36.一人①
航空艦フリームファクシ。運用計画の中止によって封印措置をされていたその艦は、皇国軍主導で再艤装が行われたもう一隻の艦、スキンファクシとは異なる経緯で蘇った。こちらを持ち出したのは皇国の中央行政府である。
敵国ドーリアの転移街アズルにおける破壊工作。これによって転移門を失ったアズル領は皇国中枢への流通経路を寸断され、結果として穀類の高騰やアズル領の財政破綻を招く恐れが発生した。戦費のかさむ七年戦争――もとい、東方連合との小競り合いが続く中、これは無視できるリスクではなかった。かといって、国費を注ぎ込んで転移門の再建を行い短期的な採算がとれるほどではないという、絶妙な位置にあるトラブル。この問題の暫定対応案としてある皇子が持ち出したのが、稼働可能な状態で保存されていた航空艦フリームファクシであった。
航行に必要な魔力さえ確保できれば、空を使った夢の高速輸送を実現するこの艦を使わない手はない。魔術師はともかくとして、魔力は無料でしょうが――顔を合わせるのも恐ろしい皇帝の前でそう熱弁をふるった第一皇子マクシミリアンは常に国庫の心配をしている。
皇都の執政であるこの皇子としても、東方連合との戦いを軽視するわけではない。戦局が読めないほど戦に無頓着でもない。しかし、戦争は金がかかる。大陸最大のウッドランド皇国にあっても、その最大都市である皇都においてさえも、国庫は有限だ。無尽蔵ではない。だったら、とりあえず馬車馬だけでもあるのだから働かせればいい。肝心の駆り手たる馬車具が未完の大作でもだ。
「ということは、やはり馬車具の姫とは、航空艦を運用するために用意された姉妹だった、ということですね」
「いや、そこだけなのか? 私の苦労話もちゃんと聞いてくれないか?」
「そちらはどうでもいいでしょう。さして苦労もなさってないかと」
「遠慮がないな、きみ」
艤装を経て軍艦となったスキンファクシと異なり、フリームファクシには調度を備えた客室が存在する。その一室である貴賓室において顔を合わせる者たちがいた。
ひとりは現九天の騎士筆頭騎士カタリナ・ルース。パン屋の制服であるエプロンドレスに身を包んだ眼鏡の娘である。
向かい合うのは第一皇子マクシミリアン。礼服姿の紳士だが、長きに渡りつつある辺境滞在で上着が若干くたびれている。彼がカタリナをセントレア上空のフリームファクシに召喚したのだった。
呼び出されるなり艦の話をされて戸惑っていたカタリナだったが、スルーブレイスという語に話が及ぶなり嫌悪感を露わにした。マクシミリアンは苦笑する。
相手が同業の政治屋であれば酒でも勧めて潤滑油とするところだったが、少女の細く白い顔を見て自重をした。代わりに、彼にしては誠実な言葉――真実を語ることにする。
「まだ憤るところではないよ、ルース卿。彼女たちは別に使い捨ての魔力源などではないからね。むしろ陛下は、馬車具の姫たちを来たる戦いに向けた次世代戦力の中核として見ていた節がある」
「来たる戦い、ですか」
「まさか異界相手の戦争を想定しているとは思わなかったが。まあ、そう聞くと馬車具計画の異常なまでの攻撃性も納得できようものだ」
マクシミリアンは喋りながら机に手を伸ばす。葉巻は――いや、駄目だ。若い娘に受けが良いとは思えない。またも自重して、気の重い言葉だけを頭の引き出しから取り出す。
「……彼女たちは単独操艦する航空艦から大魔法で地表を制圧する設計になっているんだよ。その後に空から騎士団を展開して、彼女たちがその指揮も行う。ま、要するに、単独で戦争を遂行するための姫なのさ。ちょうど、末の妹がその完成形になるはずだった」
自分と同じ顔を思い浮かべているだろう、悲痛な面持ちのカタリナを見やり、マクシミリアンは瞑目して自慢の髭をただ撫でる。ややあってカタリナが発した言葉は、マクシミリアンの予想とは少々違っていた。
「皇統魔法ですね。殿下が習得していた」
「ああ。そして、火葬……いや黒だったな。まさに、馬車具の姫は皇国の魔法技術の粋を集めた人間兵器と言えるだろう。この大陸のどこにそこまでの力が必要な敵が居るのかと疑問だったのだがね。陛下やタカナシの妄想でなければ、異界がそういう敵なのだろうさ」
マクシミリアンは正邪に言及しない。正否は後世の人間が決めることである。彼はそう自身を戒めていた。ただ自分の考えと事実だけを、黙する少女に共有する。
「しかし別に、使われる為の皇子は馬車具の姫だけじゃない。私も、アーネストも、レオのやつも同じだ。我々は設計がいささか古いだけで、誰も似たようなものなのさ。結局は馬車具計画も未達のまま継承戦が始まってしまった。計画が真の完成を見るのは次代の皇国でのことだろう。航空艦の量産は未来へ持ち越しというわけだ」
「量産の計画まであったのですか!?」
立とうとするカタリナを手で制し、マクシミリアンは肩をすくめる。
最悪。本当の最悪は起きていない。航空艦の量産はそれを駆る馬車具の姫の量産も意味する。それは無い。今はまだ。
「……おぞましい話さ。さすがの私も反吐が出る。それに異界……つまり神の国と戦うための軍勢だ。この大陸のどの国が対抗できる。それは皇国自身だって例外じゃない。量産はやり過ぎだ。誰の手にも余る」
忌々しげに呟く第一皇子に、カタリナは落ち着きを取り戻した様子で眼鏡を押し上げた。それから、実に騎士らしい問いを放った。
「……殿下は叛乱を懸念されておられるのですか?」
「そりゃするとも。あのアーネストとて恐れたはずだ。あいつが航空艦を押さえたのはその意味もあったろう。ミラベルがスキンファクシを得ていたらどうなっていたと思う。唯一の救いは、あの娘に馬車具の姫としての自覚がなかったことだ」
もしそうなっていたら、継承戦は早期にミラベルの一人勝ちで終わっていただろう。マクシミリアンはそう確信している。
遠隔地から攻撃する魔法が真に恐ろしいのは、攻撃側に殺人の実感を与えないという点だ。血を知らない魔術師は一度目を躊躇うが、二度目からは容易く人を撃ち殺す。ゆえに、マクシミリアンはそのような術を唾棄する。そのような術が人の価値を貶めるのだとさえ考える。そういった価値観を珍しく共有できたあの少年は貴重だった――
マクシミリアンは思考を中断し、己を見るカタリナを向いた。
「しかし、私の見たところ末の妹は知っているな。自分が何なのかを」
「まさか」
「全部知っていて放棄したのだろ。いじらしい話さ。生きづらいだろうに」
末の妹は潔癖すぎる。
哀れだが、マクシミリアンが彼女にしてやれることはひとつしかない。
「さて、脱線が過ぎたな。話を戻そうか、ルース卿」
感傷を引き出しに仕舞い、政治屋は顔を変えた。
「結局アズル領主の夜逃げは防げず、色々と困ったことになった。グラストルなどの諸侯も旧アズル領に向けて兵を集めている。まあ、まとまった騎士団もなしに総取りはできんだろうが、どさくさ紛れに領土拡大くらいはするだろ」
「勝手にパイを切り分けている、と」
パイ。
マクシミリアンは破顔した。実に愉快な表現だ。
「世の中ってのはそうして動くものだよ。騎士の皆さんには分からんだろうがね。さて、執政として私がきみにお願いたいこともそれと関係している」
「伺いましょう」
「きみにアズル領を統治してほしい。可能な限り速やかに。手段は問わない」
カタリナは僅かに驚き、すぐに表情を曇らせた。
「私を領主に? ルースは皇都武門の家柄です。諸侯や上級貴族の誰も納得しないでしょう。摩擦を生みます。下手をすれば……」
「カタリナ・ルースではそうだろうな。だがカトリーナ・フルウム・スルーブレイスという名では話が変わってくる」
今度こそ、少女は絶句した。
マクシミリアンは構わずに続ける。
「かつて騎士に匿われ、さらに一時は平民にまで身を落とした皇女が戻ってくる。なかなかに劇的だと思わないか。民衆は好きだろ、こういうの」
「あなたは……!」
カタリナは席を立つが、貴賓室には他に誰の姿もない。騎士でも魔術師でもないマクシミリアンには、上位騎士であるカタリナに抗う術などない。彼女がその気になれば数秒で亡き者にされる。そして、そうであるがゆえに敵意の有無がはっきりと伝わっている。マクシミリアンはそう信じた。
「ジャン・ルースが何の後ろ盾もなく皇家の血を匿ったとでも思ったかね。あの男は私の寝所に直接断りを入れに来たよ」
「……お父様が?」
「誰だって幼子には情を抱くものさ。私だって鬼畜ではない。きみたちが誰にも愛されなかったとでも?」
年相応のあどけなさも残る少女の顔が、きょとんとした表情で止まる。
そして、数秒の間を置いてその頬に朱が差した。その意外にすぎる反応に、マクシミリアンは大いに慌てた。
「い、いやいや……私にそんな趣味はない。そういう意味じゃない。単に、きみの存在を知っているのは私だけだったという話だ。マリアージュを見ていたレオやミラベルを見張っていたアーネストに近い。陰ながら、というやつだな」
慌てて言い繕ってから、二回り近くも歳の離れた妹に何を馬鹿な――と自嘲する。マクシミリアンの好みは、もっとグラマラスで奔放な女性であった。こんな線の細い、まるで病人のような色白の少女ではない。
咳払いをするマクシミリアンに、居住まいを正したカタリナが眉を寄せながら言った。
「……しかし、皇帝陛下にも知れることになりましょう。殿下や父の立場が危うくなります」
やはり賢い娘だ。それに優しい。
複雑な心境になりつつ、マクシミリアンは一笑する。
「どうせ先日の会合も陛下には知られているよ。我々はもはや皇帝陛下に従属などできないし、しない。徹底的に争って皇国をバラバラに解体するか、互いに譲歩しつつ皇国を維持するかの二択だ。それなら私は後者を選ぶ。陛下も、狂人だが暗君じゃあない。この程度なら見逃すさ」
どちらかといえばアーネスト以外の皇族が継承戦を放棄することで合意したことの方が問題だ。それに関してだけは皇帝がどんな挙に出るか予想がつかない。
しかし、その問題を目の前のカタリナに負わせられるほど情けのない長兄ではない。マクシミリアンは自分の思うとおりにだけ話を運ぶ。
「なぜそこまでして私を? 中央には他に適任者がいくらでもいるでしょう」
「正直なところ、ミラベルを失ったのは私としても痛いんだ。アーネストがそう見込んだとおり、ミラベルには政治的象徴としての素質があった。アズル領は彼女に渡すつもりでいたんだよ。転移街防衛の立役者として領民人気もあったからね」
事実半分嘘半分。
マクシミリアンは怪訝そうなカタリナにそれらしい話を吹き込んでいく。
「それは……まあ、そうでしょうけれど……いえ……代わりにはなりませんよ。私では。ミラベル殿下ほどの華もありませんし」
「きみは見目と違ってタフで実務向きだものな。商才もあると聞いてる」
もう一押し。
「だからこそきみに旗を立ててもらいたい。この傾いたアズル領を盛り立ててもらいたいんだよ。きみの店のように繁盛させてほしい」
「そんな無茶苦茶な……所領の統治と店の経営はまったくの別物でしょう」
「必要なら中央から人も回す。もちろん、この艦も自由に使ってもらっていい。これだけの材料ときみほどの才媛なら算段も付けられるだろう。難しいというなら強制はしないが……」
まだ困惑気味の少女に、最後に少しだけ引いてみせる。そうすると、人間は不思議と断りにくくなるものだ。ましてや、マクシミリアンは主題と関係のない馬車具の姫についての話を、カタリナに食い付かれて誠実に語っている。心理的に、彼女の側だけが無下に断るという形にはしにくい。
加えて、時間が経てば計算も働く。マクシミリアンは無音で言葉を投げる。
きみたちには必要だろう? この艦が。
取りたまえよ。
「……正式に、書状にて頂けますか。執政として全権を私に一任すると」
やがて口を開いたカタリナは、まだ多少の迷いを感じさせる口調でそう言った。誘導したマクシミリアンとしては苦笑するしかない。陰ながら、というのもなかなかに骨が折れる。
「慎重だな。ま、いいだろ。あとで誰かに届けさせる」
「ありがとうございます。今日のところはこれで……」
「ああ。気を付けて降りなさい」
一礼して去っていく少女を見送り、椅子を回したマクシミリアンは髭を撫でながら天井を見上げた。
末の妹にしてやれるのはここまでだ。表立っての支援はできない。しかし狙い通り、この狭い船ともじきに別れることになるだろう。そんな感触があった。
そうならなければ、あの秘された妹を本気で口説き落とし、文官なり秘書なりとして傍に置くのも悪くはないかもしれない。しまいに袖にされるのが目に見えてはいるものの、一時はそれなりに面白おかしく過ごせるだろう。
最終的にはルース卿に殺されるだろうが、それも愉快だ。
「ふ。あんな子供相手にか……やれやれ。魔性だな、あの白さは」
こんな辺境に居るから、柄にもなく余計なことばかりを考えてしまうのだ。さっさと皇都に戻って書類に埋もれるとしよう。マクシミリアンはそう考えてシガーカッターで葉巻の先を切り取った。




