38.魔法の福音
住処から街門までの僅かな道行の途上。
夜闇と斑な雪の合間、名も知れない花が枯れている。
倒れ、黒ずんで、塵のように地に伸びているのを、
仮面の少女は言葉もなくただ見ている。
その目に世界はどこか、褪せて映る。どこか夢幻のようでいて、どこか記憶のようでもある。歴史という本に挟んだ付箋を辿り、見開いた頁に載っているだけの、ただの記述のひとつのようでもある。
何度も。何度も。何度も何度も何度も何度も何度も注釈を書き足して内容を変えようとしているのに、頁の、元の記述を塗り潰すばかりでうまくはいかない。その手は局所的に現実を書き換えることさえ叶うというのに、いまだ、その書に光明は一筋も差さない。
この枝は失敗した。
原因ははっきりしている。転移街アズルで気まぐれを起こし、剣の福音に手を貸してしまったことだ。あの迂闊な行動が若き騎士モイラ・ラングレンとの面識と信頼に結びつき、巡り巡って剣聖マルトとの戦いで足を引っ張った。
人間的な情動の残響はどこまでも目的の邪魔をする。別に悲しくもないのに勝手に悲しいような気になって、勝手に身体を操縦する。そうやって人間の真似ごとをしていなければ人間としての精神構造を維持できず、段階が上がってしまう――大径の暴走を招くと理解していても、歯痒さは消えない。その歯痒さだって情か、などと思い直して情動を消そうにも、永きに渡る生を経た精神にはただでさえ故障と欠損が多い。下手に中身を弄れば重要な記憶まで飛んでしまう。記憶の整理は然るべき時期に、慎重に行わなければならない。同位体にも影響が出る。
夜闇と斑な雪の合間、名も知れない花が枯れている。
倒れ、黒ずんで、塵のように地に伸びているのを、
仮面の少女は言葉もなくただ見ている。
剣の福音がどこへ消えたのかは分からない。こんなことは初めてだった。
しかし少なくとも、東方連合が成立する無限に等しい数のパターンのうち、剣の福音を欠いて竜種の目論見を阻止できた枝は存在しない。一例もない。ひとつめの天蓋は開き、両界は確実な終焉を迎え、この枝も焼け落ちる。もはや避けようがない。誰も彼もがもう死んでいるに等しい。
だからあとは、敗戦処理。あれをどのようにして生き延びさせるか。仮面の少女がやるべきことはそこにだけ収束する。次の枝へ継承するまで、福音や竜種からあれを守らなくてはならない。
夜闇と斑な雪の合間、名も知れない花が枯れている。
雪を踏みしめる音がして、仮面の少女は人間だった頃の殻を被って振り返る。
「こんばんは、ルース卿。お散歩ですか」
夜闇しかない街路に立ち、こちらを見詰める少女に挨拶をする。
仮面で見えないと知っていても笑顔を浮かべる。
それが人というものだからだ。
「……」
だというのに、挨拶は返ってこなかった。
カタリナ・ルース。ほとんどの枝で彼女と関わるのは避けられない。八割の枝で味方、ごく一部の枝で敵対。あとの枝では、彼女は早々に病死している。
「どうもご機嫌斜めみたいですね」
仮面の少女は首を傾げる。
現れたカタリナは淡い光を帯びた目でこちらを窺うのみだった。
もっとも考えられる感情は、ああ。
「――なにか怒っていらっしゃる?」
その問いかけを合図にしたかのように、カタリナ・ルースは動いた。
鋭く、姿勢を落として無手で踏み込んでくる。
いつ見ても見事な体捌きだ。仮面の少女は賞賛の念を抱く。この仮面の少女は体術の指南などを受けた経験がない。無限に等しい時間を内包しておきながら、武芸に関して勤勉ではない性分もあってか剣術以外の心得は嗜み程度。知識を有しているのみである。
一方、カタリナは武器を持つ相手すら無手で制圧する。最上位格の騎士を父に持つカタリナ・ルースは体術おいても一流。組み打ちの腕前も仮面の少女とは比べるべくもない。
それでも、仮面の少女は訝る。
自死か?
元々、この少女は決して天才ではなかった。努力をして人並となり、工夫をして天賦に比肩し、奇跡を以て奇跡に追いついた。外的要因に対して瞬間的に反応する能力も常人の域を出ない。その延長にある剣腕においても、生来の魔力頼みにつきた。神髄などにはついぞ辿り着かなかった。
しかし、そうであるがゆえに、真正面から掛かられて自分が躱せない攻撃を、この仮面の少女は想像することができない。非才を補うため、平時から身の内や外に潜ませている魔術的な防御の数は百の桁に指をかける。剣聖や未熟な福音を圧倒した冷幕すらそれらの守りのほんの一部にすぎない。刃だろうと魔術だろうと、生半なものはこの仮面の少女に到達しない。
そしてそれを、カタリナ・ルースが理解していないわけがない。
叡智の福音は強力な福音である。もしも福音の使い手同士が一同に会し、何らかの競い合いを演じるようなことがあるとするなら、叡智の福音は勝利に限りなく近い位置に来る。なぜなら、叡智の福音の本質は知覚すること――すなわち、あらゆる初見が通用しなくなるということを意味するからだ。
戦いに於いて、種の割れた仕掛けほど役に立たないものはない。福音の権能も同様。どれだけ強力な技や能力でも、一度知られてしまえば対策をされてしまう。情報とは最大の脅威だ。
その、情報という概念そのもののような少女が、真正面から来る?
舐めている、という可能性はない。仮面の少女はカタリナ・ルースという騎士の人格を誰よりもよく理解している。死病を患いながらも戦いを選ぶ誇りと苛烈さ。それを裏打ちする慈しみの精神と愛を知っている。この騎士に敵に対する侮りはない。
――仇か。
動機にだけ見当を付け、この枝での接触タイミングを見誤ったことを悟った。なまじ初めてのパターン、途中までは最良とさえ言えそうな枝であったがゆえに、油断をしてしまったのかもしれない。
反省を一瞬のうちに済ませても、状況は変わらない。解せない行動を見せるカタリナ・ルースの踏み込みが眼前に到達する。呆けていても自動的に展開される魔術防御に阻まれてどうせ届かない。まずは様子を見る。
そんな、油断をした。
最大の警戒をすべき叡智の福音の現象攻撃、忘却の川に、ではない。仮面の少女は既に目を閉じている。目を合わせた相手に効果を生じる忘却の川は発動しない。一見して人の身では抗する術がないと思われるような神威でさえ、仕掛けを知っていればこのように容易く防げてしまう。
魔術による奇襲もない。仮に魔術を用いた罠があったとしても、彼女こそは魔法の福音。それがいかなる原理の魔術であろうと、瞬きの間にその魔素を知覚し隷属させる、あるいは追放して無力化する。
この少女が仮面で制限された視界、更には目を閉じていても敵を認識している理由もここにある。十二ある魔法の福音の概念攻撃のひとつ、不誠実な者。彼女はすべての有機物に含まれる魔素を読み取ることで、完璧な周囲の位置把握を行っている。彼女の世界に、想定外の奇襲など存在しない。
しかし。
直後、衝撃があった。
百の桁に指をかける魔術的防御を抜け、神の視点に近い知覚をも掻い潜って、何かが仮面に激突した。
「あっ?」
硬質の音と共に――弾け飛ぶ仮面の裏を、少女は呆然と天に見上げた。それから、ああ、顔を人前に晒すのはいつぶりだっけ――そんな、呑気なことを思った。
そして、首に。
さらには全身に甚大な衝撃があった。視界が夜空で埋まった。その気持ちの良いくらいに拓けた視界と背に染みる気色の悪い冷たさから、雪混じりの泥に倒されたのだと理解してから、少女は己の首根を掴んで馬乗りになるカタリナ・ルースを見上げた。
「……教えて差し上げましょうか? なぜ、負けたのか」
怒りに燃える少女は常の赤い眼鏡をしていなかった。その健気さにほんの少しだけ苦い気持ちになってから、仮面を失い、代わりに夜闇を顔に落とす少女は答える。
「ええ、ぜひ」
「魔素を含まない飛び道具を、あなたの福音は感知しない。消せもしない」
なるほどと少女は納得した。
魔法の福音の特性をそこまで読み切ったのか、と感心もした。
首を傾けて見ると、離れたところに転がっている白い仮面に矢が刺さっていた。おそらく、何の仕掛けもない鉄矢だろうと見当をつける。人の手によらない手段によって放たれただろうその矢は、魔素を帯びていない。であれば、どれだけの威力や速度を持っていようと、不誠実な者では感知できない。騎士が当たり前に備える魔力障壁も仮面にまでは及ばない。
伏兵の類であればむざむざ狙撃など受けはしないし、罠にしても相当な計算のもとで行わなければ魔術防御を抜けて当たりはしない。激情に駆られての行動だろうに、人の知恵。叡智の福音とはまこと恐ろしい。こんな単純な手に呆気なく封殺されるとは。仮面のない少女は苦笑した。
「それで、どうしますか? ただの八つ当たりや嫉妬で私を殺すというなら、それも構いませんが……」
「いけしゃあしゃあと……! あなたには聞かなければならないことがあります……!」
「なにをです」
「まずはあの仮面です……!」
矢の刺さった仮面を指しているのか、と少女はやや時間をかけて理解した。
「往還者の持つ遺物は、壊れることのないものと聞いています! あれは遺物などではないのでしょう!?」
「……ええ、それは嘘です」
聞かれたのでそう答えると、カタリナは絶句して歯を剥いた。
仮面のない少女は微笑む。
「あなたには一つしか嘘を吐いていない、と言ったでしょう。あの仮面が遺物だという話が嘘なんですよ。叡智の福音が効かないのは、本当は私の概念攻撃の効果なんです。あれは……とても古い……おまじないがかけてあるだけの、ただのお面です」
偽神。自身に対する認識と知覚を捻じ曲げる、十二ある魔法の福音の概念攻撃。そのひとつ。
宵闇と泥の中で、少女は呟く。
「でも、そんなことが聞きたいわけじゃないでしょう」
「……!」
「ただの憶測でここまではしない。なにか確信があったと見ます」
カタリナは苦々しい顔で根拠を口にする。
「アキトは九つの福音のうち、一つは異界に帰り、三つは時の福音と相討ったと言いました……! そして、東方に加担する生命の福音がそうなら、彼がすぐにでもロスペールに向かわないはずがない……! 残りは魔法と叡智だけ……でも……!」
叡智の福音はここにある。
それが答えだった。
「……消去法、ですか。なるほど、やっぱり迂闊でした」
本当に、この枝では失敗ばかりをする。
「あなたの前……叡智の福音を持っていたのは、レーシャという異邦の女の子でした。星が好きな子で……よく望遠鏡を覗いてて。それで、すこし愛想がなくて……困ったこともあったけど、楽しかった。なんだか妹ができたみたいで」
膨大な記憶を辿るのは難しい。たどたどしく、まるで人間のような言葉を口にして、少女は笑みを深める。それが自分の意思なのかそうでないのか、彼女にはもうよく分からない。その言葉に、毒気を抜かれたかのように首元の手が緩む。この体勢からでも少女には反撃の手が無数にあり、カタリナにも応じ手があると承知している。それでも互いに何もしなかった。ただ、言葉を交わす。
「……あなたが彼を門番にした」
「そうです」
カタリナが放った問いを、静かに肯定する。
「あなたが置き去りにした……!」
「そうです」
静かに、弾劾を肯定する。
「なぜ!? たった……たった一度会いに行けばよかった……! それだけのことではないのですか!? 違いますか!?」
「違わない」
肯定する。
この少女は、本来であれば千年前に異界へとただ還り、決して戻ることのなかったはずの剣の福音を、往きて還る門の番人とした。彼こそはこの少女の犯した最初の罪であり、責任であり、希う望みそのもの。交わした約束が何を強いて、どうなるかを承知した上で、少女は少年と契りを交わした。この千年を幾度となく繰り返した少女はすべてを理解している。
「どうして」
すべては変え難きを変えるため。世界をほつれた環の先へと進めるため。そして彼に出会うために、この千年が必要だったからだ。ただ手を取り合って挑むのでは駄目だったからだ。そこに絆があっては成し得なかったからだ。
しかし、たとえそう言ったところで、赦されることではない。理解も得られない。得てはならない。この少女は、自身が深く愛するカタリナ・ルースを自らの環に巻き込むことを良しとしなかった。
でも。
だとしても、もしかしたら。暴かれた報いは必要なのかもしれない。そう思った。この枝はやがて燃え尽き、顔を知られることで生じうる悪影響もそこまでに限られている。
あるいは、ただ誰かに知って欲しかったのかもしれない。これからもひとりで歩む孤独と不安を、少しでも分かち合えるように。まるで人であるかのように。
「この顔を見れば、あなたならおおよそを理解する」
そうして、少女は自らを組み敷くカタリナの手を取り、闇から身を起こして偽神を解いた。
月のない無明の空の下、僅かな雪明りにのみ仄かに浮かぶその貌を、カタリナの双眸は当初、認識しなかった。次いで、鼻先が触れ合いそうな距離にあるそれを、半ば以上が吐息にしかならない声といっぱいに見開いた眼で迎えた。まるで死にゆく獣を目にした幼子のような、なにか、途方もなく救い難きものを見つけてしまったかのような、崩れゆく顔で。
「……ああ……そんな、どうして……嘘……どうしてこんな……!」
傷にでも触れるかのような弱さで、カタリナの指先が頬に触れた。少女はそうして欲しかったわけではなく、実際、そうはならない枝も過去にあった。ひどく怒られたのだっけ、と微かな記録を思い出して力なく笑う。
いっそ怒って欲しかった。
誰でもいいから誰かに怒って欲しかった。そんな人間的な情動の残響が、いつも勝手に込み上げて胸を塞いで、どこまでもこの少女の邪魔をする。
「こうさせないために、わたしはここにいる」
またひとつ嘘に近い言葉を重ねて、少女は笑った。この枝はもう手遅れだ。だから遠い、いつかの彼方にある本当の奇跡を手にしたそのときの話だけをした。そしてそのときでさえも、語るこの少女自身が環から解放されることはない。その可能性は既に失われている。
しかし、その超越的な視座は、この枝のみを生きる目の前のカタリナには何ら関係がなかった。ふるえ動く腕に掻き抱かれた仮面のない少女は、謝罪のような、慟哭のような。そんな悲鳴を聞いた。
少女は言葉もなく、ただ見ている。
この目に世界はどこか、褪せて映る。どこか夢幻のようでいて、どこか記憶のようでもある。歴史という本に挟んだ付箋を辿り、見開いた頁に載っているだけの、ただの記述のひとつのようでもある。
いまだ、この書に光明は差さない。




