39.とこしなえ①
師曰く。剣の神髄とは巧みな術技でも鍛えた心身でもなく、無であるらしい。毎度ながらこのババアはなにを言っているのだろう、と心の中で師の正気を常に疑っていた弟子サリッサだったが、今は、彼女の言にいくらかの真理が含まれていたのは間違いなかったのだろうと考えを多少改めている。
師の言のすべてを理解したわけもないが、少なくとも、浮船のようにゆらゆらしているサリッサの心では、討つべしと定めた敵を槍の穂先で穿つのも容易くはなかった。
常に術技で敵を圧倒しているにもかかわらず、何度も仕損じて何度も負けている。たとえば、大敵たるウッドランドの始祖の皇帝、忌まわしい時の福音。あの老人をただ一度の対決で葬り去っていれば、世界はもっと良くなっていただろうか。少なくとも皇国は変わっていたかもしれなかったが、今現在のサリッサやその友人たちを悩ませるのは別の要因である。常に様々な要素が複雑に絡まっているこの世界は、ただひとりの古き悪意でだけ壊れゆくのではない。ひとりの悪者を討ち果たせばそれで泰平、とはいかない。
「……そんなに単純じゃない、か。めんどうくさいったら」
夜。風車小屋の屋根で体を揺らす白き槍の担い手は、首に巻いた真新しいマフラーを口元にまで引き上げて呟く。それは独り言のようであり、独り言ではない。氷のような北風に濡羽色の長髪を靡かせるサリッサには、風に乗る、はっきりとした声が聞こえるまでになっていた。
「また悩んでるね。サリッサちゃんもちゃんと色々考えるようになったんだね。えらいえらい」
「あたしゃいつもちゃんと考えてるわよ……」
「えー? でもサリッサちゃんって、いつもわーってなってるところにとりあえず走ってくだけじゃん」
「それは急がないと間に合わないからでしょ。人を考えなしにみたいに」
童女のそれにしか聞こえないこの声こそは彼女が肩に担ぐ愛用の槍、遺物たる永劫の声に他ならない。突いても投げても欠けすらしないこの白槍は、如何なる原理によってか発話が可能なのだった。その言葉の音はサリッサにとって未知の言語であったが、込められた意図だけは当初からサリッサも解している。声が明確に音となって大気を伝い始めたのはこの二週間でのことだ。それに伴い、意思の疎通も一方的なものではなくなった。会話が成ったのだ。成ったところで、得られるものはあまりなかったのだが。
「……ねえ、永劫。福音ってどうやったら使いこなせるようになるの? なんかこのままだとあのクソ女に全く勝てる気がしないんだけど」
クソ女、という語が指すのは仮面の騎士リコリスである。サリッサの持つ永遠の福音よりも低位であるという魔法の福音を持つその少女は、自在かつ柔軟に能力を使いこなしている。何度か刃を交えてみた限りにおいて、そのすべてでサリッサは後塵を拝していた。
それでは不味いのだ。
騎士としてのプライドの問題などではない。居なくなってしまった少年の代わりに守ると決めているマリアージュの道行き。ロスペールに陣取る東方連合には生命の福音が参加しているという。面識のないその福音がどの程度の使い手かは知れなかったが、千年前の九つの福音の一角であるには違わず、しかも魔法の福音などという影の薄い使徒とは違い、生命の福音は世界樹の書での扱いも剣の福音と並ぶ、強大な使徒であると予想できる。転移街アズルでは太古の竜種を現代に蘇らせ、さらにはあの門番の少年と戦って痛み分けさえしたという。そのどちらをとっても並の相手ではない。皇国の騎士どころか、現界の人間では対抗できないと確信できる。
場合によって、その生命の福音と一戦交える可能性がある。サリッサはそう考えている。同行するというカタリナやリコリスが手の内が出揃っている生命の福音に簡単に後れを取るとは思わないが、何にでも想定外はある。そもそも、荒事専門のサリッサが、頭脳労働担当のカタリナや未だ得体の知れないリコリスを戦力としてアテにするのは良くない。
そもそも、戦場での経験を持っているのは古参の九天を除けばサリッサかリコリスくらいなものである。そう考えると、あの仮面の騎士は門番の少年とちょうど同じ立ち位置にあり――その辺りにどこか作為的な匂いを感じてしまうのだが、疑問を差し挟んでもサリッサのやること自体は変わらない。つまり、騎士として脅威を排除する。それが第一。敵が往還者だろうと条件は対等、後れを取るわけにはいかない。そのためにも、いまひとつ実体の掴めない永遠の福音を使いこなさなくてはならない。
のだが、肝心の永劫はぼんやりした声を発した。
「使いこなす? 何を? 何で?」
「はぁー……」
これである。
サリッサは眉間を押さえてうずくまる。
「あのね……あんた何なら知ってるわけ?」
「え、えーと……自分のこと、とか家族のこととか……友達のこと? かな? もうあんまり思い出せないんだけど……」
「かな? じゃないわよ……あんたの家族の話なんか聞いてもしょうがないでしょ……!」
武器の家族って。製作者のことか、それとも巨大な突撃槍とかがパパとママなのだろうか。そんな、思わずトンチキな想像をしてしまって頭を振る。違う。知るべきはそんなことではない。
「なんだっけ……大径? とか、永遠……そういう言葉に聞き覚えとかない?」
かつてリコリスから聞いた断片的な情報を思い出して口にする。サリッサは光輝の樹の一部、大径と呼ばれる何かに接続しているのだと。福音の力――少なくとも、サリッサに不変という力を与える永遠の福音の源泉はそれであると思われる。しかし、呑気というかのんびりしているというか、声や口調が子供そのものである永劫にそんな大仰なものの情報など、やはり期待できない――
「あるよ」
「……あるの!?」
「大径は善き夢のこと。永遠はそのひとつ。いまはサリッサちゃんのこと」
簡潔に過ぎる。
面食らいつつ、サリッサは再び眉間を押さえる。
「分かるようにお願いできる?」
「分かるようにはできないよ。分からないほうがいい」
サリッサは眉を上げる。
永劫が何かをきっぱりと言い切るのは珍しい。
「お面の人の言葉はたぶんうまく説明してるけど、全部じゃない。器に湛えらる光。人は大径をそういうふうに見い出した。けれど、それはそこに神と光への道を見ようとしたから、人にはそう見えただけ。全部じゃない」
「……? 気のせい、みたいな?」
「そう」
さっぱり分からない。
サリッサは全体の理解を放棄した。そういうのは自分の役割でもない。重要なのは永遠の福音に何ができて、何ができないかだ。即物的な思考のもと、知るべきことを模索する。
「……じゃあ、永遠であるところのあたしには何ができるの」
「変わらないこと。気合を入れれば何も効かない」
それはもう嫌というほど知っている。往還者の言うところで指すなら概念攻撃というものに分類されるだろう、肉体の不変である。さして気合の必要も無く、サリッサはもはや何者にも害されない。
これひとつとっても神の力と称していいものだったが、度々煮え湯を飲まされているように、それだけでは勝ち切れない場面も多々ある。拘束系魔術を始めとした足止めや無力化など、負け筋はいくらでも考えられる。不滅であるだけでは戦いには勝てない。
「他にはないの?」
「あるよ。変えないこと。永遠にすること。あと、永遠を奪うこと」
三つか。抽象的なそれらをサリッサは自分の中で咀嚼する。
どれも自分の外に向けた話、つまり現象攻撃を指しているように聞こえる。
仮面の騎士リコリスが危険だと言っていた、永遠の福音の現象攻撃。しかし、抽象的なイメージで聞かされる限りは危険な字面ではないように思える。
変えないこと。
これは恐らく、他者に自分と同じ永続性を付与するものだと想像できた。自身の肉体の不変に色々と憂鬱を覚えるサリッサではあったが、もちろん悪いことばかりではない。良い面も確かにあり、それは主に戦いの庭で発揮されている。場合によっては役に立てるだろうし、少なくとも危険はないはずだ。
しかし、残りのふたつが分からない。
永遠にする、とはどういうことなのだろう。変えないことと何が違うのだろうか。それに永遠を奪う、というのも想像できない。いずれにしても攻撃的なニュアンスを感じないのに、どこか漠然と不気味で――気持ちが悪い。なにかが狂っていると感じた。はっきりと何がおかしいとは言えないまでも、その二つはどこかおかしいのだと、サリッサの本能的な感覚が警鐘を鳴らしている。
もしあなたが現象攻撃を使えるようになっても、完全に制御できると確信するまでは絶対に使わないでください。とても危険なので。
リコリスの言葉が想起され、サリッサはひとり、マフラーに顔を埋める。
そもそも使い方がまだ分からないので、なんとも言い難い。しかし、永遠の福音とは――剣や魔法とは違う、曖昧で強力な概念を司っているこの福音は、もしかすると役立つとか立たないとか、そういう次元にある力ではなく――自分の手に負えるものではないのかもしれない。
不安にも似た心地でそう思いつつも、だからといってこのままで良いかというとそれはやはり否だった。
永劫の声が聞こえるようになったのも、その時が来たということなのではないだろうか。前を向いて進もうとしているマリアージュを、門番の少年の代わりに守らなくてはならない。その力が必要だ――
ふと門番の少年を思ってしまい、サリッサは笑顔を取り繕った。
そう。彼は、漸く休むことができたはずなのだ。
それなのに現界が乱れたままでは。あの末の皇女が危険な目に遭うようなことがあれば、彼だって休んでなどいられなくなってしまうかもしれない。まったく理屈に合わない、あり得ないことだったとしても、戻ってくるかもしれない。手に入れた安息も何もかも置いて、こんなろくでもない世界に戻ってきてしまうかもしれない。それでは、あんまりだ。
あまりにも。
決意して、続く問いを口にする。
「永劫、その変えないってどう――」
「サリッサちゃーーーん!」
口にしているところで、遠方からの呼び声が聞こえたので眉根を寄せて唇をへの字に曲げる。
あの九天のサリッサが槍とお喋りをしていた――そんな風評を立てられたのではたまったものではないからだ。永劫にもその旨はよく言い含めていて、第三者の居る場では絶対に声を発しないようにしてくれている。
でなくとも、もしその声が自分にしか聞こえないものだとはっきりしてしまったら、サリッサはきっと自分が立ち直れないだろうと確信している。
「まったく、間の悪い……」
邪魔をした者の素性を確かめるべく細めた紅い目で夜闇に目を凝らすと、やや離れた位置にある街路の上に騎士がいた。
水星天騎士団の団員らしき、浅葱色のマントを羽織った青年である。若き水星天騎士、モイラとよく一緒に居る地味な男だ。話の腰を折られたのはいいが、わざわざ探しに来るとは何事だろうか。
いずれにせよ、あまり先送りにできることでもない。水星天騎士団の用事も、永遠の福音のことも。ふう、と息を吐いたサリッサは、大好きなマフラーをしっかりと巻き直してから、思い切り勢いをつけて屋根から飛び降りた。




