を呼ぶことになる。多くの人々に忌み嫌われる職業尋問人、拷問官である。当然、こんな辺境にそんなものは居ない。

 

「ミラベルは尋問が得意と聞いていたんだがな……居ないものは頼れん」

「そ、そーね……」

 

 ミラベルの尋問(・・)を何度か目にしたサリッサは曖昧に相槌(あいづち)を打つに留める。異端者や罪人に恐怖のみを与えて口を割らせるという彼女の優しい尋問(・・)は次第に概要だけが(うわさ)となり、なんとも皮肉なことに吸血姫という偶像の遠因となっていったのだが、その真実を知る者はごく限られている。

 そのミラベルが居ないからといって、代わりに自分に尋問をやれという話ではないのだろう。サリッサはなんとなくの経緯を察する。

 

「捕虜の一人(ひとり)がお前となら話すと言っている。話を付けてくれると助かる」

「やっぱりそういう話なわけね。了解。なんとなく分かった」

「ほう。心当たりがあると見えるが……月天の騎士だったお前に心当たりがないはずもないか。戦いにくかったろう」

「まあ……ね」

 

 似合いもしない気遣いを口にするレオナールに、やはり曖昧な相槌(あいづち)を打つ。実際には、知り合いだった月天騎士団の団員はロスペールや魔導院で(ほとん)ど死んでいる。残る心当たりなど一人(ひとり)くらいしかないのだが、それをレオナールに伝えたところで栓が無い。

 ちょうど、その女騎士がヘッケルに付き添われる形で天幕へと足を踏み入れた。月天騎士団でアーネストの副官を務めていた女騎士、エニエスである。思ったとおりに丁重に扱われているらしく、(かせ)どころか縄もされていない。とはいえ、さすがに武器の類は取り上げられているのか帯剣はしておらず、()()ちも平服。それに、サリッサには心なしか彼女が痩せて見えた。

 気のせい、ではないのだろう。彼女を連れて来たヘッケルがサリッサに向けて目で何事かを訴える。いまひとつ意図は分からなかったが、彼の気まずそうな顔を見る限り、食事を拒否しているのかもしれないとサリッサは思う。

 

「では、頼んだぞ」

 

 それだけ言うと、レオナールとヘッケルは天幕の外へと出ていった。まさか席を外すとまでは思わなかったサリッサは、やはり第三皇子の人となりの印象を微修正する。厳格ではあるものの冷酷な人間ではない――どこかジャン・ルースにも似た空気がある。無下にしずらいのよね、と口の中で独り言ちてから、サリッサはエニエスに向き直った。

 

「久しぶり」

「……すみません、サリッサ。わざわざあなたを指名してしまって」

「いいっていいって。べつに今は忙しくしてるわけじゃないし。どう? しんどい目に遭ったりしてない?」

「紳士的ですよ、彼らは。皇国騎士の(かがみ)です。本当は我々を八つ裂きにしたいでしょうに……」

「そんなことないと思うけど……」

 

 もしかすると、中にはそういう騎士も居るかもしれない。

 サリッサは言葉を飲み込んだ。どういう形であれ、先の戦いでミラベルが失われたのは事実だ。引き金になったアーネスト一派に対する悪感情はなかなか抑えられるものではないだろう。しかし、騎士が主命で動くものという認識も大前提として存在する。近衛(このえ)を含め、捕らえられた一派の騎士達に応報を求めるのは酷であるとも理解しているはずだ。

 でなければ、そもそも水星天騎士団自体が末の皇女に罰されていなければならない。末の皇女に(ゆる)された彼らは、(ゆる)すことも覚えるはずだ。そうすれば応酬の連鎖は終わる。サリッサはそう信じている。

 

「で、あたしは何をしてあげればいい? 大したことはしてあげられないけど、釈放の交渉くらいはしてあげる。当分はどっかの城館で軟禁とか食客とかになると思うけど……ずっとテント暮らしよりはマシでしょ」

 

 ずっとテント暮らしの水星天には悪いけどね、と笑うサリッサだったが、エニエスは首を振った。

 

「……ありがとう、サリッサ。でも、気持ちだけで十分です。取引をしたいのは……あなた個人とです」

 

 憔悴(しょうすい)した様子のエニエスだったが、その言葉だけははっきりと口にした。しかし、知己だからといって、できることとできないことはある。サリッサは笑みを消す。

 

「アーネストは諦めなさい」

「……サリッサ」

「あいつはとっくに一線を越えてる。裁かれずに事を収めるのは無理。それだけははっきりしてる」

 

 先んじて取引を潰すサリッサに、エニエスは顔を伏せてうな垂れた。

 

「あなた個人としてもですか……?」

「個人的な気持ちを言っていいなら言うけど、あたしが陪審なら一生地下牢(ちかろう)にでも(つな)いでおきたいくらいね。でなきゃ……」

 

 この手で殺す。そこまでは口にしなかった。迷いなくそれを実行する自信が、やはりサリッサ自身なかったからかもしれない。

 

「……あんた達と違って、あいつに思い入れなんてないのよ。あたしには」

 

 吐き捨てるようなその言葉も、半ば自分に言い聞かせるようなものだ。顔見知りなのだからやはり情はある。激甚たる怒りと僅かな哀れみ。それだけでも、司法の手に彼を引き渡す理由になる。処罰の程度を決めるのは司法だが、極刑は免れないだろう。なら、それでいい。サリッサの中ではそれで終わりだった。

 だが、エニエスはなおも食い下がる。

 

「アニエスとて理解していました! 殿下の理想は我々の……前線で戦う者たちの福音です! あなただって戦場の地獄を知っているでしょう!?」

「……そうね」

 

 言いたいことは分かる。

 サリッサも血煙の中を歩いた過去がある。戦争は兵士や騎士を消耗し、塵芥(ちりあくた)のように見做(みな)す。多くの兵士や騎士がまずそこで疑問を抱く。抱いて、抱いたまま地獄に沈んでいく。しかし、浅い。あまりにも。

 (アニエス)の末路も知らないで。

 

(スルト)を活用すれば兵の血は流れなくなる! それこそが……」

「でも、代わりに死ぬのだってきっと人間よ。それが兵隊じゃないってだけ。それってよっぽど(ひど)い話だわ」

 

 そうとだけ断じると、エニエスは(こぶし)を硬く握った。

 

「兵の……我々の……犠牲の裏で惰眠を貪る民などは……!」

「それ以上はやめなさい。あんた、騎士じゃなくなるわよ」

 

 騎士であるということは、力なき人々の代行者として血を流し、対価として糧を得るということだ。職業軍人であるということはそういう意味を持っている。サリッサはそう解釈している。その本質を否定してしまえば、騎士にはもはや何も残らない。

 

「エニエス。あんたもさ、さっさと辞めちゃえば良かったのよ。騎士なんて。頭いいんだから文官でもやればよかった。何にだってなれたのに」

「サリッサ!」

 

 逆上するエニエスが動き、(こぶし)が来た。

 案外に細い手だな、などと考えたサリッサは、顔に迫る(こぶし)を見ながら(かわ)さなかった。彼女にそうさせたのはサリッサだった。

 

 なぜなら、本当に、心の底から辞めてしまえ思ったからだ。あんな腹の中が真っ黒の皇子に付き合って騎士などをやるから、こんなことになってしまった。アニエスも死んでしまった。死んでもまだ動いている。誰も彼もずっと傷付けあって、単純じゃない。どこまでも。

 だとしたら、傷付かない自分が全部を引き受けて単純にしてしまうのもいいかもしれない。簡単に傷付いてしまう人達は下がっていればいい。きっとそれは、永遠を持つ自分にしかできないことだ。

 

 (すさ)まじい勢いで頬に刺さった(こぶし)は、不自然に停止する。痛くも(かゆ)くもなく、勢いで(わず)かに、サリッサの首を傾けただけだった。

 その異様に目を見開くエニエスは後ずさり、()しくも、外典と化した妹と同じ言葉を放った。

 

 

「……化け物」

 

 

 サリッサは一瞬、(ほう)けた。

 そして、すぐに笑みを深める。まさしく怪物として恐怖を与えるために。そうして己を深く恐れ、そのようにして戦場を去れとだけ思った。剣を捨てた先にだって幸せはあるのだとサリッサは知っていて、そこだって結構、居心地(いごこち)は悪くないものだ。願わくば、彼女がそれを見つけられるように。それから、どっちつかずの自分が偉そうな事を言ってごめんねとだけ心の中で謝ってから、自分でだって少し気味が悪いと思う深い紅の瞳で、にっこりと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 天幕からひょっこりと顔を出すと、レオナールが当然のように背中を見せて立っていた。

 盗み聞きか、と一瞬疑ったサリッサだったが、すぐに思い直す。この皇子はきっと、そんな卑怯(ひきょう)真似(まね)は好んでしないのだろう。どちらかと言えば捕虜の監視の意味で待っていた。そう納得した。

 

「なんでも話すってさ。あたし以外になら(・・・・・・・・)

 

 ひと仕事を終えて明るく話すサリッサを、獅子(しし)のようなその皇子はやはり不愛想な顔で迎えた。ただ不愛想なだけでなく、なにか別の感情を伺わせる色も見えたが、サリッサはそれを無視した。

 

「……そうか。手間をかけたな」

「いえいえ」

「報酬は用意しよう。何が欲しい」

「いまは特に何も……でも勿体(もったい)ないし、いつかなにか一個だけお願いを聞いてもらえればと」

(したた)かだな。まあ、良いだろう」

「どーも。それじゃ」

 

 むっすりとした、どこか間の抜けた返事に笑顔で(うなず)いて、(やり)を担いだサリッサは歩き出す。

 第三皇子が呼び止める声が(かす)かに聞こえたものの、ひらひらと手を振るだけにして振り返ることはしなかった。そうすれば少なくとも、今の自分の顔を見られずに済むと思ったからだ。それでもマフラーをぐいと口元にまで上げて、温度のよく分からない夜空を見上げたサリッサは、なにかの実感を得る(ため)だけに、白い息を吐いた。

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